クリスチャンの原点―教会は喜び集う者の群れである ヨハネ15:4−5 主の2007.6.3礼拝
聞いた話ですが、外国人が日本の教会に来て、「きょうはお葬式ですか」と訊いたそうです。みんなが黒っぽい服を着て暗い顔をして礼拝をしているから、と言うのです。その話を聞いて神学校時代を思い出しました。毎週金曜日の夜、50名ほどの神学生主催で伝道の集まりがあり、男性はスーツ、女性は黒っぽい地味な服でしたが、しかし心は恵まれていました。神学生最上級生が説教をする、各学年の者が証をする、その頃は聖歌が中心でしたが、力いっぱい讃美をし、キリストを喜ぶ雰囲気に満ちていました。今朝のこの礼拝が、讃美が沈んでいる、集っている者が暗い顔をして何となくうなだれているとしたら、葬式と思われてしまうかもしれません。本日は松葉泉ちゃんにイエス様の祝福を祈る献児式があり、松葉家・長谷川家のご家族が出席されています。また礼拝後、日本に聖書を普及させるために大きな働きをしている日本聖書協会の方々によって、聖書協会について紹介してもらう時間があります。それらの方々が、「熊谷の皆さんが生き生きと輝いている」という思いをもっていただければ幸いです。
本日の聖書はヨハネ15:4−5で、メッセージのタイトルは「教会は喜び集う者の群れである」というものです。私たちは主イエスが甦ったことを喜びながら礼拝を捧げています。しかし問題や病気のために喜べない状況の中にある方々など、様々な立場の者が集まっています。それに対し、主イエスキリストは言われます、「全て重荷を負うて苦労している者は、わたしの許に来なさい。あなた方を休ませてあげよう」(マタイ11:28)。キリストの御許に行きましょう。喜んでいる人は、「喜んでいる者があるか。その人はさんびするがよい」(ヤコブ5:13)と言われているように、主を讃美する思いに満たされます。苦しんでいる人には、「悩みの日にわたしを呼べ。わたしはあなたを助け、あなたはわたしを崇めるであろう」(詩篇50:15)という問題突破の力が与えられます。病気の人には、「わたしは主であって、あなたを癒す者である」(出15:26)という主からの癒しが与えられます。罪の問題に苦しんでいる者には「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表してこれを離れる者は、あわれみをうける」(箴言28:13)という御言葉に従い、罪を悔改めてキリストの十字架を仰げば、罪の赦し、罪からの解放が与えられます。そして本日の御言葉を通して、主イエスキリストは、「わたしとつながっておれば実を豊かに結ぶようになる」と約束されています。キリストにつながるとは、キリストの教会につながることです。イエスキリストの御言葉に耳を傾け、祈って新しい一週間の日々を前進して行きましょう。
内容区分
1、喜び集う者の群れである教会にいることが祝福である 15:4、5「わたしにつながっていなさい」
2、喜び集う者の群れである教会で礼拝を捧げる祝福を与えられている 15:4、5「わたしとつながっていなければ・・・」
3、喜び集う者の群れである教会で実を豊かに結ぶ祝福を与えられている 15:5「実を豊かに結ぶようになる」
資料問題
4節「いなさい」、4−10節に12回(原語では9回)ある。メノーは「止まる」ことで永続的状態を意味する。口語訳では「つながっている」「とどまっている」「いる(おる)」と訳している。5節「ブドウの木」、キリストのことである、1節を見よ。「わたしから離れては・・・」、枝は幹につながっていることによって養分を受け、実を結んで行く。キリストにつながることによって霊的養いを受け、祝福される。キリストにつながるとはキリストの体と言われる教会につながることである。ブドウの木につながるとは永続的につながることを意味している。」
1、喜び集う者の群れである教会にいることが祝福である 15:4、5
「わたしにつながっていなさい。もし、人がわたしにつながっており・・・」(4節、5節)
日本に教会は8000ほどありますが、総人口1億2000万人の人々にキリストの福音を充たすためには、もっともっと教会が必要です。皆さんに祈ってもらいたい事は、伝道が活発になりクリスチャンが増え、教会が各地に設立されて行くこと、各教会の集まりが生き生きと元気であることによって、周りの人々に対してよい影響を及ぼし、それが伝道につながって行き、多くの方々が救われて行くという良い循環が日常的になって行くという事です。教会の集まりが活発であるために、皆さんの祈りがあり、種々の奉仕があることを感謝します。例えば昨日は会堂清掃があり、花が活けられています。この礼拝前に子どもたちのために教会学校があり、教会学校の教師として一年中朝早くから奉仕する方々がいる、外では駐車場案内係りがいる、その他に様々な役割を担って奉仕がなされ、祈りがあることによって、教会の働きが守られ、恵まれていることを感謝します。
ところで、話が少し変わりますが、現代社会の一つの基準は、「できる、できない」、「成功、失敗」、「百点、ゼロ点」、「早い、遅い」等というものです。その影響を受けて、「それも出来ないの、しょうがないわね」、「そんなにノロノロしていると世の中に遅れるよ」と言うのが多くの人の口癖になっています。こうした考えが人生観に反映し、「できない、失敗、ゼロ、遅い」の部類に入る者は駄目だという基準のみで人を見るようになります。それに対し、主イエスは「空の鳥を見るがよい」、「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい」(マタイ6:26,28)と言われます。「できる」ということも大事ですが、しかし鳥は「蒔くことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない」のに空を飛んでいる。野の花は「働きもせず、紡ぎもしない」のに美しく咲いている。神様は、「鳥よ、お前は空が飛べる、だから養ってあげよう」、「野の花よ、お前は美しい、だから花を咲かせてあげよう」とは言っていません。「できる、できない」ではなく、神様は愛をもって鳥を養い、野の花を咲かせています。礼拝に赤ちゃんが加わっていますが、なぜ赤ちゃんは例外なしにみんな可愛いいのでしょうか・・・。それは赤ちゃんが無力だからです。一人でお乳を飲むことも、食べることもできない、ここからあそこへ移ることもできない、言葉を知らずただ泣いて自分の気持を伝えるだけです。そこで神様は、全ての人の注意を惹き付けて赤ちゃんを守らせるために、どの赤ちゃんも可愛いくして下さっているのです。赤ちゃんがいるだけで、皆の関心がそこに向けられ、気持が優しくなります。赤ちゃんが、そこにいることが大切であり、そこにいることが周りの祝福になっているということを教えられます。
教会はキリストの体と言われています(コリント第一12:12−27を見よ)。体の器官はそれぞれに役割を担い、全てが必要です。コリント第一12:22−27を開いて読んで下さい。聖霊によって「イエスは主である」(Tコリ12:3)と告白した者が、キリストの救いの恵みに感謝して喜び集う所が教会です。ですから教会の集まりにいることが大事であり、恵みであり、祝福なのです。互いに思いやり、相手を大事にすることによって、私たちは神によって愛されるために生まれ、救われ、教会にいることが祝福であるということを実感します。教会にいることが恵みです。
私が高校生で教会に行き始めた頃、壮年のメンバーが仕事を理由にして、教会に来なくなってしまった。20年後に、その方が病気で入院・手術するという事を聞いて東京の大学病院にお祈りに行きました。手術は成功し、感謝でした。手術の成功以上にうれしかったことは、その方が退院後に教会に戻り、晩年の10数年間、忠実に礼拝生活を続け天に召されて行ったことです。その方が老いた身で電車を乗り継ぎ、教会に行き、礼拝に出席している、その方がそこにいる、それが教会の方々の大きな励ましになって、礼拝に行く喜びをみんなが共有することが出来たのです。
キリストを信じ、喜び集う者の群れが教会です。私たちが礼拝の場にいることを神様は喜んで下さり、また私たちが礼拝の場にいることが教会全体の喜びなのです。キリストは言われます、「わたしにつながっていなさい」・・・喜び集う者の群れであるキリストの教会にしっかりつながって行くように、祈って下さい。
2、喜び集う者の群れである教会で礼拝を捧げる祝福を与えられている 15:4,5
「枝がブドウの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができない」(4節)、「わたしから離れては、あなた方は何一つできないからである」(5節)
キリストを信じ、喜び集う者の群れが教会です。今から約2000年前に、エルサレムで3000人の人々が洗礼を受けて教会が始まりました。彼らはキリストの直弟子である使徒達の教えを守り、信徒相互の交わりをし、聖餐式を行い、祈りを共にしていました(使徒2:42)。ユダヤ教では最期の土曜日を安息日にしていましたが、最初の教会は、神様を礼拝する日を週の初めの日曜日にすることにしました。「主イエスキリストが復活された日は日曜日である。十字架で罪を滅ぼし、復活によって天国を保証されたイエスキリストをお祝いするために、キリストの復活の日である日曜日を主の日として、礼拝をささげよう」、それが日曜礼拝のはじまりです。礼拝の祝福を幾つか知っておきましょう。
第一に、教会の礼拝はみんなのものです。
キリストを信じる人々、キリストを求めている人々、そしてまだキリストを知らない人々をも巻き込んで礼拝が捧げられます。礼拝に参加することによって例え神を知らない人であっても恵みを受けることができます。あるノンクリスチャンの方は、「礼拝で歌われた聖歌で心が洗われました」と言っていました。日曜の朝、礼拝に出席することによって、神様は全ての方々に恵みを与え、祝福して下さいます。
第二に、教会の礼拝はみんなの心が一つになる時です。
考えてみて下さい。ゼロ歳の赤ちゃんから80歳を越えた人まで、血のつながりではなく、キリストを信じる信仰のつながりによって、三世代、四世代にわたる人々が定期的に集まる共同体は教会だけだと思います。礼拝するのに、年齢制限はなし、国籍も関係なし、男女の差別なし、すべての人がみんなイエス様を見上げて礼拝を捧げています。神の聖霊に導かれて、主イエスを讃美し、主イエスの御言葉を聴き、主イエスの御名によって祈り、全ての人の心が主イエスに集中して、みんなの心が一つになる時、それが礼拝の恵みです。
第三に、教会の礼拝は全世界につながっています。
日本でプロテスタント教会だけで8000の礼拝が捧げられています。イギリスに行った時に、イギリス人のメソジスト教会の礼拝に出席したことがあります。赤ちゃんの洗礼式があり、牧師を通してメッセージが語られ、全体的に厳かな流れの中で礼拝を捧げました。礼拝後、日本に行ったことがあるという方々が残ってくれて交わりがありました。礼拝は英語であったので、わからない部分がたくさんありましたが、主イエスを見上げて礼拝を捧げているという喜びがあり、その時にはるか離れた熊谷の礼拝祝福を祈りました。祈りながら、世界中で捧げられている礼拝が主イエスキリストによって、一つの大きな愛の鎖で結ばれているということを実感しました。
枝がブドウの木につながっていなければ実を結びません。キリストを信じ、喜び集う者の群れである教会にしっかりとつながり、で礼拝を捧げ続け、恵みを豊かに受けて行きましょう。
3、喜び集う者の群れである教会で実を豊かに結ぶ祝福を与えられている 15:5
「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。(5節)
赤ちゃんにとって大事なことは親に抱かれることです。赤ちゃんは親に頼りきって抱っこされます。抱き上げる親は心からの愛情をもって子どもを抱き上げます。ある王が残酷な実験をしました。赤ちゃんを衛生状態のよい部屋に入れ、きちんと食事を与え、清潔な着物を着せる。ただし抱き上げない、話しかけないということです。一年経たないうちに赤ちゃんは死んで行きました。誰にもかまってもらえず、愛情を感じることがなく、心のストレスが死因でした。
私たちは遠く離れた神を礼拝し、困難や試練の時に神様を身近に感じることができないとしたら、不安になり、ストレスがたまります。しかし幸いなことに、キリストは私たちの心のうちに住み、聖霊は絶えずキリストが私たちのうちにいることを思い出させ、祈りをとおして「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)という御言葉をもって励ましを与えてくれています。私も牧師として、また一信仰者として、困難、不安、心配を感じる時があります。その度ごとに祈っている時に、イエス様が傍に立って手を引っ張り、「しっかりするのだ、わたしだ、怖れることはない」(マルコ6:50)という励ましを与えられて来ました。そして毎週の礼拝を通して恵みを与えられ、水曜日の祈り会を通して恵みを与えられ(今度の水曜日は倫夫・チャチャ師メッセージです)、支えられてきました。
主イエスは、「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(5節)と約束されています。「もし人がわたしにつながっており・・」という御言葉によって、私たちにしっかりと主イエスキリストにつながるようにという決断が求められています。何があっても、主イエスにすがり、礼拝を捧げ、祈って行くならば、祝福を与えられて行きます。
礼拝の恵みについて、図をご覧下さい。タイトルは「礼拝の恵み」です。(図はクリックしてをご覧下さい)
第一の図は、礼拝を通して心が恵まれることを表しています。使徒信条で、「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し・・・」と告白したように、救われた者としての聖徒の交わりが、愛、平和、喜びのうちになされます。そして、また心をキリストに向けて礼拝を捧げて行くという良い循環をして行くようになります。
第二の図は、礼拝を通して、主イエスから、喜び、祝福、愛、力を受けて、それが伝道のエネルギーになり、奉仕の力になって行くことを表しています。主イエスから恵みをいただいた者として、愛と一致をもって、平和と喜びとをもって、主のために仕えて行くことを図によって表しています。
礼拝をする者が結ぶ実は、交わりの面においても、伝道奉仕の面でも、愛が一番です。私たちは主イエスによって愛されていることをもっともっと感謝しましょう。主イエスに愛されていることを感謝して行く時に、互いに愛し合って行くことができるのです。主イエスにつながり、教会につながり、礼拝生活をして行く時に、豊かな恵みを与えられるのです。
まとめ
*ヨハネ15:4−5を読みます。
第一に、喜び集う者の群れである教会にいることが祝福です。きょう、礼拝の場にいることを感謝しましょう。
第二に、喜び集う者の群れである教会で礼拝を捧げる祝福を与えられています。礼拝がさらに盛んになって行くように祈って行きましょう。
第三に、喜び集う者の群れである教会で実を豊かに結ぶ祝福を与えられています。最大の実として愛が与えられていることを感謝し、互いに愛をもって聖徒の交わりをして行きましょう。
祈 り
天地の主である神さま、独り子である主イエスキリストによって救いを受けていることを感謝します。主イエスにしっかりつながり、結びつき、教会のメンバーとして礼拝を重んじ、主からの恵みをたくさん受けて、主イエスキリストの救いを人々に伝えて行くことが出来るように私たちを用いて下さい。松葉泉ちゃんの祝福を祈って献児式をします。また日本聖書協会の方々が聖書事業の働きについてPRをする時間があります。全てを主が導いて下さい。午後からのファミリー家長会、教会学校教師会、総務部会、夜の礼拝を守り祝福して下さい。きょうも礼拝をささげるために多くの方々による愛の奉仕があったことを感謝します。主が豊かに報いてくださいますようにお願いします。我らの主イエスキリストの尊い御名によって祈りと願いとをささげます、アーメン。
参考文献
ヨハネ注解―黒崎、バークレー、フランシスコ会、米田、文語略解、LABN、榊原、佐藤陽二、羽鳥。「信徒の友・05.5月号・日キ教団出版部」