闇に輝くキリストの光 新約聖書ヨハネ福音書1:4-5
キリスト降誕2007年12月24日(月・祝日)クリスマスの集い 於:行田商工センター
この言(キリスト)に命があった。そしてこの命は人の光であった。光(キリストは)は闇の中に輝いている。
そして、闇はこれに勝たなかった。(ヨハネ福音書1:4-5)
クリスマスおめでとうございます!
ところでクリスマスとは何でしょうか・・・。クリスマスというとサンタクロース、プレゼント、フライドチキン、クリスマスツリー、トナカイ、クリスマスディナーショーなどを連想する方々が多いと思います。クリスマスとはクライスト(キリスト)とマス(礼拝、ミサ)という言葉から出来ていて、キリストを礼拝するという意味です。今から2007年前に、ユダヤのベツレヘムの馬小屋に、人類の救主として誕生されたイエス・キリストを祝い、イエス・キリストを礼拝する日がクリスマスです。
ところで、皆さんは何も見えない、真っ暗闇の中にいたという経験がおありでしょうか。学生時代、箱根でキャンプがあり、先輩と共に、日が暮れてから箱根の森の中をキャンプ場へと歩いて行きました。杉並木の間を縫って細い道があり、街路灯はなく、上のほうは杉の大木が重なり合って、月明かりも星の光も差し込んできません。隣を歩いている先輩の姿も定かに見えない文字どおりの漆黒の闇でした。「先輩うたいましょう」と声をかけ、聖歌を歌って元気をつけながら細い道を踏みしめながら歩き続けて40分、暗闇の中に光が見え、「先輩、あそこが光っている」と言いつつ、二人とも走って、そこへ行ってみると、40ワットぐらいの裸電球が風に揺られてキャンプ場の入り口を指し示していました。暗闇の中で見た光を見た時に、私も先輩も心の中になんとも言えない安心と温かさを感じたことを思い出します。
闇に関連して、「一寸先は闇」という諺があり、これから先のことはどうなるのやらサッパリわからないという意味で使われています。私の目の前に一枚の紙をおけば、皆さんのことは全く見えませんし、手元に何があるのかも分りません。私たちの人生も、今は何でも見えているようですが、実際は一秒あとに何が起るか全く分らないというのが現実です。土曜日の日、上野公園に行きましたが、冷たい地べたに座って300名のホームレスの人々が礼拝の時を待っていました。最初の一時間はキリストに礼拝を捧げ、その後に私たちの教会の方々が握ったおにぎりを配り、また温かいスープを提供する給食活動をしました。どうしてホームレスになったのか・・・社会的地位があったのにリストラされた人、家族に背かれた人、ギャンブルなどで借金を背負った人、保証人になって自分の家や財産を失った人など様々な人々が、路上で暮しています。かつては普通の生活をしていた人が、この寒空の下で路上生活をしている姿を見る度ごとに、まさに一寸先は闇ということが、人生の現実であるということを実感します。
「一寸先は闇である」と言いましたが、実は、今、この現在、この瞬間にも人生の闇に包まれて苦しんでいる人々がいます。病気、経済の悩み、家族の問題、いじめ問題、ひとりぼっちの苦しみ、老後に対する先行き不安など、振り払おうとしてもなかなか消えない心を覆う黒雲のような不安があります。そして誰もが迎える死という闇があります。
人生の闇ということを考えると心が暗くなります。どのようにして闇を追い払うことが出来るのだろうかということを考えますが、有効な手立てがないというのが私たちの悩みです。この悩みに対し、「光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」という喜びの知らせが告げられています。光は救主イエス・キリストを指しています。私たちの心を様々な闇が覆っている、また一寸先は闇のようであるという、先行きに対する不安がある。だが、この闇を打ち砕き、心に生きる希望と喜びをもたらすお方がおられる、それはイエス・キリストである、ということを教えている希望の御言葉です。イエス・キリストは今から2007年前にユダヤ(現在イスラエル)のベツレヘムに生まれました。キリストの到来を聖書はこのように告げています、
「暗闇の中に住んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」
日本は政治的に混乱しています。原油高騰による物価高で生活が苦しくなっています。長い間にわたって営々と働き、老後の年金のために納めていたお金がどこかに行ってしまうという信じられないような出来事が起きています。親が子を殺し、子を親が殺しています。いきなり銃を乱射して人を死に至らしめている事件などなど大きな暗闇が人の心を覆い、社会を覆っています。さらに個人的に私たちを苦しめる闇の力があります。聖書は、「光は闇の中に輝いている」と宣言し、キリスが闇を打ち砕くお方であることを告げています。
病気という闇があります。私たちは随分と健康に気を使い、病気予防をしていますが、病は不意に襲ってきます。個人的な事ですが、一年ほど前、書斎で聖書を読み、原稿を書いていたのですが、突然頭がクラクラして、目の前のものが回転しはじめ、救急車に乗って入院ということになりました。幸いにも神様の憐れみによって、検査は異常ないとのことで四日目に退院できました。キリストの周りには大勢の病人がやって来ていますが、キリストはひとり一人の病気を癒しています。
経済という闇があります。働いても働いても充分な収入が保証されない。学歴、資格をもっていても働き口がないという厳しい現実があります。キリストは「空の鳥を見なさい、野の百合を見なさい」と言われ、空の鳥、野の百合を守る神様が、鳥よりも百合よりも尊い存在である私たち人間を必ず守って下さると約束されています。
孤独という闇があります。例えば少子高齢化ということで、独り暮らしの高齢者が増えて行きます。話し相手がいないという淋しさを抱えている人が大勢います。便利屋さんという仕事の中に高齢者と遊ぶ、話を聴くという仕事がある時代になっています。孤独の結果、引きこもり、気持が塞ぎこんで鬱という症状が現れます。キリストは誰からも相手にされないザアカイという人の家に泊まり、その孤独を癒やしています。
人間関係の闇があります。例えばいじめがあります。一つ屋根の下で生活を共にしてはいるが親子は断絶という現実があります。キリストは病気のために社会から追放され、墓場で暮らすホームレスの人を尋ね、彼を回復させ、社会復帰に導いています。
罪という闇があります。誰にも言わないで罪の行いを心に隠しているということがあります。罪を持ったままでいると心が痛みます。罪を持ったままでいれば、その行き着くところは死であり、死んで地獄に行くことになります。キリストは「わたしはあなたの罪を赦す」と言われました。そのために私たちの罪の罰である死を背負って、罪の身代りになって十字架に命を捧げて下さいました。
死の問題という闇があります。人は死んだら何処へ行くのでしょうか。人生70年か80年で全てが終ってしまうのでしょうか。キリストは人の罪の身代りになって、一度は十字架の上で死にましたが、三日目に死より甦って永遠に生きておられる救主です。「わたしはよみがえりであり、命である」と言われるキリストを信じれば、私たちに永遠の命が与えられ、天国に行くことができます。
「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」・・・闇が濃ければ濃いほど、光のありがたみが分ります。闇の中に光が照る時に、闇は消えて行きます。私たちに人生を覆う様々な闇がありますが、キリストは闇を追い払い、人生を明るくして下さる救主です。キリストは病気を癒し、経済の必要を満たし、孤独な人の友となり、人間関係の溝を埋め、十字架によって罪を赦し、復活の力をもって、死んで終りではない永遠の命を与えて下さる救主です。キリストが人間を苦しめる闇を追い払い、闇を打ち砕いて下さいます。
ここで注目していただきたいのは、「光は闇の中に輝いている」ということです。「輝いている」というのは、今も輝いているということです。かつてキリストがいて、キリストの光が輝いていたことがあった、というのではないのです。キリストは今も輝き続けている命の光です。キリストは2007年前に誕生され、人間として33年半の人生を生きて、最後に人間の罪の身代りになって十字架の上で死んで下さいました。なぜなら「罪の支払う報酬は死である」と言われているからです。人間は必ず死にますが、それは人間が罪を持っているからです。罪を持ったままでいれば人間は死んで神様の審判を受けて、永遠の滅びという地獄の中に投げ込まれます。「しかし、神の賜物はキリスト・イエスにおける永遠の命」です。キリストは神の御子でしたが、クリスマスの日に人間としてこの世に誕生され、33年半の人生を生きて、罪以外のあらゆる人間の苦しみを体験されました。最後に罪がないのに、人間の罪の罰を引き受けて、罪の身代りになって十字架の上で死んで下さったのですが、三日後によみがえって永遠に生きておられます。ですからキリストを信じれば罪が赦され、永遠の命が与えらます。きょうも「光は輝いている」のです。キリストは生きているまことの救主です。
水野源三さんという方は10歳の時に、赤痢によって高熱が続き、命は助かりましたが、口が利けなくなり、体の成長がとまり、寝たっきりになってしまいました。大きな大きな闇がご両親を覆い、源三さん自身も、自分で動くことができず、食べること、トイレのことなど全部人の世話になって生きるという重い厚い闇に人生が覆われてしまったのです。しかし「光は闇の中に輝いている」のです。ひっそりと家の奥に隠れるようにして生きていた源三さんの所に、その町の牧師さんが聖書を届けてくれたのです。母にページをめくってもらいながら、聖書を読み進んで行く内に、源三さんはキリストを信じるように導かれます。この世にむだな人はない。みんな神様が命を与えて下さっているのだ。キリストは全ての人を愛されて、十字架で罪を赦し、復活によって永遠の命を与え、希望をもって生きる力を下さる救主であるという信仰を得ます。そしてキリストから知恵を与えられて、五十音表を母親が指して行く、例えば「愛」という言葉を伝える時に、母親が「あ」を指した時に瞬きをする、「い」を指した時に瞬きをする。それをつなげて「愛」という言葉を母親が書き取って行くという途方もない作業をしながら、源三さんは自分の意志を伝え,詩を作って行きます。源三さんのご両親にもキリストの光が差し込み、信仰を持ちます。その後、源三さんは家族の協力を得て、瞬きで自分の意志を伝えながら4冊の詩集を発行し、多くの人々にキリストを信じる喜びを伝え続け、47歳で天国に帰って行きました。(水野源三詩集(1)-(4)、アシュラムセンター発行・電話047483―3-4030)
「光は闇の中に輝いている」・・・キリストは私たちの人生を照らす命の光です。朝、目覚めと共に雨戸を開ける、あるいはカーテンを開ける、すると朝の光が部屋いっぱいに差し込んできます。しかし、雨戸やカーテンを開けなければ暗いままです。キリストは言われます、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中に入って、彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。2007年クリスマスの日、私たちひとりひとりが自分の心の扉を開けるなら、キリストが心の中に入り、私たちを苦しめる全ての闇を追い払い、私たちの人生は新しくなります。光であるキリストを心に迎えましょう。ではお祈りをささげます。
祈 り「天の神様、クリスマスは救主イエス・キリストがこの世に来られた日です。キリストは私たちの人生の闇を取り払い、闇の原因である罪を十字架によって赦し、永遠の命を与えて下さる救主であることを知らされ、感謝します。私の心の扉を開き、キリストを迎えます、キリストによって闇が追い払われ、新しくなることを信じます。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン」。