クリスチャンの原点―愛の招きに応える ヨハネ21:15−25   主の2007.6.17礼拝



私事から始めますが、神学校を27歳で卒業し、「熊谷開拓を命ず」という辞令をもらい、六畳一間、フロ無し汲み取り式共同トイレのアパートに住み込んで伝道者第一歩を踏み出しました。同級生と話し合ったことは、「伝道者として主に従い、主に用いていただこう」ということでした。卒業したのは1967年ですが、当時は戦争中の厳しい迫害を耐えて来た50代、60代の牧師が大勢いて、それらの方々の説教を通して、個人的交わりを通して、伝道者として生きようという、よい強い影響を受けたことを感謝しています。「伝道者として主に従おう」と語り合った卒業時の仲間は14名(入学時は18名)、現在9名が現役の伝道者です。他の者は、アメリカに渡りレストラン経営者になった者、伝道者を退いた者、家族のために働くようになったが自宅で日曜礼拝を主宰している者などがいます。私は熊谷に遣わされ、同級生であった家内と結婚をし、子どもを二人与えられ、良き信徒である皆さん方に支えられ、伝道者の道を歩ませてもらっていることを感謝しています。

本日はヨハネ福音書21:15−23です。主イエスの、「わたしに従ってきなさい」(19節)、「あなたはわたしに従ってきなさい」(22節)という二度の招きがあります。この御言葉は、「伝道者の道を歩め」というペテロへの招きであると同時に、「主イエスに従いなさい」という私たちへの招きの声でもあるのです。先輩の牧師達は、戦争中は礼拝に警察のスパイが紛れ込んで皆を監視している、戦争による食料危機の中で食べる物を確保して家族を守らなければならないということで苦労をし、天皇陛下より天の神様の方が上であると言った事で投獄された牧師もいますし、獄死した牧師もいます。そうした厳しい状況の中で多くの牧師達は伝道者としての節を曲げず、戦争が終り、自由になったことを感謝して一生懸命に伝道している姿に、若い私たち伝道者は大いなる励ましを受けたことを思い出します。エレミヤ書31:3に「わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」という主の御言葉があります。主の真実はイエスキリストの十字架によって表され、十字架を信じて私たちは神の子にされています。主イエスキリストは限りない愛と真実をもって私たちの救いを守り、支えて下さる救主です。主イエスに従う決意を新たにし、祈って新しい一週間の旅路を出発いたしましょう。



内容区分

1、クリスチャンは、主イエスキリストの愛を受けている者である 21:15−17

2、クリスチャンは、主」イエスキリスト一筋の信仰を持つ者である 21:18−22

3、クリスチャンは、聖書に示された主イエスキリストに従う者である 21:23−25

資料問題

キリストは、三度も御自分を裏切ったペテロに(18:17,25,27)、三度の愛の告白を求めている。ペテロが「汝は生ける神の子キリストなり」と告白した時に神の国のカギを与えたように(マタイ16:17−19)、彼の愛の告白に応えて御自分の羊の群れである信徒たちを委ねている。15、16節、キリストの「愛する」はアガペー(聖愛)、17節「愛する」はフィレオー(人間の愛)。ペテロの「愛する」は全部フィレオーである。19節「ペテロがどんな死にかたで」、彼はキリストと同じでは勿体ないと言って、ロマで逆さ十字架にかけられ殉教したと言われている。23節「この弟子は死ぬことがないといううわさ」、人間の言葉はどこかで間違って伝えられることが多い。今日キリストに関する正しい完全な情報は聖書66巻を通して伝えられている。



1、クリスチャンは、主イエスキリストの愛を受けている者である 21:15−17

イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは、「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心を痛めてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。(17節)

14節に、主イエスが十字架の後に復活され、ペテロ達に現れたのは、これで既に三度目であると記されています。漁を終えたペテロ達七名の弟子は、ガリラヤ湖畔でイエス様の用意された朝ごはんを食べ終り、少しくつろいでいます。その時に、主イエスはペテロに、「あなたはわたしを愛するか」と三度の問いかけをしています。ペテロの「主よ、そうです」という決意を聞いた後に、主イエスは彼に「わたしの羊を養え」という伝道牧会の使命を与えています。「あなたはわたしを愛するか」という三度の問いかけの中に、主イエスの愛について三つのことを教えられます。

第一に、主イエスは人を愛し続けて下さいます。

ペテロ達は主イエスの十字架という一番大事な時に逃げ出してしまい、その後ユダヤ人指導者を恐れて密かに集まっていたのですが、そこに復活の主イエスが現れ「平安あれ。伝道せよ」という使命を与えています(20:19−23)。ところが、ペテロ達は伝道という使命を忘れて、勝手に漁に出かけてしまいます(21:1−3)。そんな不甲斐ない弟子達のために、主イエスは湖畔に焚き火を起こし、パンと魚とを焼いて弟子達を待ち、疲れきって帰った彼らに朝ごはんを振舞っています(21:9−13)。ペテロは主イエスの十字架の直前に、「主よ、私は獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」(ルカ22:33)という勇ましい啖呵を切っています。ところが、三年半寝食を共にして愛を注いでくれた主イエスの逮捕、裁判という大事な時に、「そんな人は知らない」と言って、三回も主を裏切ってしまいます。そのペテロを恨まず、審かず、見限らずに、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と三度も愛を込めて問いかけているのが主イエスです。私たちであれば、たった一度の裏切りでも赦せずに、相手を憎み、この人とは生涯つき合わないと言って見限ってしまいます。しかし、主イエスは裏切ったペテロ達弟子を愛し続けて下さるのです。

第二に、主イエスは人生を新しくやり直す力を下さいます。

私たちの教会は毎月第四土曜日に上野公園ホームレス伝道に行っています。その時に私はメッセージを語るのですが、必ず伝えることは、「イエスキリストを信じると罪が赦され、永遠の命が与えられる。主イエスを信じれば、路上生活から社会復帰するように導かれ、人生をやり直すことができます」ということです。どんなに失敗しても、悔改めてキリストに頼って行けば、そこから新しいやり直しの人生が始まります。ペテロは勇ましいことを言いながら、十字架の前に、三度も直接に主を裏切っています。そんな彼に、復活直後の主イエスが現れて、「伝道せよ」という御声をかけて下さった。だが、それを忘れて、ペテロは主を離れて自分勝手に漁に行ってしまった。ペテロは、失敗を重ね続ける自分はもうダメだと思い込んで、主イエス様の前で小さくなっていました。そんな彼に、主は「ペテロよ、あなたはわたしを愛するか」と三度も呼びかけ、三度の裏切りに対する悔改めの機会を下さった。悔改めた彼に対し、主イエスは「ペテロよ、人々の心を神の御言葉によって養い、サタンの攻略を退け、信じる者の群れである教会のために仕えて行きなさい」と言われ、彼に人生をやり直す新しい機会を与えています。

第三に、主イエスは昨日も、今日も、永遠に変らない愛の救主です。

主イエスは、変ることのない永遠の愛をもって、十字架で罪を赦し、人生をやり直すように導き助けて下さるまことの救主です。

田原米子さんは18歳の時に新宿駅で小田急線に飛び込み、命は助かりますが、左手、左足切断、右足は踵から下を切断、右手は残るが、小指と中指を切断。意識がよみがえり、自分の体の状態を知ると、不眠を訴えて睡眠薬をもらい、それをためておいて服毒自殺をしようと思っていた。そんな時、高校の先生の紹介で、病院にマクリロイ宣教師が通訳の田原青年を連れて訪問してくれた。彼女は迷惑に思っていた。しかし彼らは毎週訪問してくれ、その優しさ、誠実さ、明るさに心打たれた。ある日、それまで見向きもしなかった聖書を開くと「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去り、見よ、全てが新しくなったのである」(Uコリント5:17)という御言葉が心を刺し貫いた。彼女は主イエスを信じて、「自分には右手に指が三本ある」、ペンを握って名前を書いたら立派に書けた。やがて田原青年は神学校に入り、牧師になった。彼は米子さんと結婚し、彼女は牧師夫人、主婦として働き、二人の女の子の母親になった。義足、義手、残った右の三本指で料理をしている姿、人々に愛を語っていることなどがNHKテレビで報道され、多くの人々に感銘を与えました。米子さんは自殺するほど絶望していた者でしたが、主イエスによって愛されていることを知り、新しい人生を歩み出し、主の証人としての生涯を全うして天に召されて行きました。主イエスの愛を受ける時に、私たちの人生は祝福に変わって行きます。



2、クリスチャンは、キリスト一筋の信仰を持つ者である 21:18―22

これはペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話になったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。・・イエスは彼に言われた・「あなたはわたしに従ってきなさい」。(19,22節終り)

主イエスはペテロの覚悟を聞くと、18−19節で彼が将来人に捕らえられて、殉教の死を遂げることを予告しています。そうした中で、主イエスは「ペテロよ、いかなることが起ころうともわたしに従ってきなさい。生きている限りは伝道しなさい。死んで終りではなく、地上の生涯の次には永遠の天国がある」と伝えています。さらに20−22節で「わたしはあなたに語っている。あなたはわたしに従ってきなさい」と呼びかけています。ここから教えられる三つのことがあります。

第一に、悔改めることの重要性です。

ペテロは主イエスの前に立ち、「主よ、あなたはすべてをご存知です」と答えていますが、ここに、真に彼が悔改めている姿を見ることができます。以前は「自分はだいじょうぶ、他の人とは違う、自分は100%の愛を持っている」と思い上がっていました。しかし、真に悔改めた彼は、「自分は弱い者だ、主よ、あなたは私の弱さ、足りなさを知っています」と主に縋っています。

第二に、主イエスにとことん信頼することの重要性です。

週報に箴言3:5−7の御言葉が記されていますのでよく読んで下さい。また「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(Tコリント10:31)と言われています。仕事をする時、学ぶ時、食べる時、何をする時でも、「イエス様、常に主を一番にして生きて行かれるように、聖霊の知恵を与えて、私を導いて下さい」と祈って下さい。

第三に、主イエスにしっかりつながって行くことの重要性です。

何があろうとも、死ぬようなことがあろうとも、ひたすら主イエスに頼り、主イエスの体である教会につながって行くこと、これが信仰の生命線です。私は電気カミソリを使いますが、充電を忘れると何の役にも立ちません。携帯電話も充電をしなければメールも話もできません。クリスチャンの生命(いのち)の源はイエスキリストです。主イエスにしっかりつながって、霊的充電をして行かなければ、霊的力がなくなります。

主エスにしっかりつながって行くとは、個人的には毎日毎日、聖霊の導きによって時と場所を定め、聖書を読む、祈る生活を持続して行くことです。教会につながる者としては、主の日の礼拝に集い、水曜日の祈り会に出て、上からの祝福を皆で受けて行くことです。

良い例ではありませんが話します。若い頃に薬物中毒になった人が、そこから主イエスの救いにあずかり、主のために仕えていました。原因はわかりませんが、再び薬物に手を出して中毒が再発し、悲惨にも人生を閉じてしまったのです。以前、豊留先生から聞いたのですが、アルコール依存症の人が、入院してアルコールを断ち切り、社会復帰をするが、そこからが大事だというのです。依存症から回復した人が一滴でも酒を口に入れれば、すぐ元に戻ってしまう。社会では、例えば葬式に行けばお清めと称して酒がでる、結婚式に行けば祝い酒が出る。そこで24時間仲間と連絡を取り合って、飲みたいという誘惑にかられた時に電話をする、すると仲間が飛んできて飲まないように守ってくれるということです。これはあらゆる依存症(ギャンブル、アルコール、薬物、性的放縦、暴力などの問題行動、買物)に共通のことで、絶対に助け合いが必要とのことです。私たちは罪から救われ、神の子になりましたが、天国に行くまでは地上の世界で生きて行きます。私たちの周りには罪に誘うものが山のようにあり、サタンは私たちを罪に陥れようと働いています。罪から守られて行くためには、キリストの教会につながり、お互いに祈り合って行くことが絶対に必要です。今週も、お互いにキリストを信じる信仰の恵みに与っていることを感謝しましょう。またお互いの霊の祝福、健康、家族の祝福、きよい生活の持続のために祈り合って行きましょう。

3、クリスチャンは、聖書に示されたキリストに従う者である 21:23−25

これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。(24節)

この個所には、この福音書を書いた使徒ヨハネは死なないという噂があるが、それは間違いであることが言われています。主イエスが天に帰ってから約20年後の紀元45年には、聖霊の導きによってヤコブの手紙が記されています。その後、今の新約聖書の各巻が次々と記され、紀元96年には新約最後の書であるヨハネ黙示録が記され、やがて今の新約27巻がまとめられて新約聖書となり、旧約39巻と合わせて聖書66巻が教会の正典になっています。キリスト教会では聖書66巻を神の言葉と信じ、聖書が信仰と生活の唯一の正しい基準であることを受け入れています。

さて、ここでは「ヨハネが死なない」とは言われているのは明らかな間違いであり、間違いを正すために主イエスが言われた正確な内容が記されています。ゲームで伝言ゲームというのがありますが、最初の言葉と全く違った内容の言葉が最後の人に伝わっています。口伝では途中で間違いがあって、神の言葉が正確に伝わらないという事で、私たちに神の言葉を文書にした聖書が与えられています。聖書には原典があり、それに基づいて翻訳されていますので、日本語で読んでも、英語で読んでも、どの国の言葉で読んでも聖書の内容は一致しています。繰り返し言いますが、信仰の唯一の基準は聖書です。(カトリック教会では聖書の外に、使徒伝承すなわちカトリック教会に代々口伝えで受け継がれている教えがあると主張するが当てにはならない。例:教皇制など)。私は毎週説教していますが、聖書に基づき、神の真理の御言葉を伝えることが私の使命です。牧師が、また伝道師が常に御言葉を正しく語って行くように、聖霊の導きをお祈りして下さい。

私たちは聖書を読んで、キリストを信じ救われました。その個々人の救いの恵みを個別に記すならば、世界はその全ての文書を受け入れることが出来ないほどであると言われています(25節)。礼拝に約100名の方々がいますが、私は牧師として100通りの救いの物語を知っています。全てがイエス様の愛にあふれた救いの物語です。それを思うだけでも主イエスの偉大さに圧倒されます。メッセージの前に讃美をささげました。その中で「わが主はわれと歩み、囁きたまいぬ。『とこしえまでも汝(なれ)はわれのものぞ』−と。And He walks with me、and He talks with me、And He tells me I am his own; And the joy we share as we tarry there None other has ever known 」と歌われていますが、主イエスは愛をもって私たちを守り、導く永遠の救主であることを感謝し、主イエスに縋って信仰の道を歩みたいと願いを新たにして祈って行きましょう。



まとめ

1、17節、主イエスは私たちを愛し続け、悔改める者に人生をやり直す力を与え、きのうも、きょうも、永遠に変わらない愛を下さる救主です。

2、19節、22節終り、主イエスは、悔改めて主に頼り、主につながる者を祝福して下さいます。

3、24節、主イエスのことを聖書によって知り、救われていることを感謝します



祈 り

創造主である神様、主イエスの十字架によって救われていることを感謝します。主イエスは「あなたはわたしを愛するか」とお問いになります。「私は主イエス様に愛を献げて従って行きます。弱い者を助け、導いて下さい」と祈ります。主イエス様、私たちの家族を救いに導いて下さい。主イエス様が病気の方々を癒して下さることを信じます。教会の全ての必要を満たして下さい。会堂が手狭です。良い土地、建物を示して下さい。聖書に基づき、今週も聖霊によって祈り、信仰の日々を歩むように導いて下さい。私たちを愛して下さるイエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献ヨハネ注解―バークレー、榊原、フランシスコ会、羽鳥、黒崎、LABN、文語略解。「クリスチャン新聞6月17日号」