クリスチャンの原点―主イエスにすがる者は恵まれる ルカ18:35-43     主の2007.5.20礼拝


宗教、特に新興宗教といわれるものは、貧・病・苦の解決を説き、自分たちの教えを信じれば幸福になれる、と人々を勧誘します。では、キリスト教には貧・病・苦に対する解決があるのでしょうか・・・・。答は二つです。一つの答は、「はい」です。貧についてはキリストを信じ、神の国を第一に求めて行けば、衣食住すべてが与えられるという約束があります(マタイ6:33)。病については、「あなたが健やかであるように」(Ⅲヨハネ2節)との祈りがあり、苦については、苦しみは暫くの間で、物事すべては益に変る(ロマ8:28)と言われています。もう一つの答は、「いいえ」です。なぜなら、聖書の教えは貧・病・苦からの解決を直接の目的としていないからです。聖書は、先ずキリストの前にひざまずき、罪を悔改めて、神の子になりなさい、と言います。キリストを信じるならば、私たちに聖霊によって祈る力が与えられ、貧・病・苦に打ち勝ち、それを乗り越えて行く恵みが与えられ、祝福の人生を歩む力が与えられます。

本日はルカ18:35-43です。ある盲人が、キリストの恵みによって、目が見えるようになった奇蹟が記されています。この盲人の名前はバルテマイです(マルコ11:46-52)。彼はキリストの恵みを求めて叫び続け、その思いがキリストに届き、目が見えるようになるという奇蹟を体験し、「神を崇めながらイエスに従って行った」ので、「人々は神を讃美して」います。これは、彼が貧(物乞いであった)・病(目が見えなかった)・苦(先行き不安の日々)から解放された、と同時に最も大切なキリストによる心の救いを受け、新しい人生を歩み始めたことを意味しています。

「イエスキリストはきのうも、きょうも、永遠に変わらない救主」(ヘブル13:8)です。今朝、心の向きをキリストに向け直し(悔改め、心の方向転換)、聖霊の導きを求めて神様に祈って下さい。キリストは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」という祝福の御言葉をもって、最善のことをして下さいます。先ず心の耳を大きく開いて、キリストの恵みのメッセージをしっかりと聴き、祈って、新しい一週間の旅路を出発いたしましょう。



内容区分

1、キリストは、すがり求める者の声に耳を傾けて下さる 18:35-40前半

2、キリストは、すがり求める者の人生を新しくして下さる 18:40後半-43

資料問題

この記事はマタイ20:29-42(マタイでは盲人が二人となっている)、マルコ10:46-52にも出ている。マルコ福音書によれば、盲人の名前はテマイの子バルテマイである。39節「ダビデの子イエスよ」、メシアの称号である。盲人はナザレのイエスに関して知っており、またイエスがメシアとして来られたことをも信じていたようである。40節「イエスは立ちどまって」、イエスは盲人の真摯な叫び声に応え、彼を自分の許に呼び寄せた。キリストは助けを求める者の声を聴き逃さない愛の耳の持ち主である。42節「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」、『自分は何もできない価値のない者であるが、この私をイエス様が助け、救って下さる』という信仰をもって、イエスキリストの御許に行く時に恵みが与えられる。また神の力はキリストをとおして、キリストを信じる者達に送られて来るので、キリストの御許に行くことが信仰の恵みを受ける秘訣である。43節「神をあがめながらイエスに従って行った」、バルテマイは、キリストによって目が開かれて見えるようになったことを感謝し、感謝の気持をもってキリストの弟子になり、従って行ったのである。



1、キリストは、すがり求める者の声に耳を傾けて下さる 18:35-40前半

ある盲人が道端にすわって、物乞いをしていた。ところが、ナザレのイエスがお通りなのだ、と聞かされたので、声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った・・・イエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。(35、37-38、40節)

私たちが聖書の話を聴く時に、その人物に自分を当てはめて考えてみることが絶対に必要なことです。盲人で物乞いのバルテマイのことを自分に当てはめて考えて見ると、一つは、バルテマイは目が見えず、しかも明日のことが分らないという先行き不安な日々を送っています。明日という先のことが分らないという点では、私たちも心の盲人であると言えます。二つには、バルテマイは物乞いですから人から何かを得ることしかしていません。私たちも与えるよりことよりも、いつも何かを人から得ようとしている物乞いのような者です。三つにはバルテマイはイエス様の御許に行き、祝福を受けています。私たちもイエス様の御許に行き、救いを受け、神の子になっていることを感謝します。さらに35-40節の場面から幾つかのことを教えられて行きましょう。

第一に、バルテマイから、救いの機会を逃さなかった、ということを教えられます。

バルテマイはイエス様のことを耳にしていた事と思います。イエス様について、どんなことを耳にしていたのでしょうか。イエス様が伝道を始めたのは年およそ30歳の時で、それから3年半にわたり日本の四国ぐらいの広さがあるユダヤの国を巡回しながら、神の国の福音を宣べ伝えて行きました。イエス様の伝道の働きは瞬く間にユダヤ全土に伝わって行きましたが、その働きの内容は、「盲人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病人は清まり、耳の聞こえない人は聞こえ、死人は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている」という目覚ましいものでした(マタイ11:4-5)。この素晴しい働きをなさっているイエス様が目の前に近づきつつあると知ったバルテマイは、「ダビデの子イエスよ。わたしをあわれんで下さい」と叫び求めています。「ダビデの子イエスよ」というのは世界の救主イエスキリストのことを指す表現です。聖書は、「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(Ⅱコリ6:2)と告げています。イエス様は、「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしの許に来なさい。あなた方を休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招いておられます。イエス様の御言葉は真実です。今朝イエス様の御許に行き、背負っている重荷をおろし、纏(まと)わりつく罪を取り去ってもらい、心に休みを与えられて、今週も喜びの日々を前進するように祈って下さい。

第二に、バルテマイから、信仰の妨害に屈しなかったということを教えられます。

彼が叫び求めた時、人々は彼の境遇、身なりから判断して、彼が救われたからといっても自分達の勢力にはならない、かえってお荷物になるだけであると判断してバルテマイを叱り、退けようとしています。私たちにも同じような心があります。しかし、キリストは見失った一匹の羊の救いのために、あらゆる努力をされるお方です。私はイエス様のことを思いながら、教会は魂の病院であることを忘れないで行こうと強く意識しています。昨年9月目眩(めまい)のために救急車で三泊四日の入院をしました。救急車に運び込まれた時に、救急隊員が「このような症状ですが、そちらで受け入れてもらえますか」と問い合わせ、医師がいるかどうか、ベッドが空いているかどうかなどを確認してから病院へ向って行きました。教会は魂の病院ですが、ふつの病院ではなく野戦病院ですから患者を選ぶことはできません。目の前で苦しみ、傷を受け、治療を必要とする全ての人を受け入れ、イエス様の救いを伝えなければならない、それがキリストを喜び、キリストを伝える教会の使命です。バルテマイはキリストを激しく求め続け、救いの恵みを受けています。キリストは、「求めよ、そうすれば与えられる。捜せ、そうすれば見いだす。門を叩け、そうすれば、開けてもらえる」(マタイ7:7)と言われました。今朝あなたの求めるところを率直に祈って行きましょう。主イエスキリストが答を下さいます。

第三に、キリストは、バルテマイの声をちゃんと受け止めています。

キリストは十字架に向って行く大変に忙しい身でありながら、わざわざ立ちどまり、バルテマイを連れて来るように命じておられます。キリストは求める者に、個人的に耳を傾けて下さる愛の耳の持ち主です。私たちが主イエスキリストの御名によって祈った祈りは、主の御許に届いて行きます。バルテマイのような形で聴かれる場合もあります。時には長くかかる場合もありますが、しかし全ての祈りは主に届いています。イギリスの祈りの人と呼ばれたジョージ・ミューラー(1805-98)は、「自分の何百何千という祈りは答えられた。しかし23年間祈り続けている二人の人の救いに関する祈りは答えられていません」と言ったことがありますが、しかし祈りをやめることなく、主に叫び続けて行きました。祈りは主に届いていて、一人は彼の死の直前に救われ、あとの一人は彼が天に召されてから一年ほど経てから救われています。私たちの祈りはムダにならず、必ず良き結果を与えられます。

2、キリストは、すがり求める者の人生を新しくして下さる 18:40後半-43節

そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。(42-43節)

バルテマイが主の前に立ったとき、キリストは、「わたしに何をしてほしいのか」と問いかけています。キリストは私たちひとり一人に関心をもち、ご自分のほうに相手を引き寄せ、求めることを言ってごらん、とやさしく尋ねて下さいます。自分にとって何が必要であるかを、素直に、正直に神様に申し上げる信仰が必要です。キリストは、バルテマイの願いを聴くと、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」という祝福の御言葉をかけ、彼の目は見えるようになっています。「あなたの信仰があなたを救った」という御言葉から恵みを教えていただきましょう。

第一に、「あなたの信仰があなたを救った」というのは、バルテマイの信仰が立派で、強くて、熱心であった、だから祈りが聴かれたという意味ではないということです。

もし私たちが立派で、強い信仰をもっていれば、その祈りは聴かれる、とするならば、自分の信仰が弱いことを知っている者として、私たちは祈ることにためらいを感じてしまいます。あるいは祈れなくなってしまいます。では、「あなたの信仰があなたを救った」というのは、どんな意味でしょうか。これは、「自分の信仰は薄い、祈る言葉もなかなか出てこない、こんな私ですが、イエス様、私を何とか助けて下さい」という、ただひたすらイエスキリストにすがって行く心を表しています。私たちが一生懸命キリストにすがって行くならば、祈りは届いて行くということを示しています。キリストの弟子達のことを考えて見ましょう。ガリラヤ湖で、山の上から突然に激しい風が吹きおろして来て大波が起こり、小さな船が沈みそうになった時、弟子達は右往左往して、「先生、先生、死にそうです」と言ってキリストにすがりついています。キリストは直ちに風と荒波とを沈め、「あなた方の信仰はどこにあるのか」と言っています(8:23-26)。12年間長血を患っていた女性が、「イエス様の着物の端っこにでも触れば、この病気は治る」という一途な思いをもって、キリストにすがった時に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。すっかり治って達者でいなさい」という霊の救い、心の安定、体の癒しという恵みを受けています。彼女は、「自分は何もできず、病気を抱えたまま12年間を過ごしている。医者は私の病気を治すことができないままである。この何もできない私を憐れんで下さい」とキリストにすがって行き、キリストの着物の端に触れた時に癒されたのです(8:43-48、マルコ5:25-34)。信仰の中心点はキリストにすがることです。神の聖霊は、キリストにすがるという正しい信仰に私たちを導いて下さいます。

第二に、「あなたの信仰があなたを救った」ということは、キリストの愛を現しています。

キリストは外見で人を見ることをしません。罪をもっている人をも受け入れ、その人の罪を赦し、再出発を与えて下さる救主です。キリストは回り道をして、サマリヤの町に行き、五度の結婚の後に、今は男性と暮している女性に声をかけ、彼女が罪から離れ、新しい人生を歩むように導いておられます(ヨハネ4:1-30)。この個所の次、ルカ19章で、エリコの町で「彼は罪人だ」と人から蔑まれ、後ろ指を指されていた取税人ザアカイの家に、わざわざキリストは泊まり、彼を生まれ変わらせ、「ザアカイも我々と同じ神を信じる仲間である」と言われました。私たちはキリストの愛を受けるために生まれて来た者ですが、キリストに出会うまでは、罪によって心の目が閉ざされていた者でした。しかし、聖霊によって罪を示され、キリストが十字架にかかって罪の身代りになって下さったことを信じるように導かれ、「あなたの信仰があなたを救った」という御言葉をいただいて、生まれ変わっていることを感謝します。キリストの十字架の愛から洩れるものは一人もいません。私たちの夫が、妻が、子どもが、友達が、「あなたの信仰があなたを救った」というキリストの祝福をいただいて生まれ変わって行くように祈りを絶やさないで、祈り続けて下さい。

第三に、「あなたの信仰があなたを救った」という恵みを受けて、バルテマイは神をあがめながらイエスに従っています。ここに信仰の真髄が教えられています。

イエスキリストを信じた者は、イエスキリストを自分の救主とし、また自分の人生の主として生きるようになります。キリストを信じただけでは足りません。を一生涯の間、教会につながり、キリストを自分の人生の主として行くのがクリスチャンです。神と人の前に信仰を公にして洗礼を受けます。聖書を読み、祈りをし、集会に励み、献金をささげ、奉仕と伝道をして行きます。ですからキリストを信じると、生活が変り、周りの人々が「あの人はクリスチャンになって生きている」と言って、神様をさんびするようになります。

初見牧師は、今年100歳で現役の牧師です。1907年(明治40年)茨城県に生まれ、15歳の時に商人になりたいと思って水戸市の呉服店の住込み店員になった。朝早くから夜遅くまで働く日々でした。呉服店から200メートル離れた一軒の家で田中牧師が伝道を始めました。初見さんは道端で伝道する田中牧師に導かれて、教会の集会に行き、メッセージを聴くようになりました。16歳の12月、罪を示され悔改めましたが、特に二つの罪を示されました。一つは親不孝の罪でした。家にいる頃、親の言うことをきかず、それが親の心を傷つけていたことを悔改めました。もう一つは盗みの罪でした。お店の商品をお金に換えて、おやつ代にしていて、全部で35円ほどになっていました(今のお金で10万円ぐらい)。初見さんはお店に帰って主人にそのことをお詫びしようと決めて教会を出たのですが、店に近づくにつれて、心が乱れ、勇気を失ってしまうのです。その時、「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている」(黙示録3:20)との主の御言葉をいただき、「だんな様。聞いていただきたいことがあります」と主人に申しました。主人は彼を奥の座敷に連れて行って座らせました。初見さんは自分のありのままを正直に話し、お詫びをし、毎月の給料の中からお返ししたいと言うと、主人は「よく分りました。これからのことはお前の言うとおりにしてあげます」といって赦して下さいました。この時が彼の生涯忘れられない救いの日となりました。翌年17歳の3月に8人の仲間と共に洗礼を受けました。その後初見さんの伝道を通して呉服店の店員15名ほどが教会に行くことになり、うち10名が洗礼を受け、一人は牧師になりました。ひとりの友は一族皆がクリスチャンになり、牧師になっている人もいます。その頃の店員の生活は朝から夜の10時まで働き、休みは年に数回でした。しかし毎月3日間だけ夜の7時で閉店になるので、その時は教会に飛んで行きました。休みがなく聖日礼拝ができないので、早天祈祷会に励むようになりました。また与えられた給料の中から一生懸命に献金をして恵まれました。そして24歳の時に「汝はわれに従え」という主の御言葉によって伝道者の召しを受け、お店を円満に退職して、神学校に入学しました。卒業後、北海道、茨城、秋田、樺太で伝道をし、100歳になった現在、札幌で牧師として奉仕を続けています。



まとめ

1、35節、37-38節、40節。盲人バルテマイは必死に「ダビデの子イエスよ。わたしをあわれんで下さい」と叫び求めました。キリストはすがり求める者の声を聴いて下さいます。キリストにすがりましょう。あなたの求めはキリストによって最善の答が与えられます。

2、42-43節。「あなたの信仰があなたを救った」、キリストはすがり求める者の人生を新しくして下さいます。神をあがめキリストに従って行く日々を歩みましょう。私たちがクリスチャンとして生きることによって、神が崇められ、さんびされて行くように、私たちを用いて下さいと祈りましょう。



*聖歌総合版562番(旧540番)「主よわがそばをば」をうたい、祈ります。



祈 り 天地の主である神様、独り子であるイエスキリストの救いを受けていることを感謝し、どんなことでも先ずイエス様に祈りって行くように導いて下さい。今週も神を崇めキリストに従う日々を前進させて下さい。水曜日祈祷会、火―土曜日早天祈祷会に導いて下さい。土曜日上野公園ホームレス伝道を祝福して下さい。キリストを喜び、キリストを伝える教会として前進し、会堂について主の導きがあるように祈ります。私たちの求める声に耳を傾けて下さるイエスキリストのお名前によってお祈りいたします、アーメン。



参考文献ルカ注解―榊原、フランシスコ会、バークレー、文語略解、黒崎、LANB、口語略解。「聖書各巻講解・佐藤陽二著・アンカークロス社」、「キリスト教例話事典・藤井康男編著・教会新報社」、「キリスト新聞・5月19日号・キリスト新聞社」