声をかけ、救い、見守る救主イエス・キリスト ヨハネ5:1−14          主の2007.7.22礼拝



クリスチャン作家三浦綾子さんは若い時に脊髄カリエスを患い、7年間の長きにわたりギブスベッドに寝たっきりの生活をしていました。彼女がキリストを信じて洗礼を受けた時、司式の小野村林蔵牧師から、「必ず直りますよ」という信仰の励ましを受けます。彼女は愛する人に先立たれるという試練を体験しますが、後に敬虔なクリスチャン三浦光世さんに出会い、退院後に結婚します。結婚してから、朝日新聞「一千万円懸賞小説」に応募し、人間の原罪をテーマにした「氷点」で第一位をとり、「塩狩峠」、「細川ガラシャ」などキリストの心を伝えるクリスチャン作家として、目覚ましい活躍をします。彼女の信仰が鮮明に表されている、自伝「道ありき」を読んで、クリスチャンになった人が多くいます。三浦綾子さんの病床生活を支えたものは、キリストを信じる信仰、「直りますよ」という牧師の励ましとクリスチャン達の祈りです。彼女は生涯にわたって、小説、エッセー、講演を通してキリストを伝道します。晩年は帯状疱疹などの病気と闘いながら、信仰を全うし天国へと召されて行きました。召天後、旭川に三浦綾子記念館が設立され、多くの人が訪れています。

本日はヨハネ5:1−14です。38年間も寝たっきりの人がキリストによって癒され、健康を回復していることが記されています。三浦綾子さんはキリストの救いを受け、本人も家族も諦めていた結婚をし、人々の心の糧になる小説を著すために用いられました。本日の聖書に出てくる38年間病気であった人は、イエス・キリストによって体の回復を与えられ、その後、キリストは彼に「罪を犯すな」という御言葉によって霊的ケアをしています。このことは、キリストは肉体が回復すること以上に、霊の回復を願っておられることを示しています。

今朝、キリストは「なおりたいのか」と言われます。この御言葉の中に、私たちの霊的必要、健康のこと、家族のこと、経済のことなど全ての事柄が含まれています。聖霊の助けにより、自分の願い、求めを祈る時に、主の助けが与えられて行きます。しかし、その前に主のメッセージを聴いて霊の祝福を受けましょう。そして、祈って、今週も恵みの日々となることを信じて前進いたしましょう。



内容区分

1、キリストは失われた者を尋ね歩く救主である 5:1−5

2、キリストは人生を新しくする救主である 5:6−13

3、キリストは祝福の秘訣を教えて下さる救主である 5:14

資料問題

1節「ユダヤ人の祭」、ユダヤ人の男は、年に三回、「過越の祭」(3月―4月)、五旬節の祭(5月―6月)、「仮庵の祭」(9月―10月)のために、エルサレムに上った(出23:17)。キリストは2:14に過越の祭、7:2−10に仮庵の祭に行っているので、この個所は五旬節であると言われている。2節「ベテスダ」、恵みの家の意。5節「38年の病気」、病気が絶望的であることを示している。8節「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」、安息日を超越し、また相手の信仰の有無に関わらず、キリストの力が発揮されている。14節「ごらん」、癒されたことに対する注意を促している。「もう罪を犯してはいけない」、38年間の病気の原因が罪にあったことを指摘。

*疾病不幸の原因:@罪の結果(マタイ9:2、ヨハネ5:14)、A罪より遠ざけ、肉の生活から離れさせるため(Tペテロ4:1−3、へブル12:10)、B信仰の従順を試みるため(ヨブの例)、C神の特別な目的のため(ヨハネ9:1−12)。



1、キリストは失われた者を尋ね歩く救主である 5:1−5

エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。その廊の中には病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大勢からだを横たえていた。(2-3節)

熊谷では、金曜から本日まで「うちわ祭」という八坂神社の祭が行なわれ、朝から夜まで、「チャンチキ・チャンチキ」という鐘・太鼓のお囃子が聞こえています。1節、キリストはユダヤ人の祭のためにエルサレムに来ています。ユダヤ人男性は年に3回祭のためにエルサレムに行きましたが、この個所の祭は、五旬節の祭で収穫を感謝する時でした。祭には華やいだ、賑やかなイメージがあります。大勢の人々が集う祭のまん中で、キリストが立ち上がってメッセージを伝えれば、有名になり、福音が伝え易くなったかもしれません。ヨハネ7章の仮庵の祭では、キリストは立ち上がって大勢の人々に語りかけています。ここでは、キリストは祭を離れて、大勢の病人が臥せっているベテスダの池に行かれました。病人たちがベテスダの池のそばにいる理由はたった一つ、3−4節にあるように(新共同訳巻末、新改訳欄外)、時々池の水が動く時、一番に池に入れば病気が直るということを信じて待っているのです。キリストは、祭を離れ、わざわざ大勢の病人がいる所へ行き、その中で38年間も寝たっきりの人に近づいています。この人は「動くことが出来ないし、誰も自分をかまってくれない」という絶望の日々を、当てもなく池のそばで日を過ごしていたのですが、突然現れたキリストが声をかけてくれたのでビックリしたと思います。ここにキリストの愛があります。

キリストは、私たちをひとりの人間として見ておられます。キリストはここに100名ほどの人数が集っているという十把一絡げ、一山いくらというような見方はしません。ひとりひとりの名前を呼んで下さる主です。キリストは名前を呼んで私たちを助け、導いて下さいます。



*突然ですがクイズです。キリストに直接名前を呼ばれた人をあげて下さい。

「バルヨナ・シモン」(マタイ16:17)、「シモン(パリサイ人)」(ルカ7:40)、「マルタ、マルタ」(ルカ10:41)、「ザアカイよ」(ルカ19:5)、「シモン、シモン」(ルカ22:31)、「ユダ」(ルカ22:48)、「ヨハネの子シモン、ケパ(ペテロ)」(ヨハネ1:42)、「ヨハネの子シモン」(ヨハネ21:15,16,17)、「サウロ、サウロ」(使徒9:4、22:7、26:14)



キリストは、人々に忘れられ、見捨てられたような私たちに関心を寄せ、語りかけて下さいます。キリストは生きておられる救主です。様々な方法を通して、ひとりの人に語りかけて下さいます。

現在、結核という病気が広がっているというニュースをラジオで聞きました。今は良い薬があり、直って行きますが、以前は医学、薬が充分でなかったので、結核になるということは死を意味するくらい恐れられていました。昔、一人の青年が結核になり、山奥にある結核療養所へ隔離され入院しました。テレビも携帯もない時代で、ただ一つラジオが微かに聞こえてくるだけです。ある早朝、ラジオのスイッチを入れると、歌声が流れ、その後に聖書のお話がされた。始めて聞く番組でしたが心に残り、そこで週に一度微かに聞こえてくる福音番組に耳を傾け、それをきっかけに聖書通信講座を学び、青年はキリストを信じ、生きる強い力を受け、健康になり退院しました。それからキリストのために何かをしたいという願いを与えられ、音楽奉仕を通して主に仕えて行くようになりました。そのラジオの福音番組は、日本や海外の多くのクリスチャン達が祈って献金し、その放送が山奥に届き、救いの恵みが表されたのです。それはキリストが人々を見捨てないということの表れです。私たちはキリストによって尋ね出され、救いを受けました。今度は私たちがキリストの愛を伝える番です。まず祈りましょう。お互いに声を掛け合いましょう。休んでいる人に連絡をしましょう。



2、キリストは人生を新しくする救主である 5:6−13

イエスは彼に言われた、「起きて、床をとりあげ、そして歩きなさい。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。(8−9節)

キリストは、38年間病気に苦しむ人の所に真っ直ぐに向っています。キリストは横たわっている人のそば近くに行き、声をかけています。「なおりたいのか」・・・まことに単純な、そして人の心の中に響く問いかけです。キリストの目は愛の目です。特に苦しむ者、淋しい人、寄る辺のない人に向けられています。キリストの言葉は分りやすい、誤解を与えるこのない内容です。

この人は、キリストに「わたしを池の中に入れてくれる人がいません」と訴えています。なおりたいのは当たり前です。でも私を抱えて池の中に入れてくれません、という彼の絶望的な気持の答えです。38年間という数字は病気が絶望的で、直らないということを表しています。

キリストの「なおりたいのか」という呼びかけに対して、病人は否定的に答えています。もし自分が38年間も病気であったらどうであろうかということを考えてみました。本当は最も具合の悪い者が優先的に池に入るべきであるのに、ここでは弱い者が取り残されています。それが38年間も続いたら、きっと人間不信になり、神様に対する信仰を失ってしまうかもしれないと思いました。皆さんはいかがですか。

キリストは、病人の答を聞くと、直ちに命じています。「起きて、床を取り上げ、そして歩きなさい」。この御言葉を聞いた次の瞬間に、この人は癒され、布団を丸めて担ぎあげ、歩き出しています。ここでは、キリストは38年という悲惨な日々を生きている人に対して、神としての力を発揮して瞬時に癒しています。しかしキリストは肉体を癒しただけではなく、14節で彼への霊的ケアをきちんとしています(それは次項で取りあげます)。

キリストの願いは全ての人が救われることです。100人のうち99人が救われている。だが最期の一人がいる。人間は、時として残りの一人を切り捨てようとするかもしれない。しかしキリストは百分の一である残りの一人を切り捨てようとはしないお方です。

(余談ですが、私は教会を預かっていますが、今いろいろな事情で教会から離れている人がいます。私はそれらの方々を思い起して、キリストの愛がそれらの方々の上にあることを祈ります)。

ある神学校校長のメッセージの中に証がありました。アメリカに留学している間に、娘が小学4年生になった。家では日本語を話していたので、日本語を忘れなかった。しかし読み書きが出来なくなっていた。日本に戻って学校を探したが、日本語読み書きゼロなので入れる所がない。ようやく国立大学付属小学校で、帰国子女を受け入れる研究機関としてのクラスがあったので応募した。試験の日、1時間目、2時間目が終わって出てくる娘の表情を見て「ダメだ、落ちた」と思った。最期の試験が終り、親子150人ばかりが不安と期待をもって集まった。先生が一枚の紙切れをもって現れ、5名の名前を発表した。その中に何と娘の名があった。信じられなかった。先生が説明した、「どこかの学校へ行って、何とかついていける力のあるお子さんは、そちらへ行っていただきます。この学校では、どこの学校にも行くことのできない、箸にも棒にもかからないお子さんだけを選んでいます。出来ない子から順に5人を選ばせていただきました。あしからず」。娘は10倍の難関を突破した。「できない子から順番に」。これをキリストの恵み、と聖書は教えている。できる子も可愛い。出来ない子は放っておけない。もっと可愛い。キリストの愛は親の愛を完成させた愛だ。そのキリストの愛がもっともよく表されたのが十字架である。罪のない方が、罪深い私たちの身代りになって死んで下さった。十字架に罪と死とさばきからの救いがある。キリストは死を打ち破り復活され、永遠のいのちを与えて下さった。これが福音であると。

キリストの愛は38年間の病気の人に向けられ、その人生を新しいものに変えて下さいました。私たちも、箸にも棒にもかからない罪人でしたが、キリストの愛を受けて、救いを受けていることを感謝します。



3、キリストは祝福の秘訣を教えて下さる救主である 5:14

そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。(14節)

キリストは病気がなおった男の人を見つけ出して、彼に霊的なケアをしています。病気が癒やされたことは恵みです。でも本当の恵みは霊の救いです。キリストは「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」と言われました(6:63前半)。

*霊的であるということですが、8月の軽井沢キャンプは「我らはキリストの大使である」というテーマの下に、霊的な学びを中心にしています。昨日現在で77名の参加申込者がありますが、必ず霊的祝福を受けるキャンプになります。行かれる方々も、残る方々も祈って下さい。熊谷に残る方々はいつものように10時半より礼拝に出席し、教会をしっかり守って下さい。



本題に戻ります、キリストは「もう罪を犯すな」と言っています。この人は若い頃の愚かな行為、罪によって38年という長い間苦しんできたことが分ります。罪は人を苦しめます。酒、タバコ、薬物、性体験などから生涯苦しむようなことがあってはならないのです。

罪から離れて生きる秘訣は、神様の御言葉である聖書に従うことです



親は次の御言葉をしっかり覚えて下さい。「子をその行くべき道に従って教えよ。そうすれば年老いても、それを離れることがない」(箴言22:6)。

若い人は次の御言葉です。「若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉に従って、それを守るよりほかにありません」(詩篇119:9)。

そして、次の御言葉を信じて行きましょう。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(Tヨハネ1:9)。



キリストの十字架を信じて、悔改めた者は罪を赦されています。信仰の道を歩むために絶対に必要なのは神の御言葉に従うことです。宗教改革者マルティン・ルッターがサタンに過去の罪を責められた時に「御子イエスの血が、全ての罪からわたしたちをきよめる。わたしは罪を告白し、赦され、きよめられている」と叫んでインクビンを壁に投げつけ、サタンを撃退しています。信仰の人であるルッターは「義人は信仰によって生きる」(ロマ1:17)という御言葉でキリストの救いを受け、「罪を告白すれば、罪を赦す」という御言葉によってサタンを退けています。キリストも荒野の試みの時に、サタンの3回の誘惑を神の御言葉によって退けています(マタイ4:1−11)。祝福の秘訣は罪から離れ、聖書の御言葉に従って生きることです。



まとめ

1、2−3節、キリストは失われた者を尋ね歩いて下さる救主です。

2、8−9節、キリストは人生を新しくして下さる救主です。特に弱い者、小さい者にキリストの愛は注がれています。弱い私に目を留め、救って下さったキリストの救いに感謝しましょう。

3、14節、祝福の秘訣は罪から離れ、聖書の御言葉に従うことです。



祈 り

創造主である神様、独り子イエス・キリストの十字架と復活により神の子にされていることを感謝します。キリストは38年間の病気の人に「なおりたいのか」と問いかけて、彼を癒やし、彼に罪を犯すなという霊的ケアを与えていることを感謝します。私たちも罪から離れ、きよい道を歩むために、日々聖書に親しみ、聖書の御言葉に従って行くように導いて下さい。来週の聖餐式に備えて祈って行きます。8月の軽井沢キャンプに79名の参加者があります。霊の祝福を求めて祈って備えて行きます。私たちを愛して下さるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。





参考文献ヨハネ注解―黒崎、羽鳥、フランシスコ会、バークレー、LABN、新聖書注解1巻。口語新約略解。「聖書事典・日キ教団」、「世界傑作ジョーク250・中野・岸著・ことば社」