キリストに仕える ガラテヤ5:25-6:10          主の2007.9.2礼拝



ずっと以前ですが、ひとりの女子大学生が礼拝に出席しましたが、最初から礼拝に溶け込んでいる感じでした。彼女は小学生の頃、小学校の門の前で小さな印刷物をもらったので読んで見たところ、そこには人間を罪から救うイエス・キリストの十字架、永遠の命を与えるキリストの復活のことが記されていた。彼女は素直にイエス様を信じる決心をした。田舎で教会がないので、「イエス様を信じた」という思いを抱き続けていましたが、大学に入るために田舎を出て、遂に教会出席という念願が叶ったのです。彼女は聖書の学びをし、洗礼を受け、田舎に帰って行きましたが、驚いたことに田舎町に教会が設立されていました。彼女はそこの教会に転会し、信仰生活を持続する恵みを受けたのです。田舎の町の牧師から手紙をもらいましたが、「遠い昔に田舎に住む人々のために、はるばるアメリカより宣教師が来て、キリストの福音を伝えるトラクトを配布してくれた愛の労苦に感謝します」と記されていました。宣教師の配布したトラクトを通して救われる者が起こされ、今では教会が建てられて、福音伝道の働きが推し進められています。

本日はガラテヤ5:25-6:10です。「御霊によって進もう。互いに重荷を負い合おう。霊に蒔くものすなわちイエス様に祈り、イエス様に仕えて行こう。時が来れば刈り取りの実を見るであろう」と言われています。田舎でアメリカの宣教師が蒔いた福音の種は、ひとりの女性を救いに導き、その地方に教会が建てられるという刈り取りの実が現されています。2007年秋に入り、特別集会、クリスマス、教会親睦会が予定されています。主の再臨が近いことを覚えながら、一回一回の集会を大切にして、祈り合い、赦し合い、励まし合って、キリストに従う日々を前進して参りましょう。



内容区分

1、御霊によって進んで行こう 5:25-26

2、互いに重荷を負い合って行こう 6:1―5

3、自分の蒔いたものを刈り取ることを忘れないで行こう 6:6-11



資料問題

本書に言われている肉とは肉欲(色欲、貪欲など)のことであり、生来の人間に属する古い人の総称であり、その表れが5:26に「いどみ合い、ねたみ合い、虚栄」というかたちで現れている。肉の働きとして5:19-22を見よ。霊とはキリストによって新しく生まれ変わった人。6:5「自分自身の重荷」、人はそれぞれ自分自身の重荷(罪と誘惑)を負っているが、それは本人だけがよく承知している。だから自分と他人とを比較して、他人に対して誇ったり、批判することはできない。自分のことについて判断できるのは、自分のことをよく知っている本人だけである。6:6「御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい」、霊的なものを受けた者は、授けてくれた人と、自分の持っている物質的なものを分ち合うべきである。ロマ15:27を見よ。6:9「うみ疲れてはならない」、倦(う)むとは事を為す意志を失う事。



1、御霊によって進んで行こう 5:25-26

もし私たちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互いにいどみ合い、互いにねたみ合って、虚栄に生きてはならない。(5:25-26)。

5:25はクリスチャン生活の基本になる御言葉です。「御霊によって生きる」というのは何でしょうか。御霊とは神の聖霊のことです。聖霊によって、私たちは罪を悔い改めて、イエス・キリストを心に信じ、そして「イエス・キリストは私の救主です、私の人生の主です」という信仰告白をするように導かれ、私たちは神の子になることができました。聖書66巻の中で最も大事なことは、イエス・キリストが聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために十字架に死んだこと、墓に葬られ、聖書に書いてあるとおり三日目に甦ったことです(Ⅰコリント15:1-4)。「御霊によって生きる」とは、聖書の中で最も大事な教えであるイエス・キリストを信じ、クリスチャンとして生きるということです。クリスチャンとして生きるために、自分の考え、経験ではなく、「御霊によって進もうではないか」との勧めが続いています。「御霊によって進む」ということは、御霊の指し示すキリストに従って生きる、キリストに倣って生きるということです。

御霊によって生きるとは、キリストに倣って生きることですから、26節にあるように、自分と相手を比べて、私が上だというような相手にいどみかかるような傲慢な態度、ねたむ心、虚栄心を棄て去って生きることを示しています。キリストは常に愛の心をもって人に接し、虚栄心を棄てて弟子の足を洗い、徹頭徹尾仕えるという姿勢を貫いています。キリストは人を恨まず、苦しい十字架の上で「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)と祈っておられます。「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら」と言われています。もし私たちが本物のクリスチャンであれば、悪いものを棄て去って、キリストに倣い、キリストに従って生きれば良いのです。

私の友達に、下着を買いに行けば、女性のものを買ってきてしまうような、この世のことには疎いというか何となく浮き世離れしているので、仙人と呼ばれる仲間がいます。私と長く付き合いが続いていますが、とにかくよく聖書を読む、また聖霊に満たされて熱心に祈る人です。彼は御霊によって生きる、御霊によって進むことを実践し、キリストに忠実に仕えている人です。彼が御霊によって生きているシルシは、人のことを悪く言わないという点において徹底しています。私はキリストによって良き友を与えられていることを感謝しています。

「もし御霊によって生きるのなら、御霊によって進もうでないか」と言われています。御霊によって生きている人の目は常にイエス・キリストに注がれています。御霊によって、イエス・キリストから目を離さないで、祈って今週の日々を進んで参りましょう。



2、互いに重荷を負い合って行こう 6:1-5

互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう(6:2)

「ある人が罪過(ざいか・あやまち)に陥っている」と言われていますが、罪過とは意図的に犯した罪ではなく、凍った道で、誰に起るか分からない踏み外しを意味する言葉です。これはどんなにすぐれた人でもつまずき、滑って転ぶようなことがあるかも知れないということを意味しています。道を踏み外した人に対し、厳しく裁いたり、また同情しないという対応の仕方があります。しかし、ここでは「柔和な心をもって正しなさい」との勧めがなされています。「正す」というのは「修繕する」ということです。人間の体内にある腫瘍を除去する、骨折した手足を使えるようにするという意味の言葉です。「正す」とは懲らしめよりも癒やすことであり、罰ではなく修正することが強調されています。さらに、私たちが罪や過ちに陥っている人を見る時には、「もし神の恵みが与えられていなかったならば、私も同じ過ちに陥っていたであろう」と言ったほうが良いと言われています。

私は「当たり前であること、平凡であること」は素晴しいことだと思っています。きょうも礼拝に出席できたことを感謝します。私を含めて車を運転する人々が日々を守られていることを感謝します。夜が来ると睡眠が与えられ、朝になると目覚めが与えられることを感謝します。私は昨年9月に「めまい」で入院して以来、一日一日を大過なく過ごせることは当たり前ではなく、神様の大きな憐れみによって生かされているからだということを強く意識するようになりました。私は、多くの方々から失敗、過ち、トラブル、経済のこと、仕事のこと、病気、罪の問題、結婚のこと、仕事のことなど様々な祈りの要請を受け、日々に祈ります。祈りながら、「私は神の恵みによって守られている。教会の皆さんのお祈りによって支えられている」ということを深く感謝します。そして「自分が何か偉い者である」という傲慢に陥ることがないようにということを祈ります。

2節に「重荷を負い合いなさい」と言われています。5節にある「自分自身の重荷」というのは、その人自身の罪や弱さを指していて、それは主に祈って自分で負って行くものです。ここでは2節の御言葉に注目して行きましょう。人が困っていたり、病気であったり、迫害を受けているとか様々な重荷を負っている、そのことを知ったら、先ず祈って行こう、そして助けの手を伸べて行こう、お互いに重荷を負い合って行こうという勧めです。

重荷を負い合って行くことによって自分自身が恵まれます。助けることによって、実は自分が助けられるということがあります。インドにサンダー・シングというクリスチャンがいました。インドやヒマラヤ山中に分け入って伝道し、日本にも来たことがある伝道者です。ある時、ヒマラヤ山中を次の村に向って歩いていました。同じ方向に行く人がいたので、二人で並んで歩いていたのですが、雪が降りだしてきました。すると道端に倒れている人が見えました。連れの男は「雪が激しくなりそうだし、私は先を急いでいる」と言ってスタスタと先に歩いて行ってしまいました。サンだダー・シングは立ち止まり、倒れている人を起こして肩を組んで歩こうとしたのですが、弱りきっている様子を見て、背中に負ぶって、一歩一歩降りしきる雪の中を進んで行きました。村が見える所に着いた時、先ほどの連れの男が雪の中に倒れて凍え死んでいるのを見つけました。サンダー・シングは行き倒れの人をおぶっていたので、お互いの体温で体があったまり、凍え死ぬことを免れたのです。彼は重荷を負い合うことによって、主から命を守っていただくという恵みを受けたのです。

重荷を負い合うことの実践は、祈りからはじまります。お互いのために祈り合って行きましょう。キリストは、教会について「わたしの家は、全ての民の祈りの家と呼ばれる」(マルコ11:17)と教えています。教会は祈りの家です、特に執り成しの祈りを捧げる所です。私が神学校時代、伝道部に任命されたのですが、伝道部の働きの一つに「早朝の祈り」という朝6時からの祈りがありました。一つの教室に全国の教会の名前と牧師名が記してあって、毎朝毎朝全国諸教会のために祈るのです。それを祈っていると早天祈祷に割り当てられた1時間がすぐ経ってしまって(今は教会数が増えているので3時間かかるであろう)、自分の祈りが出来なくなってしまうという不便さがありました。すると先輩の伝道部長が「人のために祈っていると愛が与えられ、そしていつの間にか自分の願いや問題が主によって応えられているのを体験する」と教えてくれました。幸いなことに、私も執り成しの祈りを続けることによって、それが事実であることを体験することが出来ました。皆さんも人のために祈って下さい。必ず恵まれます。人の必要を知り、祈るために、水曜日の祈り会に出席し、祈りのリクエストを知り、祈って下さい。また火曜日から土曜日の朝6時からの早天祈祷会にも主席して下さい。そして、私たち夫婦のために、荻野倫夫・チャチャ伝道師のために祈って下さい。



3、自分の蒔いたものを刈り取ることを忘れないで行こう 6:6-10

まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる。すなわち、自分の肉に蒔く者は肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。(6:7-8)

6節では教会のあり方が簡潔に記されています。それは福音を伝える伝道者は神の御言葉を伝えるという役割をしっかり果たします。御言葉を聴き、教えてもらう人は伝道者の生活を支えてあげなさいという事です。それに続けて7節以下に人生の真理についての教えがあります。それは「人は蒔いたものを刈り取る」という真理です。キリストは教えています、「人を審(さば)くな。自分がさばかれないためである。あなたがたが審(さば)くその審(さば)きで、自分も審(さば)かれ、あなたがたが量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」(マタイ7:1-2)と。悪口を言えば必ず悪口が返ってきます。私は様々な所で、人を陥れる裏工作をした人が自分も同じ目に遭っていることを見て来ました。ギリシャ人はギリシャ神話でネメシスという応報天罰の女神を信じていて、人が間違ったことをするとすぐ,ネメシスに追跡され「悪いことをした者は苦しむ」ということを教え、罰の恐ろしさを強調していますが、聖書は「霊に蒔こう、善を行い続けて行こう、特に信仰の仲間に対して善を行おう」と呼びかけ、時が来れば、刈り取ることになるという恵みを強調しています。

人は自分の蒔いたものを刈り取ると言われていますが、ここで少しだけ神への献金ということを考えておきます。現代は働いてお金を得て生活するという社会の仕組みになっています。この世において働いてお金を得ること、得たお金を正しく用いることは人生の基本です。神様は言われます、「先ず自分で得たものの十分の一を献金しなさい」(マラキ3:10)と。若い方々が洗礼を受けて十分の一献金をしていることは祝福です。十分の一献金をキチッと実践して行けば、経済が祝福され、霊的にも恵まれて行きます。十分の一献金をすることによって、経済をやりくりし、むだなことにお金を使わないという知恵が与えられます。キリストは命を与えて下さった救主です。その恵みに感謝するためには命をささげ、持っているものを全部差し出しても足りません。そこで先ず十分の一献金をして感謝を表すのです。

本題に戻りましょう。「人は蒔いたものを刈り取る」と言われています。Kさんは父が亡くなり、ガソリンスタンドに住み込んで仕事をして何とか大学を出た。生活は苦しく「いくら働いても、人生はむなしい」と絶望的になり、人を信じられず、孤独であり、感謝も喜びもない心で生きていた。ある時、大学で学びながら学位を取れるという話があり、研究室に入った。周りの人はよく出来る、だが自分は何を学んで良いのか分からないということで行き詰まってしまった。クリスチャンの友がいて集会に導かれた。ある集会で「願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神である」という御言葉を聴いて「願いを起こさせるのは神様なんだ」ということが分かり、神であるキリストの名を呼んで祈っている自分に気づいたということです。キリストを信じ、救いを得たことによって、人を信じられずにいたのに、教授や研究室の仲間が自分を励まし、支えてくれているということが分かった(自分が愛されていることに目覚めたのです)。そして主から研究テーマを与えられ、遂に学位を得る事が出来ました。Kさんは、憎しみをもって人々を見ていたので、肉に蒔く者は肉から滅びを刈り取るという御言葉の通りに悲惨を日々を送っていました。しかしキリストを信じた時に、霊が恵まれ、人を愛の目をもって見るようになり、人々が自分を励まし、支えてくれているということが分かり、感謝が生まれ、思い悩んでいた研究テーマが主によって与えられ、全てが喜びに変ったのです。



まとめ

1、5:25-26、御霊は常にキリストを指し示します。御霊によってキリストに従い、キリストに倣って、全ての悪いものを棄て去って、御霊によってキリストに従う道を進んで行きましょう。

2、6:2、重荷を負い合って行きましょう。そのために互いのために祈り合って行きましょう。

3、6:7-8、自分の蒔いたものを刈り取ることを忘れないで行こう。



祈 り

天地の主である神様、キリストの救いに感謝します。御霊の指し示すキリストに従って行きます。人をさばくのではなく、人のために愛をもって祈ることができるように導いて下さい。人は蒔いたものを刈り取るという厳粛な事実を忘れないで、キリストに仕えて行く日々であるように、恵み深い御霊によって今週も導いて下さい。病気の方々を速やかに、完全に癒して下さい。9月の月、救われる人を起こして下さい。生きておられるイエス・キリストの御名によってお祈りします、アーメン。



参考文献 ガラテヤ書注解ー黒崎、バークレー、フランシスコ会、文語略解、LABN。「信仰雑誌より」「サンダー・シング全集・金井為一郎著訳・基督教文書伝道会」