主の再臨を待ち望む生活 Ⅱペテロ3:8-18        主の2007.11.4礼拝



人は何かを待ちつつ生活をしています。子供であれば誕生日を待っています。先週、恵みの座に来て「明日は10歳の誕生日です」と言う望くんのために主の祝福を祈りました。誕生日といえば、あと2か月弱でキリストの誕生日・クリスマスがやってきます。昨年は160名ほどの人々が行田商工センターホールで主のご降誕を祝いましたが、今年はさらに多くの人々が出席し、キリストを知り、救いを受ける機会になることを願い、先週第二回クリスマス委員会を開き、諸準備について協議をし、祈りました。クリスマスの前に11月18日北野先生による特別集会があります。先生は「キリストの大使となるために」というテーマの下に、午前・午後の集会で2回のメッセージを取り次いで下さいます(詳細週報参照)。先生から「熊谷に行くのが楽しみです。祈って備えています」という連絡をいただいています。特別集会祝福のために、北野先生のために毎日祈って下さい。

ところで、私たちクリスチャンが待ち望んでいるものはキリストの再臨です。再臨というのはキリストが再びこの世に来ることです。キリストは第一回目、2007年前に人の子として地上にやって来られ、33年半の生涯の最後に、私たちの罪の身代りになって十字架に上り、命を捧げて下さいました。しかしキリストは死んで終りではなく、十字架の三日後に死を打ち破って復活され、永遠の命を保証して下さいました。キリストは復活の40日後に昇天され、「わたしは天国にあなたがたのために場所の用意をしに行く。場所の用意が出来たら、あなた方を迎えに来る」と約束されています(ヨハネ14:1-3)。キリストはもう一度この世に来られます。キリスト再臨の前兆として、偽キリストの出現、戦争の拡大、民族紛争、飢饉、地震があり、迫害の増大と殉教、偽預言者と不法が世界中を覆います。キリストの再臨の決定的な時は、福音が全世界に伝道された時です。その日にキリストは天の雲に乗って、天使を従え、王の王として地上に再臨されます(マタイ24:1-31)。

本日はⅡペテロ3:8-18です。「主の日は盗人のように襲って来る」(10節)という警告があり、「安らかな心で神の御前に出られるように」(14節)、また「確信(堅固な足場―新共同訳、堅実さー新改訳)を失うことのないように心がけなさい」(17節)との勧めがあります。主のメッセージを聴いて、この世に再臨されるキリストを待ち望みつつ、「キリストを喜び、キリストを伝える」信仰生活に励んで行くように、共に祈って、新しい一週間へ出発して参りましょう。



内容区分

1、主イエス・キリストは再臨される。3:8-13

2、主イエス・キリストを迎える備えをしよう。3:14-18

資料問題

8節「一日は千年、千年は一日のようである」、神は時間を超越する存在であり、人間とは時間の観念が異なる。この句は詩篇90:4の敷衍である。9節「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み」、神はすべての人々の救いを望んでおられる。そのために終りの日の到来を先き延ばしにしている。10節「主の日は盗人のように襲って来る」、マタイ24:43、Ⅰテサロニケ5:2、黙示録3:3、16:15を見よ。13節「義の住む新しい天と新しい地」、クリスチャンにとって、主の日は万物の恐るべき最後ではなく、新たな創造の始まりである。この新たな創造はキリストの復活において始まっている(Ⅱコリント5:17、ロマ8:21-22)。17節で手紙全体のテーマを要約している。18節「栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アーメン」、ペテロは手紙全体を通じてイエス・キリストを神として崇めているので、キリストを讃へつつ、手紙を閉じている。



1、主イエス・キリストは再臨される。3:8-13

しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けて崩れ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。(10節)

クリスチャン詩人八木重吉(1898-1927)に「再び来る」という詩があります。

彼(キリスト)は言った
自分は再びこの世へ来ると
私は基督(キリスト)より正直な者があるとは思えな
私は再び彼が来ることを信ずる              (八木重吉・「神を呼ぼう」より)


八木重吉のキリストへの熱い信仰の思いが伝わってきます。キリストは、人の子として33年半の人生を生きて、最後に十字架と復活によって救いの道を開かれ、今は天において私たちのために場所を備えておられます。場所の用意が出来たら、キリストはこの地上に戻って来られます。

キリストはいつ戻ってくるのでしょうか・・・すぐです。キリストは「しかり、わたしはすぐに来る」と言われています(黙示録22:20)。ペテロはキリストによって直接訓練された直弟子として、天に帰って行かれたキリストは、すぐに戻って来るという緊迫感をもって伝道をしました。パウロも他の使徒達も、初代教会のクリスチャン達も、キリストがすぐに来るという緊迫感をもって伝道し、信仰生活に励みました。この手紙はキリストが昇天されてから約35年後に記されていますが、その当時でも「キリストはすぐに来ると言いながら、やって来ないではないか」とクリスチャンを罵る人々がいました(3:3-4)。現在は2007年です、ペテロが伝道した時代から約1930年ほど経っていますから、キリストの再臨はもうないに違いないと考える人々が多く現れています。

そこで、ペテロは「キリストはすぐに来る」という再臨の必然性にについて次のように教えています。



第一に、神はキリストの再臨を定めておられるという事です。

「初めに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)のですが、人間の罪によって創造の秩序が乱れました。そこで神はキリストの十字架によって人の罪を救い、乱れた世界を新しくすることにしたのです。キリストの再臨によって、「新しい天と地が現れ、先の天と地とは消え去る」(黙示録21:1)ことが預言され、キリストの「しかり、わたしはすぐに来る」(黙示録22:20)という約束の御言葉が告げられています。キリストの再臨によって、神の栄光が完全に実現します。



第二に、キリストの再臨は二段構えであるということです。(再臨の順序は添付の図を参照)

*「空中再臨」があります(携挙)。

主が教会(クリスチャン達)を空中に迎えに来られる日です。キリストにあって死んだ者がよみがえり、携挙されます(Ⅰコリント15:52、Ⅰテサ4:16)。生きている信者が栄光の体に変り、携挙されます(Ⅰコリント15:49,Ⅰテサ4:15)。私たち一人一人がキリストのさばきの座の前に立ち、善悪の報いを受けます(Ⅱコリント1:14、Ⅰコリント3:15-17)。地上は、クリスチャンがいなくなって教会が空っぽになり、サタンが支配する大艱難時代になり、これが3年半から7年続くと言われています。

*「地上再臨」があります(顕現)。

主イエスが地上に再臨される日です。サタンは閉じ込められ(黙示録20:3)、千年王国の時代になります(黙示録20:6)。千年王国の最後の時に、サタンが活動を許されますが、最終的に滅ぼされ、火と硫黄との燃える池である地獄に投げ込まれます。「いのちの書」に名前がない人も地獄に行きます(黙示録20:7-14)。そして新しい天と新しい地が実現し、その中心は新しい聖なる都エルサレムです(黙示録21:2、10-27)。



第三に、神はキリストの再臨を先に延ばし、全ての人を救おうと願っておられるという事です。

ペテロは、「キリストの再臨はない」と考えている人々に、「ノアの洪水があったことを忘れてはならない。神はノアの時代には水で世界を滅ぼしたが、今度は火で世界を滅ぼす。それは宇宙的規模で行われる神の審判である」ということを告げています(3:5-6、10)。さらにペテロは言います、「神は単なる審きの神ではない。神の本当の姿は愛である(Ⅰヨハネ4:8を見よ)。神はひとりも滅びることなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、再臨を先延ばしにしておられる。人間の尺度で千年という長さは、とてつもなく長いと思うであろうが、神にとっては一瞬である。神は愛をもって再臨を遅らせている。再臨を遅らせている理由はたった一つ、それは皆がキリストの十字架を信じて生まれ変わり、天国に入ってもらいたいという神の愛の忍耐の表れである。神は全ての人々が悔改めてキリストを信じ、神の子になるのを待っていらっしゃるのである」。

キリストは間もなく来られます。あなたは再臨を信じますか・・・。



2、主イエス・キリストを迎える備えをしよう。3:14-18

愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなく傷もなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい(14節)。愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい(17節)。

ペテロは「愛する者たちよ」(14節)と呼びかけ、主の再臨に備えて、「安らかな心で神のみまえに出られるように励みなさい」と言っています。まだキリストの再臨がないのは、15節にあるとおり、神が寛容な心をもって全ての人の救いを願っておられるからである、と言われています。しかし、主の再臨が実現する時は迫っています。だから「神のみまえに出られるようにしなさい」との勧めがなされています。私たちはイエス・キリストと顔と顔とを合わせます。私たちを救って下さったイエス・キリストにお会い出来るのです。イエス・キリストに直接出会って、まことの命に満たされ、それが天国における永遠に続く喜びの生活がはじまります。

ペテロは言います、「しみも傷もなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい」と(14節)。少しばかり内緒の話をしましょう。もう40年ぐらい前に、私の家内と初デートに出かけたことを思い出します。女性と一対一で出かけるということは、私にとって緊張を強いられる出来事です。相手は聖書を学ぶクラスで、毎日顔を見ている人であるが、それは16名いるクラスの中の一員として見ているのであって、出かければ一人の人として見なければならない。向こうも私のことを一個の人間として見るであろう。相手は眩しいくらいの人であるし、才媛と言われる才気煥発(さいきかんぱつ)な人である。こちらは女性と相対すれば口ごもるような者である。それに大きな弱点はお金がないことである。どこかの喫茶店に入る、あるいはデートが順調に進んで食事となったらどうすべきかなど軍資金についての課題がある。しかしデートできるということが、すでに勝利の第一歩である。そう思って、安らかな心で出かけ、お金を使わないようにという事で、とにかく外を歩いた。歩きながら結構いろいろ話せてよかったのです。「安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい」ということですが、私の初デートは、私のほうにいろいろと足りないことがありましたが、会った時に相手が私を笑顔をもって受け入れてくれたので、軍資金問題などの不安は吹き飛び、よいスタートが切れたのです。再臨のキリストは私たちを大きな愛の御心をもって受け入れ、私たちに安心感を与え、「信仰を守り通して良かった」と言ってねぎらいの言葉をかけて下さり、私たちを涙もなく、もはや死も、悲しみも、叫びも、痛みもない天国に導き入れ、永遠に主と共に暮らすことが出来るようにして下さるのです(黙示録21:3-4)。

ペテロは、「聖書を無理な解釈をしないで読んで行こう」と言っています(16節)。当時パウロの書いた手紙が聖書として読まれていましたが、分かりにくいところがあっても、無理な解釈をしないで素直に聖書を読んで行こうということを勧めています。聖書の読み方の基本は次の通りです。(図1図2図3図4

1、心を開いて読む。

「しもべは聞きます。お話ください」(サムエル上3:10)

2、キリスト中心に読む。

「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書はわたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)

3、信仰と生活の唯一の基準として読む。

「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(Ⅱテモテ3:16)




最後にペテロは17節で、「非道の者の惑わしに誘い込まれて、確信を失うな」と告げています。非道の者とは無節制あるいは不道徳な者とも訳されています。具体的にいろいろなことが考えられますが、非道の者とはキリストの愛を失った者であるというふうに理解できます。パウロは「愛がなければすべてはむなしい」と断じています(Ⅰコリント13:1-3)。

キリストの愛を失わなかった人の実例があります。1938年ロシアの牢獄に250名が押し込められていた。ブラウンという人も入っていた。その中にギリシャ正教の司祭が迫害を受けて入っていた。司祭の顔は輝いていたが、二人の囚人が司祭をいじめ、嫌がらせを繰り返し、司祭の信仰をあざ笑っていた。ブラウンの所に妻から食料の差し入れがあった。それを司祭が物ほしそうにのぞいているので、パンをちぎって分けてあげた。すると司祭はそのパンを二つに裂き、自分を苦しめている二人組みに渡したのです。ブラウンは司祭に尋ねた、「あなたは空腹なのに、なぜ自分であのパンを食べなかったのですか」。「彼らは私以上にあのパンが必要だからです。私は間もなく主の御許に行きます。私のしたいようにさせて下さい」。間もなくして司祭は亡くなった。それ以降、、聖なるものを冒瀆する声は聞かれなくなった。

やがて主は来られます。ペテロは「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。罵られても罵り返さず、苦しめられても、脅かすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいを委ねておられた」と記しています(Ⅰペテロ2:22-23)。老司祭は、非道の者の惑わしに陥って確信を失うことなく、しみも傷もなく、安らかな心で御前に出られるように、キリストの愛を実践して、主の御許に召されて行ったのです。



まとめ

1、10節、主イエス・キリストは再臨されます。これは確実なことです。はじめに空中再臨、次に地上再臨という二段構えで再臨があります。

2、14節、17節、主イエス・キリストの再臨に備えて信仰生活に励んで行きましょう。主の御前に安らかな心で出られるように、非道の者の惑わしに陥ることなく、愛を実践して行きましょう。



祈 り

創造主である神様、独り子イエス・キリストによって救われていることを感謝します。キリストが再び地上に来られる再臨の日が近いことを忘れずに、いつでも主にお会いできるように信仰生活に励んで行きます。聖書の御言葉を通して主に従い、聖霊によって祈りを捧げつつ、信仰の日々を歩ませて下さい。来週のこども祝福式の上に、再来週18日の北野先生による特別集会の上に恵みを注いで下さい。午後のファミリー家長会、教会学校教師会、総務の集まり、夜の礼拝を導き祝福して下さい。今朝、特に病んでいる方々が癒やされることを信じます。深谷、松江、諏訪、徳島、トポスの伝道所、教会を祝福し続けて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ペテロ注解―黒崎、文語略解、バークレー、フランシスコ会、LABN。「再臨待望の祈り・毛戸健二・ことば社」、「迫りくるものーキリストの来臨と世の終末・首藤新蔵・同信社」、「御翼・佐藤順・アンカークロス社」