クリスマスー心を開いて救主キリストを信じる時 Ⅰテモテ1:12-20 
主の2007.12.16アドベント第三礼拝



クリスマスはイエス・キリストの誕生日です。全世界でお祝いされる目出度い日ですが、キリストは死ぬことを目的に生まれたお方です。子どもが生まれる時に、「この子は死ぬために生まれた」ということを考える親はひとりもいないと思います。親は「元気で誕生し、順調に成長し、心豊かに健やかな一生をおくってもらいたい」という願いをもって、子どもの誕生を待ちます。誕生の時に死は傍らに追いやられ、誰も死のことを考えません。ところで、死ということですが、聖書は「人が一度死ぬことは定まっている」(ヘブル9:27)という厳粛な事実を告げています。人間は70年―80年生きた後に必ず死にます。今までに誰も死を免れた人はいないので、人間は誕生して、生きて、そして死ぬということを、私たちは経験的事実として知り、認めています。でも私たちは子どもが誕生する時には、死ぬ事を考えないようにしています。ところが、キリストは死ぬために、しかも十字架にかかって死ぬという死に方まで決められて誕生されたお方です。クリスマスは、キリスト誕生の目出度い日ですが、クリスチャンである私たちはキリストの誕生を祝うと共に、キリストには十字架の死が定められていたという厳粛な事実を忘れないでおくことが大切です。

本日の聖書はテモテ第一の手紙1:12-20です。15節「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という御言葉によって、クリスマスの目的がはっきりと告げられています。神のメッセージを聴き、祈り、2007年まことのクリスマスを祝う備えをして行くように、と祈り願っています。自分がクリスマスを祝うと同時に、「キリストを喜び、キリストを伝える」ことを願って、家族、友人に声をかけ、共にクリスマスを迎えることができるように祈って、誘って、共に出席して下さい。



内容区分

1、クリスチャンは、キリストの恵みに感謝する者である。1:12-17

2、クリスチャンは、キリストの救いを人々に表し、信じ続ける者である。1:18―20

資料問題

Ⅰ,Ⅱテモテ、テトスは、使徒パウロが若い伝道者テモテ、テトスに、牧会伝道の心得を教えている内容から牧会書簡と呼ばれている。牧会書簡でパウロはキリストを以下のように記している。まことの神(テト2:13)、人間(Ⅰテモ2:5)、ダビデの子孫(Ⅱテモ2:8)、ピラトの時代に生活(Ⅰテモ6:13)、受肉と復活は讃歌でうたわれている(Ⅰテモ3:16)。罪人の救主(Ⅰテモ1:15)、贖いのために自分自身を捧げ(Ⅰテモ2:6)、復活し(Ⅱテモ2:8)、そして再臨されるが、その栄光の日をクリスチャンは喜びをもって待望している(テト2:5)。聖霊については、テトス3:5-6、Ⅱテモテ1:14の二箇所で、他は霊と記している。聖霊はキリストによって父なる神から私たちの心に注がれ、救いを与え、クリスチャンを神の世継ぎとし、永遠の命の希望を与える(テト3:5-7)。聖霊は真理の霊で私たちの心に住み、信仰の遺産を保たせる(Ⅱテモ1:14)。2節「この務めに任じて下さった」、ダマスコ途上におけるキリストの顕現と使命の授与を暗示している(使徒9:15,26:16-18)。13節「あわれみをこうむった」、回心前のパウロは神をそしる者、迫害する者、不遜な者であったが、神の憐れみを受けた。15節「罪人のかしら」、罪人の中の罪人であるとの意。パウロは、自分は小さい者である(Ⅰコリ15:9、エペソ3:8)と言っているが、罪の面ではもっとも大きな罪人であったことを自覚している。20節「サタンに引き渡した」、一時的にサタンの支配下に罪人を引き渡し、その者が悔い改めて主に立ち戻った時に、再び教会に入れるのである(Ⅰコリ5:3-5。照)。



1、クリスチャンは、キリストの恵みに感謝する。1:12-17

わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである(12節)。わたしは・・・あわれみをこうむったのである(13節)。

この手紙を記したのは使徒パウロですが、彼は最初はクリスチャンではありませんでした。クリスチャンを迫害し、自分の手でクリスチャンを縛り上げて牢獄に入れるというキリスト反対派の急先鋒をきっていた人物です。その当時のことを、「わたしは以前には、神をそしる者(神を汚す者)、迫害する者(クリスチャンを捕らえ、牢に入れ、殺すことに賛成していた)、不遜な者(思いあがり暴力を振るっていた)」であった」(13節)と自分の過去を語っています。この手紙を書いた頃、パウロは人生の晩年を迎えていました。パウロは自分の人生を振り返り、「自分はユダヤ教の立場からキリストに反対し、教会を荒らし回るという、愚かな取り返しのつかないことをしていた者であった。だが、その私をキリストは恵みによって救って下さった」ということを、三つの感謝をもって記しています。

第一に、パウロは、キリストによって自分が選ばれたことを感謝しています。

彼は自分が救われたのはキリストの選びによることであり、そのことを「わたしの主キリスト・イエスに感謝する」と言い表しています。パウロは、クリスチャンであるステパノが殺される時に積極的に賛成していました(使徒7:54-60)。クリスチャン撲滅のために、エルサレムからダマスコまで99キロの道を徒歩で1週間歩いて、クリスチャン逮捕に行くという異常な熱心さをもっていました。その彼にキリストが現れて、彼を救いに導いて下さったのです(使徒9:1-9)。彼は「わたしの主」とキリストを呼んでいます。キリストは個人的な救主です。私事になりますが、私が高校生の時、ひとり聖書を読んでいた時に「罪の告白をしなければいけない」という思いになって、部屋の隅で罪を告白した時に「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(ロマ10:10)ということを体験し、それ以来キリストは「わたしの個人的な主」になって下さって、今に至るまで、そしてこれから後も永遠に変ることのない「わたしの主」であることを信じ、感謝しています。

第二に、パウロは、自分がキリストの役に立つ者になっていることを感謝しています。

パウロは「主はわたしを忠実な者と見て、この務めに任じて下さった」と言っています。彼は、救われてから世界伝道に出かけ、また新約聖書に残る13通の手紙を書き記すという働きをしています。彼は「自分は教会を破壊していた者であった。こんなロクデナシな私をキリストは救って下さり、しかも私を信頼し、伝道者として任命して下さった」ということを感謝して、主のために全力を尽くして終生仕えたのです。私たちはそれぞれキリストによって救われ、教会に加わり、主に仕えている者であることを感謝します。2007年クリスマス、本日は午後から親子クリスマスです。来週23日は教会でクリスマス礼拝、クリスマスさんび夕拝があります。24日は行田商工センターを会場にしてクリスマスの集い(祝会)が開かれます。まず皆さんの祈りがあることを感謝します。各部門の奉仕があることを感謝します。教会外の方々の奉仕と助けがあることを感謝します。家族や友達と一緒に出席してくれることを感謝します。今回は新しい方々が多数参加します。そのためにいつも以上に沢山の食べ物が用意されることを信じて、予め皆さんにお礼を言っておきます。新しい方々に皆さんが声をかけてくれることは素晴しい奉仕です。教会員同士で固まらないで下さい。どんどん新しい方々に歓迎を込めて声をかけて下さい。声をかけることによって、イエス様の愛が伝わります。「クリスマスに行って良かった、私に声をかけてくれたから」という温かい思いが残るようになるために、くどいくらいに言いますが、新しい方々に声をかけて下さい。

第三に、パウロは、キリストが自分を強くして下さることを感謝しています。

パウロは、「わたしを強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエス」と言っています。私たちは弱い者です。どんなことでも、主に頼って行かなければ、やがて立ち行かなくなります。キリストは人間として33年半の人生を過ごしましたが、父なる神様により頼んで日々を過ごされました。その表れが祈りです。キリストはあらゆる時に祈っています。

すこしそれますが、当教会の基本は次の三つです。

❶伝道戦略はネームレスによる個人伝道、

❷教会形成はファミリーによる祈りの家族(小グループ)、

❸霊的源泉は祈り、
特に朝の祈りを重視しています。キリストが朝に祈られたように、またあらゆる時に祈られたように私たちも祈って行きます。パウロの手紙にはキリストに倣って祈っている彼の祈りが満ち満ちています。キリストは「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と言われています。祈る時に「聖霊自ら、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのために執り成して下さる」(ロマ8:26-27)という恵みをもって、私たちの心の思いを天の神様に届けて下さいます。私は難しい祈りの要請を受けて、これはどう祈るべきかと思い悩む時がありますが、祈ると、聖霊が私の言葉にならない思いを神様に届けて下さるので、祈ると平安が与えられます。祈りましょう、祈りを通して、主の力が私たちに注がれます。



2、クリスチャンは、キリストの救いを人々に表し、信じ続ける者である。2:15-20

キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世にきて下さったという言葉は確実で、そのまま受け入れるに足るものである(15節)、あなたは、これらの言葉に励まされて、信仰と正しい良心とを保ちながら、りっぱに戦いぬきなさい(18節後半)。

パウロは、キリストは「罪人を救うために、この世にきて下さった」(15節)お方であると紹介しています。この世とは、この世に住む私たちひとり一人のことを指しています。キリストは私のために、あなたのために来て下さった救主です。

ある精神分析医の「『イエスは神の子、救主』は疑いもない真実!」という証があります。

「僕が教会に行くようになったのは家内が行っていたからです。一緒に行くようになって、メッセージを聞いたり、聖書を読んで、少しづつ神様はいるんだな、みたいな気持になってきた。そして、クリスチャンになった家内がドンドン変わって行くのを見て、不思議なんですが、『神様はいる』と実感したんです。聖書を読んでイエス・キリストの行動を分析しました。彼の人生は、十字架に架けられる、この一点に絞られている。あれだけ頭が良くて、危険を察知して柔軟に動ける人間が、最後の場面でその能力を使わない。うまく立ち回れば十字架に架らなくてもすんだんです。あれだけ信者を集めていたのですから、自分の神殿を建てたり、自分の宗派をつくることもできたはずです。でもそうはしないで、時の権力者にぶつかり、敵に回して、最終的に十字架に架けられてしまいます。当時、権力に楯突けば十字架に架けられることは目に見えています。そんなこと、中学生だってわかることです。でもイエス様はそれをあえてしました。十字架に架けられたのではなく、自分から十字架に架った。初めから十字架に架るつもりでこの世に来たのだな、とわかったのです。イエス様は殺される前の晩、『十字架を取り除いて下さい』と祈っている。何が起きるかを知っていた。殺されることを知って、そこへ歩いて行った。こんなこと、ふつう人間はしません。人間の範囲を超えている。人間でないのであれば、自分で『神の子』と言っているのだから、素直に信じるしかない。イエス様が十字架に架けられた時、弟子でさえも逃げました。イエス様を殺した権力者ばかりでなく、弟子も裏切ったのです。結局、十字架の前には正しい人は一人もいなかった。神様は人間がこんなふうに行動するのを最初から知っていたはずです。しかし、それでもなお、神様はイエス様を十字架に架け、罪深い人間に復活という新しい希望を与えました。ここに神様の愛を感じました。これに気づくと『イエスは神の子、救主!』ということは少しの疑いもない真実になります。もう預言がどうの、処女降誕がどうの、といったことはどうでもよくなりました」。

この方の奥さんは「神は、悔改める者を赦して下さる」ということを知り、本当にうれしくなり、やがて洗礼を受けました。この方も神を信じ、キリストを信じ、洗礼を受けています。

「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世にきて下さった」という御言葉は真実です。パウロは自分は救われたことの意義を「わたしが今後、彼(キリスト)を信じて永遠の命を受ける者の模範となるためである」(16節)と言っています。18節では「りっぱに戦いぬきなさい」との励ましがあります。立派に戦わないと「信仰の破船」をしてしまう。もし「信仰の破船に会った」場合には、サタンの手に引き渡すと言われています。これは教会から離れて、サタンが支配するこの世に一時的に引き渡されることになってしまうという意味です。だが彼らが悔い改めて帰ってくれば、また再び教会生活ができるということをも含んでいる処置です。私たちは何があろうとも、キリストに結びついて行く、キリストに縋り続ける、キリストに祈り続けて行く時に、物事すべては益に変わって行くことを体験します。キリストが自分の罪を赦し、自分が信じ続けることによって他の人を励まして行く模範になって行くことができます。

作家で、タイツをはいてテレビに出ていた志茂田という直木賞作家がいました。彼は愛人をつくり、家を出ていった。奥さんは、宣教師の家で英語を習っていたが、主人が愛人のもとに走り、怒りと嫉妬でいっぱいであったが、「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」(マタイ11:28)というキリストの御言葉を聞いて、それが心に沁み込んできた。クリスマスの時に家庭集会に導かれたことをきっかけに、ふたりの子どもを連れて教会に出席し続けた。その頃、必死になって、唇をかみ締めて祈っていたので、下唇右の内側に大きなしこりができて、手術をしてシコリをとったが、いまでも下唇右の半分は感覚がないとのことです。ある日、「もう女性のことで悩まなくていい」と神様が自分に言われるという不思議な体験をした。すると、スーッと平安になった。これからはイエス様を主人として、イエス様に仕えて行こうと心が定まった。それから洗礼を受けたのですが、受洗日には主人が立ち会ってくれた。もっとも愛人の家から来て、終るとまた愛人の家に帰っていったそうです。イエス様は、私たちが喜んで元気にしていることを望んでおられるということを知り、それから奥さん自身が明るく変わって行ったので、主人が変わって、家族旅行に行くようになった。洗礼を受けてから20数年主人と子どものために祈ってきた。長男はクリスチャンとなり、心を病んだ人や障害をもった人々と共に花や無農薬野菜を育てる働きをしています。次男は伝道師の按手を受けて、渋谷でドロップアウトした青少年に伝道をしています。奥さんがおっしゃるには、「あとは主人だけです。神様がどんな御業を現して下さるか楽しみにしています。以前ですが、主人がまだ銀座で飲み歩いていた頃、主人の話を聞いてクリスチャンになった人が何人もいたそうです。銀座のバーのママは熱心なクリスチャンになって、お店をたたんでしまいました。主人は自覚していなかったでしょうが、結果的に伝道したのです。銀座のバーなどなかなか私たちが行ける場所ではないので、イエス様はすごいことをなさると思いました。主人の顔が優しく変り、タバコを吸わなくなり、お酒もだいぶ量が減ってきました。少いずつ変えられているのを感じます」と。

イエス・キリストを信じて生まれ変る、そしてキリストに忠実に従い続けて行く時に、私たちを通してキリストの素晴しさを伝えることができます。志茂田夫人は筆舌に尽くし難い苦労をしましたが、キリストを信じて子どもが救われ、ご主人も救いの過程にあります。人間的には愛人問題という解決し難い問題が、キリストの恵みによって見事に良い方向に変えられています。今朝、問題を抱えているなら、それはキリストの力が働く時になることを信じて、主の御名によって祈りましょう。病気の方は、キリストの癒やしの力が現される時になることを信じて、主の御名によって祈りましょう。



まとめ

1、12節、13節後半、キリストの恵みに感謝を捧げましょう。私たちはキリストの愛の選びを受けて救われています。キリストの役に立つことができます。キリストによって強くされますが、強さの源泉は祈りです。特にキリストが朝に祈られたように、朝の祈りを重んじて行きましょう。

2、15節、18節後半、キリストは罪深い私たちのために死んで下さったお方です。私たちは、キリストを信じて生まれ変った者の模範となり、信仰を立派に戦いぬいて行く者となるように祈りましょう。



祈 り  天の神様、独り子イエス・キリストによって救われていることを感謝します。間もなくクリスマスがやってきます。キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世にこられ、私たちを十字架によって罪から救い出して下さった救主であることを感謝します。私たちは神の子にされていることを喜び、感謝します。クリスマスのシーズン、ひとりでも多くの方にキリストを伝えることができるように私たちを用いて下さい。午後の親子クリスマスを祝福して下さい。23日クリスマス礼拝、クリスマスさんび夕拝を祝福して下さい。24日行田商工センターおけるクリスマスの集い(祝会)に大勢のノンクリスチャンが参加します。彼らを心を込めて歓迎し、キリストの救いを受けて行くように祈ります。十字架に架り、私たちを救うために来られた救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:テモテ注解―黒崎、フランシスコ会、バークレー、LABN、文語略解。「ときのこえ・クリスマス特集号・救世軍本営」