クリスチャンの原点―聖霊に導かれ主イエスについて行く ヨハネ福音書1:35−42 主の2007.5.27礼拝



1998年第一回イギリス伝道に行き、馬場家に滞在し、日本人の集会を訪れて主の福音を伝えました。伝道の合間を縫って、愛雄が留学していたイギリス北部にあるケーパンレー神学校を訪れました。前日にロンドンのペンクラブ(Penn Club)という民宿のような所に泊まり、翌朝最寄りの駅まで歩き、列車に乗り3時間ほどでイギリス北部ランカスター駅着。乗り換えてコンフォース駅に行き、目指す神学校へ4時ごろ到着したことを思い出します。ロンドンで切符に出ている列車名を確かめて乗ったのですが、アナウンスは早口の英語で何を言っているのか聞き取れないという状況でした。幸いなことに、途中から乗って来たイギリス人のおばちゃんが気さくな人で、クリスチャンであり、日本へ何回も行ったことがあると話してくれました。時々車内放送があると、「今こんな案内でしたよ」と分りやすく言ってくれるので大いに助かりました。コンフォース駅には愛雄が出迎えてくれました。その時に思ったことは、見知らぬ土地を旅する時には適切な案内人がいると助かるし、安心だといういうことです。列車の中ではイギリス人のおばちゃんに助けられました。ケーパンレー神学校は大きなお城を校舎にしていて、イギリスの田舎にあるのですが、愛雄という案内人によって迷いなく到着できました。

本日はヨハネ1:35−42です。アンデレとその仲間は、イエスキリストの「来てごらんなさい。そうしたらわかるだろう」との呼びかけに応じてついて行き、イエスキリストを救主として信じる信仰を与えられています。現代の大きな問題は、多くの人々が自分の生きる目的がわからない、と嘆いていることです。人生の目的を知らないまま、一日に80人もの方々が自ら命を絶っています。イエスキリストは、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14:6)お方です。このキリストが、「来てごらんなさい。そうしたらわかるだろう」と全ての人を招いておられます。イエスキリストこそが、私たちの人生を新しくし、永遠の天国に導いて下さるまことの案内人であり、救主です(41節)。

今朝、心の耳をキリストに向け、聖書のメッセージを聴き、新しい決断をもって主に祈り、一週間の旅路を出発いたしましょう。



内容区分

1,キリストは、私たちに目を留め、「来てごらんなさい。そうしたらわかるだろう」と招いておられる 1:35−39

2,キリストは、私たちに聖霊をおくり、私たちの人生を新しくされる 1:40−42

資料問題

36節「神の子羊」、イザャ53:6−7にある「苦しむしもべ」と解する(使徒8:32)。キリストはご自身を犠牲として献げ、人類の罪を贖われたので(Tペテロ1:19)神の子羊と呼ばれるのである。また、この呼び名は「メシヤ」を指すものである。39節「きてごらんなさい、そうしたらわかるだろう(来たれ、さらば見ん)」、磁石が鉄片を引きつけるように、キリストには人を引きつける強力な力がある。神の子であるロゴスが肉体となり、イエスキリストとして地上を歩まれたことは聖書の中心であり、その権威ある御言葉に人々は引きつけられ、救いの恵みに与っている。41節「メシヤ」、ヘブル語であり、そのギリシャ語訳がキリストである。本来の意味は油注がれた者であるが、今では世界を救う救世主(メシヤ)であるイエスキリストを指し示す言葉である。



1,キリストは、私たちに目を留め、「来てごらんなさい」と招いておられる 1:35−39

イエスは振り向き、彼らがついて来るのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば先生)、どこにお泊まりなのですか」。イエスは彼らに言われた、「来てごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。彼らはついて行ってイエスの泊まっておられる所をみた。そして、その日はイエスの所に泊まった。時は午後四時ごろであった。(38−39節)

35節のヨハネとは、バプテスマのヨハネです。彼は旧約時代最期の預言者で、キリストより6カ月早く生まれ、キリストの到来を知らせる使命を担った人です。ヨハネは、「救主としてイエスキリストが来られる。あなた方は自分の罪の身代りに子羊を殺して献げている。キリストは神の子であるが、私たちの罪の身代りになって十字架で死んで下さる。キリストはきよい神の子であるので、完全な犠牲となられるので、十字架によって人の罪は完全に赦される。キリストは罪を取り除く神の子羊なのである(29節)。見よ、神の子羊であるキリストが、私たちの前に現れた」とキリストを指し示しています。それを聞いたヨハネの二人の弟子はキリストについて行き、「来てごらんなさい。そうしたらわかるだろう」という招きに応じて、キリストの所に泊まり、救いの恵みを受けています。

この個所から教えられることは、キリストは私たちに目を留め、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」と招いておられる。キリストの御許に行けば救いがあるということです。  ふたりの人は神の子羊イエスキリストの到来を、バプテスマのヨハネから知らされました。ふたりは、イエスキリストが本当に救主なのであろうかと半信半疑で後からついて行くと、キリストは振り返り、彼らを見たのです。「見た」とは、「熟視する」という意味で、見て全てを理解するということです。キリストは、ナインの町に行かれた時、一人息子を亡くして嘆き悲しんでいる寡婦(やもめ)を見て深い同情を寄せられ、まず「泣かないでいなさい」と呼びかけ、それから一人息子を生き返らせて、寡婦に渡しています(ルカ7:11−17)。キリストは私たちの全てを愛の目をもってご覧になり、私たちを理解しています。

キリストは二人に、「来てごらんなさい。そうしたわかるだろう」と呼びかけています。直接には「先生、どこに泊まっているのか」という質問に対し、「わたしがどこに泊まっているのを知りたいならば、来てごらん、わかりますよ」という事です。と同時に、「わたしの許に来るならば、あなたがたの人生を新しくしてあげよう」という霊的な意味を含んだ御言葉です。ふたりは招きの声に応じてキリストの御許に行き、まことの信仰を得ることができたのです。聖書は、「きょう、御声を聞いたなら、神に背いた時のように、あなた方の心を、頑(かたく)なにしてはいけない」(ヘブル3:15)と告げています。心を素直にしてキリストの御許に行き、「私を救い、助けて下さい」とキリストにすがって行く時に恵みを受けます。

加賀乙彦という作家が証しています。・・・・・小説の隠れた主題として、キリスト教信仰を描いていたが、洗礼を受けていなかった。ある時に北森嘉蔵氏が講演会で、「日本人は山ばっかり眺めていて、ちっとも登り始めんのです。しかし信仰は登り始めること、つまり行為なんです」という言葉にはっとした。また遠藤周作氏から、「きみはキリスト教を無免許運転しているね」と言われた。聖書を読みながら、煮え切らない気持で、おそるおそるしか進めない自分の気持をうまくいい当てられたと思った。そこで洗礼を受ける決意をして、奥さんと洗礼の学びをして、洗礼を受けることが決まった。その瞬間から何かが変った。今まで聖書の登場人物の一人であったイエスキリストが福音の喜びをもたらしてくれる存在として身近に迫ってきた。イエスキリストは十全な愛に充ち、尽きせぬ歓喜を私に与えてくれた。十字架が愛の表現であり復活がその愛の証であることがひしひしと伝わってきたのだ・・・福音書がこんなに楽しい文章だとは、いままでついぞ知らなかった。おそらく、わずか一歩なのである。イエスキリストが、「われに従え」とか「なんじの信仰、なんじを救えり」と簡単に言うとき、このわずかな一歩を踏み出すことによって、大きな喜びがあたえられることを教えていたのだ。わずかな一歩は無限に大きな一歩でもあった・・・洗礼を受けるとは深い信仰に達して悟りすますことではない。ただ山のふもとにたどりつき、登り始めたに過ぎない。道は曲がりくねって、時に困難であろう。しかし山を眺めているのみで、いつまでも頂上に到達できなかった以前の私と違って、たとえわずかでも私は上へと上へと登ることができるのだ・。・・・・・

「来てごらんなさい。そうしたらわかるだろう」・・・キリストは私たちに目を留め、「わたしはあなたの全てを知っている、わたしがあなたの重荷を背負い、病気を癒し、トラブル解決の道を示し、こじれている人間関係に愛をもたらす。わたしに頼って、わたしにすがりなさい」と言われます。主イエスキリストを眺めるだけではなく、イエスキリストにすがって祈りましょう。祈りが届いて祝福を得ます。



2、キリストは、聖霊をおくり、私たちの人生を新しくされる 1:40−42

彼(アンデレ)はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せばキリスト)にいま出会った」。そしてシモンをイエスのもとに連れて来た。(41−42節)

キリストに出会ったふたりは、イエスキリストを救主として信じる信仰を与えられています。彼らは直接キリストに出会ったことによって救いを受けました。ここにいる私たちは、キリストに直接お会いしていませんが、信仰の結果である魂の救いを与えられて、輝きに充ちた喜びに溢れています(Tペテロ1:8−9)。何故わたしたちは信じることができたのでしょうか。それは聖霊の働きによります。

ところで、本日は教会暦で聖霊降臨日(ペンテコステ・教会誕生祭)です。クリスマスがキリストの誕生日、イースターがキリストの復活日、聖霊降臨日(ペンテコステ)は教会の誕生日です。聖霊は世界創造の初めから登場しています。創世記1:1−3に神、神の霊、言われた(言葉)と言われています。世界創造のはじまりに神の霊である聖霊のことが記されています。先ほど荻野伝道師がヨエル書を朗読しました。「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ」(ヨエル2:28)という預言がありましたが、キリスト昇天後エルサレムの二階座敷で祈っていた120名の弟子達に聖霊が注がれ、ペテロがキリストの救いを宣べ伝え、3000人の人々が罪を悔改め、キリストを信じて洗礼を受け、教会が誕生したのです。



聖霊の働きについて聖書の教えを述べてみます。



1、聖霊は、キリストを信じる信仰を与えてくれます。

「そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(Tコリント12:3)。

2、聖霊は、祈りを与えてくれます。

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、その霊によって『アバ、父よ』と呼ぶのである」(ロマ8:15)

3、聖霊は、霊の賜物を与えてくれます。

「知恵の言葉、知識の言葉、信仰、いやしの賜物、力あるわざ、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解く力」(Tコリント12:8−10)。「預言、奉仕、教えること、勧めをする、寄付する、指導する、慈善」(ロマ12:6−8)

4、聖霊は、御霊の実を与えてくれます。

「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」(ガラテヤ5:22−23)

5、聖霊は、伝道の力を与えてくれます。

「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)



キリストは十字架、復活の後に天に帰られ、再びこの地上に戻って来るという再臨の約束をされました。ご自分が地上にいない間、キリストはご自分の代わりに聖霊を送ると言われ、聖霊はペンテコステの日に与えられ、教会がはじまり、教会は聖霊によって導かれています。聖霊のことを幾つか述べましたが、もう一つの御言葉を紹介します。

「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主(聖霊)は来ないであろう。もし行けば、それ(聖霊)をあなたがたに遣わそう。それ(聖霊)が来たら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネ16:7-8)

昨日、上野公園ホームレス伝道に行ってきました。大勢の路上生活者を見ると心が痛みます。何とかして彼らが罪を悔改めてキリストを信じ、再出発してもらいたいと願って、御言葉を伝え、また給食活動を行いました。私は「聖霊よ、来たりて、罪と義とさばきとについて、かれらの目を開きたまえ」と祈りながら、キリストの救いの御言葉を宣べ伝えました。聖霊が働いて下さらなければ、罪の圧迫から自由になり、再生することは不可能だからです。

メキシコの首都メキシコシティーは周辺を五千メートル級の山々に囲まれていて、メキシコシティーは標高2300メートルにあります。メキシコシティーの周辺は地形が複雑で、湖や沼がたくさんあります。そこに以前から分類不明の十センチから十五センチくらいのイモリに似た生き物がいました。現地の人はそれを「アホロートル」と呼んでいます。ある時、そこを訪れた学者がそれを国に持って帰り、パリの植物園の池に放ったところ、しばらくするとその生き物はなんとメキシコサンショウウオになりました。標高2300メートルという気圧の低い所では、サンショウウオは一生幼生の姿のままで終わっていたのでしょう。このアホロトーは餌ではなく、おそらく気圧の関係で成長が止まっていたと思われます。

このことは人間にとっても、決して無縁の話ではありません。私たちはこの世に生まれ、人間として成長し、今まで普通に生活してきました。しかし、私たちの世界で人間と思われているこの姿も、もしかしたらメキシコのアホロートルのように本来の姿になりきっていなくて、何も知らない未成熟の姿で一生を終わってしまうのかもしれません。もしそうであるとしたら、これほど惨めなことはありません。キリストは言われました、「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。生まれ変わりの力は、聖霊によって与えられます。聖霊によって「イエスは主である」と告白して新しく生まれることが出来るのです。聖霊によって罪の圧力を退け、罪から解放されて行きキリストに従って行きます。さらに罪を赦された者は心に喜びを与えられ、その喜びを人に分けたくなります。アンデレはキリストを信じ、その喜びをもって自分の兄弟シモンをキリストの所に導いています。それを見たキリストは、「シモンよ。あなたをペテロすなわち岩と呼ぶことにする」と言われ、彼を弟子にして、新しい人生へと導いています。



まとめ

1、38−39節、キリストは、私たちに目を留め、「来てごらんなさい」と招いておられます。

今朝、私たちはキリストを眺めるのではなく、「来てごらんなさい。そうしたらわかるだろう」と招いておられるキリストの御許へ行き、十字架で罪を赦され復活で永遠の命を与えられていることを信じて、喜んでいますか・・・。キリストを信じて喜びを共にしていることを感謝します。

2、41−42節、キリストは、聖霊を送り私たちの人生を新しくしてくださいます。

今朝、私たちは、気圧に負けて未成熟であったアホロートルのようではなく、聖霊によって罪の力から解放されて、自由でしょうか・・・。キリストにあって、聖霊によって自由であることを感謝します



祈 り

天地の主である神様、独り子イエスキリストの救いに与っていることを感謝します。キリストの救いを分らせるために聖霊がおくられ、聖霊によってキリストを信じる信仰を与えていただき、聖霊によって祈りを与えられ、信仰の道を歩ませていただいていることを感謝します。聖霊がペンテコステの日におくられ、3千名の人々が救われ、教会がはじまったことを感謝します。病んでいる人に聖霊をよって平安が与えられ、癒されて行くことを信じます。礼拝の前の教会学校を守っていただき感謝します。午後の聖歌隊、キャンプ準備委員会、夜の聖日夕拝を導き、祝福してくださるようにお願いをいたします。神の子羊である救主イエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献ヨハネ注解―佐藤順、榊原、ライル、文語略解、フランシスコ会、バークレー、黒崎、LABN。 

「名著を入口に聖書に聞く・佐藤博・ことば社」、「読売新聞1988年2月15日(月)号」