主の光によって光を見る 詩篇36篇        主の2007.11.11礼拝



豊留先生(1915-1993、ネームレスによる個人伝道創始者)に聞いた話ですが、アメリカ・カリフォルニヤの地下に、人が何十人も入れるほどの広い洞窟があり、そこはまったく光の届かない真っ暗やみの世界である。どれぐらい暗いのかと言えば、すぐ隣にいる人が見えないほどの真の暗闇である。その何にも見えない暗闇の中で一本のマッチに火をつける。するとたった一本のマッチの光が一瞬にして洞窟全体を照らし出し、暗闇の中にいる人に安心感を与えるとの事です。せんだっての嵐の真夜中に教会が停電し、家の中が真っ暗になったことがあります。手探りで押入れからロウソクを取り出し、その小さなロウソクを灯した瞬間に、光が家中を照らし出し、何となく安心しました。光には不思議な力があります。光によって照らし出されることによって、はじめて私たち人間はものを見ることができます。もし光がなければ、私たちは何も見ることができません。

光を与えられて、人間はものを見ることができるのですが、私たちの心はどうでしょうか。例えば、正義を行い、悪を滅ぼすという役割を与えられている警察官の不祥事がニュースになっています。いくら教育を受けても、悪いことをしてはいけないという規則があっても、生まれつきのままの人間の心は罪を犯します。キリストの救いの光を受けて罪を悔改め、心が生まれ変わらなければ、教育や規則は何の役に立たないということを、私たちクリスチャンは自分の体験として知っています。

本日は詩篇36篇です。ダビデは「われらはあなたの光によって光を見る」とうたっています(9節)。神は、世の光であるキリストによって人の心を照らします。聖書朗読のヨハネ福音書1:1-5節で、ヨハネは、「光が闇の中に浸透し、闇の力を打ち砕くように、キリストは私たちの心の闇である罪を赦し、人の命の光となって下さるまことの救主である」ことを力強く述べています。

今朝、ダビデの詩篇を通して、人の命の光であるキリストの恵みに感謝し、キリストに従う信仰によって今週も祝福の日々を前進して行くように、祈って新しい一週間を始めて行きましょう。



内容区分

1、悔改めない者は、罪の僕になると警告されている。36:1-4

2、悔改めた者は、光の子どもになり、主の僕となり、祝福を受ける。36:5-12

資料問題

1-4節、咎(とが)が擬人化されて描かれ、5節以下では神のいつくしみが語られている。1節「とがは・・その心のうちに言う」、「咎(とが)は・・その心にさしずを与える」とも訳される(フランシスコ会訳)。義人には神が霊感を与えるが、悪人には咎が与えるという皮肉的表現である。咎は神への反逆である。神への反逆、反抗という悪は人間生活において人を指導する原理となることが、この句によって表現されている。5節「あなたのいつくしみは天にまで及び」、神の愛は測ることの出来ない程に豊かである。「あなたは神の深いことを窮めることができるか」(ヨブ11:7)。6節「神の山のごとく」、永遠に変ることのないこと。詩篇111:3参照。「大きな淵のようだ」、詩篇33:7参照。「ああ深いな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」(ロマ11:33)。「人と獣とを救われる」、救われるとは危害から守り、生命を保ちたもう、との意(詩篇104:27参照)。

9節「光」、人を至福にする神の顔の輝きを指す。10節「あなたを知る者」、知るとは神との人格的交わりに入ること。神を知る者は、神の命令に従う者である(詩篇9:10、91:14)、



1、悔改めない者は、罪の僕になると警告されている。36:1-4

咎(とが)は悪しき者にむかい、その心のうちに言う。その目の前に神を恐れる恐れはない(1節)。

多くの詩篇にダビデの名前がついていますが、詩篇36篇の表題は「主の僕(しもべ)ダビデの歌」と記されています。この詩篇をとおして、ダビデは「自分は主の僕にしか過ぎない」という謙った気持で神を見上げています。彼は戦いに強い軍人であり、イスラエル二代目の王として優れた統治力をもって国を繁栄に導いた人です。彼は竪琴をかき鳴らし、多くの詩篇を創作する心豊かな人でした。何よりも彼は神を信じる信仰の人であり、救主イエス・キリストはダビデの家系から生まれて来ました。それで、ダビデは後世の人々から、「理想の王」として追慕されています。しかし、この詩篇では、彼は自分の全ての肩書きを捨てて、「主のしもべ」と言っています。主なる神の前に人間の肩書きは何の役にも立ちません。神が受け容れて下さるのは、王の肩書きではなく、砕けた、悔いた魂です(詩篇51:17)。ダビデは、「主のしもべ」ということによって、自分は神にすがる者である。自分は神なしには生きられない者である、ということを言い表しています。

主の僕として生きるということは、「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる」(箴言1:7)という聖書の教えに従うことです。

天地万物を創造された主なる神を恐れ敬う事によって、人生をいかに生きるのかという知識を得ることができます。ところが人間は神を忘れて自分の権勢を誇り、科学的な知恵によって宇宙を解明し、脳の研究、心理学の発達によって人の心も分かると言っています。しかし、「自分のしたいと思う良い事をすることが出来ない。その反対に、これは悪い事だ、やめよとうと思ってもズルズルと悪に引きずられ、負けてしまう」というのが人間の現実です(ロマ7:18-20)。「咎は悪しき者にむかい、その心のうちに言う。その目の前には神を恐れる恐れはない」(1節)というのは、神を恐れないで人間中心になると、心に巣くっている悪しき罪の思いが、私たちの生活原理になってしまうという意味です。2-4節には悪に支配されている者は、「悪を隠し、よこしまとあざむきを語り、悪いことに一生懸命になる」ということが記されています。最近、食べ物で老舗といわれる有名ブランドの店が日付をごまかし、内容を偽って売りさばいていたことが次々に告発されています。神を信じない心は「人が見ていなければ大丈夫」という悪の原理に支配され、罪を犯し、見つかると「知りませんでした」と言い訳し、そこでも嘘をついています。

神を恐れないと、人は悪に支配されます。

ダビデは信仰をもっていましたが、彼は美しい人の妻を見て欲心を起こし、王の権力をもって強引に関係を結び、その夫を殺すという大罪を犯しています(サム上17章)。サタンは常に隙をうかがっています。ダビデでさえも、神から目を離した時に、神を恐れることを忘れ、罪によって心を支配され、大きな失敗をしてしまったのです。

キリストは、十字架にかかり、私たち罪人の身代りとなった唯一の救主です。

神を恐れる者はキリストを信じます。キリストは罪のないお方(Ⅰヨハネ3:5)、罪を知らないお方(Ⅱコリ5:21)、罪を犯したことがないお方(Ⅰペテロ2:22)であり、万物を創造された潔い神の御子です。聖霊の助けによって、キリストが罪の身代りになって死んで下さった事を信じる時に、私たちは罪を赦され、罪の力から解放され、神の子の一員になって永遠に生きることができます。

明治時代、好地由太郎は18歳の時に、女主人に暴行を働き、殺害し、犯行を隠すために放火し、未成年のため死刑を免れて終身刑になる。獄中でキリストを信じ、生まれ変わり、模範囚になり、23年後に特赦を受け、余生を伝道のためにささげた人です。彼は、罪に支配され、恐ろしい事件を起こしましたが、キリストを信じて罪から解放された後は多くの人をキリストに導いています。ある時、彼は函館刑務所にいる中之目丹治という死刑囚の所に行きます。彼は「自分は悪くない」と言って、暴れまわり、看守に抵抗し、手のつけられない囚人で、刑務所では扱いに苦労していた。中之目は好地由太郎の顔を見ると「何しにきた。俺は悪くない」としゃべり続ける。好地は神に祈って、「私も死刑を受ける身であった。人を呪っていた。だが25歳の時に獄中で神を信じ、キリストを信じ、生まれ変わった」ということを話すと、中之目は好地の話を受け入れ、キリストを信じ救われます。それ以来、暴れまわり、手のつけられなかった中之目が模範囚となり、刑の執行を一年延ばされ、その間に家族を救いに導き、刑務所の囚人たちを救いに導くという働きをしています。

私たちは、キリストの十字架を信じ、罪の僕から、キリストの僕となって生かされていることを感謝します

2、悔改めた者は、光の子どもになり、主の僕となり、祝福を受けている。36:5-12

いのちの水はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。(9節)

5-12節には主の恵みが記されています。

ダビデは「主よ」(5節)と呼びかけていますが、私たちが呼び求めるのは常に主なる神です。

ダビデは「主よ」と呼びかけ、神の愛が広大無辺であることを感謝しています。彼は、「神の愛といつくしみ(恵み)は天にまで及んでいる。神のまことは雲にまで及んでいる。あなたの義は山のようである。そのさばきは淵のようである」という表現を通して、神の愛は人知を越えた全宇宙を包むような素晴しいものであるとうたっています。「主よ、あなたは人と獣とを救われる」(6節)とありますが、これは人も獣も神の守りの中にあり、神が生命を保って下さるということを表しています。

7-8節で、主のいつくしみ(恵み)がうたわれ、「あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。あなたはその楽しみの水を彼らに飲ませる」と、神を信じる者たちの集まりの素晴しさがうたわれています。

「あなたの家」とは現代でいえば教会でしょう。教会の集まり、礼拝の中で、御言葉をとおして霊の糧をいただき、心が恵まれます。讃美をとおして心が解放され、喜びがあふれてきます。祈りをとおして、「主は最善のことをして下さる」、「主は病の癒し主である」、「主は私の涙をぬぐって下さる」など様々な恵みを受けることができます。ですから礼拝に出られないことは大いなる霊的損失になります。

9節に、「われらはあなたの光によって光を見る」とうたわれています。

これは神様が私たちに光を与え、恵みを施すお方であることを示しています。神の光はキリストによって表されています。キリストは「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は闇のうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう」(ヨハネ8:12)と言われるまことの救主です。光は上から照ってきます。まもなくクリスマスですが、私が思い起こすのは祭司ザカリヤの、「神のあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰に住む者を照らし、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」というよろこびの預言です(ルカ1:78-79)。キリストの救いは、日の光が上から臨むように、神の側から与えられた恵みです。日の光が全地球上を照らすように、キリストの救いはすべての人のために備えられた救いです。

ある若い方の証です。<中学校を卒業し、高校にも無事入学し、家庭にも友達にも恵まれた日々を過ごしていた私に、辛いできごとが起りました。高校三年の終り頃でした。クラスの人達が私を仲間はずれにするようになったのです。自分では仲間はずれにされるような言動をとった覚えはないし、なぜそのようなことをするのか理由を聞いても答えてはくれませんでした。仲間はずれはエスカレートするばかりで、ついに朝の挨拶さえ交わしてくれなくなったのです。もう学校に行くのが辛くて辛くて、退学することはもちろん、自殺する事さえ考えました。そんな私が部屋の押入れの底の底から一冊の書物を探し出し、それを学校に持って行くようになったのです。その書物というのは学校で配られた新約聖書でした(註・ギデオン聖書協会による配布)。休み時間のたびに聖書を一生懸命に読みました。読んでいるうちに自然と心が安らぎ、「大丈夫、私には神様とイエス様がついてくれているのだもの。なにも心配することはないんだ。元気出さなきゃ」と思うようになったのです。そして、朝に昼に晩に聖書を読み、お祈りをしました。

聖書を読み始めて一ヶ月が過ぎようとしたある日のお昼休み、私がいつものように聖書を読もうとした時、教室の隅から「喜美ちゃん、一緒にご飯を食べよう」という声が聞こえたのです。しばらくして私は、自分の頬を伝う涙を感じました。そして私の口から自然と言葉が漏れました。「ああ、神様、イエス様、ありがとうございます。心から感謝し、また、心から信じます」と。その後、今日に至るまで、聖書によって私の心は支えられています>。

この人は聖書をもらったことをすっかり忘れていたのですが、苦しい中にあって聖書のことを思い出しました。これは、キリストが彼女の心を照らしてくれたので思い出すことができたのです。彼女は聖書を読むことによって、辛い中にあって「自分にはイエス様がついてくれている」という希望の光を見出し、心に力を与えられ、そして主による解決という祝福を受けたのです。

主は生きておられます。ダビデは「主よ」と呼んでいます。私たちも主の名を呼びましょう。電話をかけるように主に祈りましょう。

呼び出し番号は「イエス様!」という全世界共通のお名前です。「悩みの日にわたしを呼べ。わたしはあなたを助け、あなたはわたしを崇めるであろう」(詩篇50:15)という約束を信じて祈りましょう。先ほどは子どものために主の祝福を祈りました。小さい時からキリストの光を心に受けて成長して行く子どもは幸いです。先日、家内と慧が永井さんのお見舞いに行きました。家内が「祈りましょう」と言った時に、家内の膝に座っていた慧が「神様、永井さんの病気を治して下さい」と祈ったのです。誰からも言われないのに、慧が自主的に祈ったので、永井さんは感激していたそうです。聖書は「汝の若き日に汝の造り主(神)を覚えよ(信ぜよ)」(伝道12:1)と命じています。そうしないと年をとってから、信じるものがなく、希望のない虚しい日をおくるようになると警告されています(伝道12章)。

10節に「あなた知る者に」という言葉があります。これは主のことを頭で知る、知識で知るというのではなく、祈りを通して、主と心と心の交わりをすることです。

私は早天祈祷会で御言葉を読み、メッセージを聴いて(富田兄、倫夫師、私で順番にする)、祈ります。土曜日は出席者全員で御言葉の分かち合いをします。早天祈祷会が終ってから、私ひとりの祈りの時をもち、イエス様とお話をします。イエス様が、時にはそば近くいたり、時にはちょっと離れている感じであったりしますが、確実に傍にいて下さることを意識できます。私は牧師として様々な方のお話を聴きます。楽しい話、恵まれた話、そして重たい話、病気の話など心にズシンと来るような話もあります。私が種々の話を聴いて唯一それを打ち明けることのできる相手はイエス様です。時々イエス様に愚痴をこぼします。イエス様は私のストレスも涙も全てを背負って下さるので感謝です。それがイエス様との心と心の交わりです。私もダビデのように「あなたを知る者に絶えず、いつくしみを施して下さい」と祈ります(注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者にー新改訳)。

皆さんは主を知っていらっしゃいます。あなたの求めは何でしょうか。「主よ!」と呼んで祈りましょう。あなたの病気のために「主よ!」と祈りましょう。主は十字架によって私たちに癒やしをもたらして下さった主です。主が私たちの心に聖霊の光を与え、「主よ!」という祈りを与えられていることを感謝して、祈って行きましょう。来週は北野先生による2回の特別集会です。祝福が豊かであるように祈りましょう。



まとめ

1、1節、悔改めない者は、罪の僕、罪の奴隷になってしまいます。キリストを信じ、罪の僕ではなく、主の僕になっていることを感謝します。

2、9節、悔改めて、光の子どもになり、主の僕になっていることを感謝します。主の光を与えられ、祈れることを感謝します。「主よ!」とイエス・キリストのお名前によって祈って行きましょう。



祈 り

創造主である神様、独り子イエス・キリストの十字架と復活を信じ、救われていることを感謝します。私たちは罪の僕ではなく、イエス・キリストの僕であることを感謝します。主よ、私たちの心を主の光によって照らして下さい。上から来る主の光によって道を照らされ、信仰の道を進むことができますように導いて下さい。そのために御言葉を読んで、主をもっともっと知ることができるように、主との深い交わりを与えて下さい。午後のファミリー、子どもファミリーの上に、ゴスペルの上に、夜の礼拝の上に祝福を注いで下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:詩篇注解―フランシスコ会、ナイト、岸井、口語略解、浅野、スポルジョン。  「この人の生涯に学ぶ・久保有政・レムナント出版」、「学生のみなさんに聖書を・日本国際ギデオン協会」