クリスチャンの原点―キリストの復活 マタイ28:1−10 主の2007.4.8復活祭礼拝
日本を代表する山は富士山です。中国などアジアから日本に来る観光客の願いは、晴れ渡った青空の下で富士山を眺めることだそうです。富士山の名前は、不死に由来しているという説があります。昔、天皇が不老不死の薬を探し求めたのですが、その薬を見出すことが出来ませんでした。天皇は、薬を見つけることを諦めて、手に入れた全ての薬類を富士山の山頂で燃やし、それ以来「不死の山」と呼ばれるようになり、それが転じて富士山になったと言われています。
ところで、人間は生まれて来たことが確実であるように、死ぬことも確実です。どんなに権力があっても、お金があっても、学歴があっても、人は死にます。それは厳然たる事実です。釈迦は生きるために修行し、悟りという境地に達しましたが、その教えには来世のことは含まれていませんでした。マホメッドは良い行いをすれば天国に行けると教えていると言います。しかし釈迦もマホメッドも最終的には死んで行きました。イエス・キリストも一度は十字架の上で死にましたが、死を打ち滅ぼし、甦って下さった、今も、そして永遠に生きている救主です。
本日の聖書個所はマタイ28:1−10です。5-6節で天使が、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを探していることは、わたしに分っているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおり、よみがえられたのである」と告げています。きょうの日曜日は、キリストが死から甦った復活祭・イースターです。キリストは、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。見よ、わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして死と黄泉(よみ)とのカギを持っている」と言われました(黙示録1:17−18)。キリストは十字架の死後、遺体に布を巻かれ、岩をくり抜いた墓の中に安置されました。エルサレムにキリストの墓といわれる所があります。岩をくり抜いた小さな洞窟のような墓で、入り口に大きな石の引き戸がついています。中は空っぽです。普通の宗教ですと、「キリストの墓」として、香をたき、線香の煙があがり、派手な飾り付けがされます。キリストは死と黄泉のカギを持っておられ、死を滅ぼして甦ったので、キリストの墓といわれる所には、「キリストは甦った」という御言葉が掲げられているだけです。
キリストは生きておられます。キリストを信じた私たちには永遠の命が与えられています。クリスチャンは祈りと讃美をもって人生を歩み、天国へ向って前進しています。主の年2007年復活祭の朝、生きておられるキリストのメッセージを聴き、共に祈って新しい一週間の旅路を出発いたしましょう。
内容区分
1、キリストは生きておられる、恐れることはない 28:1−6
2、キリストは生きておられる、救いを伝えよう 28:7
3、キリストは生きておられる、喜んで行こう 28:8−10
資料問題
2節「主の使いが天から下って、そこに来て石を脇へころがし、その上に座った」、天使が石を脇へころがしたのは、キリストを墓から出すためではなく、女たちを墓の中に入れるためであった。8節「女たち」、ヨハネ、マルコはマグダラのマリアとしているが、マタイは複数の女性としている。ルカ(ルカ22:22−24)、パウロ(Tコリ15:5−7)はこのことをあげていない。9−10節、マルコ福音書は16:8で、女たちが恐れて何も言わずにいたという所で中断した形になっている。ある学者は、それに符合するものがマタイ9−10節で、彼女らは復活を信じてから安心して口がきけるようになったと考えている(フランシスコ会註釈)。四福音書に異同があるのは、四人の福音史家は復活のキリストの出現を全部あげずに、自分の著述の目的に合わせて必要な出現だけを記しているからである。
1、キリストは生きておられる、恐れることはない 28:1−6
この御使いは女たちに向って言った、「恐れることはない!」。(5節)
私たちはあれこれ思い煩う心配事から解放され、恐れのない喜びの日々を生きたいと願っています。しかし、恐れをもたらす様々な出来事に遭遇するというのが人生の現実です。
病気は突然に私たちを襲い、気持を暗くし、家族に不安を与えます。医者要(い)らずの健康な体をもっている人は少ないと思います。私は目の医者に通っています。目はメガネを新しくすることが出来るほどに安定してきています。お祈りを有り難うございます。
経済問題という恐れがあります。毎月第四土曜日上野公園ホームレス伝道に行きます。ホームレスの人の中には英語をしゃべる人、聖書の歴史に詳しい人など様々な人が集会に来ています。元を正せばれっきとした人々なのでしょうが、ホームレスになった原因の一つは経済の破綻です。会社の倒産、リストラ、自らの責任としてはギャンブル、或いは連帯保証人になって全てを失った人々もいます。
人間関係の崩れがあります。どんなに仲がよくても死別によって人間関係は崩れます。私には小学、中学、高校、大学とかけがえのない友がいましたが、いずれも亡くなっています。また、どんなに仲がよくても、誤解、裏切り、心変わりによって人間関係は崩れます。話はそれるかも知れませんが、若い人々は好きな人が現れるという新しい人間関係を体験するようになります。そこで、大切なことを申し上げます。間違いのない男女関係のコツは、先ず自分のハートをイエス・キリストに捧げることです。十代の終りごろ内村鑑三の「ハートはまずこれをイエスへ」(信仰全集10巻)という勧めを読み、そうだと思い、イエス様にハートを捧げる決意をしました。主の召しによって23歳の時に神学校に入りました。神学校時代に将来の伴侶を選ぶ人が多いのですが、私はハートをイエス様に捧げてある、それに私の牧師から「女子神学生に目を向けるな、あんたは聖書に目を向け、イエス様を見て神学校生活をおくれ」と命じられていましたので、私は女子を敵視し、無視しているところがありました。そんな私に対し、イエス様は卒業ギリギリの時期に、3年間机を並べていた女性と親しく話し合うという思いがけない機会を備えて下さり、もしかしたらこの人が私のハートを捧げる人かなというように導かれ、卒業一年後28歳で結婚をして、共に開拓伝道に乗り出したのが昨日のことのように思われます。ちなみに22日で結婚39周年を迎えます。
死の恐れがあります。死を恐れない人はいないと思います。私たち夫婦の両親はすでに天国に旅立っています。私は7人兄弟の真ん中ですが、二人の弟が先立っていて、今は5人兄弟です。遅かれ早かれ、死は私たちに訪れてきます。
そして、全ての人の心の中に罪の問題があります。私の中学校時代、カトリックの修道士である先生が「悪い事をするな。神様はちゃんと見ているからな」と教えてくれました。中学校は畑のど真ん中にあり、野球部で畑の中に飛び込んだボールを拾いに行く度に、神様がみているなーと思いつつもトマトを勝手に食べて、盗みの罪を犯していました。聖書は、病気、経済問題、人間関係の崩れ、死の問題の真の原因は人間が神様に背いた罪の結果である、と告げています。罪の結果は恐れです。不安な心、明日はどうなるのかという先行き不安な気持、そして心の中で人を憎み、審き、心の中の悪い思いが外に出て悪口を言い、ゴッシプを流し、不平、不満、愚痴で心身のバランスを失い、不安定になります。罪の結果、この世に入ってきた病気に苦しめられています。人間が罪を背負って、病気、経済、人間関係の問題を持ち、不安に捕らわれ、最期に死んで、滅んで地獄に行くということで苦しんでいる。それを知って、キリストは罪のない潔い自分の身を十字架の上に、人の罪の身代りとして命を捧げて下さった。素晴らしい事に、キリストは死んで終りではなく、三日後に罪の結果である死を滅ぼして甦ったのです。
キリストの十字架と復活を受けて、墓参りに来た女性たちに、天使は「恐れることはない」と告げています。キリストは、一度は人間の罪の身代りになって十字架の上で死にましたが、罪を赦された者に永遠の命が与えられるということを証明するために、キリストは死を滅ぼして甦ったのです。だから恐れることはない、と告げているのです。
先週、ロンドンの馬場夫妻が礼拝に出席されました。馬場さんのお父さんは神仏を信じないで自分の力に頼る人でしたが、晩年病気になり入院しました。病気に加えて、死への恐れ、家族のこと、自分の事業のことなど重荷をたくさん抱えていたと思いますが、病床でキリストの十字架・復活のことを聴き、悔改めてキリストを信じ、その場で洗礼を受けました。キリストを信じ、全ての重荷から解放され、恐れから自由になり、自分がクリスチャンになったことを言い表し、召されて行きました。その葬儀には大勢の会社関係者が参列し、キリストのメッセージが伝えられ、キリストを信じ、或いはキリストに近づいている人々がいます。
恐れることははない・・・祈りましょう。キリストはあなたの問題に答えを与え、病気を癒して下さいます。
2、キリストは生きておられる、救いを伝えよう 28;7
そして、急いで行って、弟子達にこう伝えなさい、『イエスは死人の中から甦られた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会い出来るであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。(7節)
女の弟子達は、天使の「キリストはよみがえった」という知らせに驚き、そして喜んだことと思います。天使は、女性たちに、「キリストの復活の喜びを皆に知らせなさい」と告げています。天使は、「急いで行って知らせよ」と命じています。私たちはキリストによって救われた者として、罪の赦し、永遠の命の喜びを他の人々に、一日でも早く伝える使命があります。
急いで行って知らせるということですが、そのためには自分の旗印を鮮明にする必要があります。旗印を鮮明にするとは、「私はクリスチャンです」ということを明らかにしておくということです。「私はクリスチャンです」ということを言い表すのは、早ければ早いほうがいいと思います。ふだんから「私はクリスチャンです」ということを表しておけば、例えば葬式の時にクリスチャンの態度を貫く事ができ、焼香を避けることが出来ます。ある食堂の入り口に、飲酒事故を防ぐために「お酒に飲まれないように」という大きな張り紙があり、その横に代行運転の電話番号が記されていました。「私はクリスチャンです」という旗印を掲げていれば、酒を勧められることはないでしょう。日本では結婚式などでお酒を注いで回ることがありますが、私の所に来るとお酒ではなく、ウーロン茶を注いでくれます。それは私がクリスチャンであるからです。
急いで行って知らせる内容は、「イエスは死人の中からよみがえられた」という福音に従って生きるということです。私たちが救われているのは、キリストの十字架と復活があったからです。キリストの救いを朝に昼に夜に感謝し、讃美して行きましょう。使徒行伝11:26に「アンテオケで初めて、弟子達がクリスチャンと呼ばれるようになった」と記されています。初代教会のクリスチャンは、ユダヤ教から離れてキリスト教会を形成している。クリスチャンは、当時のロマ皇帝礼拝を拒んでいます。多くの異教の神々の行事に参加しない、参加しないことによって仕事を奪われるという不利益をこうむっても世と妥協しないで、キリストだけを礼拝している。「私たちはキリストを信じる者です」ということを、言葉をもって、また実際生活を通して表し続けている。それを見て周りのノンクリスチャンが、「彼らはすぐにキリスト、キリストという。彼らはキリスト一筋だ。彼らはキリスト漬けだ。キリスト野郎だ。彼らはキリストのものだ」と最初は信じる者を馬鹿にしてつけたあだ名がクリスチャンであったのです。しかし、今ではクリスチャンという名前は全世界に定着しています。クリスチャンとはキリストを信じる信仰者であり、日曜ごとに教会に集まり、水曜日ごとに祈るために教会に集まり、教会を通してホームレスなどの弱い者を助ける様々な良き働きをしているということを人々は知っています。「私はキリストを信じるクリスチャンです」ということを表し続けて行くように祈って下さい。キリストの素晴らしい救いを宣べ伝えるように祈って行きましょう。
3、キリストは生きておられる、喜んで行こう 28:8−10
女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り・・・イエスは彼らに出会って、「平安あれと言われた」・・・「恐れることはない。行って兄弟たち(わたしの兄弟たち)に、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。(8−10節)
キリストが甦ったことを知らされた女の弟子達は喜んでいます。彼女たちは、復活したキリストを見ていないのに、単純に信じて大喜びしています。彼女たちがキリストの墓参りに行った時に、大きな地震が起こり、そこへ天使が現れて石を脇へころがし、墓の中が見えるようにしてくれました。天使は、「恐れることはない。十字架にかかってイエス様は人の罪の身代りになって一度は死んだ。だがキリストは死と黄泉のカギを持っている永遠の救主である。ご覧なさい。墓の中は空っぽだ。十字架で罪を滅ぼし、サタンの頭を砕き、罪の罰である死に打ち勝って主はよみがえったのだ」という神の御言葉を告げ、彼女らはそれを信じたのです。
キリストは私たちに御言葉に従うことを求めています。従えば祝福があり、喜びがあります。しかし、神の御言葉を信じることは、時には勇気がいることであり、また大いに信仰を試されることです。私が神学校に行くことを決意した時に、周囲の反応は「牧師になったら食って行けない。何故ふつうの信徒ではいけないのか」ということでした。でもキリストは、「我に従いきたれ。人を漁(すな)どる者となさん(伝道者にする)」(マタイ4:19)と言われる、もう進むしかないと決意しました。神学校では学費と寮費が要るので、3年分の必要は貯金してありました。神学校に入った直後に弓山校長から呼び出しがあり、「英語で救いと献身の証を書きなさい。イギリスの方が3年分の学費をサポートするので、君は学費、寮費1ヶ月合計千円で宜しい」と言われたのです。サポートする方は、学生には名を知らせないでほしいということでしたので、知らないままですが、天国で御礼を言おうと思っています。御言葉に従えば祝福があり、喜びがあります。
キリストは、私たちを「わたしの兄弟たち」と呼んで下さいます。10節に「恐れることはない。行って『兄弟たち』に告げよ」とありますが、これは『わたしの兄弟たち』という言葉です。男の弟子達は、ヨハネ以外は十字架の直前に、師であるキリストを捨てて逃げています。ペテロは三回もキリストの弟子であることを否定しています。彼らは、「キリストは十字架にかかり死ぬが、しかしよみがえる」という御言葉を忘れて、隠れていたのです。キリストはそんな彼らを、「わたしの兄弟たち」と呼んでいます。ここにキリストの大きな愛があります。「愛はすべての咎を覆う」という御言葉がありますが(箴言10:12)、キリストは自分を裏切った弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼んで、彼らを赦し、受け入れるという愛の配慮を示しています。私は祈りが足りず、或いはケアーが充分でなく、牧会上で至らない点を示され、悔改めて祈る時があります。その時に、主は至らない私を、「わたしの兄弟」と呼んで下さり、「汝は我に従え」と言って下さいます(ヨハネ21:22)。主の憐れみに支えられている私のために引き続いて祈って下さい。
キリストは、「ガリラヤに行け。そこでわたしに会える」と言われています(10節)。ガリラヤとはかつての弟子たちの生活の場です。キリストは特別の場所ではなく、人々が生活している只中に現れて下さる救主です。聖書日課は、新約聖書のほうはマタイ福音書を読んでいますが、きのうの18章の中で、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(18:20)というキリストの御言葉がありました。ユダヤ人は何かをする時に10人以上いないとダメでした。キリストは信じる者が2−3人いればいい。わたしはその中にいて、祈りを聴き、助けを与えると言われています。
きょう、この集会の真ん中にキリストがおられます。キリストは、きょう、この場で「わたしに会える」と言われています。これから共に祈って、生きている主イエス・キリストの助けをいただいて行きましょう。
まとめ
1、5節、キリストは生きておられます。キリストは恐れを取り去って下さる主です。キリストに縋って祈りましょう。
2、7節、キリストは生きておられます。私たちはキリスト信じている者であることを表して行きましょう。キリストの救いを伝えて行きましょう。
3、8−10節、キリストは生きておられます。キリストに喜びをもって従って行きましょう。御言葉に従いましょう。・私たちを兄弟と呼んで下さる主に感謝しましょう。私たちの生活の場に共にいて下さる主に祈って行きましょう。
祈 り 天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストの十字架によって救いを与えられ、感謝します。キリストの復活によって永遠の命が確かなものとして与えられていることを感謝します。キリストは生きておられます。恐れから解放されたことを感謝します、救いを与えて下さったキリストを伝えて行く力を与えて下さい。私たちを「わたしの兄弟」と呼んで下さるキリストの愛に感謝します。私たちの祈りを、いま、この場で聴いて下さる主に感謝します。午後からのイースター祝会を導いて下さい。司会をする倫夫先生を用いて下さい夜のイースター礼拝を祝福して下さい。よみがえって永遠に生きておられるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献マタイ注解―黒崎、バークレー、フランシスコ会、文語略解、J・Ryle、織田。 「内村鑑三信仰著作全集10巻・教文館」