和解の福音をゆだねられた「キリストの大使」として生きる 2コリント5:18b-20a   
2007年8月5日主日礼拝 荻野倫夫師

18b神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けて下さった。19すなわち、神はキリストにおいて神をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。20a神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。 (2コリント5:18b-20a)




先日は、対外奉仕に出かけた私たち夫婦のために、祈ってくださって感謝します。多くの恵みをいただきましたが、それもこれも、背後で祈っていてくださる、熊谷教会の皆さんのおかげです。

私たちの結婚式に参加された方々、スピーチをしてくれた吉永先生という方を覚えていらっしゃるでしょうか。私たちの結婚のお祝いのスピーチなのに、なぜか同じ日のサッカーワールドカップ、日本―クロアチア戦の宣伝をし、大いに会場を盛り上げてくれた人です。その吉永先生の招きで先週、町田聖書教会の、聖日奉仕、子供キャンプの奉仕に、チャチャと二人で行ってまいりました。町田聖書教会は、規模は私たち熊谷教会と同じくらいで、100人位集まっています。そして間もなく、新会堂の建築が終わります。新会堂はつめれば200人入れる規模だそうです。

 さて、町田聖書教会での奉仕について少し証しさせていただきます。皆様の祈りの結果、どんなすばらしいことが起きたか分かち合うときとして、お聞き下さい。

 日曜日、私は1コリント12章から「キリスト者の一致」と題して、メッセージさせていただきました。メッセージ後、ある方は、涙を流して「今日のメッセージは本当によかった。私の名前を覚えて祈ってください」と仰る方がいました。

 月曜、火曜は、子供キャンプが行われました。町田聖書教会の近くに、両親がいるけれども、育てることができないという理由で、子供を引き取って育てている施設があります。その施設から6-7割の子が来まして、子供たち20人くらい、奉仕者20人くらい参加しました。メッセージはチャチャがしました。二人でドラマもしたのですが、子供たちは、「またドラマやって」と、同じドラマをもう一度やるほどの好評を博しました。奉仕者の中には、まだキリストを受け入れていない人もいました。チャチャの2回のメッセージによって、子供だけでなく大人も、心が触れられ、キリストを受け入れる決心、キリストに全てをささげる決心をすることができました。

 皆様のお祈りなくば、私たちの奉仕もないことを、どうか覚えてください。私たちは皆様の祈りによって支えられているのです。重ねて、皆様のお祈りに感謝します。




さて、今年の教会の標語は何ですか。今回のキャンプのテーマは何ですか。そう、キリストの大使です。すでに新年に渡辺先生を通して、「我らはキリストの大使である」と題してメッセージがありました。それから早7ヶ月が過ぎました。キャンプを前に、もう一度このみ言葉に帰りましょう。

 私の勤める塾では、相田みつおという、有名な仏教徒が書いた、日めくりカレンダーがおいてある。その相田みつおの言葉で、「浄瑠璃の鏡」という言葉が出てきた。説明によれば、浄瑠璃の鏡とは、人間が生前してきたことをすべて映す、おっかない鏡である、という。それを見て、人間は直感的に、自分が罪深い存在であるということ、神の怒りの下にあることを知っているのだなーと思いました。実際聖書は、私たちのこの直感を、つまりどれほど私たちが罪深いか、また神の怒りの元にあるかを、はっきりと説明してくれているのであって、私たちは多かれ少なかれ、自分が神の怒りの元にあることをどこかで直感しています。もちろん聖書は、罪と神の怒りで終わらない。救いを与える書物です。私たちはみな、罪ゆるされ、神との平和を得ています。あるクリスチャンは、死後は天国という引越し先が決まっている、といっています。私たちの名は天国に住所登録、戸籍登録が為されていまして、亡くなった引越し先は天国、と決まっているのです。

 さて、今日の18,19節をもう一度見てみましょう。前半が私たちの罪のゆるしを語っています。後半は?後半は、神と世の人々との間に和解をもたらす務めが、私たちに委ねられているとの説明です。そう、和解の福音を伝えるのは、私たちがしてもしなくても良いことではなくて、私たち救われたものすべてに課されている義務なのです。

 このことについて、ある人は「自分は口下手なので」「伝道は牧師に任せます」等考えるかもしれません。しかしどんな人もキリストの大使として任命されているし、事実皆さんの信仰は、皆様をキリストの大使として用いることになるでしょう。私が出会った中でも最も寡黙なクリスチャンの一人に、すでに故人となられているが、睦子先生のお父さん、森おじいちゃんがいらっしゃいます。生前の森おじいちゃんを知る人ならば、この方が伝道をする、というのは人間的には、最も考えにくいことです。だがこの森おじいちゃんが、少なくとも一人の人に伝道をしたのを私は知っています。それはこちらもすでに故人となっていますが、私の母方のおじいちゃんです。森おじいちゃんは、私のおじいちゃんに対して、立派にキリストの大使としての役目を果たしたのです。今ごろ僕のおじいちゃんは、森のおじいちゃんが伝えてくれた和解の福音のおかげで、天国で幸せに暮らしているに違いないと思います。このようにすべての人はキリストの大使であり、事実皆さんの信仰が、そのように皆さんを導く、ということを申し上げたいと思います。 

さて、キリストの大使の任務の重要性を、新年礼拝で渡辺先生は、以下の例話を通して、分かりやすく説明して下さいました。以下渡辺先生のメッセージからの抜粋です。

 「…中国は、少し前までは…孤立していました。それは世界の超大国アメリカと対立していたからで、中国とアメリカが国交を樹立することは困難であると思われていました。ところが、ある日突然に中国、アメリカが国交を樹立するというニュースが世界中に伝えられました。それはアメリカのキッシンジャーがアメリカ連邦政府より全権を委ねられて中国に派遣され、毛沢東、周恩来など中国のトップと外交交渉をした結果でした。…キッシンジャーはアメリカを代表して中国と話し合い、国交樹立の道筋を開きました。クリスチャンは、神の国を代表してキリストの十字架の恵みを人々に伝えて救いに導き、天国に伴うという使命を与えられている『キリストの使者・大使』なのです。」

 アメリカに帰化したユダヤ人キッシンジャーは、国際政治の舞台で大活躍した大統領補佐官だったようです。キッシンジャーの活躍によって、アメリカと中国の関係が修復されたのです。つまり、キリストの大使とは、神と人との間を結ぶ重要な働きをする、ということです。私たちの働きによって、神と世の中の人々の関係が修復されるのです。私たちの働きは重要ですね。

 

 また別の例で、このキリストの大使の意味を掘り下げて見ましょう。皆様は「ピレモンへの手紙」という書簡が聖書にあるのを知っていますか。この書簡の主な登場人物は、ピレモン、パウロ、オネシモです。ピレモンというのは裕福な人だったようです。ところが彼のところにいたオネシモという僕が、主人ピレモンを裏切って、家を飛び出してしまった。その際盗みも働いたようです。さあ、果たしてこのオネシモはピレモンに会わせる顔があるでしょうか。ないですよね。彼がおめおめと、罪を犯した主人の元に帰るのは不可能だったでしょう。しかしここで両者の和解のために一肌脱いだ人がいた。それがパウロです。

 パウロは、オネシモを許して受け入れてやってくれ、という趣旨の手紙を書きます。その手紙がピレモンへの手紙です。パウロはおそらくこの手紙をオネシモに持たせて、彼をピレモンの元に送ります。

 手紙から直接分かるのはここまで。後は推測するしかない。果たしてオネシモは手紙を持ってピレモンの元へ向かったのか?ピレモンは実際にオネシモを許したのか?どう思いますか?…おそらくオネシモは手紙を持ってピレモンの元へ向かったでしょう。またその主人ピレモンはオネシモを許したでしょう。なぜ分かるか。ピレモンへの手紙がこうして現存しているからです。

 考えてみれば、他のパウロの手紙と違って、ピレモンへの手紙は個人的な手紙です。本来、ピレモン、パウロ、オネシモが知っていれば良い内容です。通常は個人的な手紙を公開したりしません。さて、オネシモは勇気を持って、きっと和解できると信じて、この手紙を持ってピレモンの元へ向かったのでしょう。ピレモンはピレモンで、オネシモを許し、彼を迎え入れたのでしょう。後にピレモンは、この和解をもたらした短いながら素晴らしい手紙を、個人の所有にしておくのはもったいないと思い、教会で読まれるよう公開したのでしょう。そしてクリスチャンたちはこの手紙の価値を認め、最終的に新約聖書に加えられたのでしょう。決め手となったのは、両者の関係が壊れている。その関係を修復するために用いられた和解の手紙、ここに福音、良い知らせの本質を見たからではないでしょうか。

 さて、私たちもパウロのように、一肌脱ごうではありませんか。パウロは、オネシモのことを放っておくこともできました。しかし彼は、和解の言葉をオネシモに持たせてやった。そしてピレモンと和解できるように取り計らってやった。私たちも、世の人々に、神と人とを結ぶキリストの福音を伝えましょう。そうやって私たちがキリストの大使としての働きをすることによって、世の中の人々は、神との関係を回復することができるのです。

 考えてみれば、私たちには、ピレモンの手紙以上に絶大な効果のある、キリストの福音が委ねられているのです。私たちの責任の重さから言っても、またその委ねられた福音の効果の確実さから言っても、私たちは躊躇することなくこの働きをしていきたい、と思うのです。




 ところで、私は、広い会堂がなく礼拝が寿司詰めの今は、伝道と言うよりも、すでにいる人々をケアする、牧会が私のなすことである、と思っていました。新会堂ができて、物理的なスペースができたら、今度は伝道にも力を入れよう、と。

 ところが、吉永先生から、会堂建築についての以下のような証しを聞いて考えを改めました。吉永先生によると、ある先生を講師として呼んだとき、メッセージで会堂建築のために祈りなさい、と言われた。その講師は、あまり普段祈れとか言わない先生なのに。その講師によれば、自分たちは会堂ができたら人が来ると思っていた。だが会堂が建っても人は来なかった。むしろ会堂が建つ前から来ている人は、会堂ができても来る。だから会堂建築中に、伝道をしなさい、真剣に祈りなさい、と。

 会堂があろうとなかろうと、私たちはキリストの大使を辞めることはできない。私たちはキリストの大使になったり、ならなかったりすることはできないし、すべきではない。私たちは常にすでにキリストの大使なのである。私たちは、環境の如何にかかわらず、和解の使者として、神と人々とを結ぶ者として、常にそのために働く者でなくてはならない。つまりどんなときでも、伝道すべきである、ということです。

私たちは救われると同時に、キリストの大使となっています。状況の如何にかかわらず、常に大使なのです。だからどんな時であっても、滞ることなく、和解の使者として働きましょう。私たちはキリストの大使となるのではなく、キリストの大使なのです。和解の福音をゆだねられた「キリストの大使」として生きましょう。お祈りします。