クリスチャンの原点―堅く立って動かされず、主の業(わざ)に励む Tコリント15:54−58 主の2007.4.15礼拝

東京・駒込の神学校敷地に、かなり大きなホールがあり、そこで全国聖会が行われ、神学校の卒業式が行われていました。ある時、ホールの講壇にあたる所がギシギシという音がする、床が沈んでいるということで、私たち男子神学生が狭い床下に潜り込み、床下の点検作業をしました。その結果、講壇の床を支える支柱が何箇所もずれている、腐りかけているのもある、このままだと床が陥没するということが分り、支柱を取り替え、或いはずれを直すということで、泥まみれ、汗だらけで作業をし、床の陥没を防ぐ事が出来ました。作業をしながら、建物全体を支えるために基礎がいかに大切であるかを知ることが出来ました。

本日は第一コリント15:54−58です。58節に「堅く立って動かされず」という御言葉があります。この手紙は聖霊に導かれて使徒パウロが記したものです。コリント第一の手紙は16章ありますが、パウロは、15章の始めで、「聖書の中で最も大事なことは、キリストが聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと(十字架)、葬られたこと、三日目によみがえったこと(復活)である」と告げています(15:3-4)。それを受けて、58節で、「あなた方はイエスキリストの十字架と復活という揺るぎない土台の上に、堅く立って動かされることなく、いつも全力を注いで信仰生活に励んで行きなさい」という勧めがされています。神学校にあったホールは、見かけは大丈夫そうでしたが、肝心の土台部分に欠陥がありました。幸い発見が早かったために、床沈没という危機を免れ、それから長く使用され、数年前に新しい建物に替わっています。

先週は、主の復活祭・イースターを皆でお祝いし祝福されました。主の復活祭・イースターで改めて確認したことは、イエスキリストは生きておられるという事実です。今朝、よみがえったイエスキリストにすがって、堅く立って動かされることのない信仰を与えていただき、祈って、新しい一週間の出発を致しましょう。

内容区分

1、キリストは死に勝利され、私たちを怖れから解放する救主である 15:54−57

2、キリストを信じ、堅く立って動かされず、主の業(わざ)に励もう 15:58

資料問題

55節前半(新改訳、新共同訳は54節)はイザヤ25:8から、55節後半はホセア13:14から、原文にこだわらない自由な引用。55節「死のとげ」は56節で、「勝利」は57節で説明されている。55−56節「死」、「罪」、「律法」はロマ7:1−13を見よ。キリストによる「勝利」は、「罪と死の原理」(ギリシャ語では「原理」も「律法」も同じ語)から人を解放する「生命の原理」、すなわち聖霊である(45節、ロマ8:2)。57節「賜ったのである」は過去形ではなく、「、賜る、与えて下さっている」である(文語訳、バルバロ訳、新共同訳、フランシスコ会訳)。58節フランシスコ会訳は「ですから、愛する兄弟の皆さん、しっかり腰を据え、またどっしり構え、主と一致していれば自分の苦労はむだではないと知って、絶えず主の仕事に大いに精を出しなさい」。

1、キリストは死に勝利され、私たちを怖れから解放する救主である 15:54−57

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。(55−57節)

キリストは、「信じればご利益がある」と言ってお金や物で人をつるような事はしません。キリストは、「信じればあなたに地位や名誉をあげよう」とは言いません。キリストは、「この世のものをあげるから、わたしを信仰しなさい」ということは一切言っていません。

*キリストが私たちに下さったのはキリストご自身です。

キリストは私たちの罪のために十字架に死んで、罪の赦しを下さいました。キリストは十字架の三日後によみがえって、信じる者に永遠の命を下さいました。キリストは私たちに聖霊をおくり、「イエス・キリストは主である」(Tコリ12:3、ピリピ2:11)という信仰告白を与えて救いに導き、永遠の命を賜り、神の家族である教会に導き入れて下さいました。55節はイザヤ書、ホセア書からパウロが自由に引用した聖句によって、死はキリストの復活によって滅ぼされてしまったことを力強く述べています。(55節前半「死は勝利にのまれてしまった」は、新共同訳、新改訳では54節)

*ところで、なぜ人間は死を怖れ、死から逃れようとするのでしょうか。

人間が死を怖れる理由は二つあります。一つは未知のものに対する恐怖心です。もう一つは罪の意識から死を怖れます。何の怖れもなく神の前に出られると感じる人にとっては、死ぬ事はすばらしい冒険のようです。しかし多くの人は罪の意識から、死を怖れています。56節に「死のとげは罪である。罪の力は律法である」と言われています。人間には神の戒めである律法が与えられています。例えば「あなたは、わたしの外に何者をも神としてはならない。偶像をつくり、拝んではならない」(出20:3−4)という律法があります。多くの人はその戒めに背いて、まことの神を拝まないで、偶像を拝み、偶像を持っています。それで多くの人は、自分は律法に背いている、死んで神の前に立つことができない。罪を持って死ぬ事は神の審きという棘(とげ)に刺され、滅んで行くことである。それで死を怖れ、死にたくないという気持になります。

*感謝な事に、キリストの十字架によって罪の赦しが与えられ、キリストの復活によって永遠の命が与えられています。

57節は、キリストの救いについての感謝です。私たちの肉体は平均すれば70年か80年で一度は滅びますが、霊は救われているので永遠に生きることができます。肉体は一度は朽ちますが、世の終りには肉体がよみがえり、霊と結び合わされ、永遠に天国で生きることができます。キリストを信じる者は、永遠の救いを与えられ、天国に行けるので、死の怖れから解放されています。そのことが、「神はわたしたちの主イエス・キリストによって勝利を賜ったのである」と言い表されています。正確には「勝利を賜ったのである」という過去形ではなく、「勝利を賜っている、勝利を与えて下さっている。He gives us the victory through our Lord Jesus Christ」というのが正しいのです。

1923年(大正12年)9月1日関東大震災があり、十万人以上の方々が亡くなっています。地震は横浜方面にも及び、犠牲者の中にジェニー・カイパーという62歳のアメリカ人女性がいました。当時ミッションスクール・フェリス女学校の校長であった彼女は新学期の準備のために一日早く軽井沢から横浜に帰り、学校で事務をとっていた。昼近く突然、大地が揺れ、校舎は崩壊し、彼女は梁の下敷きになった。始業一日前であったので、教職員は誰もいない、ちょうど居合わせた書記が校長の生死を尋ねているうちに、梁の下敷きになっている校長を発見。力づくで救出しようとしたが、校舎の大きな梁なので重くて、校長を引っ張り出すことができない。校長は揺り返しが来ることを恐れて、書記に自分にかまわず逃げるように命じた。その苦しみの中で「ザイ・ウイル・ビイ・イン・アース」と祈って、彼女は殉職して行きます。瀕死の校長が口にしたのは、聖書の中にある「主の祈り」の中の一節である「御心が行われますように」という祈りでした。彼女は助けに来てくれた人を巻き添えにしないように配慮し、自分は天国に行けるという信仰をもって、死を怖れずに与えられた命を使いきって死んで行ったのです。学校は壊滅し、ミッションスクールの本部があるアメリカでは、学校は再建不可能という判断をします。しかし、学校を守った校長の死をムダにしないで再建をという声が起きて、6年後に学校は再建され、校長を記念して「カイパー講堂」が建てられ、それから70年、学生たちが毎朝集い、礼拝が守られています。

キリストは死に勝利され、永遠に生きておられる救主です。キリストは今、求める私たちの願いに勝利を与えて下さる、生きておられる救主です。キリストは死を滅ぼして、甦った救主です。死をも滅ぼす力をもつキリストが、必ずあなたの問題に答えを下さいます。怖れから私たちを解放するキリストの恵みを求めて、聖歌460番(旧707番)「心にもだえあらば」を讃美しましょう。

2、キリストを信じ、信仰に堅く立って動かされず、主の業(わざ)に励もう 15:58

だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主の業(わざ)に励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。(58節)

56−57節を受けて、58節で「だから(ですから)」と言って、まとめの言葉、信仰の実践的勧めが述べられています。どんな勧めがされているのかを見ましょう。

第一に、「堅く立って動かされるな」と言われています。

「立って」と言われていますが、この言葉はどっしり腰を落ち着けて構えることを表しています。「動かされず」とは、除去や変更のないことで、不変不動を表します。コリントの教会の中に、間違った教えに振り回されている人々がいる、例えば復活はないという偽キリストの教えに騙されたり、クリスチャンであるのにこの世の悪い交わりに誘惑されてフラフラしている者がいる。パウロは言います、「わたしは聖書の中で最も大事なことはキリストの十字架と復活であることを教えた。この信仰をもってキリストに縋って行きなさい。何があっても、どっしり腰を落ち着けて教会生活に励んで行きなさい」。

堅く立って動かされず、腰を落ち着けて信仰生活をするために礼拝はとても大事です。私たちは教会讃美で聖歌を用いています。聖歌を最初に編集したのは中田羽後先生です(現在は和田健治師)。中田先生が、「クリスチャンの基本は礼拝だ。礼拝を通して、主を讃美し、主の御名によって祈る。主に感謝して献金を献げる。兄弟姉妹の交わりがある。何よりも私たちの霊を養い、励まし、希望と平安を与える神の御言葉が語られる。礼拝出席は測り知れない霊の祝福をもたらす」と記しているのを読んで、本当にそうだと思いました(「聖歌の友」教会音楽出版社)。

第二に、弱い脆い私たちが動かされることのない信仰を保つためには、「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」と勧められています。

主の業とは、主が私たちに命じておられる業のことで、伝道してキリストの教会を建てる働きのことです。伝道とは、キリストを伝えることです・・・・主イエス・キリストは生きておられる。キリストの十字架によって罪が赦される。キリストの復活によって死のとげは抜かれているから、キリストを信じれば天国へ導かれる。「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)というキリストの約束を信じて、聖霊によって祈り、勝利の人生を前進できる・・・・私たちはキリストによって救われた者であることを感謝して、キリストの福音を伝道して行く。キリストの福音を伝道すれば信じる人々が起こされ、教会の働きがもっともっと活発になって行く。そう信じて主の業に励んで行こうという勧めがなされています。

主の業に、共に祈り合って、助け合って、皆で励んで行きましょう。伝道することを申し上げましたが、教会には様々な奉仕の分野があって、それを皆で担い合って、チームワークを組んで、キリストを表して行くように祈って行きましょう。主の業に全力を注いで励んで行くための秘訣は何でしょうか。それはキリストを喜んで行くことです。キリストを喜んで、キリストに感謝し、キリストに仕えて行く時に主の業に励むことが楽しくなってきます。

*アメリカの教会に行き、讃美を通して皆がキリストを喜んでいる姿に接した方の証です。

「アラバマ州の教会で、私たち日本人グループがゴスペルを歌った時に、会衆は歌う私たちを純粋に歓迎してくれて、讃美が終わる『主は生きている、すばらしい』と言って神様を讃へ、私たちをねぎらってくれました。最後の日に、プロレベルのクワイヤー、大学生のクワイヤーなどが集まってゴスペルを歌いました。その中で、60代から80代のグループの讃美がありました。アメリカで黒人に対する人種差別の激しかった時代に、アラバマ州から公民権運動が始まったのですが、彼らはその時代から、主を見上げてゴスペルを歌い続けて来たクワイヤーです。杖をついたり、介助されてステージにあがってくるので、揃うのに時間がかかりました。メンバーの中には立っているのもやっという男性も入っていて、その人は歌声を出すのは難しかったと思います。しかしながら、そのクワイヤーのゴスペル讃美は、言葉では言い表せないほど深い感動がありました。『わたしは生ける限りは主をほめたたえ、ながらえる間はわが神をほめ歌おう』(詩篇146:2)という御言葉のとおりに讃美する姿は、私にとって大きな励ましになりました。上手な歌声、上手なクワイヤーを求めるのではなく、讃美は神様に献げるもの。神様を讃えることが大事。純粋に私の中にその思いが与えられました。私の人生は何歳まで続くか分りませんが、イエス様がすばらしいから讃美をする、そんな気持でずっと純粋に讃美したい、そう思いました」。

その証を聴いて、イエス様がすばらしいから、心からの感謝をもって讃美するという純粋な姿に涙がこぼれました。そこには上手下手を越えた主への純粋な愛があり、喜びがあり、感謝があります。これこそが主の業に励むものの真の姿、原型であると信じます。私たちは様々な部門の奉仕を担っています。これは義務ではなく、イエス様のすばらしさに感謝し、その思いが奉仕という形で表されています。ある方は奉仕をしている人々のために日々に祈っています。自分が奉仕できるということは、そういう隠れた祈りのサポートがあるからであるということを忘れないで下さい。きょう、思いを新たにして、イエス様に心を献げ、奉仕を通して主に仕え、主の業に励んで行くように、共に祈って行くように勧めます。

第三に、「あなたがたの労苦がむだになることはない」と言われています。

主にある全ての奉仕はむだになることはありません。主の前に人知れず涙して祈った祈りは無になることがありません。キリストは全てを見ておられ、必ず報いて下さいます。ある父親が娘さんの救いのために祈っていましたが、娘は信仰に無関心の状態で、祈りが届いていないような感じでした。それでも諦めずに祈っていましたが、父親は召されて行きました。あんなに祈っていたのに、その労苦はむだに終わってしまったように思われました。ところが、その娘さんは仲良しになった友達がクリスチャンで、やがて信仰をもって何と洗礼に導かれたのです。主にあって祈った父親の労苦は、見事に実を結んだのです。主にある労苦はむだになることは決してありません。

私事ですが、一昨日、東京に住んでいる兄を訪ねました。兄はここ最近、小さな何でもないことが気になり、気持が落ち着かなくなる。例えば、ある所で二人の人に会ったが、後からどんなに思い出そうと思っても、一人の人の名前が浮かんでこない。そうすると、そのことが頭をグルグルと駆け巡り、思い出すまで落ち着かない。そこで人に聴いたりして、分るとそれで終りということのようです。兄は教会の働きのためによく献金をしてくれますし、諏訪のためにも献金を送ったりしていますが、ノンクリスチャンです。一昨日は兄にイエス様の十字架と復活の話をして、キリストを信じるように促しましたが、決心を延期するという形になりました。しかし聖書を読むこと、続いて聖書を共に学ぶことを継続して行くことになり、救いが近づいていることを主に感謝しました。このために教会の多くの方々に祈っていただき感謝です。「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」ということを信じ、また皆さんの祈りの応援をいただきながら、継続伝送をして行きます。

まとめ

1、55−57節、キリストは死に勝利された救主です。死の怖れや多くの怖れをもっている私たちの怖れを取り去る救主です。キリストが問題を解決して下さることを信じて祈りましょう。

2、58節、キリストを信じ、堅く立って動かされることなく、主の業に励んで行きましょう。私たちの労苦はむだにならず、必ず良き報いが与えられることを信じて、主に仕えて行きましょう。

祈 り 天地の主である神様、独り子であるキリストは死を滅ぼして、今も、そして永遠に生きている救主であることを感謝します。私たちを死の怖れから、またあらゆる怖れから解放して下さるキリストに縋って行きます。キリストに頼って、堅く立って動かされず、私たちの労苦はむだにならないことを信じて主の業に励んで行きます。今週も恵み深い御霊の助けによって、祈りながら進んで行けるように導いて下さい。勝利の主であるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献コリント注解―バークレー、榊原、フランシスコ会、LAB、文語略解。「天に宝を積んだ人びと・太田愛人・教文館」