クリスチャンの原点―主にあって喜べ!思い煩うな!信仰を行え! ピリピ4:4−9 主の2007.4.22礼拝
私たちはいろいろなことを喜びます、例えば新しい服を喜びます、美味しい物を食べた時に喜びます。クリスチャンは何を喜ぶでしょうか・・・クリスチャンは魂の救いに関することを聴く時に、心に喜びを感じます。先日Aさんというご婦人から私たち宛に手紙をもらいました。Aさんの住んでいるのは都会から離れた所ですが、彼女の属している教会は讃美を通して伝道に力を入れ、礼拝に20数名が集っています。Aさんはご主人の救いを願っていましたが、現在は牧師に導かれてご主人と聖書の学びをするところまで来ているということが記されていました。どこにあっても、信仰を貫いて行くことには戦いがあります。特に地方では、昔からのしきたり、付き合い、異教行事などがあり、その中で信仰を保って行くためには、主にすがって祈り続けることが必要です。戦いの多い地方で、Aさんが信仰を保ち、ご主人と聖書の学びをするほどまでになっているということを知って、私の心に喜びが与えられました。
きょうの聖書はピリピ4:4−9です。この中に「喜べ、思い煩わずに祈れ、信仰を行え」という勧めがあります。喜びも、思い煩わないことも、信仰を実践することも、全てはキリストにあって叶えられることです。ご主人の救いを願い続け、地方にあって信仰を保ち続けているAさんの願いが実現しつつあります。それはAさんがキリストに?がり続けているからです。きょう喜べないような辛い状況の方もいるでしょう。また心配事で頭がいっぱいの方もいるでしょう。信仰を実践できないという事で悩んでいる方もいるでしょう。健康問題で重荷を抱えている方もいるでしょう。そうした重荷を抱えながらも、キリストに縋って行けば、辛い事は喜びに変えられ、心配事は感謝となり、信仰に力が加えられて行きます。健康問題には癒しという答えがあります。ダビデは、「あなたは我が神です。恵み深い御霊によって、わたしを平らかな道に導いてください」(詩篇143:10)と祈っています。恵み深い御霊によって平らかな日々を歩むために、聖書を通して語りかけるキリストの御言葉にしっかり耳を傾け、キリストの御名によって祈り、新しい一週間の旅路を出発して行きましょう。
内容区分
1、キリストを信じる者には、喜びがあり、心の広さが与えられる 4:4−5
2、キリストを信じる者には、祈りをとおして心に平安が与えられる 4:6−7
3、キリストを信じる者には、信仰を実践する力と、神の平和が与えられる 4:7−9
資料問題
4節「喜びなさい」、2回言われている。喜びはピリピ書のテーマ。パウロは迫害を受け獄中にいる。外面的には捕らわれの身であり、死刑の判決を受けるような立場にありながら、しかしパウロの内面の心は喜んでいる。主に固く結びついていれば、パウロのように私たちの内側は外側の状況によって影響されずに、キリストの救いを喜び、主が最善を為し賜うという平安が常にある。5節「寛容」、新共同訳は広い心と訳している。「主は近い」、Tコリ16:22「マラナ・タ(われらの主よ、来たりませ)」に該当するもの。栄光に輝くキリストの再臨を待望し、その時が近いことを表した言葉である。7節「神の平安」、主が与えて下さる平安(ヨハネ14:27)である。神に信頼して祈る時に平安が与えられ、平安と同時に喜びがある(上述4節参照)。9節「平和の神」、ロマ15:33を見よ。
1、キリストを信じる者には、喜びがあり、心の広さが与えられる 4:4−5
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。(4−5節)
ピリピ人への手紙は4章という短いものです。手紙の冒頭1:3で「喜びをもって祈る」とあり、末尾4:4で「主にあって喜ぼう」と言われています。そこで、この手紙を貫く主題は喜びであることが分ります。「主にあって喜ぼう」というのは全てのクリスチャンに対する訴えですが、皆さん喜んでいますか・・・。もう30年ぐらい前ですが、一年中パンツ一枚で過ごしているオジサンがいました。人間健康で笑いが一番という旗を持って、歩く時にも電車に乗る時にも「ワッハーハー」と大声で笑いながら全国を巡り歩き、冬に北海道で氷の張る湖に飛び込んでいる様子がニュースで報じられていました。しかしそれを真似して裸になってワッハーハー」と笑いながら毎日をすごそうという人は現れませんでした。そういうことは特殊な人にしかできない事だからです。「主にあっていつも喜ぼう」と言うことは、罪を悔い改め、キリストの十字架を信じる全ての人に与えられる恵みです。キリストを信じれば、喜びが心に湧き上がってきます。主にある喜びについて三つのことを学びます
第一に、キリストを信じる時に、消えない喜びが与えられます。 「主にあって」というのは、二つの事を指しています。一つはキリストを信じ、キリストを心に迎えているという事です。二つにはキリストの体である教会に?がっているという事です。私たちはキリストの十字架を通して罪が赦されました。キリストの復活を通して永遠の命が与えられました。キリストを信じる私たちは聖霊によって毎日祈るという恵みを与えられています。教会に?がって信仰を養い、信仰の訓錬を受けて霊的に成長するという恵みを与えられています。
第二に、キリストに?がって行く時に、いつも喜びがあります。 例え感謝できないような、喜べないような中にあっても、心の奥底では主の恵みを信じ、喜ぶことができ、心は平安です。それが「主にあっていつも喜ぶ」という事です。ずっと以前、吉野勝栄牧師をお招きしたことがあります。集会後ティータイムの時に、富田兄弟が、「もし信仰が落ち込んだ場合、どのようにして対処しますか」と質問しました。すると先生がクスクス笑い出し、「私はイエス様を信じて以来、心はいつも喜びでいっぱいである。信仰が落ち込んだという体験がないので、君の質問には答えられません」と答えていました。先生は伝道活動の絶頂期に、伝道者にとっては致命的な脳梗塞による言語障害という重荷を背負ったのです。しかし、病気によってめげることなく、医師をしている息子の治療を受け、祈ってリハビリをし、ゆっくりとですが話せるようになり、伝道活動を再開し、すばらしい働きをなされ、天に帰って行かれました。大きな試練に会いながら、「私はイエス様を信じて以来、喜びでいっぱいである。落ち込んだことがない」という先生の言葉を、私は忘れることができません。
第三に、キリストを信じる者には、寛容な広い心が与えられます。 クリスチャン作家三浦綾子さんが、「人は二種類の物指しをもっている」というエッセーを記しています。その意味は、自分についてはゆるやかな物指しで計り、他人に対しては厳格な物指しで計るという意味です。姦淫の場で捕らわれた女の人を引き立ててきた律法学者たちは「この女は石で打ち殺されるべきです」と声高にキリストに迫っています。その時キリストは言われた、「あなた方の中で罪のない人が、まず石を投げなさい」(ヨハネ8:1−11)。当時、姦淫の罪を犯した者は、石打による死刑が定められていました。しかし、律法を適用すれば全ての人は罪人です。罪人が本当に人を審けるのかということをキリストは鋭く指摘し、女の人を救い、そして全ての人を救うために、十字架にかかって私たちの罪の身代りになられたのです。私たちは赦された罪人です。自分の目から見れば、あの人、この人のことが気になり、間違いを指摘したくなります。それが嵩じると、人に「あの人はこうなんだから」と言い、それがゴシップとなります。私の教会はおばさんが多く、なぜかおばさんたちが年若い私に人にはいえないような話をしてくれるのです。私は「何を聴いても驚くまい。また聴いたことを人に漏らすまい」と決心しました。なぜなら、「主の再臨は近い」と言われ、そして「主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない」(Tコリ4:5)と命じられているからです。
2、キリストを信じる者には、祈りをとおして平安が与えられる 4:6−7
何事も思い煩ってはならない。ただ事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。(6−7節)
私たちは思い煩いの多い世の中に生きています。思い煩いがちな私たちに対し、使徒パウロは「心配するな、思い煩うな、取り越し苦労をするな」と訴えています。思い煩う前に、「感謝を数えなさい」と命じています。私事ですが、先週金曜日からの恵みを数えてみました。健康であったことを感謝します。兄に継続伝道することができ、お祈りできたことを感謝します。関東分校に行き、伝道について学び、生徒から活発な質問があったことを感謝します。土曜日には多くの方々の奉仕があったことを感謝します。何よりも皆さんに祈られていることを感謝します。いろいろな方々から手紙やメールをいただき、感謝します。皆さんも恵みを数えて、感謝をささげてみて下さい。
感謝の後に、「祈りと願いとをささげよ」と言われています。主の救いの恵みに感謝をささげ、祈る時に、神の平安が心の中に与えられます。祈りの時に与えられる平安はなにものにも替えられない祝福です。神の平安はキリスト・イエスにあって与えられるとあります。なぜならキリストは私たちの心の中に住んでおられ、私たちを中から内から助けて下さる救主だからです。平安こそが祈りの答えです。願いがかなう、求めたものが手に入る、病気が癒されるという具体的な事柄も祈りの答えです。しかしもっともすばらしい答えは心の平安です。何があっても揺るがない心の平安こそが大切です。皆さんは平安でしょうか・・・。平安を求めて祈って下さい。
小川さんという女性がいました。彼女は幼い時から喘息という難病をもち、自分の将来を考えて悲惨な思いに充たされていたのですが、信仰を与えられ、病める自分にも神のご計画があることを知るようになって行きます。彼女は生後1ヶ月半で小児喘息という持病にとりつかれ、医学、はり、まじない、加持祈祷、転地療養など可能な限りの手を尽くしましたが、喘息を終生の友としなければならなくなったのです。彼女は、「私は長い間持病の喘息に悩んできました。病気の怖れから逃れることができませんでした。将来への希望はなく不安とねたみに心がすさみ、荒涼たる砂漠のようになって毎日が悩みの連続でした」と日記に記しています。しかし、教会に導かれ、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来て下さった」(Tテモテ1:15)という御言葉に出会って、救いに目覚めて行きます。彼女は絶望のあまり、看病してくれる母に当り散らし、周りの病人に伝道する母の邪魔をしていました。体は骨と皮だけの骸骨で、悪魔のような姿になっていました。そんな時に「あなたの父母を敬え」という神の教えに背く罪人である自分のために、キリストが「十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われた」(Tペテロ2:24)との御言葉を示されます。そして「イエス様の十字架の身代りによって罪が赦され、聖霊の神様の内住を賜り、体が熱くなり、心が大変平安になりました・・心のうちに希望が与えられ、初めて私にも生まれて来た使命があることを知りました」という恵みを味わっています。彼女は喘息という苦しみの中で不安な日々を過ごし、将来に希望のないことを嘆いていましたが、キリストによって心の平安を握ることができたのです。21歳で洗礼を受け、喘息は依然としてあったが、「イエス様によって救われたことによって自分の体に棘があることを神様に感謝しています」と述べています。彼女は年若く25歳で召されて行きます。父親は、「彼女は信仰の道を教えてくれました・・・短い人生の中でなすべきことを果たして行きました」と感謝の言葉を述べています。喘息という重い病気の中にあって、時には母に当り散らし、不安な日々を送っていた女性が、キリストによって平安を与えられ、喘息は癒えなかったが、喘息をも感謝する心を与えられて信仰の生涯を全うしたのです。
キリストは、あらゆる状況の中にある方々を助けて下さいます。私たちを守り導くキリストに縋って、聖霊の助けによって祈り、心に平安を満たしていただくように祈って行きましょう。
3、キリストを信じる者には、信仰を実践する力と、神の平和が与えられる 4:8−9
最期に兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳と言われるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。(8−9節)
この個所では、信仰の実践ということが言われています。喜んで信仰生活をする、どんな場合でも感謝を忘れずに祈ることが言われましたが、最期に「信仰の実践をしなさい」ということが勧められています。8節に、心にとめるべきことが列挙されています。9節では、心にとめるだけではなく、良い事を実践しなさいと言われています。ここから教えられることがあります。
第一に、信仰の目を開いて、全ての良い事をしっかり見極め、良い事を心にとめなさいと言われています。良いことの見分けは何でしょうか。キリストを表しているか、キリストを讃えているかというキリスト中心であることが大切です。
第二に、信仰の傍観者になってはいけないという事です。信仰を自分の身に当てはめて、実践することが大事です。先ほどお話した吉野先生は祈りの人でした。「渡辺くん、朝祈るとね、イエス様がきょうはこれこれをしなさいと教えてくれる。だから祈りなさいよ。うちの母ちゃんもいろいろ言ってくれるがイエス様にはかなわないね」と教えてくれました。先生は朝にお祈りしていました。それはイエス様が朝にお祈りをなさっていたからです。吉野先生の祈る姿を心にとめて、私も祈ろうという思いを心に刻み、そして祈ることを導かれていることを感謝します。
第三に、主は、信仰をもって歩む者と共にいて下さるということです。良い事を心にとめる、そして信仰の実行をするという勧めがなされています。信仰をもって歩む時に、平和の神が共にいて下さるという約束が与えられています。ここに新しいトラクトがあります。「たった一度の人生だから」という題で、96歳の現役医師日野原重明さんと星野富弘さんの対談の要約が出ています。日野原医師は1970年59歳の時に、「日航機・よど号ハイジャック」事件に巻き込まれ、人質になります。人質になっている間に聖書を読み、助かったら人のためになる生き方をしようと強く思ったそうです。無事解放されてから、多くの人々に希望を与える医師として各方面で活動しています。星野さんは24歳の時に大怪我をし、首から下が麻痺状態になります。9年間入院している間にキリストに出会い、また口に絵筆をくわえて詩や絵を描き始め、信仰の力によって生きることの恵みを人々に伝えています。ふたりとも、いのちは神から与えられたものである。自分は生かされている者だ。信仰によって与えられたものを、人々の役に立つようにして行こうということを実行しています。ふたりが信仰を辛苦を実践しているという事を、私たちは学ぶべきであることを教えられます。ふたりの写真が出ていますが、本当に平安な顔をしています。「平和の神が、あなた方と共にいて下さるであろう」という御言葉のとおりです。
まとめ
1、4−5節、キリストを信じる者には、喜びが与えられ、広い寛容な心が与えられます。
2、6−7節、キリストを信じる者には、祈りをとおして平安が与えられます。
3、8−9節、キリストを信じる者には、信仰を実践する力と、神の平和が与えられます。
祈 り 天地の主である神様、キリストの救いを受けたことを感謝します。今週も恵み深い御霊に導かれて救いを喜び、主の恵みを数えつつ讃美の日々を前進させて下さい。何があってもキリストに結びつき、揺るぎない平安をもって生きるように導いて下さい。午後の活動を顧みて下さい。伝道所であるい深谷、松江、すわの働きを支えて下さい。今週はホームレス伝道がありますが、たくさんのおにぎりを届け、イエス様の愛を伝えるように導き、ホームレス伝道を展開しているトポス教会の働きを祝福して下さい。病気の方を速やかに癒して下さい。私たちに喜びを与え、心に喜びをもたらす救主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります、アーメン。
参考文献ピリピ注解―バークレー、文語新約聖書略解、LABN、フランシスコ会、黒崎、米田。 「日本人の回心・野村耕三・新教出版社」、「三浦綾子全集」、「トラクト・たった一度の人生だから・EHC」