キリスト・イエスに倣う者になれ ロマ14:13-15:6 主の2007.729礼拝
テレビの娯楽番組に「物真似」があります。歌手の真似をして本物のように歌います。と同時に、その歌手のジェスチャーを拡大して真似し、あるいは鼻の大きい人の真似であれば、大きな鼻をメークで描き、皆にアッピールし、笑わせています。ある物真似名人が言っていましたが、人の真似をしてお金をちょうだいするので、真似をする歌手のビデオを何十回、何百回と見て、その特徴を探り出して本物そっくりになるように研究をするということです。私事になりますが、開拓伝道の初期、生活に潤いを与えるために、いろんな物真似をしていたことを思いだします。物真似は相手の仕草、言葉遣いの癖などを把握しなければならないので、相手をよく研究することが必要です。私の場合、物真似によって人間観察をするということが深められました。そして、それがキリストの真似をする、キリストに倣うということに繫がって行くという恵みを与えられました。
本日はロマ14:13-15:6です。15:5に「キリスト・イエスにならって(キリスト・イエスに倣ってー新共同訳、キリスト・イエスにふさわしくー新改訳、キリスト・イエスにならってーフランシスコ会訳)」という御言葉があります。キリストにならうとは、キリストの十字架に感謝し、キリストがどのように祈り、人々に愛をどのように表されたのかを知り、その真似をして行くことです。信仰生活が恵まれ、向上し、愛と力にあふれたものになるコツは、キリストの真似をすることです。物真似をする人は相手について研究し、本物らしく演じます。しかし演じることが終われば、また元の自分に戻ります。クリスチャンの場合、キリストを真似ること、キリストに倣うことによって、少しずつですがキリストに似る者に変えられて行きます。ささやかな例ですが、毎朝6時から早天祈祷会をしています。キリストに倣って、私たちも一日のはじまり、この世の生活に乗り出す前に、共に聖書を読み、祈っていますが、心が恵まれ、豊かな祝福を受ける機会になっています。何かの都合で早天祈祷会が休みになると(もちろん個人的に祈りますが)、何か大きな忘れ物をしたような気持になり、キリストのように朝の祈りを捧げて行くことが、少しばかり自分の身について来たことを実感します。キリストに倣うことによって、「互いに同じ思いを抱かせ、心を一つにし、声を合わせて、神を讃へ、崇める」という祝福が与えられます。
内容区分
1、クリスチャンは義と平和と聖霊における喜びを求める 14:13-23
2、クリスチャンはイエス・キリストに倣う者である 15:1-6
資料問題
14:14「主イエスにあって知りかつ確信している」、主イエスの権威によってとも訳せる。マルコ7:14-23のキリストの御言葉に関連するのかも知れない(フランシスコ会見解)。14:20「神のみわざを破壊する」、信仰の弱い兄弟のことで、彼らも強い者と同様に神によって造られ、キリストによって贖われたのである。神のみわざとは聖霊によるわざを指すと考える(17節参照)。15:3「あなたをそしる者・・・」は篇69:10前半の引用。新約聖書において、詩篇69篇は22篇と並んで、特にキリストの受難に関連して引用されている(19回)。15:6「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」、エペソ1:17、マタイ27:46、ヨハネ20:17、へブル1:9を参照。
1、クリスチャンは義と平和と聖霊における喜びを求める 14:13-23
神の国は飲食ではなく、義と平和と聖霊における喜びとである(14:17)
私たちはキリストの十字架を信じて神の子になり、教会の一員になり、キリストの復活を記念して毎週日曜日に礼拝を捧げるために集まっています。教会員は、教会に立てられた牧師を通して、聖書に基づき信仰と信仰生活について教えられ、訓練を受け、主に仕え、伝道して行きます。教会では日曜日に朝礼拝、夜(夕)礼拝、水曜日に朝と夜に祈り会があり、その他いろいろな集会があります。特に日曜朝・夜の礼拝、また水曜日朝・夜の祈り会がもっともっと盛んになって行くように祈って出席して下さい。8月10日(金)-12日(日)は軽井沢キャンプがあります。12日の日曜日は、軽井沢と熊谷で礼拝が行われます。熊谷における礼拝は牧師・伝道師が不在になりますが、留守の方々が結束して礼拝を守り、主の豊かな恵みに与って下さるようにお願いします。
17節「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」という御言葉に注目しましょう。聖書日課に従ってロマ書をずっと読んでこられた方は、ロマ教会に問題があり、そのことを伝え聞いたパウロが14章の始めから適切な答をし、そして17節の御言葉が語られたということに気づいていると思います。
ところで、話が少し逸れますが「聖書のどこを読んだらいいのか分らない」、そう言って聖書を読まないで、ただ飾っている人がいます。聖書のどこを読んでいいのか分らない、というのはサタンのトリックです。私たちは、「こう暑いと食欲がない、何を食べればいいのか分らない」と言いながら、必ず何かを食べています。食べなければ健康を損なうからです。聖書を読まなければ心の健康が損なわれます。教会では誰もが聖書に親しめるように、旧約、新約を一日に一章ずつ読む聖書日課を週報に記しています。それを毎日読めば心の糧になり、キリストの御名によって祈るように導かれます。キリストは、大事な時に常に神の御言葉を引用しています。荒野でサタンの試みに遭った時に神の御言葉で勝利しています(マタイ4:1-11)。十字架の上でキリストの口をついて出たのは詩篇の御言葉です(詩篇22篇)。聖書を読み、御言葉を心にたくさん蓄え、覚えて下さい。
本題に戻ります。14章によれば、ロマ教会では、「何でも食べてよい」と言う人と、「野菜を食べるべきである」と言う人がいて、論争がありました(コリント教会では偶像にささげた肉を食べる、食べないで論争がありました)。また、「この日は良い日である。その次の日は良くない日である」ということで意見が対立していました。それに対して使徒パウロは17節の御言葉をもって教えているのです。
*教会とは、人が好きなものを飲んだり食べたり、自分達の好みに合わせて集まったりする所ではない。教会で一番大事なことは祝福の源であるイエス・キリストを求めることである。
教会は神の国を表している。神の国とは神の支配する所である。国には憲法という全ての決まりのもとになるものがある。神の国の憲法は聖書である。世界の国々の憲法はその時の都合によって変わって行く(日本でも憲法改正が叫ばれている)。キリストは、「天地は滅びるが、わたしの言葉である聖書は滅びることがない」(マタイ24:35参照)と宣言されている。だから私たちは聖書に基づいて生きるのである。それがキリストに従うことである。
私たちはキリストを信じて義なる者となり、心に平安を与えられている。教会生活を通して、心の糧である神の御言葉によって心を養われ、神に従う正しい道を歩むのである。その時に聖霊によって神に従う喜びが心の内に湧いて来るのである。
23節に「すべて信仰によらないことは罪である」という御言葉があります。信仰に基づく確信がない、すなわち御言葉の真理に外れることは罪であると言っています。21節に「肉を食わず」というのは、偶像に捧げた肉を食べないということです。偶像など存在しないから、偶像に捧げた肉を食べてもかまわないという人がいます。だがそれを食べることによって、周りの人が躓くならば、食べないということです。「酒を飲まない」とあります。酒を飲まないことについて、次のように記されています。「これはあなた方が聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとを区別することができるため、またモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」(レビ10:10-11)。すなわち酒を飲まない理由は、聖と俗、汚れたものと清いものとの区別ができなくなり、また人々に教えることが出来なくなるからです。
2、クリスチャンはイエス・キリストに倣う者である 15:1-6
どうか忍耐と慰めとの神が、あなた方に、キリスト・イエスにならって互いに同じ思いを抱かせ、こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。(15:5-6)
本日は参議院議員選挙の日です。今度の選挙では年金問題が争点の一つになっています。長い間働いて政府にお金を納め、定年になって年金を受ける時になったら、あなたの年金記録がありませんという事態が発生したのです。自分が汗水流して働き、長年にわたりお金を納めていたのに、年金がもらえなくなる、それが何百万件もあるということが発覚したのは、つい最近のことです。国民の納めたお金を社会保険庁が杜撰に扱い、きちんとした事務処理をしていなかったので、多くの人々の上に被害が及んでいるのです。人々はこれを無責任と言って非難しています。無責任であると同時に、これは神なき人間の引き起こす悪しき事件の実例です。神に対する恐れがないと、人は平気で悪い事をします。
私たちも、かつては罪を犯していた者ですが、イエス・キリストの十字架の恵みによって、私たちは救われています。そのことを感謝しましょう。15:1-6にはキリストによって救われた者の新しい生き方が記されています。私たちが生きる道は「キリストに倣うこと」です。
*キリストに倣うことはたくさんありますが、その幾つかを取り上げてみます。
15:1-3、弱い者に手を貸す、手を差し伸べることです。
人に手を貸す、手を差し伸べることは祈りから始まります。自分のことよりも人の祝福、病気の癒しのために、或いは仕事を求めている人に良き仕事が備えられるようになどなど人のために祈ることです。祈って行く時に、人の必要が分かり、何をしてあげたらよいかが示されます。「キリストさえご自身を喜ばせることはなさらなかった」とありますが、キリストはいつも周りの人に温かい配慮を示しています。キリストが重い十字架を担いで、ゴルゴタの丘に向う時に、大勢の婦人が泣いて見送っていました。その時、キリストは「わたしのために泣くな。まもなく神による最後の審判の時が来る。神の審判を逃れるように、心の備えをして行きなさい」と教えています(ルカ23:27-30)。キリストは、自分がこれから死刑になるという時に、自分のことよりも人の救いのために心を砕いています。キリストは全ての人の救主ですが、とりわけ弱い者、病気の者、孤独な者の友です。昨日は上野公園ホームレス伝道の日でした。300名の人々が集まりましたが、あまりの暑さにホームレスの人々はゲンナリしていましたが、私たちも汗だくでした。讃美がうたわれ、祈りがささげられ、キリストの福音を伝える恵みが与えられ、イエス様を信じたいという応答をした方々がいて感謝でした。仕事から切り離され、家族から切り離され、政府の保護から切り離され、暑い路上で汗まみれになりながら暮している人々のことを思うと胸が痛くなります。イエス・キリストの愛の眼差しは、特にこの悲惨な生活をしている方々の上に注がれていることを信じ、おにぎりを直接に手渡し、生活用品を届けました。教会の外に向って行われているホームレス伝道のためにこれからも宜しくお祈り下さい。
15:4聖書を知ることです。
なぜ聖書を知らなければならないのかと言えば、聖書にキリストのことが記されているからです。聖書を通してキリストのことを知って行く時に、信仰が成長します。私は年を取りつつあります。日本人の平均年齢が発表され、女子は85歳、男子は79歳ということですから、そこに行くまでには、もう少し間があります。健康に注意して、頭の訓練をして、自立して生きて行こうということを祈り願っています。頭の訓練で一番よいことは聖書を読み、御言葉を覚えることです。さらに言えば聖歌を覚えることです。聖歌はなるべく見ないでうたっていますが、だいたい頭に入っているようです。
ソニーを創立した井深大氏が「幼稚園ではは遅すぎる」という本を書いています。その巻末に国立教育研究所所長平塚益徳氏が幼児の頃の思い出を記しています。「私の家は牧師の家庭であった。最大の特色は幼少時代から食前の祈り、そして折ごとに聖書に親しむという環境の下におかれたことである。特に聖書は、文字通り幼少時代から暗誦する機会が多く、おかげ私は今でも可成り多くの有名な聖句をそらんじている。そうしたことが背景となって、東大文学部の卒業論文として『約聖書の教育思想』、大学院では『新約聖書の教育思想』を書くことが出来たのである」。平塚氏の思い出から、幼い時から聖書に親しむことは大いなる恵みであることが分かります。
*聖書の御言葉を覚えるということですが、次の聖句はどこにあるでしょうか。
1、はじめに神は天と地とを創造された。(創世記1:1)
2、これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アーメン、主イエスよ,きたりませ。」(黙示録22:20)
3、[あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書はわたしについてあかしをするものである]。(ヨハネ5:39)
4、神は愛である。(第一ヨハネ4:8,16)
15:5-6忍耐と慰めを与えて下さる神を信じることです。
ある関西の婦人が結婚をして3年目、主人が一週間に一度家をあける、6年目にはほとんど帰ってこなくなった。そこで主人の後をつけて行くと、自分の親友の女性の家に入って行った。思わずその家に飛び込んで、台所にあった包丁をつかんでいたが、主人に制止された。そのまま北海道の姉の所に行った。姉はクリスチャンで関西の教会を紹介してくれた。関西の教会に行き、「神様、助けてください。私はもうこれ以上生きていけません」と叫んだ。その時に涙があふれ、心の中から喜びと力が湧いてきた。キリストの救いをいただいたが、遂に離婚になった。子どもを寝かしつけ、ひとりになると主人や相手の女性に対する憎しみがドロドロと心の中に湧いてくる。そんな苦しい日々が続いた。ある時、「わたしが共に歩む」という神様の声が心に響き、気づいてみると、心の中にあった憎しみが消えている、これは神であるキリストが忍耐をもって導いて下さったからであることを知り、慰めが心に満ちた。キリストを信じたとはいえ、なかなか憎しみが消えなかったが、それも消えた。「神様、申し訳ありませんでした。どうか、これからは人に仕える生き方を始めさせてください」と祈ることができた。天を仰ぐと、どんな日々にも、愛の眼差しをもって、天から自分を見守り続けてくださった、贖い主キリスの愛を思うことができると証しています。
このご婦人は、愛の心を与えられ、キリストに倣って人に仕える生活を実践し、キリストの十字架を讃える信仰生活に励んでいます。私たちもキリストによって救われたことを感謝し、キリストに従って信仰生活に励んで行くことを再決断して祈りましょう。
まとめ
1、14:17、キリストを信じて義なる者になり、平安を与えられていることを感謝し、聖書の御言葉によって心を養われ、聖霊による喜びを与えられていることを感謝しましょう。
2、15:5-6、弱い者に手を貸し、手を差し伸べるために、先ず祈りましょう。聖書に親しみましょう。忍耐と慰めを与えて下さる神様に信頼して行きましょう。
祈 り
創造主である神様、キリストの救いの恵みに感謝します。イエス・キリストを信じ続け、平安の日々を歩み、聖書の御言葉によって心を養われ、心が喜びに満ちるように導いて下さい。人を裁くのではなく、人を受け入れ、手を差し伸べて行く者になるようにして下さい。もっともっと聖書に親しみ、沢山の聖句を覚えさせて下さい。忍耐と慰めの神を信じ、揺らぐ事のない信仰生活を送れるように導いて下さい。これから主の十字架を表す聖餐式に与ります。きよい御霊をもって主の十字架を深く味わうことができるように導いて下さい。イエス様のお名前によって祈ります、アーメン。
参考文献ロマ書注解―佐藤陽二、フランシスコ会、バークレー、尾山、LABN、口語略解、北森、松木。「幼稚園では遅すぎる・井深大・ごま書房」、「信仰雑誌・2006年」