キリストの愛 ロマ5:6-11            主の2007.8.19礼拝



先週は熊谷、軽井沢で聖日礼拝をささげ、幸いな主の日を過ごせたことを主に感謝します。

熊谷の会堂建築でお世話になった軽井沢・高田さんが7月31日に召天され、8月2日軽井沢教会で行なわれた葬儀に、教会を代表して私たち夫婦、田島夫婦とさおりちゃんが参列しました。高田さんは軽井沢聖書学校(恵みシャレー敷地にありました)を卒業後、教会堂を建てながら、その教会の霊的指導に携わるというユニークな働きを展開し、全国に70以上の教会を献堂しています。今から38年前に「軽井沢・超教派聖会」に私たち夫婦と荻野弘子さんで参加し、高田さんと知り合いました。それ以来、何回も熊谷に来て礼拝でメッセージをしてもらいましたが、25年前に高田さんの指導の下に、皆の献金と8ヶ月間の勤労奉仕によって現在の会堂が完成しました。高田さんを7月30日に軽井沢病院にお見舞いに行くと、「待っていたよ」という表情で心からの喜びをもって迎えてくれました。「カルバリ山の十字架」を讃美し、「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4:8)の御言葉をもって高田さんのために祈りました。祈りの後に、高田さんは私たち夫婦の手を強く握りながら、「愛は赦しです」と搾り出すように言い、また奥さんに感謝の言葉を述べました。高田さんは個性が強く、会堂建築という面では職人気質の人で妥協しない人でしたから、いろいろなぶつかり合いがあったことと思います。しかしキリストの十字架の愛によって赦され、生かされて来たという感謝の思いが「愛は赦しです」という言葉となり、また自分を支えてくれた奥さんへの感謝の言葉となったのですが、それは高田さんの最後のメッセージであったと信じ、私の心に大切に刻まれています。

本日はロマ5:6-11です。8節に、「神は私たちに対する愛を示された」と言われています。神様が私たちに対して示し、与えて下さった最善最上のものは愛です。その愛はキリストが死んで下さったことによって、すなわちキリストの十字架の犠牲によって表された愛です。高田さんはキリストの十字架の愛によって救われ、人生の最後で「愛は赦しです」という言葉を残し、天国に召されて行きました。私たち一人一人がキリストの愛を受けて救われていることを感謝します。ご一緒に主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路を出発いたしましょう。



内容区分

1、キリストの愛は特に罪人の救いに向けられている、だから私たちは救われている 5:6-8

2、キリストの愛は神の敵にも向けられている、私たちも愛を表して行こう 5:9-11

資料問題

8節「正しい人」、義務を果たし正義を行うことを重視する人。「善人」、良きサマリア人のように(ルカ10:30-37)、隣人愛に富む人。8節「罪人であった時に」、神の愛の表れである、ヨハネ3:16、Ⅰヨハネ4:9を見よ。9節「神の怒り」、最後の審判において神の発したもう怒り(ロマ2:5、6 Ⅰテサロニケ1:10、Ⅱテサロニケ1:8、9を見よ。10節「神との和解」、私たちは罪をもち、神と敵対関係にあり、神の怒りを受けるべき者であったが、キリストの十字架により神と正しい関係である和解を与えられている。11節「喜ぶ」、誇る、栄あるなど良い意味の誇りを示す語で、心にある確信を力強く表すことをいう。



1、キリストの愛は特に罪人の救いに向けられている、だから私たちは救われている 5:6-8

私たちがまだ弱かったころ、キリストは時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである・・しかし、まだ罪人であった時、私たちのためにキリストが死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである。(6節前半、8節)

ロマ書は、パウロがロマ教会に宛てた書簡で16章から成っています。ロマ書は内容が深く、世界中の聖書学者によって現在も研究が続けられています。

ではロマ書は難しいのかといえば、そうではありません。聖霊に導かれ、心を開いて読めば、誰にでもイエス・キリストの十字架の救いが分かります。大人でも子供でもキリストを信じれば、罪から救われて生まれ変わり、生きる喜びと力とを受け、死んで終りではなく、永遠の天国へ行く信仰を与えられます。アウグスティヌス(354-430)は、異教の神々を信じ、不倫の生活をし、愛人に子どもを産ませるという不道徳な生活をしていましたが、ある日ロマ書の「あなた方は主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(14:14)という一節を読んで、罪を悔改め、イエス・キリストを信じ生まれ変わり、後に教会司教となり、多くの聖書に関する書物を書いています。

今朝はロマ5:6-11を中心にしています。5:6-8にキリストの愛の内容、5:9-11にキリストの愛を受けた結果について記されています。この部分は5:1-5の続きになるところです。5:1-5は読んでスーッと心に入る内容ですから、後で朗読し、あるいは書き写し、また暗誦して下さい。

5:6-8、キリストの愛は、十字架に命を捧げて下さったことによって表されました。

人間は神様に背いている罪人です。罪をもっている人間は死んで、滅ぼされて地獄へ行きます。何とかして罪を取り除き、あるいは罪を赦してもらって、神様のところに戻って行かなければなりません。神様のところに戻ることを「和解」と言いますが、平たく言えば神様とより(縒り)を戻す事です。罪によって捩(ねじ)れ、ぐちゃぐちゃになっている神様との関係を正しくし、よりを戻すことが和解です。しかし、罪が邪魔をしているので神様とよりを戻すことが出来ないという問題がありました。そこで人間は律法を守って正しくなりたいと努力しましたが、どうしても律法を完全に守ることが出来ないという弱さを抱えていました。そこで神様の方から救いの手を差し伸べて下さったのです。聖書の神様は、「神は愛なり!」と呼ばれています。神様が愛であることはどうして分かるのでしょうか。聖書はクドクドと説明せずに、神の独り子であるイエス・キリストが私たちのために死なれたという事実が、神の愛の決定的証拠であると告げています。正しい人のために死ぬ人はほとんどいません。善人とは情け深い人のことですが、善人のために死ぬ人が稀にはいるかも知れません。しかしイエス・キリストは、私たちが罪人であり、神との敵対関係にあった時に、十字架の上で命を捧げて下さいました。それを示した図をご覧下さい。(別紙にあります) 人間は神との関係を失っていた罪人であり、滅んで行く者でした。その罪人のために、イエス・キリストが十字架で人間の罪のために死んで下さった。しかも死んで終りではなく、三日後に復活されて、人間が罪を赦されて永遠に生きるということを確かなものにして下さったのです。

5:6-8、キリストの愛は、不信心な者、罪人に向けられているきよい愛です。

十字架の愛は、全ての人に対する愛ですが、特に神様を信じない不信心な者、罪人に対して向けられています。キリストが十字架にかかった時、二人の強盗がその両脇に磔(はりつけ)になっていました。その一人が息を引き取る直前に、「イエス様、私の人生は罪の人生でした。罪を赦して下さい。イエス様、御国を打ち立てる時には、私を思い出して下さい」と懇願した時に、キリストは「あなたの罪を赦し、神の子にし、永遠の天国に連れて行こう」と約束されました(ルカ23:40-43)。

先ほど讃美した「驚くばかりの恵みなりき」という聖歌の1節の直訳は次の通りです。

「驚くべきみ恵みー何と胸をときめかせる言葉かー私のような無頼漢をさえ救いたもうたとは!私はかつて失われていたのですが、今や神に見いだされ、かつて目が見えなかったのですが、今や見ることができます」。(大塚野百合訳)

作詞はジョン・ニュートン(1725-1807)で、彼は奴隷船の船長をしていた人物です。それで自分のことを「無頼漢・ならず者」と言っているのです。不信心であり罪人の代表者のようなニュートンにキリストの愛が向けられ、彼は救われ、後に牧師になり、この聖歌を作ったのです。彼は「年をとると忘れることが多い。しかし私が神様の前に大きな罪人であったこと、キリストが私のために十字架にかかって罪から救って下さったことは忘れることができません」と言っています。

私たちもキリストの十字架の愛によって救われていることを感謝しましょう。十字架の救いを讃美しましょう。十字架の救いを喜んで行きましょう。



2、キリストの愛は神の敵にも向けられている、私たちも愛を表して行こう 5:9-11

もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。(10節)

この手紙を記したのは使徒パウロですが、彼は最初からクリスチャンではなかったのです。最初はキリストに敵対する人物でした。彼は、「イエス・キリストは人間である、それなのに神と名乗っている、しかも人間を罪から救うために十字架にかかったと言っている。とんでもないことだ、人間が救われるためには、自分の力で律法を守り行なうことが重要である」と考えていました。彼はそう信じ、エルサレムで律法を学び、誰よりも真面目に生きているつもりでした。人の目から見れば、パウロは頭が良くて、しかも立派であるという評価を得ていました。しかし、彼の心の中に大きな悩みがありました。それは幾ら表面では律法を守っても、心の中に大きな戦いがあるということです。それは「良い事をしたいが、それをする力がない。悪いことはしたくない、考えたくないと思うが、悪いことをしてしまう」という心の中の葛藤です。彼はそうした気持を押し隠して、「自分は律法を守っている神の民である。律法を守らないで、キリストの十字架を信じれば救われるというのは間違いである」と考え、クリスチャンを迫害していましたが、その時の自分は神の敵であったと言っています。

パウロは、6節では「弱い者」という言葉で、神様への信仰が曖昧である者のことを言っています。その次には「不信心な者」という言葉で、神様を信じない者のことを明確にしています。8節では「罪人である」という言葉によって、神様に反抗して滅びに向って行く人間の状態を言い表しています。10節では、パウロ自身の事として、「自分は神の敵であった」と述べています。

神の敵であれば、神様は敵を滅ぼすか、あるいは敵である者を赦すという二者択一を取る事になります。聖書の神様は愛ですから、敵を滅ぼすことをしないで、敵を赦すという道を選んで下さった。敵を赦すということは敵と仲直りをするということですので、和解という言葉が出て来るのです。どうやって仲直りをするのか、和解をするのかと言えば、神様は最も尊い独り子であるイエス・キリストを人間の世界に遣わされた。キリストはご自分の命を捨てて罪の身代りになり、神様の敵であり、罪人である人間を愛しているということを表されたのです。私たちは死んで滅びる者でしたが、キリストの十字架の死によって、いのちを与えられ永遠に生きる者になったのです。人間の世界では、敵と和解するために自分の命を差し出すということはあり得ないことです。そのあり得ないことをキリストはなさったのです。ですから、人間の出来ないことをするキリストは神なのです。

キリストの愛は、敵である者に向けられた愛です。私たちは、以前はキリストの敵でした。敵である者のためにキリストは十字架にかかって命を捧げ、赦しと救いの道を開いて下さいました。ここで忘れてならない事は、私たちはキリストによって赦され、救われた罪人であるということです。教会はキリストの救いを受けた者の集まりです。

赦された罪人である私たちが仰ぐのは十字架です。十字架を仰ぎ見る時に、相手を受け入れ、相手のために祈って行くことが出来るのです。人のために祈る時に愛が与えられます。

アメリカの実話です。フロリダ州の小さな町にルツという主婦が住んでいて、夫と二人の子どもの家庭であった。ある日、夫が「エブリンおばさんを引き取る。家族が増えて忙しくなるかも知れない。しかし長くは続かない。おばさんは78歳で、そんなに長生きをしないだろう。亡くなればかなりの遺産がもらえるだろう。おばさんの余生を見るのは私たちの義務なのだ」と言った。エブリンおばさんは、最初の3か月間は寝たまま過ごした。元気になって起きられるようになると、家中を歩き回り、家事に干渉し、育児に文句を言い始めた。ルツはじっと我慢しておばさんの面倒を見ていた。すると、家にある食器などが消えてしまう事件が起きた。気をつけていると、エブリンおばさんが、家の勝手口に来る乞食に家の品物を与えている事が分かった。おばさんは意地悪をして楽しんでいるようであった。家の中が荒れてしまい、ルツは夫に「エブリンおばさんに老人ホームに行ってもらいましょう。家中がめちゃくちゃになり、私は気が狂いそうです」と訴えると、「いや長い辛抱ではない、遺産のこともある、もう少しの我慢だ」と言われた。彼女は決心して、エブリンおばさんとは食事を別にし、口をきかないことにして、彼女は自分の寝室で三度の食事を取った。家庭の空気が暗くなってしまい、ルツは惨めな思いになり、イスに腰を下ろして泣きはじめた。どん底まで気持が追い詰められた時に、彼女は神様に祈った。「天にいます神様、私はどうしたら良いのですか、イエス様、教えて下さい」。すると心に主の答が聴こえてきた。「わたしはあなたに言う。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎んでいる者のために、善をもって報いなさい」。翌朝、ルツは朝食の席に顔を出し、あんなに嫌っていたおばさんに微笑みかけた、「おはようございます。大好きなおばさま!」。この言葉が終わった時、エブリンおばさんが泣き出し、ルツに許しを乞い、友達になってほしいと言ったのです。明らかにおばさんは、幼児期に戻り、ぼけかけていた。それで誰からも顧みられない幼児がとるのと同じような振る舞いをしていたのであった。おばさんが求めていたのは衣食住ではなく、愛情と優しさであった。「大好きなおばさま!」というルツの一言が全てを変えてしまったのです。それは祈りを通して与えられた神様の愛による呼びかけであったからです。

私たちの周りにいる人々のために祈りましょう、祈りは自分を変えます。そして聖霊によって相手の心が変わります。

赦された罪人である私たちが仰ぐのは十字架です。愛の与え主であるキリストを仰ぎ見て恵まれて行きましょう。

昨日の聖書日課で、使徒パウロによるコリント第二の手紙2章を読みました。その中で、パウロは、牧師である自分に反対し、悪口を言いふらし、ありもしない悪い噂を撒き散らした人々を赦すと言い、そうするのはサタンに欺かれないためであると言っています(Ⅱコリント2:10-11)。

サタンはいつでも「人を赦すな」と言います。サタンはいつでも「あの人はダメだ、救われない」というレッテルを貼って人を見るように言います。

キリストは違います。誰も相手にしない離婚歴5回の不身持なサマリアの婦人を救いに導いています(ヨハネ4章)。悪霊に憑かれ、墓場に追放され、裸で暮している哀れな人を助けに行っています(マルコ5:1-20)。38年間寝たっきりで、誰からも助けてもらえない男性の所に足を運び、癒やして救いを与えています(ヨハネ5:1-18)。中風の人の罪を赦し、病気を癒しています(マルコ2:1-12)。十字架による死刑を受け、死ぬ寸前の極悪人の罪を赦し、永遠の命を与えパラダイスに導いています(ルカ23:40-44)。10-12日まで軽井沢キャンプが開かれましたが、土曜日の礼拝、日曜日の聖日礼拝にトポス教会のメンバーが七名出席しました。住所を持たず、路上で生活し、人間として数えられずに「あれはホームレスだ」と蔑まれていた人が、キリストの救いを受け、教会に集い、ネクタイをキッチリと締め、礼拝している姿を見て、キリストの愛は素晴しいと感謝しました。ホームレスの人はフロに入れず、汚い、臭い生活をしています。その彼らにキリストの愛をもって近づき、福音を伝える比留間夫妻の働きがあって、多くのホームレスの人が救われています。今週土曜日はホームレス伝道支援の日です。お祈り下さい、おにぎりをお願いします。



まとめ

1、6節前半、8節を読みます。キリストの愛は特に罪人の救いに向けられています。だから私たち罪人が救われることが出来たのです。

2、10節を読みます。キリストの愛は神の敵にさえ向けられている愛です。愛を表して行くことが出来るように、十字架を仰いで、家族、友人、知人のために、教会の兄弟姉妹のために祈って行きましょう。愛を表されたキリストに倣って行きましょう。



祈 り

天地の主である神様、独り子イエス・キリストが、私たちがまだ罪人であった時に十字架によって愛を表され、救いを与えて下さったことを感謝します。キリストの愛を与えられ、聖霊に導かれ、人のために祈る一週間であるように導いて下さい。病気の方のために、治療中の方のために、明日右肘(ひじ)骨折の手術を受ける荻野兄弟のために、仕事を求めている方のために、その他さまざまな祈りや願い事のために執り成しの祈りを捧げて行くように導いて下さい。私たちを罪から救うために進んで十字架にかかって下さったイエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。



参考文献 ロマ注解―松木、大木、バークレー、黒崎、フランシスコ会、文語略解、LABN。「現代のたとえ話・アウスラー・教文館」、「賛美歌・聖歌ものがたり・大塚野百合・創元社」、「告白・アウグスティヌス・岩波文庫」