クリスチャンの原点―行って実を結べ ヨハネ15:7−17             主の2007.6.10礼拝



アメリカで、ある人がただ一人アイダホの牧場に住んでいる時、バイオリンの調子が狂って、基準の音がなければ、正しい音に調整することができなくなってしまいました。そこで彼は、遠くカリフォルニアの放送局に手紙を出して、基準になる本当の音を知らせて下さいと頼んだところ、放送局では、放送のプログラムを中断して基準音を鳴らしてくれた。彼はこれをとらえて、バイオリンを調整して正しい調子を取り戻すことができたのです。

本日はヨハネ15:7−17です。私たちが正しい信仰生活をして行くためには、正しい基準に合わせて行くことが必要です。どんなに高価なバイオリンであっても、また弾き手が素晴しい技量をもっていたとしても、音が狂っていては正しい演奏をすることができません。アイダホの牧場主は放送局から送られてきた基準音に基づいて弦を調整し、再びバイオリン演奏を楽しむことができたのです。私たちの信仰の正しい基準は何でしょうか。16節、キリストが、「わたしがあなたがたを選んだ」と言われていますが、私たちの信仰の源はイエスキリストです。そして、「だれでも真理につく者はわたしの声に耳を傾ける」(ヨハネ18:37)と言われるキリストの御言葉に従うことが、正しい信仰の基準になります。キリストは罪によって狂っていた私たちと神の関係を正しくするために、罪の身代りになって十字架に命を捧げて罪の赦しの道を開き、復活によって永遠の命を与えて下さった唯一の救主です。キリストを信じる者は、正しい基準によって信仰生活をします。正しい基準とは、第一にキリストの教会につながること。第二に聖書を日々読むこと。第三にどんなことでもキリストの御名によって祈ること。第四にキリストに感謝して献金を献げること。第五にキリストを伝道し、キリストに奉仕をして行くことです。今朝、キリストの御言葉によって自分の信仰を正しく調整(tune up)し、共に祈って、新しい一週間の出発をして参りましょう。



内容区分

1、クリスチャンには、祈りの恵みが与えられている 15:7−8

2、クリスチャンには、喜び、愛、キリストの友になるという祝福が与えられている 15:9−15

3、クリスチャンには、実を結ぶ使命が与えられている 15:16−17

資料問題

7節「そうすれば、与えられるであろう」、共観福音書では祈りが聴かれるためには信仰が必要(マタイ17:20、マルコ11:24、ルカ17:6)。ヨハネではキリストとの一致が祈りの聴かれるための保証(14:13、16:23)。9節「わたしの愛のうちにいなさい」、キリストの愛の中にずっと留まり続けること。10節「いましめを守る」、14:15、Tヨハネ2:5、5:3を見よ。11節「わたしの喜び」、キリストは父なる神に従うことによって喜びを得ている。キリストが弟子を愛し、弟子もキリストを愛し、双方が喜びあう。15節「友と呼ぶ」、キリスト以前の旧約時代でアブラハムだけが「神の友」と呼ばれた(歴下20:7、イザヤ41:8)。新約時代、キリストは私たちを友と呼んで愛し、守って下さる。これは画期的なことである。16節「立てた」、使命を与えたという意訳もある。「実を結び、その実がいつまでも残る」、伝道の結果クリスチャンが増大し、教会が世の終りまで存続すること。



1、クリスチャンには、祈りの恵みが与えられている 15:7−8

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」。(7節)

クリスチャンに与えられている恵みの一つに祈りがあります。

よく、“祈りはクリスチャンの血液である”、また、“祈りはクリスチャンの呼吸である”とも言われています。血液が体内を巡らなければ、先ず脳がだめになって、脳死状態になり、体の全機能が停止してしまいます。呼吸を5分止めれば、心臓が止まって間違いなく死にます。私たちの体内を血液が巡っている、あるいは呼吸をするというのは、神様が与えて下さった命を維持するために、生まれた時から身についているものであって、意識せずともできていることです。ところが祈りというものは、無意識のうちにできるというものではなく、祈ろうという心構えをもって祈る時に、聖霊に助けられて祈ることができます。祈りは無意識にできることではなく、祈るという意識をもって祈るという修練が必要です。キリストは祈ることを常に優先しておられました。朝起きると祈って一日を始めています(マルコ1:35)。食事の時に感謝の祈りを捧げています(マルコ6:41)。弟子を選ぶ時に徹夜で祈っています(ルカ6:12)。病人のために祈っています(ヨハネ5:8)。十字架の前にゲッセマネで祈っています(マルコ14:32−42)。十字架にかけられた時も、両手両足に釘を打たれるという苦しみの中で、「父よ、彼らを赦したまえ」(マルコ23:34)と、ご自分を十字架にかけた人々を赦し、また全ての人の救いを願って祈っています。現在キリストは、天において私たちのために執り成しの祈りを祈っています(ロマ8:34)。

祈る時に二つの大切なことがあります(7節)。

一つは、私たちがキリストにつながっていることです。キリストにつながっているとは、キリストを自分の救主、主として心にお迎えしていること、そしてキリストにつながっているとは具体的にはキリストの教会につながっていることを指しています

もう一つは聖書を読んでいることです。聖書を読んでいますか・・・。聖書全巻を読みましたか・・・聖書を読んで、キリストの御名によってお祈りする時に、神の力が与えられます。

宗教改革者であるマルティン・ルッターの偉大な働きは聖書を自分の国語であるドイツ語に翻訳したことです。翻訳された聖書はグーテンベルグが発明した印刷術によって多くの人々の手に渡り、人々は聖書を読んで、キリストを信じれば救われるという聖書の真理に目覚めて行き、プロテスタント教会が誕生して行ったのです。ルッターは当時のカトリック教会から命を狙われていましたが、コーブルグ城にかくまわれて聖書翻訳を続けていました。非常に厳しい中であるにも関わらず、ルッターは明るく、そして毎日懸命に聖書翻訳を続けていました。その力の源はルッターが祈っていたからです。ルッターのそばについていた弟子のディートリッヒの証言によると、「ルッターは少なくとも一日に三時間は祈る。きょうは忙しくてすぐに仕事に取り掛からなければならない時ほど、長く祈って、それから仕事にかかる」という祈りに徹した生活をしていました。

私たちは自分でも祈りますが、実は多くの人に祈られ、支えられているのです。

私たちは、多くの人々に祈られています。昨日私の恩師松崎先生から電話をもらいました。先生は東京・名古屋・大阪で長らく伝道牧会の働きをされた後に引退され、今は岐阜県多治見市に住んでいます。私の高校生時代からの信仰の恩師で、聖書をよく読み、よく祈り、分りやすい説教をされ、私を神学校に送りだし下さり、熊谷伝道開拓初期にはいろいろと助けてくれました。奥さんは接する人々人々の心を温かくする明るい牧師夫人でした。5月の全国聖会でお会いし、先日教会の元旦礼拝の写真とクリスチャン新聞に掲載された熊谷教会の記事を送ったのですが、それを受け取って電話を下さったのです。先生が「これからもお祈りしている」と言われたことが強く心に残りました。私たち夫婦のために、また熊谷の教会のために、松崎先生ご夫妻をはじめ大勢の方々が国内で祈っておられる。海外のアメリカ、ミャンマーをはじめ様々な国々の人々が祈っている。そう思うと心のうちに感謝と力が溢れてくるのを感じました。祈られていることを感謝し、私たちもお互いのため、また多くの教会のために祈りの手をあげて行きましょう。



2、クリスチャンには、喜び、愛、キリストの友になるという祝福が与えられている 15:9−15

「わたしの愛のうちにいなさい・・・わたしはあなたがたを友と呼んだ・・」(9節、15節)

この個所にキリストによって選ばれ、救われた者への祝福が三つ記されています。

第一に、クリスチャンは喜びを与えられている者です。

クリスチャンの基本は喜びです。11節に「わたしの喜び」とあります。キリストはこれから十字架にかかり苦しみを体験されるのですが、「私の一生は喜びの人生であった」と言っています。キリストの一生は苦難の一生と言われています。安全に休む場所もなく(ルカ9:58)、時には空腹を抱えてスカルの井戸の傍らに腰を下ろし(ヨハネ4:6)、苦しみ悩む者を尋ねて町々村々を巡り歩き、病の人々を癒し、休むヒマなく東奔西走して福音を宣べ伝える日々の連続でした(マタイ9:35)。その中にあって、キリストは大勢の人々が罪を赦され、病の苦しみから解放され、悪霊から解き放たれ新しい人生に踏み出して行くのを見てきました。聖書は一人の人が悔改めて救いを受けると、天の神様の前で大きい喜びがあると告げています(ルカ15:7、10)。キリストは人が救われ、神の子になって新しい人生に踏み出して行くのをご覧になる時に大きい喜びを心に受けていたのです。へブル12:2に「キリストは自分の前に置かれている喜びの故に、恥をもいとわないで十字架を忍んだ」と言われています。キリストは自分が十字架にかかることによって、全ての人が救われる道が開かれることを信じ、苦しみを目前にして心は喜んでいたのです。

第二に、クリスチャンは愛を与えられている者です。

愛についての実際ということで、教会ファミリーについて述べます。共に集い、聖書の御言葉の恵みを分ち合い、お互いのために祈り合うことがファミリーの基本です。ファミリーについて、週報に家長さんの名前が出ていますが、家長さんは毎月第一日曜日に家長会に出席し、祈っています。毎月第二週にファミリーの集まりがあり、現在13ファミリーがあります。今月から新しくロウ者ファミリーがスタートし、下島恭子さんが家長です。ユースも内容を新たにして中学生以上とし、家長はチャチャ伝道師です。現在は13ファミリーですが、これはどんどん増えて行くものです。増えるということは、多くの人が救われて教会に加わる人が増えていくということです。家長さんの家庭を開放してもらって集会をしていますが、しかし教会でも行われていますので、部屋数の問題がありますので祈って下さい。ファミリーは教会形成の中心です。礼拝に約100名集っていますが、ファミリーには礼拝の70%以上の人々が集っています。ファミリーの中心はキリストです。キリストの愛を受けて、互いに重荷を担い合って祈り合って行くのがファミリーです。私たちはクリスチャンとしてファミリーという愛の交わりの中に召されていることを感謝します。仕事や時間の関係などでまだファミリーに属していない方々は祈りの課題を牧師宛に伝えて下さい。メールですと24時間受付可能ですから、遠慮なくどんなことでも祈りの課題をお寄せ下さい。

第三に、クリスチャンはキリストの友としての恵みを与えられている者です。

私に友がいます。一年に数回しか会えないのですが、会った瞬間に「やあー」という一声で近況を察することができ、すぐにお互いにくつろいで、飾らずに、率直にいろいろなことを話し合うことができ、祈り合うことができます。話が尽きずに、枕を並べて寝ながら話をすることもあります。キリストは尊い神の独り子であり、十字架に罪を贖い、死を打ち破った栄光の主です。私たちはキリストの前にただひれ伏すのみですが、しかしキリストは私たちを友と呼んで下さるのです。私は毎朝の早天祈祷会を楽しみにしています。また個人的祈りの時間を楽しみにしています。なぜ楽しみかといえば、その時間は裃をつけずに、祈りを通して自由に自分の思いをキリストにぶつけることができ、キリストは全ての事柄を親しい友のように受け入れて、聴いてくれる、良き答を心の中に語りかけてくれる、また励ましを与えてくれるそして最善の道へと導いてくれるからです。

Tくんはハンドボールが好きで、礼拝に出られない時は夕拝を守ってきた。ところが膝を怪我し、仲間に遅れをとり、チームは勝ち進んでいるのに自分はベンチで仲間を応援していた。試合に出たいという気持で練習は欠かさないでいた。しかし膝が悪いので試合は無理という状態であった。ところが自分にできるプレーがある、ペナルティスローだったら誰にも負けないと気づき、顧問の先生にお願いに行った、先生は彼の気持を受け入れてくれ、チャンスが与えられ、チームは国体で優勝できた。Tくんは創世記のヨセフを思い浮かべるということです。部活の忙しさの中で一週に一度は礼拝をしてきた。順調だったのに怪我をした。でも練習を続けた。すると自分がチームに貢献できるプレーをすることができた「主がヨセフを支えたように、主は私の友として、良い時も悪い時も常に私を守り、良い道へと導いて下さった。これからも、主は私の友として私を導いて下さる」と確信しているということです。「兄弟よりも頼もしい友もある」(箴言18:24)と言われているように、キリストは真実な友として私たちを支えて下さるお方です。



3、クリスチャンには、実を結ぶ使命が与えられている 15:16−17

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。(16節)

クリスチャンはキリストによって選ばれ、救われた者です。なぜ救われたのか・・・それは「あなたがたを立てた」という言葉で言い表されています。「立てた」とは伝道の使命を与えるという意味です。私たちはキリストの救いを伝えるために救われたのです。キリストの救いを伝道するために大事なことがあります。

まず、「あなたがたが行って実を結び」と言われているように、キリストは「こちらから出かけて行きなさい」と命じておられます。

伝道とは相手の所に出かけることです。出かけることは祈りからはじまります。メールをして下さい。電話をして下さい。手紙を書いて下さい。機会を見つけて直接に相手の所に出向いて下さい。

その次に、「その実がいつまでも残るため」と言われていますが、「アフターケアーをしなさい、最後の最後まで面倒を見なさい」ということです。

ここで皆さんに繰り返し意識してほしいことは、「周りの方々に、特に新しい方々に、遠くから来ている方々に声をかけること」です。救われ、教会につながって行こうとする方々が、いつまで教会に留まり実を結んで行くように、祈って声をかけて下さい。

4月より教団任命により、正式に荻野倫夫・チャチャ伝道師が伝道牧会に加わり、感謝です。諸般の関係で、倫夫先生は塾の講師、チャチャ先生は高校で英語を教えています。仕事をしながら、しかし二人とも本来の務めである伝道師としての務めをよく果たしています。水曜日メッセージ、早天祈祷会メッセージ、訪問伝道、文書伝道、新しい方々のために聖書の学び、また多くの方々に個人的に接し、祈りと共に適切な励ましを与える、上野公園ホームレス伝道など良い働きをしています。チャチャ師は日本語を勉強中ですが、少ない日本語で子どもから大人に至るまでの全ての年齢層の方々に関わりをもち、仕事を通して教会外にも多くの知り合いをつくり、誰に対してもキリストの福音を伝え、熊谷福音キリスト教会のことを大いにアッピールして伝えています。きょうはゴスペルがありますが、倫夫・チャチャがその全体的リーダーとなり、教会外から来ているボランティアスタッフのために聖書の学びをしてキリストの福音を着々と伝え、クリスチャンになるように導いています。倫夫師は軽井沢キャンプのために副準備委員として奉仕し、礼拝後に皆さんにお知らせをすることになっています。

実を結ぶということを個人的に考えてみます。映画「ロッキー・ザ・ファイナル」のシルベスター・スタローンは30年前にロッキー第一作の成功により、富と名声を得るが、生活が荒れてしまい、二度の離婚を経験し、誘惑に負けていた。彼はキリストへの信仰をもち、従う決意をし、現在の奥さんと出会った。60歳となり、前の結婚による二人の子どもと現在の妻との三人の子どもと共に、家族で教会に通っている。特に今回の映画を通して、「人生には神の言葉、霊的な助けが必要である。その時に初めて本当の人生が始まる。私は年齢を重ねて、イエスキリストと神の言葉に頼ること、神に支えていただくことを知った。それを子ども達が幼いうちに伝えて行かねばならない」と言うメッセージを込めているという事です。



まとめ

1、7節、私たちに祈りの恵みが与えられています。キリストにしっかりつながり、聖書の御言葉を心にとどめて祈るならば、祈りは神様に届いて行きます。祈りましょう。祈る時に、自分が多くの人に祈られていること忘れずに感謝しましょう。

2、9,15節、私たちには喜び、愛、そしてキリストの友になるという恵みが与えられています。キリストは私たちを友と呼び、どんな時にも私たちを支え、助けて下さいます。主にすがって行きましょう。

3、16節、私たちは実を結ぶために選ばれています。キリストを伝道して、救いの実を得て行きましょう。また個人的にキリストに従って信仰の道をまっすぐに歩んで行きましょう。



祈 り 主なる神様、独り子イエスキリストの十字架により、神の子になる選びを与えていただき感謝します。キリストにつながり祈って行きます。喜び、愛、そしてキリストの友としての恵みを与えていただき感謝します。キリストを伝道し、伝道の実を与えて下さい。個人的にはキリストに従い、キリストに従う生き方を貫いて行くように導いて下さい。私たちを選んで下さったイエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献ヨハネ注解―榊原、フランシスコ会、佐藤、バークレー、黒崎、LABN、羽鳥、ライル。「御翼各号・佐藤順」