キリストの招き ルカ5:1-11         主の2007.9.16



はじめに伝えておきます。礼拝メッセージの後に、70歳以上の方々、愛称シルバーエンジェルスの方々のために、主イエス・キリストの祝福を皆でお祈りする時を持ちます。

話は変わり、プロ野球の話になりますが、ソフトバンクの王監督は、選手時代一本足打法で一番多くホームランを打ったという世界記録保持者です。しかし、王監督が読売ジャイアンツに入った最初の頃はなかなか打てず三振ばかりしていました。その時に荒川というコーチに巡り合い、その指導で一本足打法を取り入れ、ホームランバッターになったのです。現在アメリカではイチロー選手が大活躍をしていますが、彼は日本でプレーをしていた時に仰木監督に出会い、その指導を受け、一流プレイヤーになった選手です。私たちにとって、自分を理解してくれる良い師、コーチ、自分を良い方向に導いてくれる人に出会うことは、人生を決定する大事な要素になります。

本日はルカ福音書5:1-11です。ペテロはガリラヤ湖の漁師でしたが、イエ・キリストに出会い、キリストの弟子となり、ペンテコステの日に聖霊を受けてキリストの十字架と復活を宣べ伝え、初代教会の指導者として用いられた人物です。彼はガリラヤ湖で毎日魚をとって暮すという、極々普通の人でしたが、イエス・キリストはペテロに対し、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」という招きの声をかけています。彼がその招きに応じたことによって、自分の人生が豊かになっただけではなく、周りの人々にキリストの救いの恵みをもたらし、彼は教会の牧師となり、救われたクリスチャンを励ますという素晴しい働きをし、それが二通のペテロの手紙として残されています。主のメッセージを共に聴き、お祈りを捧げ、新しい一週間の旅路を出発いたしましょう。



内容区分

1、キリストは、何かをする前に、静まって御言葉を聴くことを求めている。5:1-5

2、キリストは、御言葉に聴き従ったペテロを祝福し、弟子に任命している。5:6-11



資料問題

この個所とマタイ4:18-22、マルコ1:16-20との関係は難問題である。マタイとマルコの記事はよく似ているが、この個所とは召命の事情と時期が異なる。共通なことは「人間をとる漁師になる」という御言葉と船を捨ててキリストに従ったという点である。10節「人間をとる漁師」となるための諸用件は以下である。第一に単純に主の言葉に従うこと(5節)、第二に主に従う者に予期し得ない漁獲がある(6節)、第三に互いに助け合い、獲物を分け合う(7節)、第四に自己の罪を認め主の前にひれ伏すこと(8節)、第五に全てを捨ててイエス・キリストに従うこと(11節)である。



1、キリストは、何かをする前に、静まって御言葉を聴くことを求めている。5:1-5

話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をして見なさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」(4-5節)。

1節に「群集が神の言(ことば)を聞こうとして押し寄せてきた」ので、キリストは押し寄せる群集から少し離れるために舟に乗り、3節「舟の中から群集にお教えになった」と記されています。キリストは、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と言われました(マタイ4:4)。その言葉のように、キリストは人々に神の言葉を語り、教えています。教会では常に神の言葉である聖書が語られています。何故なら「御言(みことば)には、あなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブ1:21後半)からです。毎月第四土曜日上野公園ホームレス伝道に行きます(今週22日土曜日ですのでお祈りとおにぎりをお願いします)。私たちが午後1時過ぎに上野公園に着くと、ホームレス伝道をする所からあまり遠くない別の所にホームレスの方々が長い行列をつくっています。それはボランティアによって配られる食料品をもらうためです。それを遠目に見ながら、集会をする所には300名の方々が地べたに座って2時からの礼拝を待っています。こちらでもおにぎりなどを配りますが、しかし先ず礼拝があります。さんびが歌われ、キリストの救いのメッセージが語られます。キリストを信じて生まれ変ることがホームレスをやめ、人生再生の力になるからです。そこで先ず1時間の礼拝があり、神の言葉が先ず語られますが、それがキリストの教会の特徴です。

話が一段落した時に、キリストはペテロに「沖へ漕ぎだし、網をおろして漁をしてみなさい」と言っています(4節)。ペテロは突然の語りかけにビックリしながら、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」(5節)と答えています。このペテロの答から現代人の姿を見ることができます。

どんな姿が見えるのか。それは人は忙しく動き回わり、何かをしている事が自分の存在価値を表していると思い込んでいることです。

チャチャの弟ジャクソンが夏の二週間熊谷に滞在しましたが、「日本の印象は?」と尋ねたところ「忙しい、busyである」という答でした。確かに日本の生活は忙しい生活です。自動販売機でコーヒーを販売するものがあります。お金を入れる、すると販売機前面にコーヒー豆を挽いている画面が写り、音楽が流れ、やがてコーヒーが紙コップに入って出てきます。お金を入れて少し待っていればコーヒーが出てくるのですが、現代人はその僅かな時間を待てないのです。お金を入れてもすぐにコーヒーが出てこなければ、たぶん10秒もしないうちにドンドン販売機を叩くでしょう。そこで画面を見せて待ってもらうように工夫してあるのです。友人の牧師がインドに行き、「集会は○○時から」というので時間通りに行ったら、チラホラしか人がいない。やがてボツボツと人が集まり始め、牧師達も集まり、これからどういうふうに集会をしようかと相談し、祈っている。集会が始まる。一つの説教が終わるとリラックスして会衆はくつろぐ。すると再び集会が始まる。そんな具合にゆったりと集会をして恵まれているという事でした。日本では考えられないことです。以前に関東聖会で説教をしましたが、聖会プログラムが秒単位で組まれていて、説教も決められた時間内でお願いします、ということでした。私たちの社会全体が忙しく動いています。周りが忙しいので、何かをやっていないと自分の存在価値がないように思ってしまうという社会の中に生きています。

忙しい私たちに対し、主は「静まって、わたしこそ神であることを知れ!」(詩篇46:10)と言われます。イエス・キリストは東奔西走の忙しい生活でしたが、何かをする前に、静まることを実践していました。キリストは朝に祈っています(マルコ1:35)。弟子達を選ぶ時に徹夜で祈っています(ルカ6:12-16)。男だけで5千人の人々にパンを与えた後に、祈るために山に登って祈っています(マタイ14:23)。十字架にかかる直前の夜、ゲッセマネで膝まずいて祈っています(ルカ22:39-41)。キリストに倣って、私たちも「静まって、わたしこそ神であることを知れ!」という御言葉を心に刻み、先ず静まり、祈って行くことを実践して参りましょう。

忙しく動き回っていると、人のことが気になり、自分だけがやっていると思い込んでしまいます。

大先輩の牧師が若い頃の話をしてくれました。神学生時代、誰よりも熱心に奉仕をしていると思っていた。そのうちに自分は熱心にやっているのに、周りは動いていないと、他の人々を審く気持になった。すると主が「お前は誰のために奉仕をしているのか。わたしのためか。自分のためか・・・」。ガーンと頭を打たれたような気がした。自分がやっているというのは、主への奉仕ではなく、自己満足であることに気づかされ、人と比べずに、純粋にキリストに仕えて行こうという思いをもった時に喜びが生まれたということです。ベタニヤのマルタはキリストがお出でになった時、接待で忙しすぎて心を取り乱し、キリストの御言葉に聴き入っている妹マリヤを批判し、キリストに文句を言っています。「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。するとキリストは「マルタよ、マルタよ」と彼女の名前を二度も親しく呼んでから、「無くてならねものは多くはない。あなたは接待に気をとられ、自分だけが働いていると思い、マリヤを恨んでいる。マリヤは何かをする前に、わたしの言葉を聴いて心に恵みを得ている。その恵まれた心で彼女はわたしに仕えようとしている。マルタよ、いらだつな。あなたも先ず静まり、わたしの言葉を聴きなさい」と諭しています(ルカ10:38-42)。本当にキリストに仕えているなら心に喜びがあり、主のために全力を尽くして奉仕をすることができます。

ペテロはキリストに口答えをしましたが、「しかし」と言ってキリストに従う決断をしています。

5節後半の「しかし」(しかしー新共同訳、でもー新改訳)という言葉によって、ペテロの人生は一変します。それまでペテロは「先生、夜通し、一生懸命働きましたよ。魚は太陽が出ている間は湖の底に隠れていて網が届きませんよ。これから帰って休みたいんですよ」など言っていましたが、キリストの権威と力に圧倒されて、「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と答えています。この一言によって彼は祝福を受け継ぐ者になったのです。



2、キリストは、御言葉に聴き従ったペテロを祝福し、弟子に任命している 5:6-11

すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。(10-11節)

ペテロと仲間たちは、キリストの言われた通りに沖へ漕ぎだし、網を下ろしてみると、網が破れそうになるほどたくさんの魚が獲れ、ほかの舟に加勢に来てもらったが、あまりの大漁に両方の舟が沈みそうになるほどでした。これこそまさにキリストの奇蹟です。ペテロは、キリストに一度は口答をしましたが、あとから「しかし、お言葉ですから」と言って従ったのですが、この大漁に腰を抜かさんばかりに驚いて、思わずキリストの御許にひれふし、「わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者です」と言っています(8節)。ペテロは自分の経験から判断して、昼間には魚は獲れないと思っていました。ところが魚を獲ったことがないキリストの言われた通りにしたら、魚が舟いっぱいに獲れた。これはキリストが神であることの印である。神でなければ、魚の居場所も分からないし、こんなに大量に魚を獲れるはずがない。目の前にいるキリストが神であるとするなら、自分はきよい神であるキリストの前にいることが出来ない、汚れた罪人である。そこで、反射的に「わたしを離れてください」と言っているのです。キリストはペテロに「あなたはわたしが神の救主であることを信じるのか。恐れなくてもよい。あなたにはこれからわたしの弟子になって、わたしの救いを人々に伝え、多くの人々を神の子にするという使命を与える」(10節)と告げています。その招きの声を聴いて、ペテロたちはいっさいを捨ててキリストに従い、弟子になるという人生を歩み出しています(11節)。

キリストに従うとは、具体的には聖書の御言葉に従うことです。

聖書朗読のイザヤ書57:15に「主はへりくだる者の霊を生かし、砕けたる者の心を生かす」と言われていました。へりくだり、心砕けたる者とは聖書の御言葉に従う人のことです。ペテロはキリストの御言葉に従って恵みを受けました。キリストの御言葉が全部記されているのが聖書です。ですからキリストに従うとは聖書の御言葉に従うことです。

聖書の御言葉に従うためには、聖書を読まなければなりません。

いつもいつも言っていることですが、聖書を読んで下さい。

そして集会に出席して、聖書のメッセージを聴いて下さい。私は中学生の時からメッセージを聴いています。中学や高校ぐらいの時には、よく分からなかったり、「きょうのお話は長いな」と思ったりしたこともあります。居眠りしたこともあります。中学、高校という昔に聴いた聖書の話は忘れているかのように思いますが、ところが、その頃に聴いた聖書のお話を思い出したり、あのお話をしてくれた牧師はこんなゼスチャーをした、ということなどが頭に浮かんできます。ペテロは「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」(Ⅰペテロ1:24)と言っていますが、私の心に植えつけられた神の言葉は、決して枯れることなく、散ることなく私の心を生かしています。

ここに一つのファイルがあります。大武優くんが昨年の九月から毎週日曜日のメッセージをイラストにしてくれたものです。日付があって、主題聖句が英語で記されています。メッセージをポイントごとに整理し、それをイラストにしています。最後に自分の感想、決断、祈りなどが記されています。こうやってメッセージを聴いてくれている人がいることは説教者を成長させます。説教は説教を語る牧師と祈りながら聴いて下さる皆さんとの共同作業です。

11節に「イエスに従った」とあります。私たちも主に従って行く決断を新たにして祈りましょう。

ペテロはキリストに従う人生を歩み始めました。彼は時々従うことに失敗したり、キリストに叱られたり、ある時にはキリストを裏切ったこともありました。しかし、彼は「あなたは人間をとる漁師になるのだ」というキリストの御言葉を思い出し、キリストに縋りながら信仰の道を歩み続けました。

「イエスに従った」人に亀谷淩雲(1887-1973)がいます。彼は富山市の浄土真宗のお寺に生まれ、寺の跡継ぎになる身であった。大学で哲学を学び、卒業論文は仏教をテーマにしたものであった。小樽中学で教師をしている時に、時々教会に出席し、宣教師と親しくなった。やがて富山へ帰り、住職となり、同時に中学教師となり歴史と英語を担当した。英語力をつけるために宣教師の所に通い、ヨハネ福音書を英語で読み、聖書が好きになった。やがて彼は救いをキリストの中に発見し、信じた。家族の反対を押し切り、寺を出て神学校に入学することに決意したが、寺の本部より除名された。洗礼を受け、神学校で学び、故郷で伝道を開始。妻が34歳で召されるなど苦労するが、1951年「仏教からキリストへ」の本を出し、その本は今も売れ続けている。彼は人の罪を救うために十字架にかかり甦ったキリストによって罪が赦され、永遠の命が与えられることを信じ、「イエスに従う」一生を歩んだのです。彼は仏教からキリストへの回心によって、多くの人をキリストに導く働きをし、彼の信仰は現在もその記した本によって人々にキリストを指し示しています。



まとめ

1、4-5節、キリストは、何かをする前に、静まって祈ることを求めています。祈りましょう。「しかし、お言葉ですから従います」というキリストへの素直な信仰をもって祈りましょう。

2、10-11節、キリストは、御言葉に聴き従ったペテロを祝福し、彼を弟子に任命しています。聖書を読み、また、メッセージを聴いて、キリストに従う信仰の道を歩んで行きましょう。



祈 り

天地の創造主である神様、独り子イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、救われていることを感謝します。先ず主の前に静まり、何かをする前にへりくだって祈り、主に従って行けるように導いて下さい。恵み深い御霊によって、どんな時でも聖書の御言葉に従って行くように導いて下さい。午後のネームレスの集まり、夕べの礼拝を祝福し、導いて下さい。礼拝の直後にはさんび奉仕に携わる方々が主をさんびする思いで一致し、新しい決断をもって奉仕に励む祈りの時がありますが、主が導いて下さい。私たちの家族が救われるように導いて下さい。病気の方が「主かれを起こしたまわん」という御言葉どおりに、主によって癒やされることを信じます。一人一人の祈りに主が答えて下さることを信じます。主イエス・キリストの尊いお名前によって祈ります、アーメン。



参考文献:ルカ注解―黒崎、フランシスコ会、榊原、バークレー、J・C Ryle、文語略解、LABN。

「仏教からキリストへ・亀谷淩雲・福音館」、「日毎の糧としての逸話365・高野勝夫編著・神戸キリスト教書店