御言葉と祈りの恵み 使徒行伝20:17−21:6 主の2007.7.8礼拝
今までに多くの先輩牧師に会い、たくさんのことを教えていただき、祈ってもらい、励ましを受けたことを感謝しています。先輩牧師の大部分は天に召されて行きましたが、それらの方々を思い起す時には御言葉と共に思い出すことができます。「わたしにとっては生きる事はキリスト」(ピリピ1:21)という御言葉と共に思い出されるのは豊留師です。癌で入院し、ベッドに座って、「我らの国籍は天にあり」(ピリピ3:20)と天を指差したのは力丸師です。「絶えず祈りなさい」(Tテサロニケ5:17)との御言葉に従い、毎朝4時に起きて、執り成しの祈りを捧げていたのは吉野師です。イエス・キリストは「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)と言われました。人は死んで行きます。価値の基準は時代によって変ることがあります。しかし、神が永遠であるように、神の御言葉は永遠に変らない神の御心を教えてくれますので、神の御言葉に従って生きることが最善であることを知ることができます。
本日は使徒行伝20:17−21:6です。20:18−35までにパウロのメッセージが記されています。彼はミレトの地からエルサレムに向かい、その後に世界の都ロマを目指し、さらに世界の果てと言われていたイスパニアにまで福音を宣べ伝えようとしています。しかし前途に何が起るか予測できないし、途中で殉教するかも知れない。そこで彼は自分の遺言のようにして20:18−35のメッセージを語ったのですが、20:32で、「今わたしは、主とその恵みの言(ことば)とに、あなたがたを委ねる。御言(みことば)には、あなあがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国を継がせる力がある」とエペソの長老たちに教えています。パウロは、「私はいつまでもあなた方と共にいることは出来ない。私が去った後に外部からは迫害、内部からは間違った教えを言い出す者、派閥を作り出す者などが現れる。だから私が3年に渡って教えたことを忘れないでほしい(29−31節)。神の御言葉があなた方の信仰の道を照らす光となる(詩篇119:105。主イエスキリストに縋って、神の御言葉に導かれて天国へ進んで行きなさい」とエペソの長老たちを励ましています。
今朝、主の御言葉に耳を傾け、主に従う決断をし、祈って、新しい週を出発して参りましょう。
内容区分
1、信仰の二つの大事な内容をしっかり信じて行く 20:17−27
2、信仰は神の御言によって導かれる 20:28−35
3、信仰は祈りによって支えられて行く 20:36−21:6
資料問題
20:18−35パウロの説教。ピシデヤのアンテオケでのユダヤ人への説教(13:16−41)、アテネでの異邦人への説教(17:22−31)の後の、この説教は重要なもの。内容は18−26節、ユダヤ人の罪に対してパウロ自身は責任がないこと、27−31節、長老たちに教会の指導の重要性と偽教師への警戒、32−35節はパウロの模範に倣い、長老たちに任せられた羊のために全力を尽くせと勧めている。19節「謙遜」、パウロの手紙に5回出る(エペソ4:2、ピリピ2:3、コロサイ2:18,23、3:12)。「涙を流し」、Uコリ2:4、ロマ12:25、ピリピ3:18を見よ。28節「自分自身に気をつけ」、Tテモテ4:16を見よ。29節「おおかみ」、偽教師と異端者のこと。キリストも同じ言葉で偽預言者を指している(マタイ7:15)。36節「ひざまずいて祈った」、21:5「共に海岸にひざまずいて祈り」、当時は立って祈ったが、強く深い信仰の思いに満たされて、一同はひざまずいて祈ったのである。
1、信仰の二つの大事な内容をしっかりと信じて行く 20:17−27
ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔改めと私たちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである。(21節)
教会の聖書日課、新約聖書に従い、早天祈祷会では使徒行伝から3名が交代でメッセージを語り、執り成しの祈りを多く捧げています。今朝の礼拝は使徒20:17−21:6が中心です。
パウロは3回目の世界伝道中ですが、ミレとに着いた時、「エペソに使いをやって、教会の長老たちを呼び寄せ」ています(17節)。ミレとからエペソまでは徒歩で一日の距離にあり、長老たちが集まってきた時、パウロは別れのメッセージを語っています(18−35節)。このメッセージをとおして、パウロが何を中心にして伝道してきたかを知ることができます。パウロが「公衆の前でも、また家々でも、すべてあますところなく話して聞かせ、また教え」(20節)たのは、次の二つです。
それは、「神に対する悔改め」と、「主イエスに対する信仰」(21節)です。
神とは天地を創造されたまことの神様のことです。悔改めとは方向転換のことです。神様に背を向けていた者が、神様に向き直るという意味の方向転換です。なぜ人間は神様に背を向けているのでしょうか。それは人間に罪があるからです。もともと人間は神様の霊を受けて生きる者になったので、動物にはない人間独自のものがあります。人間には神様を礼拝する心があります。どんなに神がいないと言う人であっても、苦しいことや病気になると思わず「神様、助けて下さい」と叫んでいます。神様に言葉があるように人間には言葉があります。言葉のわかる賢いチンパンジーがいると言いますが、何万頭いる中の一匹が、たまたま人間の言葉のほんの一部分が分るらしいということです。人間は全ての人種、民族に言葉があって小さい時から話をしています。さらに人間には考え、決断する力があります。罪を犯して神様に背を向けていた人間が、罪を認めて180度の方向転換をして神様を見上げることが「神に対する悔改め」です。しかし、罪ある人間が神様のほうを見ると、義であり、きよい光である神様は、罪を滅ぼすお方ですから、人間は滅ぼされてしまいます。そこで神の御子であるイエスキリストが人間の罪の身代りになって十字架に死んで下さったのです。「私には罪がある。罪を赦すためにイエスキリストが十字架にかかって私の身代りになって下さった」という信仰をもって、罪を悔改めてイエスキリストを心に迎えれば、罪が赦されて神の子になり、神様を見上げる事ができます。皆さんは神の子になって礼拝を捧げています。神の子であるので、聖霊に導かれ、言葉をもって神様にお祈りできる者になっています。神様の御心を第一に考え、神様に従って生きるという決断をして信仰生活を続けている者になっています。
Aさんは、人間まじめに生きていれば、誰にも頼らずに生きて行けるという信念を持ち、とにかく真面目に一生懸命に仕事をした。無事定年を迎えた。これからは少しノンビリして生きようと考えた。しばらく平穏な日が続いた。だが健康そのものであった体に異変が起き、ベッドに臥すことが多くなってしまった。神仏に頼らずとも、真面目に生きていれば、誰にも頼らず自分の力で生きて生けると思っていた。元気で健康なうちは良かったが、ところがベッドに臥すようになって、食べることもままならず、動く事も不自由である。家族に世話になり、医者にご厄介になっている。そこで始めて、人間を越えた何かに縋りたいと思ったが、何に縋って良いか分らない。このまま自分は朽ち果てて終わってしまうのかと思っていた。でも神は愛です。不思議な?がりを通して、Aさんを訪ねてきてくれたクリスチャンがいた。人間を創造されたまことの神様がおられる事、罪のためにイエスキリストが十字架にかかって死んで下さった事を教えられ、Aさんは罪を悔改め、イエスキリストを心に迎え入れ、神様のほうに向き直って生きるようになった。Aさんのうちに「神に対する悔改め・主イエスに対する信仰」が実現し、残る人生を平安に包まれて生きることが出来たのです。私たちも「神に対する悔改め・主イエスに対する信仰」を与えられていることを感謝しましょう。
2、信仰は神の御言葉によって導かれる 20:28−35
だから、目をさましていなさい。そして、わたしが3年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとり一人を絶えず諭してきたことを、忘れないでほしい。今、わたしは、主とその恵みとの言(ことば)にあなたがたを委ねる。御言(みことば)にはあなたがたの徳を立て、聖別された全ての人々と共に御国を継がせる力がある。(31−32節)
先週の水曜日、倫夫先生から、パウロがキリストの愛を受けて迫害者から愛の人に大転換したという幸いなメッセージがありました。パウロはキリストを信じる前はクリスチャンを捕らえ、牢にぶちこむという荒っぽいことをしていた人でした。しかしキリストによって救われ、聖霊によって神の愛を受けてから、19節、31節にあるように人々のために涙を流して祈っていることが彼自身の口から語られています。イエスキリストも罪に苦しみ、死んで行く人間のことを思って何回も涙を流して祈っています。ラザロの墓の前でキリストは涙を流しています(ヨハネ11:35)。悔改めずに滅び行くエルサレムの行く末を思って泣いて祈っています(ルカ19:41−45)。私たち人間の救いのために、ゲッセマネの園では激しい叫びと涙のうちに血の汗を流して祈って下さいました(ルカ22:24、へブル5:7)。パウロは数々の迫害、試練の中にあって、謙遜の限りを尽くして人に仕え、涙を流しています。皆さんは人のために涙を流して祈ったことがあるでしょうか。家族の救いを願っている方、或いは友の救いを願っている方、また友の病気の癒しを願っている方などは、イエスキリストの涙、パウロの涙に共感できると思います。
ある教会に傲慢な人がいて、牧師の悪口を言い、挙句の果てに仲間を誘って教会を出て行った。その時に牧師は弁明しなかった。辛い気持をもって、ひとり講壇の前にひざまずいて涙をもって主に祈り、出て行った者の上に主の憐れみを祈った。それを知った教会の若者が「自分も愛を実践する者にさせて下さい」と祈り、やがて主に献身して行くようになりました。人知れず、主の前に涙をもって祈った祈りは必ず主の御許に届いて、大きな影響を人に及ぼして行きます。
パウロは「あなた方を主とその恵みの言(ことば)に委ねる」と言っています。「恵みの言」とはキリストの教えのことです。それに続いて「御言(みことば)には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国を継がせる力がある」と言われています。
「徳をたてる」とは、一つにはキリストの御言葉に従ってクリスチャンとしての品性が高められて行くことを指しています。二つには「徳をたてる」には建築するという意味があるので、クリスチャンが教会のそれぞれの部分として奉仕をし、賜物を生かし、教会形成をして行くということを意味しています。きょうも礼拝で様々な形で奉仕が捧げられ、キリストの栄光が表されていることを感謝し、祈っている方々、実際に奉仕に与っている方々の上に主の祝福を祈っています。
少し逸れますが、大事なことですが、私たちの教会の方針をご存知であると思います。
第一は、伝道はネームレスによる個人伝道を推進することです。個人的にイエスキリストの十字架の救い、永遠の命の恵みを伝え、信じるように導くことが大切です。今回ラブソナタにノンクリスチャンを誘った方は、集会でイエスキリストの救いが語られるので、それでよいとは思わないで下さい。その方に個人的にキリストを心に迎えるように導かないと、救いのことがわからないままになってしまいます。
第二に、教会の形成はファミリーによる祈りの家族の推進によってなされます。
第三に、祈りです。朝の祈りは一日の祝福になります。また何事でも主イエスキリストのお名前によって祈り、主の導きと助けとをいただいて行くことが祝福を得る秘訣です。
本題に戻って、イエスキリストの教えを受け入れ、教会生活に励む時に、「聖別されたすべての人々」、つまり神を信じるすべての人々と共に、私たちは「御国をつぐ」者になるのです。御国とは天国のことです。誤解しないで下さい。天国は死んでからのことではありません。天国の命はこの世から始まります。すなわちキリストを信じることによって、神様から新しい命が与えられ、神様の支配の中に感謝と喜びとをもって生活するという、新しい命の日々が既に始まっています。やがて私たちは死を迎えますが、私たちは天国に移されてイエスキリストと共に永遠に生きることが出来るのです。
英国のスポルジョンに「ただ恵みによって」いう説教集があります。その最期で彼は訴えています。「皆さん、天国で私と会って下さい!地獄へ行ってもらっては困るのです。悲惨な地獄の住いから再び帰ることはできません。・・・みことばを手に取り、イエスのもとに来なさい・・・もう一度あなたに申し上げます。『天国で私と会って下さい』」。
3、信仰は祈りによって支えられて行く 20:36−21:5−6
こう言って、パウロは一同と共にひざまずいて祈った(20:6)。みんなの者は、妻や子どもを引き連れて、町外れまで、わたしたち見送りにきてくれた。そこで、共に海岸にひざまずいて祈り、互いに別れを告げた(21:5−6)。
両方の場面で、一同はひざまずいて祈っています。ユダヤ人や当時の人々は立って祈るのが普通でした。私がエルサレム・嘆きの壁の前に行った時に、大勢のユダヤ人が立って熱心に祈りを捧げているのを見ました。パウロ達がひざまずいて祈っているのは、イエスキリストの愛に圧倒され、敬虔な気持をもって祈っている姿を現しています。イエスキリストはゲッセマネの園で、十字架にかかる前に、神様の前にひざまずいて祈っています(ルカ22:41)。
エペソの長老たちとは交わりが長いので、心を一つにして祈れるということが分ります。ツロの人たちとはたった一週間の交わりです。しかし、彼らはパウロたちを見送るために町外れまで出て来ています。しかも港の雑踏の中で海岸にひざまずいて祈っています。
この場面から教えられることが二つあります。
一つは、この祈りに全家族が参加していることです。使徒行伝で子供が登場するのは唯一この場面だけです。ここに使徒行伝16:31の「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」という御言葉の成就を見ることができます。
二つは、彼らは雑踏の中で、公衆の中で、恥ずかしがらずに、妻も子供も加わってひざまずいて祈っています。それほど彼らの中に祈りが浸透し、生活が祈りを中心にしていたことを知ることができます。人込みの中で祈るということですが、私たちの霊的恩師である豊留先生を熊谷駅ホームまで送って行ったことがあります。私たち夫婦の他に、豊留先生に個人的な相談をしていた方も一緒でした。四人でホームに立っていたのですが、相談の件の区切りがついた時に、「祈りましょう」と言って、四人で小さい輪を組んで先生が祈りました。周りには列車を待っている人で混雑していたのですが、祈り始めた時にそこだけ不思議な静寂が支配し、周りの人が気にならず、祈り終わる頃、列車がやって来て先生を見送ることができました。
祈りましょう。あらゆる場面で祈りましょう。個人で祈りましょう。夫婦で祈りましょう。全家族で祈りましょう。信仰の友と祈りましょう。
まとめ
1、20:21、信仰の二つの大事な点は「神に対する悔改め・主イエスに対する信仰」です。
2、20:31−32、パウロは人々のために涙の祈りを捧げています。信仰は神の御言葉によって導かれます。主とその恵みの言葉に縋って行く時に、自分が恵まれ、また教会にあって役割を果たすことができ、天国への道を歩んで行くことができます。皆で天国へ向って行きましょう。
3、20:36,21:5−6、信仰は祈りによって支えられて行きます。今朝も主イエスキリストのお名前によって祈りましょう。
祈 り
創造主である神様、神の聖霊に導かれて神様に対し悔改め、主イエスキリストの十字架を通して罪を赦され、復活された主イエスキリストによって永遠の命を与えられていることを感謝します。家族、友の救いのために涙をもって祈り続ける愛を与えて下さい、どんな時でも聖書の御言葉に従って行き、またどんな事でも主イエスキリストのお名前によって祈って行くように、祈りを与えて下さい。各家長を用い、ファミリーを祝福して下さい。ゴスペルを祝福し、夜の礼拝を祝福して下さい。八月の軽井沢キャンプを祝福して下さい。主イエスキリストのお名前によって祈ります、アーメン。
参考文献使徒注解―佐藤、榊原、フランシスコ会、バークレー、LABN、竹森、文語・口語・新共同訳略解、黒崎、米田、モルガン。「ただ恵みによって・スポルジョン・ことば社」