無益な者から有益な者へ ピレモンへの手紙8-12節 主の2007.10.14礼拝
本日は荒井輝くんの献児式、田中牧、鈴木梨恵さんの洗礼式が行なわれます。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の導きに感謝し、主にある皆様の祈りに感謝します。
昨日は上野公園ホームレス伝道の日で、午前11時に教会を車で出発し、午後1時すぎに現地に着きましたが、既に300名のホームレスの人々が上野国立博物館前の広場に座って、集会の始まりを待っていました。諸準備をし、午後1時半から準備祈祷、2時から3時まで礼拝をささげ、讃美、祈りの中に、「イエス・キリスト以外に救いはない」(使徒4:12)というメッセージを伝えました。礼拝後、肉の糧である給食活動を行いました。ホームレスになるのには様々な理由があると思いますが、その理由原因を追究し、分析しても救いにはなりません。救主イエス・キリストを伝え、魂の救いを得ることが先決です。ホームレスの人々が惰性的にその日暮しを続けているとしたら、彼らは無益な、役に立たない者として切り捨てられてしまうかも知れません。しかしホームレスの人々の中から、キリストを信じて新生し、社会に復帰し、神にも人にも喜ばれる有益な人生を歩む人々が起こされていることは感謝であり、ホームレス伝道への皆様の祈りと協力に感謝します。
本日はピレモンへの手紙8-12節です。この手紙は使徒パウロからピレモン宛の個人的な手紙ですが、人情味あふれる愛に満ちた内容です。ピレモンはコロサイ在住のクリスチャンで、当時の社会にあって奴隷を所有している裕福な人で、2節には、彼の家はクリスチャンの集会の場になっていたことが記されています。この手紙によれば、オネシモはピレモンの奴隷でしたが、ある時に主人に損害を与えてロマに逃亡したのですが、そこで彼はパウロに出会い、キリストを信じて救われ、洗礼を受けました(10節)。本当に不思議な事ですが、ピレモンはパウロによってオネシモより先に信仰に導かれていたのです(19節参照)。パウロはオネシモをピレモンの所へ送り返すことにし、オネシモを奴隷としてではなく、愛する兄弟として受け入れるように要請しています(16節)。オネシモ(ギリシャ語)には「役に立つ」という意味があります。パウロは、10節で、「有益(役に立つ)」という言葉を使って、オネシモがキリストを信じて救われ、神と人に仕える有益な者になったことを示しています。ご一緒にキリストのメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路へ出発しましょう。
内容区分
1、キリストは、人知を越えた方法で人を導かれる。
2、キリストは、クリスチャンが有益な人生を歩むように導かれる。
資料問題
パウロの手紙13通の中で、ピレモン書は最も短い手紙であり(全体で25節)、もともとは個人的な手紙であった。この手紙には、パウロの人に対する思いやりと愛があふれている。2節「姉妹アピヤ」はピレモンの妻、「アルキポ」は彼らの息子と思われる。「戦友」、キリストの福音のために戦うという霊的意味。9節「老年になり」、この手紙がロマ軟禁中に記されたとすれば、パウロは60歳ぐらいである。10節「オネシモ」、ギリシャ語で「役に立つ」という意である。11節「有益な者」、オネシモと同義語が使われている。12節「彼はわたしの心である」、オネシモに対するパウロの愛を示す表現である。
1、キリストは、人知を越えた方法で人を導かれる。
こういうわけで、わたしは、キリストにあってあなたのなすべき事をきわめて率直に指示してもよいと思うが、しろ愛のゆえにお願いする。すでに老年になり、今またキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロが、捕らわれの身で産んだわたしの子供オネシモについて、あなたにお願いする。(9―10節)
パウロは、オネシモのことを「すでに老年になり、今またキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロが、捕らわれの身で産んだわたしの子供オネシモ」(9-10節)と言っています。この時パウロは60歳を越えていたでしょう。この時代で60歳というのは、現代の感覚で言えば80歳ぐらいであると思います。彼は信仰の迫害を受けて逮捕され、ロマ政府の監視下に置かれていました(軟禁状況)。しかし人と会うことは許されていて、訪れる人にキリストを伝えていたのですが、そこにオネシモが導かれ、キリストを信じ生まれ変わったのです。それが「捕らわれの身で産んだわたしの子供オネシモ」と表現されています。
ところで、日本では運命という言葉をよく使います。何かよいことが起れば、それは私に定められた運命であり、「運が良かった、ラッキー」と言います。よくないことが起れば、それも運命であり、「運が悪かった、アンラッキー」と言って諦めます。良い運命になるか悪い運命になるかは、人間の予測を超えた偶然によって支配されると考えられています。確かに私たちの人生には偶然と思われることが起ります。オネシモはピレモンのところで働いていた奴隷でしたが、主人ピレモンに損害を与え、逃亡してロマの都に行きます。ロマは、今日の東京のように多勢の人々が各地方から集まってきているので、そこに紛れ込んでしまえば、自分の素性を隠し通せると思ったのです。しかし、神様は人知を越えた不思議な力をもって人を導きます。オネシモはパウロに出会い、キリストを信じ、洗礼を受けるという恵みを与えられました。ところが、よくよく話をしてみると、オネシモの主人ピレモンも、彼の奥さんも(2節アピヤ)、息子(2節アルキポ)も、パウロによって信仰に導かれていたことが分かったのです。これは確率何百万分の一という超偶然です。これは偶然と言えるでしょうか。神様の御言葉である聖書は偶然を肯定しているでしょうか・・・。聖書は、世界に偶然はない。天地宇宙の創造主である、生きている神様が、人知を越えたご計画をもって人間ひとりひとりを導き、物事すべてを善きに変えて下さるということを教えています(ロマ11:33-36,8:28)。
今から40年前、クラー宣教師は、群馬県足利市で伝道しようと思い、家を借りるために手付金を払ったが、本契約の日になって、家主の事情で契約が出来ませんでした。ガッカリして帰る途中、熊谷の町は大きいと思って見て回ったら、何と新しい家が一軒空いている。すぐ住めるし、教会の集会をしてもいいということで、急遽話がまとまり熊谷開拓が始まることになった。クラー師は、弓山先生に「伝道のために神学生を送って下さい」と要請した。始めに行くはずだった神学生の代わりに、他の教会に派遣されていた私に「熊谷に行け」という命令があり、熊谷の地を踏んだのが神学校2年の12月5日です。最初の数ヶ月は何人かの牧師・伝道師が交代で手伝いに来ていましたが、その応援が終わった頃、「次の礼拝でメッセージをして下さい」と言われ、メッセージをしました。クラー先生が「あなたの日本語は分かり易く、メッセージ全部がわかって、私の心は熱くなった。これから毎週メッセージをして下さい」ということになり、それが今日まで継続しています。
オネシモは、「この広いロマの都で、私のことを知っている者は誰もいない」と思っていましたが、自分をキリストに導いてくれたパウロ先生が、自分の主人ピレモンの牧師であることが分かった。クリスチャンになったオネシモは、ピレモンの所へ帰ることになった。当時、逃亡奴隷は重い刑罰を受けることになっていたので、パウロは、ピレモンにオネシモを主にある兄弟として受け入れてほしいということで、「ピレモンへの手紙」を持たせて返しています(オネシモは後にエペソの牧師になったという言い伝えが残っています)。オネシモがパウロに出会ったことは運命でも偶然でもなく、神の攝理です。攝理を説明する御言葉はロマ8:28です。「神は、神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。クラー宣教師が足利から熊谷へ導かれ、他の神学生に代わって私が熊谷に派遣されたことも、物事すべてを益にする神様の攝理の下にあったということを知ることができます。
ここにいる皆さんの救いを考えて見ると、人知を越えた、キリストの導きがそれぞれにあったことを思います。Sさんは子供4人と姑の世話で休むヒマなく明け暮れしていた。こま鼠のように働き、「なぜ私ばかりが・・・」という思いになり、不平不満が心に鬱積していた。それが顔に現れ、笑顔がなくなっていた。ある日、何軒か先の家で「家庭集会」というものがあり、何でもキリスト教らしいという事であった。近所の好誼(よしみ)もあり、出席してみた。温かい心が安らぐ雰囲気であった。聖書が開かれ、「あなた方はなぜ思い煩っているのか。空の鳥を見よ、野の百合を見よ。彼らは蒔くこともせず、紡ぐこともないのに、神は空の鳥を養い、野の百合を美しく装っている」(マタイ6:26-30文語訳抜粋)というキリストの御言葉が語られ、ハッとした。私に目を留め、守り導いて下さるキリストがおられるということが分かり、肩の力が抜けた。生活は依然として忙しかったが、笑顔が戻った。キリストを信じる明るい心をもって人々に気軽に声をかけ、その明るい声を聞いた人は心に励ましを受けることができた。キリストを信じて、不平不満から解放されて、人にキリストの喜びを届ける有益な人生をおくるようになったのです。
2、キリストは、クリスチャンが有益な人生を歩むように導かれる
彼は以前は、あなたにとって無益なものであったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者になった。彼をあなたのもとに送りかえす。彼はわたしの心である。(11-12節)
小学生の頃に版画を作る時間があり、彫刻刀で一枚の板にそれぞれが自由に絵を刻むことになりました。私は不器用ですから、すぐギブアップして、友達が彫っているのを見学していました。友達は殆ど下絵なしでどんどん彫り進んで行き、美しい版画を完成させました。私の板は彫った後はあるが、全体で見るとほとんど絵になっていない。友達のものはきれいな絵に仕上がっている。同じ板を使いながら、彫る人によって、その板の価値がまったく違って見えました。一枚の何でもない板が、それを扱う人によって、前とはまったく違う良いものに変えられたのです。
パウロは、オネシモについて「彼は以前は、あなたにとって無益な者であった」と言っています。主人ピレモンに損害を与え、逃げ出して大迷惑をかけた人物、それがキリストを信じる前のオネシモの姿です。ところがキリストを信じて救われたことによって、パウロは「彼はあなたにも、わたしにも有益な者になった」という温かい評価をしています。キリストを信じる時に、キリストは私たちをよい者に変えて下さいます。昨日上野公園ホームレス伝道に行きましたが、上野に行くならば、かつてホームレスであった人が救われ、社会復帰し、ホームレス伝道のために献金し、奉仕している姿を見ることが出来ます。彼らは有益な、役に立つ人生を生きる者になっています。キリストは、人を救い、人生を再生させ、神と人に仕える有益な人生を歩ませて下さる愛の救主です。
私たちはキリストを信じて生まれ変わり、有益な人生を歩む者になっています。
私たちは人のために祈る者になっています。
パウロは勧めています、「絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈り続けなさい。また、わたしが口を開く時に語るべき言葉を賜り、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい」(エペソ6:18-19)。きょうの洗礼式のために多くの方々の祈りが積まれていることを感謝します。人のために祈ることは愛の現れです。キリストは天において私たちのために執り成しの祈りを捧げておられます(ロマ8:34)。ある方が言っていました、「私は皆さんの祈りが風のように自分のほうに吹いてくるのを感じる。うれしい、祈られていることで心が恵まれる」と。私も皆さんの祈りによって支えられていることを感謝しています。来週21日、私たちはタイに行き、不在になります。留守の教会を背負って奉仕をする荻野倫夫伝道師のために祈って下さい。口を開く時にキリストの恵みをハッキリと、愛をもって語ることが出来るように、聖霊と愛に満ちて用いられるように祈って下さい。
私たちは人の話に耳を傾け、その人を受け入れる者になっています。
キリストは、パウロがクリスチャンを迫害し、殺そうとしてダマスコに向っている時に、天より彼のお母さんの言葉であるヘブル語で「サウロ、サウロ(彼のユダヤ名)、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかけています。彼の心の琴線に触れる言葉で、彼の気持に訴えています(使徒26:12-18)。パウロはキリストの前にひれ伏し、キリストから異邦人伝道に行くようにという使命を与えられ、彼は生まれ変わります。クリスチャンを迫害し、投獄するという無益な人生から、キリストを信じる者は誰でも救われるという福音を携えて世界伝道に乗り出し、多くの人々を救いに導く有益な人生を歩む者になりました。彼の救いの発端は、彼に耳を傾け、彼を理解しようとしてくれたキリストの愛によります。人の話を愛をもって、誠実に聴いて下さい。今週はファミリーの週です。ファミリーでは必ず御言葉を開いて下さい、そして恵みを分かち合って下さい。メンバーの話を、耳を傾けて聴いて下さい。そして必ずイエス・キリストの御名によって祈って下さい。
キリストは、私たちが有益な人生を歩むように導かれます。
キリストは、私たちそれぞれに有益な人生を歩むように導いて下さいます。聖書のほかに私が時々読み返している本があります。「荒野に水は湧くーぞうり履きの伝道者升崎外彦物語」という本です(後に改訂増補され「親鸞よりキリストへーぞうり履きの伝道者升崎外彦物語」)。升崎先生は和歌山県のある海沿いの教会の牧師でしたが、労祷学園という塾を設け、青少年育成をしていた。そこに山本忠一という青年がいた、彼は親に捨てられ乞食をしていた時に升崎先生が世話をするようになり、先生は彼を忠ヤンと呼んでいたが、皆からはアホ忠と呼ばれ、馬鹿にされていた。心優しく、悪意のない青年でしたが、読み書きが出来ず、おかしな行動をするので、仲間たちが、升崎先生に彼を追い出してくれと言いますが、もちろん先生はその頼みを受け入れません。青年達は次々に去って行き、しばらくするとアホ忠の姿も見えなくなってしまった。先生は手を尽くして彼の行方を捜したが分からず、船に乗っているということを風の便りで知った。ある日ひとりの紳士が訪ねてきて、「升崎先生ですね。これは山本忠一君こと忠ヤンの形見です」と言って船のハンドルを差し出した。紳士は忠ヤンの乗っていた船の船長で、次のように語った。「ある日、荷物を満載して紀州尾鷲港を出た船は、嵐になり、暗礁に船底をぶつけ、浸水し、いくら排水してもどうにもならない。これまでと観念した時、船底から『親方、船を、船を』と手を振りつつ大声で叫んでいる者がいる。見ればアホ忠である。不思議にも水が増えていない、みんなで必死になって水をかい出したところ、忠ヤンは船底の穴に自分の足を突っ込み、必死にもがきつつ、『船を、船を、早く、早く陸に上げて』と叫んでいた。船員達は遮二無二、船を進めて陸に近づけ助かったが、忠ヤンは可哀想に右大腿部をもぎとられ、出血多量で上陸前に息を引き取ったのです」。升崎先生は、オランダの堤防に穴が開き浸水しているのを見つけたハンス少年が、自分の腕を穴に差込み、堤防の決壊を防いだことを青年たちに教えていた。忠ヤンは「俺はハンスだ」と口癖のように言っていたが、その通りのことを彼はやってのけた。人からアホ忠と呼ばれ、自分もアホ忠が本名と思い込んでいた山本忠一。水が噴き込んでくる船底の穴に、布布や板切れのかわりに自分の足をつめ込み、仲間と船とを救った山本忠一。その後この船長の住む三重県の町に教会が建てられ、升崎先生もしばしば講師として招かれています。12節の終りに、パウロがオネシモに対し「彼はわたしの心である」と言っています。自分の身を捧げたアホ忠に対し、キリストは「彼はわたしの心である」という祝福を与え、天国に召して下さったことを信じます。
まとめ
1、9-10節、キリストは、運命ではなく、人知を越えた不思議な方法で私たちを救いに導いて下さる救主です。
2、11-12節、キリストは、人のために祈るように導き、人の話をよく聴き、そして私たちが有益な人生を歩むように導いて下さいます。
祈 り 創造主である神様、キリストによって神の子にされ、神を愛し、人を愛する者となり、有益な人生を歩むようにされていることを感謝します。献児式を行いましたが、これから洗礼式が行われます。洗礼を受けるふたりが一生涯にわたって信仰の道を歩み続けるように祝福して下さい。有益で役に立つ人生をおくらせて下さる主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献ピレモン注解―フランシスコ会、黒崎、LABN、文語略解。「荒野に水は湧く・田中芳三・キリスト新聞社」