クリスチャンの原点―キリストの十字架 ルカ23:34前半、40−53  主の2007.4.1礼拝

高校1年の時に学校の図書館から「芥川龍之介全集」を毎週一冊ずつ借りて読んでいました。芥川龍之介(1892―1927)はキリストに憧れながら、しかし救いに至らず、枕元に新約聖書を置き、服毒自殺によって人生を閉じた人です。高校2年より私は教会の礼拝に出席するようになり、キリストを信じ、洗礼を受けました。洗礼を受けたらには一生懸命に信仰生活をして行こうと思っていました。その頃、聖書よりも聖書に関する評論や解説書を読むと、信仰を否定するようなことが記されている。そのことを牧師に相談すると、「人の意見はそのつど変り、また言った人はやがて死んで行き、大概の意見は忘れられて行く。だが聖書はきょうまで一言一句も変っていない。キリストについてあれこれ言った人は死んでいなくなってしまうが、キリストは永遠に生きている」と言われ、納得したことを思い出します。それを契機に、聖書全巻を通読し、キリストの十字架と復活が最も大事な事であることを知り、信仰に一本筋が通ったように感じました。

本日はルカ23:34前半、40−53です。十字架の上で、犯罪人がキリストに罪の赦しと天国に行くことを願い求めた時に、キリストは即座に赦しと救いを与え、天国に行く恵みを与えています。芥川龍之介はキリストのことを研究しましたが、キリストを眺めていただけで、キリストに自分の思いや苦しみを直接ぶつけることをせず、命をもたらすキリストの恵みを知らないまま、自殺して行きました。犯罪人はキリストに直接自分の願いを訴え、赦しと救いの恵みを受けることができました。キリストは、私たちの抱えている問題、心の罪、人生を暗くする病気など、私たちの人生に付きまとう全ての重荷を解決するために十字架にかかり、赦しと救い、回復といやしを与えて下さる真の救主です。人に相談したり、自分で考えることも必要ですが、しかし、どんなことでも先ずキリストに自分の思いをぶつけて祈って下さい。必ず祈りの答が与えられます。ご一緒に心を開いて御言葉を共に聴き、次週のイースター(主の復活祭)に向って、祈って出発して参りましょう。

内容区分

1、キリストは、私たちを見捨てず、きょう救って下さる救主である 23:40−43

2、キリストは、十字架を通して全ての人に対する愛を表された救主である 23:44−53

資料問題

41節「この方は何も悪いことをしたのではない」、ふたりの犯罪人が十字架刑に処せられ、最初はふたりともキリストを冒?していたが(マタイ27:44)、しかし一人はキリストの祈りの言葉(23:34)が心に浸透し、罪を悔改め、改心し、主の救いを受けることができた。43節「パラダイス」、元来ペルシャ語で楽しみの場所を意味する(ヘブル語雅歌4:13、伝道の書2:5参照)。ここでは平安と幸福に満ちた場所の意、黙示録2:7。44−45節「太陽は光を失い」、「全地は暗くなり」、「聖所の幕がまん中から裂けた」と記し、これらの現象をキリストの死の前兆としている。「全地は暗くなり」は正午から午後3時まで暗くなったことを示している。これは日食による自然現象であったとは考えられない。その日はニサンの月の満月であったからである。パレスチナで猛烈な砂埃を起こし、太陽を暗くさせるカムシン風(出エジプト10:21−22参照)との説もある。しかし、この描写の真意は、暗闇は単なる自然現象ではなく、奇蹟であることを示している。暗闇は旧約聖書では苦悩の象徴(哀3:2)であり、また罪人に対する呪いと罰を示している(アモス5:18−20)。46節「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」、キリストは詩篇31:5を引用して、信仰と信頼のうちに、自由意志をもって父なる神にその霊を委ねたのである。

1、キリストは、私たちを見捨てず、きょう救って下さる救主である 23:40−43

イエスは言われた、「父よ、彼らをお赦し下さい、彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(34節前半)。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(43節)

きょうから「受難週」が始まります。きょうは受難週の第一日目で、キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入った日です。キリストは木曜日に弟子達と過越の食事をされ(聖餐式の起源)、ゲッセマネの園で血の汗を流して徹夜で祈り、金曜日の朝9時に十字架につけられ、昼の3時に息を引き取ります。金曜日の日没前、キリストの遺体は布を巻かれ、岩をくり抜いた墓に葬られます。その三日後の日曜日の朝、キリストは墓を打ち破って復活され、それを祝うのがイースターです。

キリストの十字架の時に、罪を犯した二人の男が死刑の判決を受け、十字架につけられています。その一人が、「イエス様、私は罪を犯しました、赦して下さい。私を忘れないで下さい」と祈った時に(41−42節)、キリストは、「わたしはあなたの罪を赦し、パラダイス(天国)へ連れて行こう」(43節)と宣言され、彼を救い、永遠の命を与えています。

この個所(23:34節前半、40−43節)からキリストの素晴らしさを知って行きましょう。

第一に、キリストは、「父よ、彼らをお赦しください」と祈っています(34節前半)。

これはキリストを十字架につけた人々、キリストが無罪であることを知りながら死刑宣告を下したロマ総督ピラト、両脇にいる犯罪人、そして全人類に対する祈りです。聖書朗読のロマ3:11,23で「義人はいない、ひとりもいない。すべての人は罪を犯した為、神の栄光を受けられなくなっている」と指摘されていました。かつては私たちも創造主であるまことの神様に背いていた罪人でした。

*罪の結果は何でしょうか・・・神に背いている心は汚れています。そこから生じるものは、不品行、盗み、殺人、貪欲、妬み、謗り、愚痴、悪口、いじめ、不平、不満などです(マルコ7:20−23参照)。

*罪の最大の結果は死です。死んで神の審判を受け、地獄に行くという永遠の滅びです(ロマ6:23)。地獄ではなく、天国に行くためには神の御許に帰って行かなければなりませんが、罪のために人間は神の御許に帰って行くことが出来ません。キリストは、私たちのために「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈り、祈ると同時に人間の罪の身代りとなり、十字架の上で神の罰を受けて死んだのです。私たちが自分の罪を悔改めて、「キリストの十字架は私の罪のためでした。私を救って下さい」と祈れば、必ず救われます。聖書は「イエスを信じる者を義とされる」(ロマ3:26)と告げています。

第二に、キリストは、「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(34節前半)と祈っています。

人間は罪に捕らわれ、サタンに支配されています。サタンは人間中心の考えを奨励します。「聖書は神の御言葉だというが、それ以上に君の考えも大事だ」と言います。「礼拝は大事だが、それ以上に仕事や付き合いも大事だ」と言います。忘れないで下さい、聖書の御言葉を軽んじる者は失敗します。エデンの園で神様は、アダムとエバに「この木の実は取って食べてはならない。食べればきっと死ぬ」と言われました。するとサタンは「ほら、きれいな実ではありませんか。食べても死にませんよ」と言い、その誘惑にのって、彼らは「美味しそうだから食べよう」と自己判断をし、神の御言葉に背いて木の実を食べ、罪人になり、死ぬべき者になったのです(創世記3章)。それ以来、人間は何をしているのかわからない不安定な人生を歩んで、滅びに向っています。

第三に、キリストは、「信じる者を、きょうパラダイスに迎え入れよう」(43節)と約束しています。

罪を犯し、善悪の区別がつかず、何をしているのかわからない者であっても、自分の罪を告白し、キリストに赦しと救いとを求めれば、誰でも無条件で救いをいただくことができ、永遠の命を与えられ、天国に行くことができるのです。ここでは死刑になるほど悪いことをした人間が、自分の悪かったことを認め、キリストを信じることによって救われています。キリストはどんな人をも見捨てずに救って下さる救主です。キリストは「この人は滅んでも仕方がない」と言って、その人の救いを諦めてしまわないで、どこまでも追いかけて下さる救主です。そして、きょう、この瞬間にも私たちを救い、祝福を与えて下さる救主です。ここにいる皆さんはクリスチャンです。クリスチャンになったことが当然であるかのような顔をしていますが、実際にはなかなか信じようとしなかった人が多かったと思いますが、いかがでしょうか。しかし、それぞれに「きょう信じよう」という決断が与えられ、キリストの十字架の恵みによって救われ、礼拝に導かれていることを感謝しましょう。

*キリストの救いは、「きょう、この時、この瞬間」に与えられます。

キリストは、きょう、あなたの問題のために解決を与えて下さいます。

キリストは、きょう、あなたの病気のために癒しの手を差し伸べてくれます。

キリストは、きょう、あなたに救いを与えて下さいます。

キリストは、きょう、あなたの心を主に向けて祈りなさいと言われます。

キリストは信じる者に、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と約束しています。信仰をなかなか決意しない男性がいました。もっと聖書を読んでから、もっと集会に出席してからと言って信仰の決断を延ばしていましたが、遂に「きょうこそ信じよう」と決断して牧師に祈ってもらいました。そうしたら、自分でお祈りができるようになって心に平安が満ち、仕事がうまく行くようになった。まさに「あなたはきょう、パラダイスにいる」という御言葉のように、信じたその時から祝福されるということを体験しました。キリストを信じて、きょうが祝福され、永遠の天国に行くことが出来るということを感謝して、その方はもう何十年も信仰の道を歩み続けています。

2、キリストは、十字架を通して全ての人に対する愛を表された救主である 23:44−53

百卒長はこの有様を見て、神を崇め、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った(47節)。この人(アリマタヤのヨセフ)がピラトの所へ行って、イエスのからだの引き取り方を願い出て、それを取おろし、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた(52−53節)

キリストが十字架上で死を目前にした時に、大いなる暗黒が地をおおったと記されています。ある人は日食だと言いますが、この時期は天文学的に、太陽の位置や月の位置から見て、日食が起こることは考えられないと言われています。

*「時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ」(44節)と記されています。

聖書はキリストの死を悼んで、太陽が光を失ったという超自然的事実を述べています。太陽が光を失うということは神の創造の業がストップしている状態を表しています。人間の罪の結果、神の独り子イエス・キリストが十字架上で無残な死を遂げようとしている。父なる神様はそれを見るのに忍びない。しかしイエス・キリストが十字架上で死ななければ、罪の赦しの道は開かれない。神はそこで沈黙された。全てをストップしてしまった。それで太陽は光を失うという前代未聞の出来事が起こったのです。キリストも黙っている。「自分が神の救主である」ということ以外は無用な弁明をせず、ムチで叩かれ背中から血が噴出し、人々に唾され、目隠しをされて顔を叩かれ、侮辱の言葉を浴びせられ、裸にされて十字架に両手両足を釘付けにされ、ゴルゴタの丘でさらし者にされたのに黙っています。人間を罪から救うために、神は最愛の御子イエス・キリストが十字架の上で犠牲になるのを黙って見ている。キリストは、「わたしは多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためにこの世に来たのである」(マルコ10:45)と言われ、自分は人間の罪のために犠牲となって命をささげるために来たのである。そう覚悟されて十字架の苦しみを忍んでいます。だから太陽は光を失ってしまったのです。

*キリストの苦しみが極限に達した時に「聖所の幕がまん中から裂けた」のです(45節)。

聖所とは神殿です。神殿の一番奥の場所は至聖所と呼ばれ、一年に一回だけ大祭司が入ることができる、神ご自身がおられる清い場所でした。そこには誰も入れないように分厚いカーテンが掛けられていました。そのカーテンが上から下に裂けたということは、神と人間とを隔てていた罪が取り除かれ、キリストを信じれば誰でも神の御許に行くことが出来ることを示しています。キリストが罪の罰のために人間の罪の身代りとなった。キリストの苦しみの死を通して罪の赦しの道が開かれたのです。イザヤは、「キリストは自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」と述べています(イザヤ53:11)。私たちが受けるべき罪の苦しみの罰を、キリストが身代りになって受けて下さった。キリストは苦しみながらも、自分の犠牲によって人間の救いの道が開かれるという希望の光を見て満足し、苦しみを忍んで下さったのです。

*人間の救いの道が開かれるという希望の光を見ながら、「イエスは声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』。こう言って遂に息を引き取られた」とあります(46節)。

「わたしの霊をみ手にゆだねます」というのは、ユダヤ人の母親が子どもに教える最初の祈りと言われています。ユダヤ人の母親は、「あなたのみ手にわたしの霊をゆだねます」と子どもに言わせて寝かしつけたのです。これは詩篇31:5に基づいていますが、キリストはこの御言葉に「父よ」という言葉を付け加えています。キリストは「父よ」と呼びかけることによって、十字架の上にありながら、父親の腕の中で眠りに落ちる子どものように、自分も安らかな眠りにつくことができるのだ。キリストは「父よ」と呼びかけることによって、自分に託された救いの業を完了した、だから満足して死んで行くという平安な気持を言い表しています。このキリストの様子を見ていたロマの百卒長は「この人は正しい人であった」と叫んでいます(47節)。またキリストを密かに信じていたアリマタヤのヨセフという議員はキリストの遺体を引き取り、体に布を巻いて丁重に葬っています(50−53節)。これが三日後のキリスト復活の備えになります。

*キリストを信じれば、救いが与えられます。救いを受けて良い行いをすることができます。

アメリカにモハメッド・アリというボクサーがいましたが、彼はイスラム教徒です。彼は常にマッチを持っていて、罪の誘惑を感じた時は、マッチの火に手をかざし、地獄の火の中に行かないようにする。また生きている間に良い行いをして、最後の日に良い行いと悪い行いとを秤にかけて、良い行いのほうが重ければ天国に行くと教えられ、そう信じています。これは良い行いをするという動機付けになりますが、しかし常に良い行いをしなければならないという、何かに追われているような気持になります。聖書は、キリストを信じれば救われ、永遠の命を受けることができる。救われて新しい心を与えられて良い行いができるようになると言っています(エペソ2:1−10参照)。

*キリストの愛は、罪に苦しむ者の身代りになって死ぬという、十字架によって表された愛です。

パウロは、「正しい人のために死ぬ者はいない。情け深い人のために死ぬ者がいるかもしれない。キリストは神に反抗している罪人である私たちの罪の身代りになって十字架の上で死んで下さった」と述べています(ロマ5:6−8参照)。私たちはキリストによって愛されています。その印は十字架です。キリストの愛を受けて、私たちは互いに愛し合って、祈り合って、助け合って行く者であるように祈って行きましょう。教会に新しい人々が続々と加わってきています。これからは外国の方々も増えて行きます。全ての人を受け入れて行くことが愛の表れです。私たちの群れが十字架の愛を表す教会として成長して行くように祈って下さい。

まとめ

1、34節前半、43節 キリストは、きょう私たちを救い、また私たちの祈りに答えて下さいます。祈りましょう。祈りが、きょうこの日に答えられることを信じて祈りましょう。

2、47節,52−53節 キリストの十字架の時に、全地は暗くなり、聖所の幕は裂け、キリストは救いの業が成就したことを確信し、その霊を神様にゆだねています。キリストの十字架によって救いは完成しています。キリストの十字架の愛に満たされて行くように祈って下さい。

祈 り 主なる神様、独り子であるキリストの十字架によって、私たちに救いが与えられていることを感謝します。救いを求める方をきょう救って下さい。病気の方をきょう癒して下さい。問題のある方にきょう解決を与えて下さい。荻野倫夫・チャチャ伝道師の就任式を祝福して下さい。十字架の主を覚え、来週のイースターに備えて行きます。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ルカ注解―フランシスコ会、榊原、バークレー、LABN、黒崎、文語略解。「御翼・佐藤順・クロス社」