クリスチャンの原点―救いの喜び 使徒行伝8:26−40        主の2007.6.24礼拝


聖書注解書を多数書いている聖書学者黒崎幸吉師はこう言っています。「人類にとって最大の幸福は、神の言葉が文字をもって記され、聖書として我らに与えられている事である。・・・聖書はキリスト者の信仰の基礎である。キリスト者の信仰と聖書の教える教理との差異が大なれば大なる程その信仰は弱く、教会は振るわない。その反対に比の二者が一致している場合に、そこに真の教会が成立する。聖書を離れて、そこに真のキリスト者もキリスト教もない。故に聖書はキリスト教会の信仰の基準である」(新約聖書注解序)。

*メッセージの前に、聖書に関する質問をします。

@聖書を持って礼拝に出席していますか?

A旧約聖書と新約聖書は誰の誕生を基準にして分れていますか?(答:イエスキリストの誕生)

B旧約聖書の数は?新約聖書の数は?聖書の数は全部で幾つ?(答:旧約39、新約24、計66)

C聖書はおよそ何年間に渡って記され、聖書記者は約何人?(答:およそ1600年、約40人)

D聖書の主題は何か?(答:神によって定められた救主イエスキリストによる人間の救い〈贖い〉)

本日の聖書は使徒8:26−40です。エチオピアの宦官が、「預言者イザヤの書を読んでいた」(28節)のですが、「誰かが、手びきしてくれなければ、どうしてわかりましょう」(31節)との彼の要望に応えて、「ピリポは口を開き、この聖句から説き起こして、イエスのことを宣べ伝え」(35節)ました。その結果、宦官は「イエスキリストを神の子と信じます」(37節。新改訳は欄外、新共同訳は末尾)と告白し、「水のバプテスマ(洗礼)を受け、よろこびながら旅を続けた」ことが記されています(38−39節)。聖書を通してキリストを知り、聖霊の導きによってキリストを信じ、生まれ変わった者の特徴は喜びです。「あなた方は主にあって喜びなさい。繰り返して言うが喜びなさい」(ピリピ4:4)との御言葉に従い、「終日(ひもすがら)証しせん、夜もすがら主をほめん、御救いは妙(たえ)なり、御救いは奇(く)すしと」(聖歌総合231番)と讃美しながら、聖霊に助けられ、今週も救主であり主であるイエスキリストに従う日々を前進して行きましょう。



内容区分

1、イエス・キリストの救いを聖書に基づいて伝えることが最も大切である 8:26−35

2、イエス・キリストの救いは人生に喜びをもたらす 8:36−40

資料問題

26節「ガザ」、エルサレムから直線で80キロ。ペリシテ人の古い町でエジプトに通じるパレスチナの最終地点。サムソンが両目を抉られ、臼を挽いていた地。27節「エチオピア」、現在のエチオピアと異なり、エジプトの南の地方でアスワンからカルトゥムに至る地域を指す。「カンダケ」、エチオピアの支配者は女王でカンダケ王朝と呼ばれた。「礼拝のためエルサレムに上り」、異邦人も神を礼拝するため、すなわち犠牲をささげるために神殿に入ることができた(ヨハネ12:20)。このエチオピア人は宦官であるため、律法によってイスラエルの民の仲間入りを禁じられていたが(申命記23:1)、彼は神を畏れ敬う人であった。32−33節のイザヤ書は七十人訳によるイザヤ53:7−8。主の受難と復活に適用されている。37節は宦官の信仰決意の告白である。新改訳、新共同訳は欄外に記している。39節「主の霊」、29節と同じく聖霊を指す。40節「アゾト」はペリシテ人の最古の町、ガザとヨッパとの間の海岸の町。「カイザリア」はピリポの故郷で、パウロがエルサレムに行く時、彼の家に滞在した(21:8)。



1、イエス・キリストの救いを聖書に基づいて伝えることが最も大切である 8:26−35

そこでピリポが駆けて行くと預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞こえたので、「あなたは読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。彼は「誰かが手引きをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。・・宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここでは預言者は誰のことを言っているのですか。自分のことですか。それとも、誰かほかの人のことですか」。そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起こして、イエスのことを宣べ伝えた(30節、34-35節)

ピリポは教会奉仕役員の一人で(6:5)、サマリア伝道で大活躍していましたが、神様の導きでサマリアを離れ、人影少ないガザへと向っています(26節)。人間は伝道の成果とか能率を考えるので、大勢の人に伝道しているピリポを、わざわざ人がいないガザへ行かせるのは、伝道の成果に結びつかない非効率な配置転換のように考えます。しかしイエスキリストの考えは違います。例えば、五回離婚し、今は男性と同棲し、村中から爪弾きにされている女性を訪ねてサマリアへ行き、彼女を救いに導いています(ヨハネ4:3−42)。悪霊に憑かれ墓場で寝起きしている哀れな人のために、一晩かけて嵐のガリラヤ湖を小船で渡り、彼から悪霊を追い出して正気に返らせ、救いに導いています(マルコ4:35−5:20)。ピリポは、キリストのなされたことを思いつつ、華やかな伝道の場から、人気の少ないガザの地へ下って行きましたが、神様はそこに神を求める一人の人を備えておられたのです。エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理している宦官であるエチオピア人です(27節)。彼は礼拝のためにエルサレムに上り、預言者イザヤの書を購入し、それを読みながら旅をしていました。宦官は女王の側近として仕えるために去勢されていたと考えられます。律法には「すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない」とあり(申命記23:1)、彼はエルサレムの神殿に行っても、神殿の外庭からしか礼拝することが出来ない者でした。それでも彼はエチオピアから千数百キロの旅をして(北海道から九州縦断の距離)、エルサレムに礼拝に行っています。

宦官の信仰の求め方から三つの大事な点を心に留めて下さい。

第一に、彼は真実に神様を求めていました。

彼はまだキリストを信じていないのに、千数百キロの長旅をも厭わないでエルサレムに礼拝に行くという真剣な求道心を持っていました。この事を私たちに当てはめて考えて見るならば、私たちはイエスキリストの救いを受けている者として、エチオピア人以上に礼拝に熱心に集うべきであることを教えられます。今朝、主の日の礼拝に出席できたことを感謝しましょう。礼拝にやむを得ず来られない方々が、夜の礼拝に出席できるように祈って下さい。きょうの礼拝が終わったら、来週に備えて日々聖書を読み、祈り、それぞれの仕事、学びに励み、土曜日は早く寝て日曜礼拝に遅れないように、祈って段取りをして下さい。水曜日の祈り会は、週の半ばの礼拝と言われています。祈り会では聖書を深く学んで祈っていますが、祈りは特に執り成しの祈りを多く捧げています。主イエスキリストは「受けるよりは、与える方がさいわいである」(使徒20:35)と言われました。多くの人々に祈られていることを感謝し、その恩返しに祈り会で、人々のために愛をもって祈る時に、聖霊によってキリストの愛が心に注がれ、必ず恵まれ、力を受けることができます。

第二に、彼は聖書を持っていました。

最初に「聖書を持って礼拝に出席していますか?」という質問をしました。まだ神のない時代の聖書は非常に高価であったと思いますが、エチオピア人は真実の信仰を得たいと思い、聖書を購入して読んでいました。中国では聖書が足りずに困っています。私たちは自由に聖書を手に入れ、自由に読めることを感謝し、聖書を読み進んで下さい。

*なぜ聖書を読むのか、それは聖書が救いを与える唯一の本だからです。聖書は、イエスキリストによる罪の赦しと永遠の命を教え、クリスチャンとして如何に生きるべきかということを教えてくれる生命(いのち)の本です。大衆伝道者・本田弘滋牧師がメッセージテープの中で、「聖書を開いて下さい。何にも線が引いてなく、印もなく、きれいな聖書であれば、あなたの心はまだまだ汚れている。聖書が線だらけで、書き込みや印があって汚れている聖書であれば、あなたの心はだいぶキレイになっていることでしょう」と言っていました。皆さんの聖書は如何でしょうか。

第三に、彼は聖書を正しく理解することを求めていました。

エチオピア人は「誰かが、手引きをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と謙って、御言葉の正しい意味の説き明かしを求めています。

*御言葉の正しい意味を知るために礼拝において、祈り会において聖書のメッセージを聴く恵みを与えられています。聖書のメッセージを通して御言葉の正しい真理を教えられ、キリストに従う決断をささげ、祈って恵まれます。少し楽屋話をします。私はメッセージの準備で、何回も聖書本文を読み、言葉の意味を調べ、注解書は10冊以上読み(その一部がメッセージ原稿の最期に記してあります)、様々な参考資料を見ます。そしてメッセージを完全原稿にします。一定の長さの中に原稿をまとめるのは頭を使い、相当な時間を使いますが、手話通訳、英語通訳、礼拝に来られなかった人々に聖書のメッセージを伝えるために、毎週原稿を作成しています(400字詰め原稿用紙約18−20枚)。

*御言葉の意味を正しく知るために、31節で、ピリポがエチオピア人のそばに座り、イザヤ書の意味を個人的に説き明かしています。エチオピア人はイザヤ書3:7−8を読んでいたのですが(32−33節)、「ここで語られていることは誰のことを言っているのですか」と質問し、ピリポは、イエスキリストが人の罪の身代りとなり、十字架に命を捧げて下さったことを伝えています。ピリポはキリストを心に信じ受け入れているので、確信をもって「キリストを心にお迎えして下さい」という勧めをしています。道徳の教え、キリストの存在や性質という抽象的なこと、教会のこと、教団のこと、他の宗教の話を避けて、聖書に基づいて、今、生きている、救主であり主であるイエスキリストを伝え、キリストの恵みを分ち合い、キリストを心に迎えるように決断を促すことが重要です。教会ではファミリーの集まりがあり、キリストの恵みを分ち合っています。そこでは特別に教えたりせず、説教せず、人のことを批判せず、ただイエスキリストご自身を知ること、信じることに徹するようにし、ひとり一人がひたすらイエスキリストに縋り、お互いのために祈り合っています。聖書を正しく理解するとは、聖書を通してイエスキリストのことを知り、キリストを信じ、キリストに縋る信仰が強くなることを意味しています。



2、イエス・キリストの救いは人生に喜びをもたらす 8:36−40

彼は「わたしはイエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。そこで車を停めさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。(37−38節)

宦官はイエスキリストを信じ、洗礼を受けています。御言葉を通してキリストを信じた者は、洗礼という礼典を受けて、自分が生まれ変わったことを神様と人の前に公にして行きます。洗礼の条件は、「イエスキリストをまごころから信じる(心底から信じる)」ということだけです。

洗礼後、ピリポは主の霊によって宦官を離れて別の場所に行っています。宦官はもうピリポを見ることが出来なくなったのですが、「宦官はよろこびながら旅をつづけた」と記されています。彼はキリストを心に迎え、洗礼を受け、「私にはイエス様がついている」という信仰から来る確信に満たされて、主を讃美しながら故郷へ向っています。

洗礼の恵みの証しです。平野克己牧師が少年の頃、祖父の左耳の下には、大きなコブがあった。医者嫌いの祖父は病院には決して行くことがなく、このコブは俺の宝だと自慢していた。それは10年以上かけてゆっくりと育ち、やがてこぶし大になり、ついに崩れた。祖父はやっと医師を訪ねた。「宝」であったコブは癌化し、しかもそれが全身に転移しており、もはや治療手段はないとのことであった。家族が食後の一刻を楽しんでいた明るい部屋にベッドが運び込まれ、病室となった。肉体の衰えは早かった。泣きながら病状を話し合う母と祖母、痛みを訴える祖父に呼ばれ、ゴツゴツになった祖父の背中をさするのが当時中学生の私の仕事になった。クリスマスイブの日、女性伝道師が病床を訪ねて下さった。その時、祖父は洗礼を受けたいと申し出た。家族が教会に行くことは認めていたが、祖父は自分から礼拝に出席することはなかった。・・・クリスマスイブ夜、息子、娘、その伴侶たちと孫、約20名がベッドを囲んだ。雪の降る中、夜の礼拝を終えて大急ぎで駆けつけて下さった牧師は、枕辺で問うた。「生きる時も死ぬ時も、あなたがたなたのものではなく、真実な救主、イエスキリストのものであることを信じますか」。「はい」と祖父は明確に答え、病床で、滴礼により洗礼が授けられた。それから2時間、手を上に掲げて別れを告げると、間もなく呼吸が止まった。命にあふれたイエスキリスト、罪の赦しのイエスキリストを心に迎え、祖父は、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」(ルカ2:28−29)と告白したシメオンのように天に召されて行ったのである。

私が皆様に勧める事は、洗礼はなるべく早く受けるほうがよいということです。私事になりますが、高校2年で洗礼を受けたのですが、何か誘惑を感じる時など、聖霊が「私は洗礼を受けている。イエスキリストに従って行くのが私の人生である」という意識を与えてくれ、間違った方向に逸れて行かないようにブレーキがかかり、洗礼から今日に至るまでずっと守られていることを感謝します。

宦官は「よろこびながら旅をつづけています」(39節)。イエスキリストを信じて洗礼を受け、私たちの人生は喜びに変わります。この喜びは何があっても消えません。

ある少年が信仰を与えられ、うれしさのあまり、家に帰って「僕はきょうイエス様を信じた」と両親に告げた。すると父親から「何で外国の宗教を信じたのか」と叱られ、乱暴にも外に投げ飛ばされてしまった。不思議なことに投げ飛ばされた時、「僕がイエス様を信じているのは本当なんだ」と確信できた。叱られても投げ飛ばされても、イエス様を信じる心の喜びは消えず、逆にキリストを信じる思いがいっそう強くなった。少年は信じ続け、反対していた父親が後にクリスチャンになり、家族が救われるという恵みを与えられています。

先週も様々なことが起きた一週間でした。先週日曜日名和・智重兄姉の婚約のことが決まりました。火曜日は神学校分校委員会で朝から夜まで東京へ出かけました。その留守の間に一つの出来事があり、家内と倫夫・チャチャ先生が対処し、特にチャチャ先生が主の知恵によって事の処理に努力してくれて感謝でした。金曜日神学校関東分校に出かけたのですが、行きは高崎線が1時間遅れ、そのために20分程しか授業ができず、帰りも高崎線遅れが解消せず帰宅が遅くなりました。ところが私が出かけた直後に問題を抱えた来訪者があり、家内とチャチャ先生が対応してくれました。昨日土曜日、上野公園でホームレス伝道奉仕の時に教会留守番の愛雄より緊急事態の連絡があり、そこに電話をするという事がありました。先週はメールが殺人的に多く、一つ一つ祈りを込めて返信しました。家内は、あちこちへ電話をし、手紙を書き、多くの来訪者に対応し、個人伝道講座、求道者クラスを受け持って目が回るような日々でした。そうした中にあって仕事が決まった人がいる、健康状態が良い方向に向かっている人がいる、恵みと慰めの便りがあるなど嬉しいことも多くありました。様々な事柄の続発の中にあって、塞ぎ込むことなく、不眠になることなく、食欲も減退せずに守られていることは、皆さんの祈りがあり、家内の支え、倫夫・チャチャ先生の良き奉仕がある故であることを感謝します。宦官はキリストを信じ洗礼を受け、よろこびながら旅を続けて行きました。私もキリストを信じて行くならば何が起ころうとも、喜びの人生をおくることができる。神の聖霊によって、「イエス様が心の内にいて私は生かされている(ガラテヤ2:20)。生きておられる主が私を導いて下さっているから、何があってもへこたれない。万事は益に変わって行く」という励ましが与えられ、祈りが与えられている、これこそが喜びながら信仰生活をして行くことであると感謝しています。



まとめ

1、30,34−35節、聖書に基づいてイエス・キリストを伝えることが大切です。そのために聖書をしっかり読み、教会の集会で聖書のメッセージを聴き続ける。イエスキリストの恵みを分かち合う、キリストに従う決断をもって祈りましょう。

2、37−38節、イエスキリストの救いを受けていることを感謝し、喜びの日々を歩んで行きましょう。イエスキリストを信じている方々は洗礼を受けて、ますます主に従って行くように祈って下さい。



祈 り 主である神様、私たちは神様から遠く離れていた者ですが、アメリカより宣教師が遣わされ、イエスキリストを信じる者が起こされ、その働きが引き継がれて多くの方々が教会に加わっていることを感謝します。教会が聖霊に導かれ、聖書に基づき「キリスト喜び、キリストを伝える教会」として前進して行くように導いて下さい。私たちの救主、主イエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献使徒注解―フランシスコ会、佐藤、モルガン、榊原、竹森、LABN、黒崎、文語・口語略解。「信徒の友・日キ教団」