キリストにある喜び・祈り・感謝 第一テサロニケ5:12-24 主の2007.9.23礼拝
個人的な事ですが、昨年9月22日(金)11時40分過ぎメマイに襲われ、12時50分に関東脳外科へ救急車で運ばれ、「回転性メマイ」という病名で三泊四日入院しました。退院してから睡眠時間の確保、ストレスをためないようにし、一年間守られてきたことを感謝します。ストレスをためないようにしていますが、しかしストレスをもたらすようなことが次々に起きてきます。ある牧師が、「牧師にもストレスがあるのですか」と聞かれて、それがストレスになったという話をしてくれました。牧師も一個の人間ですからストレスを経験します。そこで改めてお願いします、私たち夫婦のために、伝道師夫婦のために、どんなストレスにも打ち勝つ力が与えられて行くように祈って下さい。
ところで、日本で1500人礼拝をしている大川牧師が書いています、『私は毎週日曜日の厳粛な説教の導入部分(落語で言うなら「枕」のところ)で必ず「上品なジョーク」をとばすことにしています。牧師はこんな努力をしているのに、会衆席にいる信徒さんは「枕」もないのに眠るのです。よほど私の声が、平安を与えるようです』・・・。私も眠っている方々がイスから落ちないようにというストレスを抱えながらメッセージをする時があります。しかし、主は恵み深いお方です。メッセージの後に、必ず「きょうも有り難うございました」と言って握手をしてくれる若い美人がいます。また先週紹介した説教イラストをもらいます。それらによってストレスから解放されることを感謝しています。
本日は教会の聖書日課・新約聖書から第一テサロニケ5:12-24です。16-18節に「喜べ、祈れ、感謝せよ!」という勧めがあります。枕がなくても眠れるという特技をもっている方々がいると思いますが、その特技を脇へ置いて、しばしの時間を主の御言葉に集中して行きましょう。そして、共に祈って新しい一週間の旅路へと出発いたしましょう。
内容区分
1、キリストの御言葉を伝える伝道者を支え、お互いに助け合って行こう。5:12-15
2、キリストにあって祈り、喜び、感謝し、主の前に立つ備えをして行こう。5:16-24
資料問題
主イエス・キリストの受難・十字架の死・復活から約20年後の紀元50(51)年ごろ、パウロはロマ属州マケドニアの町テサロニケのクリスチャンに宛てて、テサロニケ第一・第二の手紙を記した。当時、彼が滞在していたコリントのテント造りアクラの家で書かれたようである(使徒18:1-3)。パウロの最初の手紙として、また、初代教会の教えと状況とを証しするものとして重要である。クリスチャンは信仰・希望・愛に生き(Ⅰテサ1:3)、主の再臨が間近いことを教えている。19節「御霊を消すな」、Ⅰコリント12:4-11にある聖霊の特別な恵み(カリスマタ)を指していると思われる。20節「預言」、カリスマタの一つ(Ⅰコリ12:10、14章)。23節「霊と心とからだ」、霊は人間だけに与えられたもので、霊があるので霊なる神を知ることが出来る。心は精神的働き、体は肉体である。
1、キリストの御言葉を伝える伝道者を支え、お互いに助け合って行こう。5:12-15
あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って特に愛し、敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい(12-13節)。
12節で、パウロは「兄弟たちよ、わたしたちはお願いする」という形で、「神の御言葉を宣べ伝えている伝道者の働きを思って、彼らを重んじ、愛し敬いなさい」と言っています。伝道者を愛し敬うのは、「彼らの働きを思って」とあるように、その務めが御言葉を伝えるという重い務めだからです。
伝道者の生活の一端を述べれば、毎週日曜日の礼拝・夕拝メッセージがあります。先ず祈って聖書個所と主題を主から教えてもらいます。英語通訳、手話通訳のために、メッセージの内容を完全原稿にして土曜日までに作成するという締め切りのストレスがあります。水曜日メッセージ、各種集会の備え、神学校関東校で毎週金曜日に授業をする事、毎月一回上野公園ホームレス伝道があります。教団・教区の仕事があります。様々な宣教団体との関わりがあります。訪問、手紙、電話などで安否を問います。家内は洗礼講座、個人伝道講座、求道者の聖書の学び、個人的相談、電話相談があります。また来訪者への対応、手紙書きなどがあり、家事全般があります。伝道師夫婦も青少年の霊的ケアー、水曜メッセージ、聖書の学び、訪問、文書発送などがあります。三浦綾子さんがエッセーの中で、「牧師の留守を預かったことがあるが、電話や来訪者の多いのに驚いた」と言っています。Aさんの娘さんが献身し、結婚し伝道所に遣わされました。子どもが生まれたので、Aさんは暫く娘の伝道所に手伝いに行きました。私たちが出産祝いに行った時に、Aさんが言いました。「まだ小さい伝道所だから、たいして忙しくないだろう。私は生まれてくる孫の世話をすればいいのだと思って来たのですが、毎日のように誰かかが来るし、電話がある。日曜日は目が回るように忙しい」と言っていました。Aさんは信仰歴40年を越える方でしたが、はじめて伝道者の忙しさを身をもって味わったという事でした。皆さん方も忙しい生活であると思います。先週、忙しさの中で大武さんが4階にある十字架をキレイにしてくれました。少し仕事が早く終わったという事で15メートルの高さに伸びるクレーン車を持ってこられ、クレーンの先端に人が立って入れる篭があり、その中に入って、4階の十字架の所までクレーンを伸ばし、十字架をキレイに塗りなおしてくれました。暗くなって作業が終わったのですが、翌日は朝3時に起きて仕事に行くという事でした。こうした忙しさの中で奉仕をしてくれたことを感謝し、合わせて私は皆さんの生活のことを思いながら、主の祝福があるようにと祈っています。
13節後半から15節には、お互いに平和であるように助け合い、寛容で善に励むことが教えられています。私たちひとり一人が教会に根ざし、お互いに祈り合って、助け合って、赦し合って行こうという勧めです。パウロの手紙が13通新約聖書の中にありますが、どの手紙にも、キリストの教会にしっかり繫がって、愛をもって互いの交わりを深めて行こうという教えがあります。
14節に「怠惰な者(気ままな者)を励まし」とあります。怠惰とは、隊列を離れた兵隊を指していて、中途で投げ出した人々を警戒しなさいということです。クリスチャン生活は決断の連続です。朝起きたら「きょうもイエス様に従います。聖霊によって私を導いて下さい」という祈りをもって一日を始めることです。一週の初めには日曜礼拝をもって主に従って行く決断をもって、一週の旅路を出発することが大切です。決して信仰を途中で投げ出さないで、天国へ進んで行きましょう。
「小心な者を励まし」とあります。これは物事をすべて悪いほうにとり、気弱になってしまう人々を励ましてあげましょうということです。
「弱い者を助け、寛容でありなさい」とあり、「悪をもって悪に報いず、善を追い求めて行きなさい」とあります。「寛容」と言うことで思い出すのは「愛は寛容であり、情け深い」(Ⅰコリ13:4)という御言葉です。三浦綾子さんのエッセーに「人間は二つの物指しを持っている。自分用にはゆるやかな物指し、人に対しては厳しい物指しを持っている」と記しています。キリストは大きな広い心をもっておられます。十字架の上で、犯罪を犯し、死刑になって死にそうになっている男が「イエス様、私のことを忘れないで下さい」と赦しと救いとを求めた時、「あなたの罪を赦し、きょう私と共にパラダイスに行こう」という救いを与えています(ルカ23:40-43)。私の若い日に、何かのことで御言葉に従わない人がいた。それに対し、私の霊の父であるクラー師は「祈って祈って、愛を表してあげなさい」と教えてくれました。「愛は寛容で情け深い」とあるように、キリストは無限の寛容をもって私を救って下さったのだということを思い、クラー師の教えは私の心に深く残っています。
2、キリストにあって喜び、祈り、感謝し、主の前に立つ備えをして行こう。5:16-24
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである(16-18節)。・・・あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にして下さるように(23節後半)。
この個所に出てくる「喜び、祈り、感謝」は祝福の三拍子と言われていて、多くの方々がこの聖句を暗誦されていると思います。
「いつも喜んでいなさい」との勧めがあります。人生には涙の日があり、病気の時があり、思わぬ事故に巻き込まれる時もあります。もちろん嬉しい時、楽しい日々もあります。喜怒哀楽が交じり合う中にあって、パウロは「いつも喜んでいなさい」と言っています。
キリストはどうだったでしょうか・・・ルカ福音書には、キリストが聖霊によって喜びあふれて祈った姿が記されています(ルカ10:21)。しかし、キリストは悲しみの人であったと言われています(イザヤ53:3)。確かに聖書にはキリストが笑ったという記事は見当たりません。それは、あまりにも人間の罪が深いので、キリストはそのことを憂えていたので、笑ったという記事がないのかも知れません。
でも本当はキリストは喜びの人です。ではキリストは何を喜んでいるのでしょうか・・。キリストは人間が罪から解放され、神の子になるために、自分が十字架にかかって、人間の罪の身代りになって死ぬこと、自分は死ぬが復活すること、やがて多くの者が十字架と復活を信じて救われることを信じていました。それがキリストの最大の喜びでした(へブル12:2)。私たちはキリストを信じ、罪を赦され神の子になっています。私たちは生まれ変わり、神の子になり、永遠の命を受けています。キリストはいつまでも変らない、生きている救主ですから、信じて頼る私たちに対し、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と言われる共にいて下さる救主です。ですから、パウロはロマの暗い地下牢に監禁されても「主にあって喜ぼう」という希望の叫び声をあげています(ピリピ4:4)。
「絶えず祈りなさい」との勧めがあります。皆さん毎日祈っていますか。毎日毎日祈りましょう。キリストはどうだったでしょうか。キリストの生涯は祈りの日々でした。朝に祈り(マルコ1:35)、病人に手を置いて祈り(マタイ8:3)、食事の感謝を祈り(マタイ14:19)、嵐を静め(マルコ5:39)、体に布布を巻かれ、墓に4日もいたラザロを祈りによって甦らせ(ヨハネ11:41-44)、ゲッセマネの園で血の汗を流して祈り(ルカ22:24)、十字架上で「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)と祈り、今は天の神様の右の座で、私たちのために執り成しの祈りを捧げています(ロマ8:34)。そして私たちに聖霊を送り、聖霊によって祈るように私たちを導いておられます(ロマ8:14-15)。キリストに倣ってパウロも祈っています。彼の記した13通の手紙には祈りの言葉が満ちています。私たちも祈りましょう。
「すべての事について、感謝しなさい」との勧めがあります。私は今朝目覚めた時に「メマイ一周年」を感謝し、良き目覚めが与えられたことを感謝しました。皆さんも沢山の感謝を数えることができると思います。キリストは男だけで5000人の人を養うのに、たった五つのパンと二匹の魚しかなかった時に、神様に感謝して、パンを分け与え、魚を分け与えて全部の人々を養うことが出来ました(ヨハネ6:1-13)。キリストはないものを数えるのではなく、あるものを数え感謝しています。感謝を捧げましょう。キリストは信じる者を救いに入れて下さる救主です。イエス様に救われていることを感謝しましょう。愛知万博の時に、死んだマンモスを観るために、多勢の人々が何時間も列をつくって順番待ちをしていました。私たちの罪のために十字架に死んで下さり、三日目に甦って今も生きておられるキリストにお会いするのに待つ必要はありません。「イエス様、私を救って下さい」と祈れば即座に救われるのです。きょう、比留間師夫妻の教会で洗礼式があり、一人の男性が洗礼を受けます。その男の人は毎週土曜日のホームレス集会を傍から見ているだけでした。しかし集会に加わり、キリストを信じ、生まれ変わって洗礼を受けることになりました。どんな人でも求めて来る者を退けず、救いに入れて下さる主イエス・キリストの愛をほめたたえます。私たちはキリストの恵みによって救われたものであることを改めて感謝します。19-22節に喜び・祈り・感謝を消してはいけない、軽んじてはならない、悪から遠ざかり、23節には「主イエス・キリストの来臨の時に責められることのない者にして下さるように」という祈りがあります。
サタンは喜びではなく心配を与え、祈りをやめさせ、感謝ではなく不平不満を与えて、私たちを気落ちするように仕向けます。何が起ろうとも主にある喜び・祈り・感謝を持ち続けて行くことを神様は望んでおられます。私たちが信仰を持っているならば、全ては恵みに変わって行きます。
デビッド&スヴェー・フラッド宣教師夫妻がスエーデンからアフリカ・コンゴへ遣わされて行きました。エリクソン夫妻と合流し、白人が入ったことがない奥地のエンデレラとうい村で伝道を開始した。しかし村長が村の神々を恐れて、彼らに村人との交流を禁じた。唯一、鶏と卵を売りに来る少年とのコンタクトを許され、少年は救われます。それ以外に伝道は進まず、全員マラリヤにかかってしまい、エリクソン夫妻は引き上げてしまいます。フラッド夫妻はとどまり、女の子が生まれ「アイナ」と名づけられます。しかし奥さんのスヴェーは出産17日後にマラリヤで召されて行きます。その時に夫のフラッドの中に神に対する怒りがこみ上げてきて、妻を葬った後、子どもをエリクソン夫妻に預け、「僕は国に帰る。妻は死んでしまった。一人ではこの子の面倒も見てやれない。神のせいで人生が台無しになってしまった」と言い、彼は喜び・祈り・感謝を忘れてスエーデンに帰った。その八ヶ月後にエリクソン夫妻が病気で召され、アイナはアメリカ人の家族に引き取られ、そこで信仰をもち、神学校に行き、牧師夫人になります。ある日、彼女の所に海外宣教の雑誌が送られてきた。コンゴ・エンデレラの村に学校が建ち、600人の生徒がクリスチャンである。その創立者は村長をも信仰に導き、伝道団体を組織し、10万人の信徒がいるという記事でした。そのアフリカ人指導者は1920年代にスエーデン宣教師によって信仰に導かれ、その奥さんの墓が村にあり、墓の写真が掲載され、そこにスヴェー・フラッドと書かれていたのです。アイナが自分の本当の父親のことを調べて見ると、父が生きていることが分かったので、スエーデンへ飛んで行った。父フラッドは再婚し、4人の子どもがいた。その家庭では絶対に「神様」という名前を口にしてはならないという決まりがあった。フラッドはアルコール依存症となり、脳卒中で臥せっていた。アンナが父に会いたいというと、家族から神様という名前を出すと父が怒り出します、と注意された。アンナは父のそばに行き「お父さん、アイナです」、父は泣きながら「赦しておくれ。お前を捨てるつもりは無かった」。アイナは言った「お父さん、神様が守ってくださったのです」。フラッドは神様という言葉を聞くと泣き止み、体が硬直し、顔を背け「神が我々を見捨てたのだ、神のせいで人生がめちゃくちゃになってしまったのだ」といった。アイナは言った、「お父さんに知ってほしいことがあるの。お父さんたちがアフリカに行ったことは決してムダじゃなかった。お母さんの死もムダで無かった。お父さんたちが信仰に導いた少年がその後、学校をつくり、生徒全員をイエス様に導いて、伝道団体まで作っているの。お父さんが喜び、祈り、感謝して神の召しに従ったから、10万人のアフリカ人が救われているのよ。イエス様は、お父さんを見捨てたりなんかしていないのよ」。フラッドは顔を娘に向けて、その目をじっと見た。硬直していた体がほぐれてきて、彼は50年ぶりにキリストに心を開き、悔改めました。そして、その数週間後に天に召されたのです。彼は責められるところのない者になって、主の御許に召されて行きました。アイナの信仰を通して神の御業が表されたのです。
まとめ
1、12-13節、キリストの御言葉を伝える伝道者を支えましょう。お互いに祈り合い、助け合って行きましょう。
2、16-18節、23節後半、キリストにあって喜び、祈り、感謝して行きましょう。信仰を保ち続け、主の御前に立つ備えをして行きましょう。私たちの信仰が周りに良い影響を及ぼします。
祈 り 主である神様、独り子イエス・キリストによって救われ、神の子であることを感謝します。伝道者を支え、お互いに祈り合い、助け合って行くように導いて下さい。キリストにあって喜び・祈り・感謝を持ち、キリストに従って参ります。病気の方に癒しが与えられることを信じます。教会の一つ一つの集会に忠実であるように導いて下さい。主イエス様の御名によって祈ります、アーメン。
参考文献テサロニケ注解―バークレー、フランシスコ会、黒崎、LABN、文語略解。「非まじめ牧師のジョーク集・大川従道・朝日新聞社」、「セカンドチャンスは本当にあるのか・ウッド・いのちのことば社」