「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」 ヨハネ福音書8:31-38 主の2007.11.25礼拝

古代ギリシャの物理学者アルキメデスは、王より「新たに作った王冠に混ぜ物がないかどうかを調べよ」という命令を受けます。出来上がった王冠を溶かして材料の成分を調べる訳には行かず、考えあぐねて風呂屋に行き、湯船に身を沈め、中のお湯が彼の体の分だけザザッーと外に溢れ出たその瞬間に、「アルキメデスの原理」といわれる考えが閃きます。嬉しさのあまり彼は風呂から飛び出し、裸のまま「見つけた!見つけた!」と言って、町中を走り回ったと伝えられています。

本日はヨハネ福音書8:31-38です。キリストは、「真理は、あなた方に自由を得させるであろう」(33節)と言っています。アルキメデスは学問上の真理を見出して、学問の発展に寄与しました。キリストの言われる真理とは、学問などの真理ではなく、「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父の御許に行くことはできない」(ヨハネ14:6)というもので、イエス・キリストご自身が真理であることを示しています。真理の内容は、「キリストが私たちの罪を赦し、永遠の天国に導き入れて下さる」というもので、全ての人にとって絶対に必要な真理です。学問や科学の法則、真理はある程度すぐれた頭脳の持ち主だけが理解できるものです。キリストの言われる真理はどんな人にも理解できるものです。ある牧師の9歳の娘が粟粒結核になりました。父は弱って行く娘を背負って講壇に立ち、「お父ちゃんがお話するのは、ここからだよ。天国へ行けない人は気の毒だね、イエス様を信じていないと行けないよ。きれいな心でないとだめだね」と言いきかすともなく語った。娘はだまってきいていた。やがて病状が進んで娘は召されますが、お父さんは後に次のように記しています、「・・・おうちの食卓のおいのりのときが/いちばん娘の嬉しい時でした/聖書もよく読めるようになり/召されるころには/おいのりもしだいによくなりました/意地っ張りのところもありましたが/おいのりだけはすなおで/みんなが感心することもありました/いまは天に行って/祈りの学校の/優等生になっていることでしょう」。キリストを信じれば、誰でも救われるという恵みを受けて娘は天国に召され、両親もやがては天国で娘と再会できるという希望をもち、キリストの真理は娘と両親とを永遠に結びつける固い絆になっているのを知ることができます。

今朝、心の耳を開いてメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路へと出発いたしましょう。



内容区分

1、キリストを信じる者は、神の御言葉に従って生きる。8:31

2、キリストを信じる者は、まことの自由を得て生きる。8:32-38

資料問題

30節「信じた」というのは、2:23、7:31、10:42、11:45などと同じく、単に「好意を持った」との意である。本日の個所31節で、キリストはその信じた(好意を持った)という人々に語りかけている。32節「真理」、学問上の真理ではなく、神の言葉であるイエス・キリストを指す(14:6を見よ)。34節「罪の奴隷」、ロマ6:17参照。35節「いつまでも家にいる者ではない」、ユダヤ人は御子イエス・キリストに逆らうことによって、父なる神の家にとどまる権利を喪失している。38節「自分の父」、41,44節から、サタンを指していることが分かる。



1、キリストを信じる者は、神の御言葉に従って生きる。8:31

イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである」。(31節)

31節で「イエスは自分を信じたユダヤ人に言われた」と記されています。30節に「多くの人々がイエスを信じた」と言われているので、それを受けて、31節で、その信じた人々に語りかけているというふうに理解できます。しかし、わざわざ「信じたユダヤ人」と言われているのはユダヤ教指導者たちを指しているとも理解できます。「信じた」という言葉が使われていますが、これは好意を持ったという意味です。キリストの教えを聞き、その為された御業を見て、多くの人々が「キリストは素晴しいお方である」という好意的な気持を持ったのですが、それらの人々に対し、キリストは「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなた方はほんとうにわたしの弟子なのである」と教えています。キリストの言葉のうちにとどまるということは、キリストを心から信じて、聖書の教えに従って生きるということです。具体的に三つのことを心に留めて下さい。

第一に、信仰とは、キリストを眺めることではないということです。

聖書以外に多くのキリスト伝があり、良きサマリや人などキリストの愛に焦点が合わされています。けれども十字架、復活というキリストによる救いの事柄については、さっとなでる程度で終ってしまう本が大部分です。しかしクリスチャンの書いたキリスト伝は十字架の救い、復活による永遠の命の希望についてちゃんと記されています。それは作者がキリストを眺めるだけではなく、信じているからです。東大総長であり伝道者であった矢内原忠雄が子ども集会で語った「復活のイエス」の終わりで、「イエス様はこの世を去られたけれども復活をして、生き返って、そして弟子達に力をお与えになった。・・・弟子達は初めはこわがっていたけれども、後にはどんなことも恐れない勇気を得た」と結んでいます。

第二に、信仰とはキリストを体験して行くことです。

キリストを眺めるだけではなく、キリストを心に迎え、キリストの恵みを日毎に体験して行くことが信仰です。私たちの娘夫婦が開拓伝道している長野県茅野市すわシオンキリスト教会から、八ヶ岳の雄大な山並を見ることができます。以前に石田さんとすわシオンキリスト教会に行った時に、はるかに聳え立つ八ヶ岳を眺めながら石田さんが詳しく説明してくれました。石田さんは何回も何回も八ヶ岳に登っているので、山の成り立ち、登山道、山の天候のことなど全てを実体験に基づいて話してくれましたので、下から眺めているだけでは分からない八ヶ岳の内側を知ることができ、登ってみたいなという気持になりました。私たちはキリストを信じ、生まれ変わって恵みの日々を歩んでいます。私たちはキリストの恵みを日毎に体験しています。例えばキリストの御名による祈りは確実に聞き届けられていることを体験しています。先週、私たちが長い間祈っている人の消息を聞くことができました。その人は輝くような信仰をもっていたのですが、迫害により教会から離れている時期がありました。しかし主の憐れみによって信仰を回復し、教会に復帰。今年の初めに、ご主人が求め始めているという連絡を受けて祈っていました。すると「その人に最近会いました」という方によって、その人の最新の消息を知る事が出来たのです。改めて、祈っている祈りは聞き届けられているということを体験しましたので、私はさらに大いなる確信を持って、祈りを聴いて下さるキリストの恵みを語ることができます。

第三に、信仰とはキリストに従う決断の連続です。

もっとも基本的なことは毎日聖書を読み、祈ることです。教会の集会を休まないことです。日本からアメリカに出向していたビジネスマンに聞いた話ですが、水曜日は残業をさせてはいけないと言われたそうです。従業員達も水曜日は仕事が終わるとサッサと帰って行く。その理由が教会の祈り会に行くためであるということが分かったということです。日本とアメリカは違うという人がいるかも知れませんが、クリスチャンたちが信仰を最優先して行く姿勢を貫いているからであるというのが正解であると思います。クリスチャンにとって日曜日はもちろんのこと、水曜日の集会も大事にして出席して行くことが信仰向上の秘訣です。

先週北野先生を通して、「キリストにつながっていなさい」ということが強く言われました。そのために「愛し合って行こう」、「キリストを公に大胆に告白して行こう、隠れクリスチャンになるな」、「キリストの内にとどまって行こう」と言われました。キリストの本当の弟子になるために、今週もキリストに従って行こうという決断の祈りを捧げて下さい。



2、キリストを信じる者は、まことの自由を得て生きる。8:32-38

「また真理を知るであろう。そして真理はあなたがたに自由を得させるであろう」。(32節)

キリストは、聖書の御言葉にとどまり、聖書の御言葉に従う者は「真理を知る」と言われました。真理とはキリストのことです。真理であるキリストを知ることによって、「自由を得ることが出来る」と約束されています。皆さんの心は自由でしょうか。キリストを信じて、まことの自由を得るために必要なことは何でしょうか・・・。

第一に、自分の罪を認めることです。

キリストを心から信じる者は自由を得ると言われた時に、多くのユダヤ人たちが「私たちは人の奴隷になったことはない」(33節)と反発しています。キリストは彼らの言葉を受けて「よくよく(アーメン、アーメン)あなたがたに言っておく、すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(34節)と答えています。聖書朗読で詩篇32篇ダビデの詩篇を読みました。ダビデは「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨は古び衰えた」(32:5)と告白しています。罪を隠したままでいると、人はその罪に支配されます。箴言28:15で、「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表してこれを離れる者は、あわれみをうける」と言われています。ダビデは一つの罪を隠すために、次々に罪を重ね、遂に人殺しという重大な罪を犯してしまいます。これが罪に支配されている者の姿です。ダビデは最終的に悔改めて、「あなたはわたしの犯した罪を赦された」という感謝の祈りを捧げています(詩篇32:5)。私たちは「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめる」(Ⅰヨハネ1:7)というキリストの十字架によって、罪を赦されている恵み感謝しつつ、罪から離れて、キリストに従う道を歩んで行く日々であるように祈って下さい。

第二に、人間中心ではなくキリスト中心の生活をおくることです。

現代は罪があらゆる個所に満ちています。特に明日を担う若い方々が罪の中に巻き込まれて行く時代です。例えば現代社会でエイズが大きな問題になっています。この問題に対して日本は決定的に間違った対応をしています。以前NHKニュースで、高校生たちに避妊器具を配り、その使用方法を説明している光景を見ました。それは、性に関して、人間は基本的に自由である。人間は性的欲望には勝てないから、避妊器具を使えばよい、そうすればエイズを防げるという発想です。また従来の一夫一婦という結婚に縛られなくてもよい。同性愛結婚も認めるなどの考えに従って教育がなされています。このようなことを推し進めたのがアメリカです。その結果、十代の妊娠、出産、性病が増大し、自殺、精神的な病気が増加し、父親のいない家庭が増えて青少年の暴力犯罪が爆発的に増加するという結果を産み出したのです。そこでアメリカでは、生徒に自己決定させるというのではなく、人格教育を進め、結婚まで性を抑制するという自己抑制型(abstinence)教育をすることによって、例えば若者の妊娠が減少したことが報告されています。アメリカのロバート・シューラー牧師の牧会する教会礼拝ビデオを見ました。何百人という若者たちが腕にリボンを結んで講壇に並んでいる光景が映し出されました。それは、若者たちが「結婚まで自分の身を清く保つ」ということを神様に誓って、自分の身を捧げて牧師より祈ってもらっている情景でした。

今朝も礼拝のはじめで、「あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」(ロマ12:1)という神の御声を聴きました。またキリストを信じた者は、「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分のうちに宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」という御言葉を心に刻んで下さい(Ⅰコリント6:19-20)。

第三に、「キリストの十字架によって生かされている」ことを忘れないことです。

昔、台湾に首狩り族がいたのですが、村の長老がこの悪習慣をやめさせようと思って村人を説得した。しかし村人は聞き入れない。そこで「明日ひとりの旅人が村はずれにやってくる。その人を殺して、それを最後にして首狩りをやめよう」と提案します。翌日、帽子を目深にかぶった旅人が何も知らずに村に近づいてきた。待ち構えていた村人は槍をふるって無残にも旅人を殺して、帽子を剥ぎ取り、首を切ろうとした。その時「ああ、大変だ。これは村の長老だ」という叫び声が起きた。村人は自分達の尊敬する長老を自らの手で殺してしまったことに気づきます。そして長老が首狩りの悪習慣をやめさせるために、自分の身を犠牲にしたことを知り、それ以来首狩りは二度としない平和な村として栄えて行きます。キリストは罪に支配され、罪の奴隷になっていた罪人を救うために十字架に命を捧げて下さいました。キリストを信じる時に、人間は罪から解放されます。ある有名な女優の息子が覚醒剤使用で逮捕され、今回で3度目の逮捕というニュースがありました。ヤクザから救われた人々を招いて、2000年にクリスマス会を行い、救いの恵みを語ってもらいました。元ヤクザの人々は刺青を見せながら、キリストを信じ、やがて麻薬中毒から解放されて行ったことを赤裸々に証言してくれました。罪人のために、きよい神の御子であるキリストが血を流して、十字架の上で罪の身代りになって死んで下さいました。人の力では麻薬から逃れることは困難ですが、キリストを信じ、聖霊の助けによって元ヤクザのメンバーは更生し、牧師になっている方々もいます。キリストの十字架によって、私たちは救われています。キリストの十字架に罪を赦し、そして病を癒す力があります。キリストの十字架を信じて、「真理であるキリストによって自由を得る」のです。



まとめ

1、31節、キリストを信じる者は、神の御言葉に従って行きます。今週も聖書を読んで、祈って、キリストの恵みを知り、キリストに従う決断を日々新たにして前進して行きましょう。

2.32節、キリストを信じる者は、まことの自由を得て生きて行きます。キリストだけが十字架にかかって死んで下さった唯一の救主です。キリストの恵みに感謝し、罪を振り捨てて、キリストに従うきよい道を前進しましょう。



*聖歌427(旧聖歌425)「罪重荷をのぞくは」をさんびし、お祈りをいたします。



祈 り 

天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストによって罪を赦され、自由を与えられていることを感謝します。キリストの十字架に感謝し、キリストに従って行きます。

心の重荷を抱えている人に自由が与えられることを信じます。病気から自由になり健康になることを信じ平安を与えて下さることを信じます。罪の悪い習慣から自由になる信仰の力が与えられ、生活が新しくなって行くことを信じます。救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ヨハネ注解ーフランシスコ会、黒崎、文語略解、榊原、ライル、佐藤順。

「ぱんだね・日本キリスト教団教育委員会編」、「矢内原先生の聖書ものがたり。矢内原忠雄・新地書房」、「いのちのことば11月号・甲斐真理子『時代を見る目』・いのちのことば社」