主イエス・キリストを宣べ伝えよ 使徒28:11−30         主の2007.7.15礼拝



私が小学生の頃アメリカのプロ野球・サンフランシスコ・シールズが来日し親善試合を行いました。大リーグを一軍とすれば、シールズはその下の下・三軍でしたが、日本のプロ野球チームは歯が立たないほど実力に差がありました。その時から50年後、高度の野球技術を身につけた松坂、イチロー、松井など日本人がアメリカの大リーグで活躍する時代になっています。先日アメリカプロ野球選手の中から選ばれた選手によって全米オールスターゲームがあり、日本人選手が3名選ばれていました。その一人、37歳の斉藤投手は選ばれた時にインタビューで、「悔いを残さず、一球一球を積み重ねてきた」と言っていました。37歳といえば野球選手では年寄りに近いのですが、それであればこそ、今日が最後と思って一球一球投げてきた事が、オールスターに選ばれるという良い結果につながったのです。

本日は使徒行伝28:11−31です。使徒パウロが、迫害により逮捕されましたが、不思議な方法で世界の都ロマに護送され、囚人でありながら家を借りることを許され、「はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え続け」(30−31節)ました。パウロは後に、「御言(キリスト)を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それ励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」(Uテモテ4:2)という遺言を残していますが、それは彼の人生そのものを言い表したものです。彼は、信仰の故に囚人になった事を嘆いていません。幸いにも家を借りられましたが、囚人なので、右手は常に番兵とつながれている不自由な生活でしたが、彼は不平不満を訴えていません。パウロはただひたすら主イエス・キリストのことを伝道し続けています。斉藤投手は一回一回を最期と思って全力を傾けてピッチングをし、オールスターの一員になるという栄誉を得ました。パウロはどんな境遇の中にあっても、イエス・キリストの福音を伝えることに徹しています。その表れとして、彼は自分の事を祈る前に、各地の教会、クリスチャンのために祈っています。ロマからエペソ、ピリピ、コロサイ教会、ピレモン宛に合計四通の手紙を記し、それらは聖書となっています(獄中書簡と呼ばれている)。

今朝、使徒行伝を通して、主のメッセージを聴き、主に従う決断をし、祈って、新しい一週間の旅路へと出発して参りましょう。



内容区分

1、神に感謝し勇み立つ信仰 28:11−16

2、悔改める信仰 28:17−28

3、主イエス・キリストを伝え続ける信仰 28:3−31



資料問題

13節、ポテオリからロマまでは200キロ。15節、アピオ・ポロはロマから66キロ、トレス・タベルネはロマ郊外46キロ。16節、パウロは獄に入らずに家を借りて生活したが、番兵に監視され、右手は兵士の手につながれていた。17節「重立ったユダヤ人」、当時ロマに離散ユダヤ人が4−5万人いた。重立った者とは当時13あった会堂のかしらであろう。20節「イスラエルのいだいている希望」、イエスキリストにおいて実現した死者の復活を指す(23:6、24:15,21、26:6−8)。

26−27節はイザヤ6:9−10の引用。意味は「もし罪深い民も、神のことばに信心深く耳を傾けるならば、回心に至ることが出来る。これに反し、もし神のことばに耳を傾けず、それを実行しようとしないならば、彼らの心は、さらに頑ななものとなる」。28節「神のこの救いの言葉は異邦人に送られたのだ」、パウロはユダヤ人が福音を拒む時、異邦人へ伝道した。これはパウロの一貫した伝道方針であった(13:46−47、18:6)。



1、神に感謝し勇み立つ信仰 28:11−16

ところが、兄弟たちは、わたしたちのことを聞いてアピオ・ポロ及びトレス・タベルネまで出迎えてくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し勇み立った。(15節)

*メッセージに先立ってお尋ねします。「先週も日々聖書を読みましたか・・・」。キリストは、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」と言われました(マタイ4:4)。クリスチャンが聖書を読まなければ、表面は元気で、うまくやっているように見えたとしても、内面の霊的命は枯れた状態になって行きます。祈りがなくなり、心に平安がなくなり、イライラしてきます。

*聖書を読んで下さい。教会聖書日課は、現在旧約は歴代志下、新約聖書は使徒行伝(明日からロマ書)を一日一章ずつ読んでいます。このペースで行くと旧約聖書を2年5か月半ほどで読めます。旧約全体を読む間に新約聖書を3回半読むことができます。一日に旧約1章、新約1章ですので無理をせずに、しかも全体を確実に読むことができます。本日は新約聖書日課使徒行伝28章です。

使徒行伝には、初代教会がペテロとパウロを中心にして伝道し、全世界に教会が増え広がってく様子が生き生きと記されています。本日の個所には、使徒パウロは信仰の迫害により逮捕されましたが、ロマ市民権を行使してロマ皇帝直々の裁判を求め、世界の都ロマに護送されたことが記されています。彼は牢獄に入らずに一軒の家を借りましたが、囚人ですのでパウロの右手は番兵の手と紐で繋がれていました。しかし彼に会いに来る人々に面会できたので、訪れる人々にキリストの福音を伝えています。

13節にあるポテオリからロマまで200キロあります。14節では現地の教会に7日間滞在し、交わりを深めたことが記されています。ロマのクリスチャン達は、パウロ一行が近づいたことを聞き、ロマから66キロ離れているアピオ・ポロまで、さらに46キロ離れているトレス・タベルネまで出迎えに出ています。当時の交通手段は歩きだけですから、ロマのクリスチャン達のパウロとその仲間への祈りと愛の深さを思うことができます。パウロはクリスチャン達の出迎えを受けて、「神に感謝し勇み立って」います(15節)。

「神に感謝し勇み立った」のは、初めての土地であるにも関わらず、信仰の仲間に会えたからです。神様の配慮は実に行き届いています。信仰の仲間に会い、「自分はこれらの人によって祈られている。わたし一人ではない」という勇気がパウロの内に湧いて来たのです。私たちのためにも祈ってくれている大勢の方々がいます。以前ヨーロッパの宣教団体の徹夜祈祷会で、私のために祈ってくれたという手紙をもらい感謝したことがあります。私のために祈ってくれている人がいるのは大いなる感謝です。皆さんも祈られています。何よりも天において、私たちの主であるイエスキリストが、天の神の右に座し、わたしたちのために執り成しの祈りをささげておられます(ロマ8:34参照)。

神に感謝し勇み立つ信仰生活の秘訣は、祈り合うことです。「最悪の罪は祈らないことである」と言った神学者がいます(フォーサイス)。お祈りしていますか。もちろん祈っていると思いますが、特に人のために祈っていますか。人のためにたくさん祈っていますか・・・家族の救いを願っている方、病気の方、試練の中にある方など祈りを必要とする方が多くいます。祈って下さい。



2、悔改める信仰 28:17−28

そこで日を定めて、大勢の人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。ある者はパウロの言うことを受け入れ、ある者は信じようともしなかった。(23−24節)

パウロは、拘束された生活ですが、訪ねてくる人々と会うことが出来たので、重立ったユダヤ人指導者に来てもらっています。重立ったユダヤ人とは、ユダヤ人会堂の指導者のことです。パウロは、彼らを論破するために集まってもらったわけではありません。彼らに何とかしてキリストの福音の真髄を知ってもらいたい。同じユダヤ人である彼らがキリストによって救われてもらいたいということを願っているのです。パウロの真情は、「わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身が呪われて、キリストから離されても厭(いと)わない」という言葉によって表されています(ロマ9:3)。

そこで、パウロは日を定めて、「朝から晩まで語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言書の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた」のです(23節)。ユダヤ人達は、かつてはユダヤ教のパリサイ派に属し、今はキリストを伝える伝道者であるパウロから直接に話を聴いています。パウロは朝から晩まで熱心にキリストのことを伝えていますが、彼の人々への愛が滲み出ています。

パウロの語った第一のことは、天地万物の創造主である神様のこと、神の国のことです。

第二のことは、旧約聖書に基づいてイエスが救主キリストであることを証言しています。

イエス・キリストは突然に現れたのではなく、古くは旧約聖書の創世記に救主イエス・キリストのことが預言され、さらに代々の預言者を通して預言され(例:イザヤ53章)、時満ちてイエス・キリストがこの世に来られたこと、キリストは十字架と復活によって救いの道を開いて下さったこと、イエス・キリストを信じ受け入れる者は神の子になる恵みを与えられるということを伝えたのです。伝道とは神の国とイエス・キリストを宣べ伝えること以外にはありません。もし、それ以外のことを伝えようとするならば、それは災いをもたらすだけです。人を罪から救い、永遠の命を与えるのは、イエス・キリストの十字架と復活の福音だけです。



*本日の午後、ネームレス伝道の集まりがあります。純粋にイエス・キリストのことを伝えるための集まりです。聖書に基づいてキリストの十字架と復活をそのまま伝え、その結果多くの方々が救いに導かれています。家族の救い、友人の救いを願って、祈り、出かけ、手紙を送る大切な集まりです。祈って下さい。やがて主の再臨があります。その時の来る前に、心から家族や友の救いを願う方々はぜひ集まって下さい。



キリストを宣べ伝えた結果、「ある者はパウロの言うことを受け入れ、ある者は信じようとしなかった」と記されています(24節)。本当の福音が語られた時は、必ず、信じる人と信じない人とに分れます。高校生の頃、5人ぐらいの友人と教会に行っていましたが、大学進学、やりたいことがあるなどの理由で去って行ったので、キリストの福音を聴いても、受け入れる者、受け入れても持続しない者などがいることを体験しました。ユダヤ人もキリストを信じる者、信じない者になっています。そこでパウロはイザヤ書の御言葉を引用して、「ユダヤ人たちが悔改めていやされることがない」者になったので(27節最後)、キリストの救いはユダヤ人以外の民族・国民に伝えられて行くと告げています(28節)。

私たちは、聖霊に導かれ、罪を悔改めてイエス・キリストを信じ、生まれ変わり、神の子にされていることを感謝します。人は悔改めない限り、救われることはできません。悔改めれば、救いを受け、永遠の命を受けることができます。

悔改めのもたらした素晴しい祝福の実例を思い出します。

2000年8月、アムステルダム世界伝道会議で、かつて宣教師を殺した者が証をし、その通訳を殺された宣教師の息子であるスティ−ブがしたのです。実は1956年エクアドルのジャングル地帯で5人のアメリカ人宣教師が行方不明になったのです。調査の結果、現地のアウカ族が宣教師たちが自分たちを殺しに来たと思って、全員を槍で殺してしまったことが判明し、そのニュースは世界に衝撃をもたらしました。未亡人5人と9人の子ども達が残されました。それから2年半後、なんと一人のアウカ族の女性が殺された宣教師の夫人エリザベスを訪ねてきて、自分達の村へ来てほしいと要請した。エリザベスは亡き夫の意志を継いで、命懸けで現地に入りキリストの福音を伝えた。アウカ族は5人の宣教師が銃を持っていたのに無抵抗で殺されたことを思い起し、彼らはキリストを信じ、現地に教会が建ったのです。

アムステル伝道会議で、かつて宣教師を殺した者は証しました、「我々は先祖以来、憎しみ、殺し合いの連続であった。スティーブのお父さんを殺した時、私の心は真っ黒で、罪に汚れていました。しかし宣教師が神様のことを教えてくれ、神の独り子であるイエス・キリストの十字架により、私の心は白くされました。今は、宣教師ではなく、私たちが福音を伝えています。私の願いは、創造主である神様を伝道しに来てくれた5人の宣教師と共に天国で平和に暮らすことです」。

キリストの救いを伝える最初の5人は尊い殉教の死を遂げました。しかし、それはムダにならず、かつての殺人者がキリストの救いを受けて、それを全世界に向って証をしたのです。その恵みは、アウカ族の一人一人が悔改めたことによって与えられたのです。私たちも聖霊に導かれ、悔改めて神の子にされていることを感謝し、主の恵みをほめ讃えます。

3、主イエス・キリストを伝え続ける信仰 28:30−31

パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え続けた。(30−31節)

以前パウロは、「わたしとしての切なる願いは、ロマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである」(ロマ1:15)ということを祈り願っていましたが、その祈りは迫害と苦難の旅を通して実現しました。今、彼は信仰の故の囚人ではありますが、しかし人に会う自由を与えられ、訪ねて来る全ての人に、はばからず妨げられることなく、キリストの福音を教え続けています。

ところで、使徒行伝はパウロの伝道活動について詳しく記していますが、彼の死については記していません。何故なら、聖書において死が問題になるのは、イエス・キリストの死だけです。キリストの伝記である四つの福音書はキリストの十字架の死を詳しく記しています。パウロはキリストの十字架について語り、そしてキリストの死の意味について人々に教え続けていたのです。彼にとってはキリストを伝えることが最も大事なことであったのです。やがてキリストの伝記である四つの福音書と、キリストのなされた十字架の意味について記したパウロなどの手紙が一つになり、現在の新約聖書となっています。

「たずねて来る人を迎え入れる」と言われていますが、これは許される機会を逃さないで、キリストを伝えることです。私の母教会におばちゃんがいました。礼拝中に近所の人が、「家にお客さんが来ています。息子さんのお見合いの仲人です。早く帰って来て下さい」と言いに来ました。そうしたら「私は大事な礼拝中です。お客に礼拝に来るように伝えて下さい」と言って、また礼拝メッセージに耳を傾けていました。そのおばちゃんの姿を通して、第一に、言葉をもってキリストを直接に伝えることが大切であること。そして、第二に、礼拝を捧げるという姿を通してキリストを表すことの大切さを教えられました。礼拝をしっかりと守ったおばちゃんの息子さんは後に結婚しました。

礼拝を守るということですが、高知教会奉仕役員で、帝国議会議長を務めた片岡健吉(1843−1903)は礼拝最優先の生活をしていました。多忙な政治家でありながら、日曜はいっさいの仕事を休み、玄関には<信仰のお話以外の面会はお断り>という札をかけて日曜日に来るお客を断る、帰らない人は礼拝に同行させたということです。教会では玄関番(受付)を買って出、新しい方々などを優しく迎え入れ、「私は高知教会の玄関でクリスチャンになった」という人が何人もいたそうです。

私たちも日曜礼拝を最優先して行くようにお互いに祈り合って下さい。



まとめ

1、15節、聖書を読みましょう。神に感謝し勇み立つ信仰は互いに祈り合うことによって与えられます。イエス・キリストは天において私たちのために祈っておられます。私たちも人のために祈りましょう。

2、23−24節、創造主である神様のこと、救主イエス・キリストを伝えることが伝道です。信じる者が起こされることを信じ、キリストを伝えましょう。私たちは、悔改める心を与えられて、神の子になっていることを感謝しましょう。

3、30−31節、イエス・キリストを伝え続けましょう。イエス・キリストを礼拝する生活を最優先して行きましょう。そのためにお互いに祈り合って行きましょう。



祈 り 天地の主である神様、イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、復活によって永遠の命が与えられていることを感謝します。聖書を読み、家族、教会員、友のために祈って行くように導いて下さい。私たちは悔改めて救われることが出来ました。キリストの福音を聴いた者が聖霊によって悔改め、神の子になるように導いて下さい。どんな時でもキリストを伝え、礼拝最優先を実践できるように導いて下さい。病気の方を癒し、試練の中にいる人を助けて下さい。イエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献使徒注解―佐藤陽二、榊原康夫、モルガン、フランシスコ会、黒崎幸吉、LABN、文語略解。「祈りの精神・フォーサイス・ヨルダン社」、「ジャングルの5人の殉教者」