我らの国籍は天に在り ピリピ3:17-21        主の2007.9.30礼拝



連日テレビ、新聞、ダイレクトメールで繰り返し宣伝している業種は保険です。日本人の平均年齢が男性79歳、女性85歳となり、長く生きるために経済の保障を得たいという願望に訴える形で、タレントを使い、「万が一病気になった時に入院費の保障、死亡時の見舞金などのために、無審査であなたも入れる保険です」という宣伝文句で勧誘がなされています。しかし、病気や事故の時に保険で手厚く保障されたとしても、死なないという保障はありません。どんなに保険をたくさん掛けていても、死から免れることは出来ません。死は全ての人に訪れて来ます。昨日私たち夫婦の双方の両親、私の弟二人の召天記念会を教会でいたしました。毎年行なっているのですが、兄弟親族18名が集い、創造主である神を礼拝する時をもちました。その後、食事をしながら交わりの時をもち、自分たちの人生を考え合う、幸いな時を過ごしました。召天者記念会はノンクリスチャンも集まりやすい時です。教会の記念会では仏教の法事のように死んだ人を拝んだり、意味の分からないお経を聞くということがありません。記念会に集まった人々は創造主である神様を礼拝し、神の独り子イエス・キリストによる救いと永遠の命についてのメッセージを聴き、自分の人生について真剣に考える恵みの時をもつことができます。

本日はピリピ3:17-21です。20節の「私たちの国籍は天にある」の文語訳「我らの国籍は天に在り」という御言葉が、やすらぎの里・教会墓地の墓石に刻まれています。聖書朗読は詩篇90篇を読みました。預言者モーセは「人の齢(よわい)は70年か80年である」(90:10)と言っています。やがて時が来ると、どんな人でも例外なく、平等に死んで行きます。クリスチャンである私たちは「我らの国籍は天に在り」ということを信じ、天の御国に入る希望をもって生きています。礼拝後、午後1:45からやすらぎの里で召天者記念会が行われます。地上の生涯を終えて先に天に帰った方々を偲び、私たちひとり一人が恵み深い聖霊の導きによって、天の御国を目指して行く決断を新たにする時となるように、と願っています。



内容区分

1、天国の民は、キリスト中心の信仰を持つ者である。3:17-19

2、天国の民は、「我らの国籍は天にあり」ということを固く信じている者である。3:20-21



資料問題

17節「わたしにならう者となってほしい」、パウロは自分の信仰生活に倣えと言う(Ⅰテサロニケ1:6、Ⅰコリント4:16、11:1、ガラテヤ4:12)。彼がそう言えるのは、彼がキリストに倣っているからでである(Ⅰコリント11:1)。18節「キリストの十字架に敵対して歩いている者」、具体的には誰を指すか分からない。彼らのために涙を流していると言われているので、信仰をもったのに、異端的な信仰に迷って信仰から離脱している者を指しているのかも知れない。19節「彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの最後は滅びである」、キリストの十字架と死に倣おうとする精神とは反対の、快楽主義的な態度を指している。21節「わたしたちの卑しいからだ」、私たちの肉体は一度は死んで灰になるが、やがて世の終りに肉体は復活し、主と同じ栄光の体を与えられる。



1、天国の民は、キリスト中心の信仰を持つ者である。3:17-18

兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。(17節)

この手紙を記したのは使徒パウロです。彼は熱心なユダヤ教徒で、クリスチャンを逮捕する権限をユダヤ教指導者から受けて、各地の教会を荒らし回っていた人物です。しかし、不思議なキリストの選びによって救われ(使徒9:1-19)、聖霊に満ち溢れ、死の危険をものともせず、世界を駆け巡ってキリストを伝え、各地に教会を設立する偉大な働きをしています。新約聖書にはパウロの記した13通の手紙があります。何故なら彼の手紙にはキリストの十字架と復活の意味について説明があり、教会形成についての明確な指針が記されているからです。パウロが出かけて行って活発に伝道し、また文書を通して人々を教えるという目覚ましい働きをしているのを見て、多勢の人々が彼を模範にして信仰生活をして行こうと願うのは当然です。そうした人々の思いを受けて、パウロは「わたしにならう者となってほしい」と述べています。また「わたしたちに見ならっている人々がいる。その人たちの生き方に注目しなさい」とも述べています。

パウロは、「わたしにならう者になりなさい」と言っていますが、それは彼がキリストにならって生きているからです。「わたしにならう者になってほしい」という真の意味は、「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい」(Ⅰコリント11:1)ということです。例えばパウロの手紙には、「各地の皆さんのために祈っている」ということが繰り返し言われていますので、パウロは祈り深い人である、私たちもパウロにならって祈ろうという思いになります。しかしパウロは「わたしがキリストにならう者であるように・・・」と言っています。キリストは人として30年間の隠れた生活をなさいました。30歳から3年半にわたって人々の前に立ち、ご自分が救主であることを表し、人の罪の身代りになって十字架にかかった時に、「父なる神様、わたしを十字架につけた人々を赦し、また神様に逆らっている全ての人々を赦してあげて下さい」(ルカ23:34)という祈りをささげ、罪の赦しの道を開いて下さいました。キリストは十字架と復活による救いを成し遂げた後、天に帰り、今は神の右の座にいて、私たちのために祈っています。そのことをパウロはロマ8:34で述べています。「キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、私たちのために執り成して下さるのである」。人のために祈り続けておられるキリストにならって、パウロモ多くの人々のために祈っているのです。

キリストにならうためにはキリストを見つめて行くことです。何故ならば、キリストのうちには全ての良きものがあるからです。良きものの中で最大のものは愛です。「主は、わたしたちのために命を捨ててくださった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(Ⅰヨハネ3:16)。私たちを罪から救い出すために、十字架にいのちを捧げたのはキリストだけです。

パウロは、キリストの十字架に敵対している人々の末路を思って涙を流しています。彼らは自分の欲望のままに生きている、彼らは、人間は小さなアメーバーから進化に進化を重ねてきたのだ、だから神はいないと言っている。キリストの十字架を信じれば、誰でも即座に救われ、神の子になることが出来るのに、キリストの十字架の恵みを否定している。パウロは、神を否定し、十字架を否定し、滅びに向って進んで行く人々のことを思って涙を流しています。ドイツにフリードリッヒ・ニーチエ(1844-1900)という哲学者がいました。彼は「神は死んだ」ということを主張し、神に代わる超人という考えを示し、キリストの十字架に敵対する者でした。彼は神に頼らない強い人と思われていましたが、なんと1889年1月路上で発狂し、妹に看病され、9年後に死んで行きます。彼はこう書いています、「私はインドでは仏陀であり、ギリシャではディオニュソス(ギリシャ神話の酒神)であり、アレキサンダーもシーザーも私の化身であり、十字架にかかったこともあるのです」。

パウロは十字架の恵みを否定する者の最後は滅びであることを思い、涙を流しています。私たちはキリストを信じる信仰を与えられ、神の子になり、「我らの国籍は天にあり」という信仰に生きる者であることを感謝します。



2、天国の民は、「我らの国籍は天にあり」ということを固く信じる者である。3:20-21

しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから救主、主イエス・キリストの来られるのを、わたしたちは待ち望んでいる。(20節)

パウロは十字架に敵対する者の末路を思って、涙を流しています。

パウロの涙を考えていた時にずっと昔、クラー宣教師と教会の有志で行田市内に行き、戸別にトラクト配布をした時のことを思い出しました。一軒の家に行きましたが、数名の人たちがいたので、「熊谷のキリスト教会の者です。素晴しいキリストのニュースが記されているので是非お読み下さい」と挨拶し、文書を渡して帰ろうとすると、「どんなことが書いてあるのか」と言うので「イエス・キリストのことが書いてあります」と答えた。すると、けんか腰で「なんだキリストか。キリストは神ではないだろう」と言います。「キリストは私たちを罪から救う神様です。あなたはなにか宗教を信じていますか」というと、「日蓮上人様だ」と言います。そこで「日蓮は立派な坊さんでしたが死にました。しかしキリストは生きているまことの救主です」と答えると、いつの間にか人数が増えて10人以上になっている。仲間を集めに行って増やしたらしい。先方はいろいろ問答を仕掛けてきましたが、「あなたは一人では自信がないので、仲間を集めたのですか。私はひとりですが、キリストが一緒なので、そちらが何十人いても怖くありません」と少し挑戦的に言ったら、相手は怒って、日蓮上人のことや南無妙法蓮華経のことを言いましたが、「キリストは生きているまことの救主です。キリストはもう一度この世界にやって来て、全てを審かれます」と伝えて終りにしました。後から考えてみると、そこは創価学会員の家で、彼らの集会が始まったところへ入っていったので、いま述べたようなやりとりになったのです。

そんな昔のことを思い出しながら、20節を読んだ時に「しかし」という言葉が心に留まりました。パウロは「十字架に敵対している者の最後は滅びである。そのことを思うと涙が溢れてくる」と述

べていますが、「しかし」という言葉によって、暗い考えから一転して希望の言葉を述べています。(しかしー新共同訳、けれどもー新改訳、But-RSV) パウロは、「キリストの十字架を信じない者が多くいる。しかし、私たちはキリストの十字架を信じる信仰を与えられ、神の子になり、天国の国籍を与えられている」ということを「我らの国籍は天にあり」という言葉で喜びをもって言い表しています。使徒ヨハネは、キリストがこの世に来られた時に、神の選民であるユダヤ人はキリストを受け入れようとしなかった。「しかし、彼(キリスト)を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼(キリスト)は神の子となる力(特権)を与えたのである」(ヨハネ1:12)と言っています。不信仰が世にはびこっている、キリストの十字架を信じない者がいる、しかし、私たちはキリストを信じて神の子にされています。

*ここでキリストを信じている喜びを、讃美しましょう。聖歌総合版201番(旧聖歌232番)をうたいましょう。



20節、パウロは、聖霊の知恵によって、キリストを救主であり、主であると呼んでいます。

「キリストは救主である」と言われています。

私たちの罪のために十字架にかかって下さったのはイエス・キリストただ一人です。キリストは、罪の泥沼に沈んでいた私たちの傍に来て、私たちを担ぎ上げ、救って下さった救主です。ある中国人がキリストの救いの恵みを説いています。「私は浮き世の旅路にさまよって、罪と悩みの深い井戸に落ちて溺れそうになっていました。『助けてくれ』と叫んでいると、釈迦が通り合わせたのですが、上から井戸を覗き込んで『これは可哀想に。だが、これも前世の因果で仕方がない。諦めて往生しなさい』と申し残して行ってしまった。なおも『助けてくれ』と叫んでいると、孔子が来た。井戸を覗いて『人間というものは、うかうかしていると、そういう所へ落ちるのだ。よく反省して、今後はおちないようにしなさい』と教えて立ち去ってしまった。その次にキリストが来られた。キリストは長い梯子を井戸に降ろし、自分から井戸の底まで降りてきて、疲れきった私を引き起こし、井戸から引き上げ、薬を飲ませ介抱してくれた。私が元気を回復した時に、『うかうかしていると、危険に遭うから、聖書の御言葉を道の光にして、天国へ向って行きなさい』と教えてくれました」。

キリストは人間が罪で苦しんでいるのを見て、天から降って人と同じになり、私たちの罪の身代りになって、十字架によって私たちを救って下さった救主です。

「キリストは主である」と言われています。

私たちはキリストを自分の人生の主として、キリストに従う人生を送ります。キリストを主とすることは、最も基本的なことは信仰五原則に従って行くことです。「それは聞いています、それは初歩のことです」と言う人がいます。本当にそうでしょうか。プロ野球が終盤を迎えています。活躍を期待されながら振るわなかった選手も多くいますが、彼らの反省の言葉には共通点があります。春先シーズン前に走ったりする基礎練習を怠ったために、シーズン途中で崩れてしまったというものです。高度の技術をもっているプロ野球選手であっても基礎練習を怠れば、技術を発揮できずに不調で終わってしまいます。本当の一流選手は黙々と基礎練習に打ち込み、平均した成績を残しています。信仰は、聖書を読む、祈る、集会に励む、献金をする、伝道奉仕に加わって行くことを実践することが恵みをもたらす土台になります。

20節後半-21節に、キリストがもう一度やって来ることが預言され、キリストは私たちを栄光の体に変え、永遠の天国の中に導いて下さることが約束されています。

神学校2年のはじめに何年か休学していた学生が復学し、私たちのクラスに入って来ました。脊髄カリエスという病気をもった方で、背中が湾曲し、そのために背が普通の半分ぐらいしかありませんでした。彼は真剣に祈り、学んでいましたが、腎臓の病気になり、伝道者になるという志(こころざし)半ばで、秋に召されて行きました。彼はキリストに迎えられ、栄光の体に変えられていると思います。脊髄カリエスから解放されて湾曲していた背が伸び、天国で再会する時には、彼の身長は私よりも高いかもしれないと思っています。

「我らの国籍は天にあり」ということを固く信じて、キリスト一筋の信仰で進むことを決断しましょう。アメリカのカントリー音楽の歌手ナオミ・ジャッドさんは看護婦をしながら歌い、グラミー賞を6回受賞したスターです。彼女は看護婦の仕事中に注射針の事故でC型肝炎になり、余命3年と宣告された。彼女はその試練の中で、全ての問題は突き詰めれば霊的な問題である。神様が全宇宙の唯一の支配者である。キリストに心を捧げ、癒していただけるなら、残る生涯をキリストの救いを人々に伝えるために捧げますと祈った。それから12年たっているが彼女は元気でキリストに仕えています。私はその証を通して、彼女が神様を唯一のお方とし、独り子であるキリストの救いを伝えるために生涯を捧げたということが素晴しいということを痛感しました。「我らの国籍は天にあり」ということを信じるなら、神様だけを崇め、異教国である日本では、全ての偶像を整理することが大切です。私の友人の牧師は、田舎の長男で家を引き継いだが大きな仏壇も引き継いだ。その家の前の方にはお寺がある。引き継いだ直後に訪問した時にはまだ仏壇があったが、彼は先ず仏壇の扉を閉めた。その次に行った時には仏壇が無くなって家が広く感じられました。キリストはその家庭を祝福して下さって、4人の子ども全員が信仰を受け継ぎ、3人が献身しています。

「我らの国籍は天にあり」・・・キリスト以外のものを整理して、キリスト一筋になって、キリストを固く信じて行きましょう。偶像は形だけといいますが、そこを通してサタンが働きます。以前ある家庭を訪問したら、奥さんが「祈れない。こちらのほうから誰かに見られているように思う」と言うので、その方角にある押入れを開けたら、小さな仏像のようなものがあった。これは形だけと思って処分しないままでいたのですが、その仏像を通してサタンが働き、祈れないようにしていたのです。



*1、我らの国籍は天にあり・・・天国の民はキリスト中心の信仰を持つ者です。

*2、我らの国籍は天にあり・・・天国の民は「我らの国籍は天にあり」ということを固く信じ、キリスト以外の偶像を捨てて、キリスト一筋に信仰生活に励む者です。



祈 り 主である神様、独り子イエス・キリストを信じ、神の子になり、「我らの国籍は天にあり」という恵みを与えられていることを感謝します。キリスト中心の信仰に立ち、あらゆる偶像から訣別するように助けて下さい。聖餐式を通してキリストの十字架に感謝し、キリストに従って行く信仰を強めて下さい。午後の召天者記念会を導いて下さい。イエスキリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ピリピ注解―黒崎、フランシスコ会、佐竹、バークレー、LABN、文語略解、口語略解。 「ヨーロッパ思想入門・岩田靖夫・岩波書店」、「平民の福音・山室軍平・救世軍」、「御翼・佐藤順・アンカークロス社」