クリスチャンの原点―神はわれらの避け所、また力なり! 詩篇46:1−11 主の2007.4.29礼拝

昨日、上野公園ホームレス伝道に行って来ましたが、皆さんのお祈りに感謝し、おにぎり、生活物資の献げ物を届けることができたことを感謝します。生老病死(しょうろうびょうし)という言葉があります。これは全ての人に当てはまる事柄ですが、上野でホームレスの人々を目の前にしながら、人生の苦しみを考えてみました。第一に、生きることですが、ホームレスの人々には仕事がなく、家族から切り離され、借金取りに追われている人もあり、その結果路上生活をしなければならないという苦しみを背負っています。第二に、老いのことですが、集まる年齢層は40代以上で確実に老いに向っている人々ばかりです。第三に、病気のことですが、路上暮らしで清潔な環境ではないので、殆どの人々が何らかの病気をもっています。第四に、全ての人に死は訪れてきます。

本日の聖書は詩篇46篇です。2−3節に、「地は変り、山は海の真中に移り、水は鳴りとどろき、あわ立ち、山は震え動く」とあります。地震、火山の噴火、津波などの自然の災害は突然に襲ってきます。私たちの人生にも突然地面が裂けるような、思いもかけないような出来事が起きます。一昨年聖会講師で出かけた時に、親しい牧師夫妻と食事を共にしたのですが、その牧師夫人が、2月に胃を三分の二、十二指腸、胆嚢、リンパ節を切除する大手術をしました。手術後も治療は続いていて、医師から治癒率は10%以下と言われているとの事です。これは山が震え動くような、生老病死の全てを一度に体験させられる大試練です。詩篇46篇冒頭、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」との御言葉は、何が起ころうとも神に信頼し、神の最善を信じて行くという信仰を言い表しています。大手術をした牧師夫人は、「生かされていることを感謝し、皆さまのために祈っています」と言い、そのご主人は「ゆるされた日々をゆっくり楽しみたいと思います」と伝えてきました。それによって、ふたりが大試練の中にあって、「神はわれらの避け所また力である」ことを信じていることを知る事ができます。神様は生きておられる、愛の神様です。災いではなく、平安を与え、将来を与え、希望を与えて私たちを導いて下さるお方・・・それが神様です。

今朝、詩篇46篇を通して、主である神様のメッセージを聴き、新しい決断をもって祈り、今週も主に従う喜びの日々を前進いたしましょう。

内容区分

1、主である神は生きておられ、われらを守り支えて下さる 46:1−3

2、主である神は生きておられ、われらと共にいて下さる 46:4−7

3、主である神は生きておられ、静まる者に現れて下さる 46:8−11

資料問題

マルティン・ルッターの「御神は城なり」(聖歌総合版202番)は、詩篇46篇に基づいている。これは1529年トルコ軍がウイーンの城砦包囲に失敗し、バルカン諸国に引き返した時に作詞したもので、この讃美は今や183の言語によって歌われている。1節「いと近き助け」、いと身近な助けと訳せる。4節「ひとつの川」、列王下18:17、20:20、歴代下32:30で言及されている。エルサレムは堅い岩でできた高台の天辺に位置しているので、大河でも水を運ぶ事はできない。しかし東側の、高い所にギホン(噴流)といわれる泉がある。都が包囲された時に、そこから水を引き入れるためにヒゼキアが地下にトンネルを掘って水を確保した。10節「静まる」、ハルプーは静かにするではなく、「事をやめる」の意(サム上15:16参照)。人が行動を止めることは、神に信頼することと関係する。事をやめ、神に信頼するためには静まることが必要である。

1、主である神は生きておられ、われらを守り支えて下さる 46:1−3

神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き(いちばん身近な近寄りやすい)助けである。(1節)

多くの宗教が、家内安全、無病息災、商売繁盛というご利益をうたい文句にし、信じれば全てがうまく行く、よいことばっかりだと言います。こんな有り難いことはないと思って信じてみた、ところが人生には問題が生じるし、病気にもなるし、仕事がうまく行かず、働く事さえママならぬという現実があります。これでは宣伝と違うと文句をいうと、宗教側は「それはあなたの信心が足りないからだ、お布施が足りないからだ」と言い逃れをします。

では聖書は何と言っているでしょうか・・・救主イエス・キリストは、「あなた方は、この世では悩みがある」(ヨハネ16:33)、また「信仰を持つことによって迫害される」(ヨハネ16:1−3)とも言っています。しかし、何があろうとも、キリストは「わたしは、あなた方を捨てて孤児にはしない。またあなたを見放すことも見捨てることもしない」(ヨハネ14:18、へブル13:5)と、私たちに力強く約束されています。

「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」、2−3節にあるようなことが起きたとしても、神に信頼して行く時に、それに耐え、乗り越えて行くことができます。私たちの人生には様々な苦しみがつきまといます。多くの場合、苦しみは理不尽なものに感じられます。苦しみは恐れと先行き不安な気持ちをもたらします。時には死にたいという思いに取り付かれることさえあります。聖書で私たちのよく知っている人々が「死にたい」と言っています。モーセは、人々の身勝手さに疲れ、あきれて、「わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、一思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください」(民数記11:15)と言っています。エリヤは、「主よ、もはや十分です。今わたしの命を取ってください」とイゼベルに脅され弱気になっています(列上19:4)。ヨナは、「それで主よ、どうぞ今わたしの命をとって下さい。わたしにとっては生きるより、死ぬほうがましだからです」(ヨナ4:3)と神様に自分の苛立ちをぶつけています、エレミアは神に背く民族の滅びを告げる責任の重さに、「わたしの生まれた日は呪われよ。何ゆえ、わたしは胎内を出てきて、悩みと悲しみに会い、恥を受けて一生を過ごすのか」(エレミア20:14,18)と呟いています。人間は弱いのです。その気持を彼らは神様にぶつけています。私たちも神様に気持をぶつけるならば、気持が落ち着いて行きます。四人の人たちは気持を神様にぶつけた後に、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」という御言葉のとおりに、主に縋って危機を脱しています。

苦しみに襲われる時、問題に巻き込まれた時、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」という御言葉を心に繰り返し、祈って行くならば主の助けが与えられて行くことを信じます。主の助けは十字架からきます。キリストは33年半の人生を通して、人の苦しみをすべて体験されました。その生涯の最期に、キリストは罪がないのに十字架に上って私たちの罪の身代りになったのですが、十字架の前に血の汗を流して祈り、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」(マタイ26:38)との言葉を発しておられます。キリストは私たちの苦しみ、痛み、問題、病気の事を分って下さり、「わたしはあなた方の苦しみを思うと死ぬほどである。しかし、思うだけではなく、わたしはあなた方を苦しめる原因である罪を除くために十字架に死ぬ」と言われ、命を捧げたのです。ですから、神であるキリストの十字架が私たちの避け所であり、悩める時の一番身近な助けとなるのです。

クリーニングの白洋舎創立者五十嵐健治さんは66歳で神学校に入り、90歳の時に、ロマ書を読んで、「私たちは父なる神と、御子キリストの犠牲的の愛を信じて救われたのです。御前にひれ伏して、感謝讃美を奉るほかないのです」という言葉を残しています。このような信仰を言い表すことができたのは大きな苦しみを通してキリストの助けを体験したからです。会社が10年目を迎えた時に、会社転覆の危機に見舞われた。従業員の中から別の店を開いて白洋舎の客を奪おうとする計画を立てた者がいて、支配人をはじめ多くの者がそれに加わり、洗濯の預かり物も、会社のお金も行方不明になってしまった。地は変り、山が震え動くような中にあって、五十嵐さんは残った数名の者と協力して会社を再建し、反乱者達は自滅した。これは五十嵐さんが、「神はわれらの避け所また力である。悩めるときのいと近き助けである」ということを信じて会社再建の力を与えられ、また背いた者達を恨まずに、謙って神様に頼ったからです。

2、主である神は生きておられ、われらと共にいて下さる 46:4−7

万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。(7節)

私たちの神様は個人的な神様です。「ヤコブの神」と言われていますが、そこにご自分の名前を当てはめて読んで下さい。イエス・キリストは、私たちの名前を個人的に名前を呼んでいます。いちじく桑の木の上にいたザアカイに「ザアカイよ」と親しく呼びかけています(ルカ19:5)。接待で思い煩っていたマルタに「マルタよ、マルタよ」と二度も名前を呼んで、彼女に神の御言葉を聴くことの喜びを教えています(ルカ10:41)。弟アンデレが兄のシモンをキリストの許に導いた時に、「ヨハネの子シモン、あなたをペテロ(岩)と呼ぶことにする」」と親しく語りかけています(ヨハネ1:42)。キリストは私たちひとり一人を大事にして、名前をもって呼んで下さる個人的な救主です。

私たちは名前を呼んで下さるキリストの恵みをどのようにして受けるのでしょうか。

「一つの川がある」と言われていますが、これはエルサレムの東側に泉があり、その泉の水を地下のトンネルを通して市内に引き入れ、敵に囲まれても水を確保するようになっています。それは小さな隠された所を通ってくる流れですが、人々を潤す流れです。キリストは、「わたしを信じる者は、その腹から生ける水である聖霊が川々となって流れ出る」と言われました(ヨハネ7:38−39)。キリストに近づく時に、聖霊のきよい満たしを受けて心が恵まれます。「その流れは神の都を喜ばせる」とありますが、聖霊によってキリストを喜ぶ思いが強くなり、聖霊によって、もっともっと祈りができるようになります。また讃美をしたくなります。

「神は朝早く」と言われていますが、キリストの恵みを、特に朝に求めて行く時に祝福を豊かにいただくことができます。昔、荒野をさすらっていたイスラエルの民に、天からマナが降ってきて人々の食料になりましたが、マナを取り入れるのは朝と決まっていました。日が上ってくるとマナは溶けてしまったからです(出エジプト16章)。キリストは朝に起き出て祈り、祈ってから一日の活動を始めて行きました(マルコ1:35)。私たちも朝に祈りましょう。

ここで申し上げておきますが、私たちの教会の三つの目標があります。

*一つは、伝道は個人伝道を通して、イエス・キリストを個人的に宣べ伝えて行くという事です。

*二つは、教会形成はファミリーという集まりを大切にして、キリストの恵みを分かち合い、祈り合って行くということです。

*三つは、何事でもキリストの御名によって祈る、特に朝の祈りに励んで行くという事です。

「ヤコブの神はわれらの避け所である」と言われているように、主イエス・キリストは私たちと共にいて下さる救主です。ところで、「キリストは、今、どこにおられますか」。キリストは私たちの心の中に住んでおられます。これは信仰の奥義であり、栄光の望みです(コロサイ1:27)。ある人がキリストを信じた。うれしくなって「イエス様」と叫んだ。でも本当に私の声が聞こえているのかなと思って、「明日天気にして下さい」と言ってやすんだ。次の日、燦々とふりそそぐ太陽の光を見て「イエス様は生きている」と知った。豊留師が、「神様なんかいない」と執拗にいう青年に、「そのことを神様に向って言って下さい」と答えた。青年は、天に向って叫んだのですが、それきり黙ってしまった。「神様なんかいない」と叫んだ途端に、なんとも言えない恐ろしい気持になったそうです。主は生きている神です。それぞれの求めに対して答えを下さるのです。私たちは、不信仰の叫びではなく、イエス様の恵みを讃えましょう。信仰による叫びは、喜びを心にもたらします。

3、主である神は生きておられ、静まる者に現れて下さる 46:8−11

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。(10節)

ある高校の教師がクラブ活動の生徒たちを連れて、民宿に泊まったことがあります。そこは山奥で、テレビの電波が届かない。周りには民家がちらほらとあるだけで、コンビニもないという状況でした。生徒達はテレビもない、コンビニもないということで、落ち着きがなく、何をしていいのか分らない状態になったとのことです。今は携帯の時代ですが、携帯が通じない圏外に行ったら、やはり何をしていいのか戸惑うことになると思います。私たちが住んでいる環境は音があふれている、コンビニが24時間営業している、テレビは休みなく番組を放送しているという状況です。私たちは、ひとり静かになって何かをするという習慣ができにくい中に暮しています。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と言われています。「静まる」とは「事をやめる」という事です。あれこれ忙しくしていることをやめる。仕事中毒の状態をストップするということです。私たちは何かをしていないと不安であるという状態に陥っています。そうしたものから解放されて、何かをする、何かを絶えずしている状態をやめなさい、やめて静まりなさいと言われているのです。山奥に泊まった生徒達は静まるという習慣がなかったので、何もしないで静まれといわれても、どうして良いか分らずに落ち着きをなくしてしまったのです。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」、静まる最善の場は礼拝です。礼拝を優先する生活を実践する時に祝福が与えられます。藤尾さんは23歳の時に結核性腹膜炎となり、30歳を越えては生きられないと宣告された。藤尾さんは礼拝に出席すると、一週間お腹が痛くないということに気づいた。そこでキリストの十字架の恵みに感謝し、礼拝出席をどんなことがあっても優先して行く決意をした。医師からは30歳を越えて生きられないと言われたのに、30歳を越えても主によって守られていることに感謝し、何と91歳で天に召されるまで(入院した時以外は)、毎週礼拝出席という生活を貫き通したのです。藤尾さんが礼拝に出席し続けた年数は68年になります。藤尾さんは言っています、「人が考えなければならない大事なことは、キリストが罪の赦しのために十字架にかかって下さったことだ。キリストの十字架のことを考えれば、考えなくてもいいこと、心配事や恨みは考えずに済む。悪口も言わずに済む。悪口を言うたびに、人相が悪くなる。だから礼拝に出る度に、人相がよくなる。余りに忙しくて主を第一とすることができないという人は、余りに忙しくて聖き生涯が送れないと言うのと同じになります」。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」、一日のうちで一回は静かな時間をもつことが大切です。個人的に神様と交わりをする時間をもって下さい。一週の初めの聖日礼拝を優先しましょう。

まとめ

1、1節、主である神は生きておられ、私たちを守り支えて下さいます。

2、7節、主である神は生きておられ、私たちと共にいて下さいます。

3、10節、主である神は生きておられ、静まる者に現れて下さいます。

祈 り  天地の主である神様、御子イエス・キリストの救いに与っていることを感謝します。揺れ動く世の中にあって、神はわれらの避け所であり力であり、悩める時の一番身近な助けであることを信じます。私たちの名前を呼んで、個人的に守り支えて下さる主に感謝をささげます。どんな時でも、静まって、主に頼って行く信仰を与えて下さい。静まる場である礼拝に出席できたことを感謝し、毎週礼拝を優先する生活であるように導いて下さい。今週は全国聖会があります。そこに集う方々を祝福し、私たちも率先して参加し恵みを受けるように導いて下さい。聖会で補教師(伝道師)の認証を受ける荻野倫夫・チャチャ先生を祝福して下さい。きょう、助けを必要とする方に主の勝利を、病気の方に主の癒しを与えて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献詩篇注解―浅野、フランシスコ会、ナイト、LAB、口語旧約略解、文語旧約略解、勝村、米田。「神よ、どうして・井戸垣彰・ことば社」、「隠されたる神・山形謙二・キリスト新聞社」、「御翼・佐藤順」