クリスマスー心を開いてキリストを迎える時 ヨハネ福音書1:9-13
主の2007.12.2 アドベント第一礼拝
最近はクリスチャンでない人が、豆電球を使ってクリスマスデコレーションを飾っています。先日、夕暮れに慧と町を歩いていると、「グランパー、ミッキーだ!」と叫ぶので、その方向を見ると、豆電球でクリスマスツリーと共にミッキーがかたどられ輝いていました。クリスマスにミッキーは関係ないのですが、クリスチャンでない人々は、クリスマスの真の意味を知らないので、いろいろなものを飾っています。私たちクリスチャンは、「クリスマスの主人公はミッキーでも、サンタクロースでもなく、真の主人公はイエス・キリストである!」ということを伝えて行く使命があります。教会は最初の頃、クリスマスではなく、イースター(主の復活祭)を盛大に祝っていました。クリスチャンは、「主イエス・キリストは十字架と復活によって罪と死を滅ぼし、永遠に生きておられる救主である」という信仰を告白し、迫害に耐え、信仰を守り通し、教会は全世界に広がって行きました。5世紀ごろになって、キリストの降誕を12月25日に祝うようになりました。実は12月25日は、ロマ帝国の祝日で冬至のころの太陽神ミトラの祭でしたが、その祭日をキリスト教化してクリスマスとしました。キリストは「義の太陽」(マラキ4:2)と呼ばれる救主です。そこで太陽神という偶像を退け、冬至を境に昼の時間が長くなるので、12月25日を闇を追い払う義の太陽であるキリストの降誕日・クリスマスとし、今では全世界でクリスマスが祝われています。クリスマスの前、4週間の期間を「アドベント(降誕節)」と呼んで、キリスト降誕を祝う心の備えをしますが、本日はアドベント最初の日曜日です。
聖書はヨハネ福音書1:9-13です。使徒ヨハネは、「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」(10節)と告げています。讃美歌に「この世の闇路を照らしたもう、妙なる光の主はきませり、主はきませり、主は、主はきませり」と歌われていますが、まことの光、妙なる光はイエス・キリストを指しています。キリストは「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者は闇のうちを歩く事がなく、命の光を持つであろう」(ヨハネ8:12)と私たちに呼びかけています。使徒パウロは、「光にさらされる時、すべてのものは明らかになる。明らかにされたものは、皆、光となるのである」(エペソ5:12-13)と言っています。義の太陽であるキリストの光を受けて、心をきよめていただき、救主イエス・キリストのお生まれになったクリスマスに向って進んで行きましょう。
内容区分
1、キリストは、すべての人のために、この世に来られた救主である。1:9-11
2、キリストは、心を開く者を救われ、神の子にして下さる。1:12-13
資料問題
9節「まことのアレーシノス」、ヨハネの特用語。偽物に対する本物ではなく、不完全な実現に対する完全な実現を意味する。キリスト以前の全ての光は光の実体ではなく其の輝きであり、またその断片に過ぎない。10節「世は彼を知らずにいた」、創造主であるキリストが来たのであるから、喜びを持ってキリストを迎えるべきであったが、世の人々は無関心でありまた無知であった。ここに人間の罪深さと、罪の中にある無知と、人間を罪より救い出さんとする神の御心の淋しさとが明らかに示されている。11節「自分の民は受け入れなかった」、自分の民はイスラエルを指す。イスラエルは特に選ばれて神の民になったのに(詩篇135:4,33:12)、キリストを受け入れず十字架につけてしまったのです。12節「受け入れるラムバノー」、個人的に迎えること。11節の「受けるパララムバノー」は公に迎え入れること。「その名」、名はその本質を示すもので、キリストの名を信じるとはキリスト自身を信じること。「力」、許可、権能、能力のこと。
1、キリストは、すべての人のために、この世に来られた救主である。1:9-11
すべての人を照らすまことの光があって、世に来た。(9節)
タイに行きましたが、タイ国王の色が黄色であるので、月曜日には黄色いシャツを着て国王への敬意を現すいうことで、町を行く半数以上が黄色のシャツを着ていました。日本では12月23日は天皇誕生日の祝日で、天皇への尊敬を表すようになっています。それぞれの国で王、あるいは国家に貢献した人の誕生日を祝う習慣がありますが、世界的に偉大な人は国家を越えて世界の人が祝います。現在クリスマスは世界中で祝われています。しかし、クリスマスの真の主人公が誰であるかを知らないまま祝っているので、お寺でもクリスマス会が行われますし、またクリスマスにミッキーマウスを飾ってしまうということになります。クリスマスはキリストの礼拝という意味で、キリストの誕生を祝う日です。
ところで世界最初のクリスマスは現在のように盛大だったのでしょうか。聖書はごく少数の人しかキリストのご降誕を知らなかったと伝えています。2000年昔、キリストが生まれたベツレヘムの空に、今まで見たことのない輝く大きな星が現れましたが、それがキリストの誕生を知らせていると気づいたのは、遠い外国に住む占星術の博士達だけでした(マタイ2:1-12)。真夜中ベツレヘム郊外の野原に天使の讃美が響きわたりましたが、その歌声を聞いてキリストの誕生をお祝いに行ったのは少数の羊飼い達だけでした(ルカ2:8-20)。神殿で赤ん坊を抱いているマリヤとすれ違った人々はたくさんいたはずですが、マリヤに抱かれている赤ちゃんを、「これこそキリストである」と見分けたのは、シメオンとアンナの二人だけでした(ルカ2:25-38)。それで、ヨハネは「すべての人を照らすまことの光であるキリストがこの世に来られた。だが世はキリストを知らずにいた」と述べています(9,10節)。11節に「自分の民」とあるのは、ユダヤ人のことです。ユダヤ人は神によって選ばれ、ユダヤ人を通して救主が生まれるという約束を与えられていながら、この世に来られたキリストを受け入れず、十字架にかけてしまいます。
たしかにキリストが誕生された時に、当時の人々はキリストの誕生を知らず、神の選民といわれるユダヤ人もキリストを迎えることをせずに、逆にキリストを十字架につけるという過ちを犯しています。クリスマスが世界的に祝われる現代にあっても、クリスマスはケーキやフライドチキンを食べる日である、サンタクロースの誕生日である、プレゼントをもらう日であると思っている人がいます。けれども、ヨハネは「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」ということはまぎれもない事実であるということを伝えています。この聖句には三つの大事な意味があります。
第一に、「キリストは天から来られた救主である」という事実です。
日の光は上から照ってきます。全ての良きものは天の神様から下ってきます。キリストは天からこの世に下って来られた救主です。人間が求めて、追求して見つけ出した救主ではありません。人間が追及して見つけ出した救主であれば、人間と同じレベルです。人間と同じレベルの者が私たちを救うことは出来ません。キリストは世が創られる前からおられ、世界を創造され、人間を創造された神です。人間を越えているので、人間を救う力があります。
第二に、「キリストはまことの光である」という事実です。
「キリストは光である」と言われています。光は真っ直ぐに進み、暗い闇の中に浸透し、闇を追い払い、全てを明るくします。人の心は罪の闇に覆われています。心にキリストの光があたると、人は罪を自覚し、罪を悔改めて、キリストの救いを受けたいという気持になります。
第三に、「キリストは、すべての人の救主である」という事実です。
キリストを信じれば、だれでも例外なく救いを受けることができます。
Yさんは82歳までキリストを信じようとはしないで人生をおくってきました。曲がった事が嫌いで仕事熱心、家族を大事にし、誠実な人でした。奥さんがクリスチャンになっても反対せずに応援しました。しかし、「自分はよい、家の宗旨は浄土宗だから」と言って、なるべくキリストに近づかないようにしていました。キリストの光はYさんに届かないのかなと思っていましたが、孫が「おじいちゃん、イエス様にお祈りする」と言って、手を取ってお祈りすることを通して、キリストの光が頑固な心の中に浸透して行きました。遂に時が来て、私が知り合ってから47年目、Yさん82歳の時にキリストを信じて救われることができたのです。この実例からキリストはすべての人を照らし、救うために、この世に来られたまことの救主であることを知ることができます。
2007年教会クリスマスは「キリストを喜び、キリストを伝えるクリスマス」となるように準備が進められています。「すべての人を照らすまことの光であるキリスト」を伝道する時となるように祈りを結集しましょう。本日クリスマス案内と共に、12月24日(月・祝日)クリスマス祝会の申込書が配布されています。すぐに自分や家族などの名前を書き込んで帰りに出して下さい。誘いたい方の名前は、祈って、出席を勧め、申込書に名前を記して16日(日曜日)までに申し込んで下さい。
2、キリストは、心を開く者を救われ、神の子にして下さる。1:12-13
しかし、彼(キリスト)を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼(キリスト)は神の子となる力(特別な権利・資格)を与えたのである。(12節)
「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」のですが、信じない人々がいた。それを受けて12節で「しかし」と言われています。信じない者がいる、「しかし」キリストを心に、信じ受け入れた者は救いを受け、神の子になる特別な権利・資格が与えられるということが記されています。この「しかし」は天国と地獄を分ける重要な言葉です。
しかしの前では、キリストを信じない者がいますが、信じない者は神の審(さば)きを受けます。
しかしの後では、彼(キリスト)を受け入れる者は神の子になるという祝福が約束されています。彼
(キリスト)を受け入れる」というのは個人的にキリストを心に迎えるということです(11節の受け入れるとは公に迎えるの意) キリストが心の扉を叩いた時に「どうぞ、私の心の中にお入りください」と、キリストを個人的にお迎えする時に、無条件で私たちは神の子になる特別な権利・資格を与えられます。13節では、神の子になる特別な権利は、血筋(人間の血統・系図)、肉の欲(人間の生まれながらの欲望)、人の欲(人間の計画、考え)に関係なく、神の恵みによって神の子になるとと言われています。
私たちは、12節に言われているように、キリストを信じ受け入れて神の子になることができますが、三つの大事なことがあります。
第一に、「キリストを信じることは神の選びによる」ということです。
なぜあの人は決断できたのに、この人は決断できないのかということがあります。決断できた人は特別すぐれた人であったのでしょうか・・。私のことですが、高校2年生の時にキリストを信じました。私のクラスは頭の良い人が多くいましたが、あまり勉強のほうは得意でない私が救われました。多くのクラスメートを教会に連れて行きましたが、なかなか教会に根づかず、私は教会を離れずに今日まで信仰の道を歩んでいます。キリストは「わたしがあなた方を選んだ」(ヨハネ15:16)と言われていますが、キリストの選びがあったから、私は信仰を保って来られたのであるということを実感します。信仰が長くなればなるほど、皆さん方も神の選びということを強く意識されていることと思います。神の選びというと、特定の人が選ばれて、選びから外される人がいるかのように感じられますが、そうではありません。神様の願いは「すべての人が悔い改めて救いに至ること」です(Ⅱペテロ3:9)。神様は様々な機会を与えて下さって、キリストの救いの選びの中に、全ての人が入って来るようにと招いておられるのです。
第二に、「キリストを信じるという決断をする」ということです。
神の選びを自分のものとするためには決断の時が必要です。キリストという素晴らしい救主がおられるということを頭だけで理解して、傍観者のように見ているだけでは、神の子になることができません。私の娘は、信仰に懐疑的になり、信じられない心を抱いてイギリス中央部にあるお城を校舎にしたケーパンレイ神学校で「信仰とは何だろうか」と苦闘していた時に、信仰深い老夫婦が神学校に講師として訪れ、娘の相談相手になってくれました。老夫婦はそこにあったリンゴを指さして「これは食べればおいしい。だがおいしいと思って眺めているだけでは、そのおいしさはわからない。食べて初めて味が分かる。信仰も考えているだけでは分からない。祈ってごらんなさい」と導いてくれた。娘は「信仰とは何だろうか」と、ただ頭の中でグルグル考えてばかりいて祈りをやめていたのですが、夜中にお城の外に出て、「神様・・・」と呼んでみた。すると言い知れない喜びが心の中から湧き上がってきた。翌朝、また神様に呼びかけた。また同じように大きな喜びが心の底より湧き上がってきた。それまで苦闘していた信仰上の疑問、悩みは氷解した。自分が牧師の家庭に生まれ、小さい時から知らされ、信じていたことを、疑いによってストップしていた。だが聖書の教えは全て真実だ、今は見るもの、聴くもの全てが心に感動を与え、喜びとなり、生かされているという喜びを全身で感じるという体験をした。信仰深い老夫婦の講師に励まされて、「神様・・・」と呼びかける決断をしたことによって、キリストを信じる喜びの心を与えられたのです。ですから決断とは、思い切ってキリストの中に飛び込んで行くことです。
第三に、「私たちが心を開く時に、神の子になる恵みを受ける」ことができます。
クリスチャンの皆さんに尋ねます。きょうもキリストは自分の心の真ん中、即ち心の王座にいるでしょうか。タイに行き、屋台の店を見て歩きました。小さい店が多く、客が入れないほど品物で一杯になっています。店に入ろうと思うと、店員が寝そべっていたり、ラーメンをつくって食べたりしているので、客のほうが遠慮して店に入る感じです。日本でしたら、小さい店であっても、客が一番いい場所に入れるようにしてくれます。もしイエス様が私の心の中に入ろうとする時、「イエス様、少し端っこのほうで待っていて下さい」という横柄な態度をとることはしないでしょう。私たちは心の真ん中にイエス様をお迎えするはずです。きょうもイエス様を心の真ん中にお迎えしていますか・・・。
A.Tくんが洗礼の学びを始めています。祈って下さい。イエス様を信じている方々は「洗礼を受けます」という決断をされるようにお勧めします。神と人の前に信仰を公にして、名実共にクリスチャンとして歩んで行くことを決断して祈って下さい。
神の子になった一人の人の証です・・・・「母は兄を産んだ後、産後の肥立ちが悪く、耳が聞こえなくなってしまった。母は私を身ごもった時、産むのを反対されたそうです。母は信仰があったわけではないのですが、『神の子を産もう』と思ったそうです。母は内職をして家計を支えていました。明るい家庭ではなく、私は満たされない思いをもって成長した。高校二年の時に、学校の先生によってキリスト教の集会に行き、聖書の教えを聞き、伝道者や信徒の方々の温かい心に引きつけられて集会に通った。信仰を与えられ、同じ信仰の婦人と結婚した。初めて家に妻を連れて行った時に、母が一番喜んでくれた。私の結婚を機に、耳が不自由なために外に出なかった母が、喜んで集会に父と一緒に出席するようになった。そして神の恵みを受け、キリストに感謝する日々をおくるようになったのです」・・・・証を通して、産むなという反対を押し切って出産した子どもが救いを受け、その母も救われたという、神の不思議な選びがあることを知りました。息子を産んだことによって、息子がキリストを信じる決断をし、息子は同じ信仰の人と結婚する決断をし、それが祝福されて母も救われたのです。キリストは、すべての人を照らすまことの光です。耳が聞こえなくなった母の心に、息子を通してキリストの光が届いたのです。
2007年クリスマスは間近です。全ての方々の心が開かれて、キリストを心にお迎えして、まことのクリスマスを迎えるように祈って下さい。
まとめ
1,1:9、キリストは、すべての人の救いのために、この世に来られた救主です。キリストの救いに感謝しつつ、2007年クリスマスに向かって行きましょう。
2,1:12,キリストは、心を開く者を救われ、神の子にして下さいます。キリストを心の真ん中に迎え、2007年クリスマスに向かって行きましょう。
祈 り 天の神様、独り子であるキリストが、私たちの心を照らし、人生の道を照らす光の主であることを感謝します。キリストを心の真ん中に迎え、祈りのうちに2007年クリスマスを迎えるように導いて下さい。病気の方に癒しが、困難の中にある方に解決と勝利の道が与えられることを信じます。私たちの家族を守り、救いに入れて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:ヨハネ注解―黒崎、文語略解、榊原、フランシスコ会、LABN,佐藤順。「高等科説教53週・小林宏・日キ教団」、「信仰雑誌より」