我らはキリストの大使であるー主に遣わされて出かけよう
ヨハネ20:19-23 2008.1.1(火・元旦)初詣礼拝
2008年を迎え、新年おめでとうございます!
日本では元旦に初詣と称して神社仏閣にお参りに行く習慣があります。元旦(旦は太陽が地平線上に現れる時。よあけ)というのは一年最初の日である元日の朝を意味していますが、今では一月一日を元旦と呼んでいます。初詣は日本では神仏を拝む初参りの日ですが、初参りに続いて二回目、三回目があるのかと言えば、何故か大体一回で終わりになって、来年になると初詣ということを繰り返します。クリスチャンは、クリスマスを祝い、新しい年を迎えることができたことを感謝し、希望をもって前進するように、年の初めである元旦に礼拝を捧げます。そして一年53回の日曜礼拝を中心にして、教会の諸集会に継続して出席して行きます。クリスチャンが年の初めの元旦に霊とまことを尽くして、偶像ではなく生きている真の神様に礼拝を捧げる(ヨハネ4:24)、それが広く知られるようになり、初詣は教会で行うという日が到来することを信じ、祈って、伝道して参りましょう。」
本日の聖書はヨハネ福音書20:19-23です。21節で、イースターの日に復活されたイエス・キリストは、弟子達に「わたしはあなたがたをつかわす」と言われ、伝道の使命を授けています。復活後、キリストは40日間地上にいて弟子達に神の国の奥儀を伝え、エルサレム・オリーブ山から雲に包まれ天に帰って行かれました(使徒1:9)。昇天直前に「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ!」(マルコ16:15)と命令され、「伝道のために出かけて行き、すべての国民を弟子とし、信じる者にはバプテスマ(洗礼)を授け、教会につながり、聖書に従って生きるように教えよ」(マタイ28:19-20)と弟子達に教えています。キリストは昇天後10日目に天より聖霊を送って弟子達に伝道の力を与え、エルサレムに教会が誕生し、それから約2000年にわたって伝道が継続され、全世界に教会が増え広がっています。
昨年は「我らはキリストの大使である」(Ⅱコリント5:20)ことを自覚し、「キリストを喜び、キリストを伝える教会」となるために、私たちひとり一人が神の国を代表するキリストの大使になろう、ということを目標にしました。本年は「キリストを喜び、キリストを伝える教会」となるために、私たちがキリストの大使として、出かけて行き、キリストの十字架と復活を伝える年となるように、祈って、出発いたしましょう。
内 容
*我らはキリストの大使であるー主に遣わされて出かけよう!20:19-23
資料問題
19節「安かれ(平安あれ)」、21,26節にも出て来る御言葉で、最後の晩餐で弟子達に約束された「平安」(14:27)である。当時の人々は「平安あれ」と挨拶し合ったが、ここでは単なる挨拶以上の意味を持っている。この平安は心の安らぎだけではなく、弟子達が世に打ち勝つことの保証である(16:33)。21節「つかわす」、13:20、
17:18参照。キリストは全世界に福音を広める使命を弟子達に与えている(マタイ28:19-20)。22節「息を吹きかけ・・・聖霊を受けよ」、弟子達は聖霊を受けて伝道する力を得るのである。聖霊はキリストを証しする(15:26-27)。23節「罪の赦しの権能」、マタイ16:19,18:18参照。
*我らはキリストの大使であるー主に遣(つか)わされて出かけよう。20:19-23
「安かれ(平安あれ)。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(21節)
キリストは金曜日に十字架の上で人間の罪の身代りになって一度は死にましたが、三日後の日曜日に死を打ち滅ぼして復活され、弟子達の所に現れて、「安かれ(平安あれ)!」(19節)と呼びかけておられます。この短い言葉にキリストの愛がこもっています。キリストは金曜日の明け方に逮捕され、朝の9時にゴルゴタの丘で十字架に架けられ、午後3時に息を引き取り、夕方には遺体に布を巻いて岩をくり抜いて造った墓に安置されました。弟子達は自分たちの今後はどうなるのであろうかと心配しつつ、ひっそりと部屋に閉じこもっていました。そこに復活したキリストが姿を現し、「安かれ」と呼びかけておられるのです。「安かれ」とは、最後の晩餐でキリストが、「わたしは平安を残して行く。わたしの平安をあなた方に与える。だから心を騒がせるな、また怖じけるな」(14:27)と約束されたあの同じ「平安」です。キリストの「安かれ」と言う愛のこもった呼びかけと共に、そしてキリストがわざわざ十字架上で手に打ち込まれた釘跡、槍で刺された脇腹をお見せになったので、「弟子たちは主を見て喜んだ」(20節)とあります。キリストの愛に充ちた「安かれ」という御言葉によって弟子達の心から恐れが取り去れ、喜びが与えられています。喜びをもって主を見つめる弟子達に対し、再び「安かれ」(21節)と言われ、「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(21節)と言われ、伝道という尊い使命を彼らに与えています。
2008年の年頭に、本日のヨハネ20:21の御言葉から主の御心を教えていただきましょう。
第一に、キリストは私たちを見捨てず、私たちから離れることのない愛の主です。
十字架の前に、弟子達は「キリストに死ぬまでついて行きます」と言ったのですが、人間の決心は脆いもので、すぐに約束を破り、「キリストを知らない」と言って、師であるキリストを裏切ってしまいます(マルコ14:50)。復活されたキリストは弟子達の所に急行し、「安かれ」と呼びかけ、彼らに立ち直る機会を与え、伝道の使命を与えています。キリストは「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されています。ところが私たちの方でキリストから離れ、キリストを裏切ってしまってしまい、教会から離れてしまうことがあります。しかし主は「安かれ」と呼び続けておられます。正宗白鳥(1897-1962)という作家がいました。彼は18歳の時に洗礼を受け、朝早く起きて2時間聖書を読むほど信仰生活に励んだが、教会から離れてしまった。83歳になって死を考え、植村環牧師の導きを受けるようになった。膵臓ガンとなり、病室で植村牧師より「見ずして信ずる者は幸いなり」という御言葉を聞き、「私は単純になりました。(キリストを)信じます、従います」と答え、牧師に手を握って祈ってもらい「アーメン」と唱え、83歳で再びキリストを信じ、平安の内に召されて行った。キリストは私たちを見捨てず、私たちから離れることのない愛の主です。
第二に、キリストは私たちの所に来て下さる愛の主です。
恐れ、悩んで戸をと閉ざしている弟子達の所にキリストは来て下さいました。キリストは「わたしの所に来たら助けてあげよう」とは言わず、ご自分のほうから相手の所に足を運んで下さる主です。
中坊弁護士は弱い人を救済する弁護をする人ですが、「例えば公害などで苦しんでいる人の弁護活動をするために、現場に足を運ぶ」ということを実践し、その人の立場に立って考え、裁判の場で実状を訴え、よい判決を引き出しています。
キリストは、人間が罪に苦しんでいるのを傍観しているのではなく、わざわざ人間となって、天から私たちの所に来られ、人間のもつあらゆる苦しみを体験されています。病の人々に手をおいて、病の痛みをご自分の身に引き受けて癒やしを与えています(マタイ8:16-17)。レギオンの悪霊に憑かれ社会から捨てられ、墓場でホームレスの暮らしをしている人の所に足を運び、彼を癒やし、社会復帰させています(マルコ5:1-20)。友のないザアカイの家に泊まり、彼の孤独を癒やし、救いを与えています(ルカ19:1-10)。死という苦しみの中にある人間に対して、「ラザロよ、出て来なさい」という一声をもって死人を甦らせ、生命の主であることを示しています(ヨハネ11:43-44)。罪に苦しみ、死んで地獄に行く人間を救うために、私たちの罪の身代りになって十字架に命を捧げ、三日後に復活され、罪の赦しと永遠の命の祝福を下さる救主です(Ⅰコリント15:1-11)。
第三に、キリストは「出かけて伝道せよ」と言われ、私たちを信任し、遣わして下さいます。
21節の御言葉を読みます。「父がキリストを遣わされたように、キリストもまたが私たちを遣わす」と言われています。
キリストは天の父に遣わされて私たちの所に来られ、失われた人々を尋ね求めて、自ら人々の所に足を運んで伝道されました。讃美歌に「食するひまも打ち忘れて 虐げられし人を訪ね 友なき者の友となりて 心くだきしこの人を見よ。全てのものを与えし末 死のほか何も報いられで 十字架の上に上げられつつ 敵を赦ししこの人を見よ」と歌われているように、人々の救いのために奔走され、最後には私たちの救いのために十字架にかかり、罪の赦しの道を開かれました。しかし、キリストは死んで終りではなく、復活され、信じる者に永遠の命を与えて下さるまことの救主です。キリストに遣わされて、私たちもキリストの福音を人々に届けるために、人々の所に出かける年となるように祈りましょう。
*出かけることは先ず祈りから始まります。いま目を閉じて、この人に今年こそキリストを信じてもらいたいという人を示していただき、その名前を忘れぬように書き留めて下さい。そして、その人に伝道できるように日々に祈って下さい。
*現代は携帯メール、Eメールを通して連絡が取れます。祈りをもって安否を問い、連絡を絶やさぬようにして行きましょう。
*手紙があります。特に手書きの手紙は相手の心に届く素晴しい方法です。
*電話があります。直接に相手と話ができ、祈ることもできます。
*相手の所に直接に出かけることは、顔と顔を合わせてキリストを伝え、祈ることができる素晴しいチャンスです。
キリストは伝道の主です。12月24日にクリスマス祝会に80名ほどの新しい方々が出席しました。12月30日夜の礼拝にそのうちの一人の方が教会に来られ、その方に、個人的に直接キリストの十字架と復活を伝道する機会が与えられました。これはキリストを求めている人々がいるということの印です。待っていないで、こちらから相手のために祈り、働きかけて行きましょう。
私が豊留先生に教えてもらったことは、伝道とはクリスチャンがキリストを喜び、キリストきちがいになるという一事でした。私も皆さんもクリスチャンです。キリストを求めて下さい。キリストの素晴しさで心が充たされ、キリスト一筋、キリストきちがいになって行きましょう。金太郎飴というのがあり、飴のどこを切っても金太郎の顔が出てきます。私たちのどこを切ってもキリストが出てくる、キリストを語る者となるように、キリストきちがいにならせていただきましょう。先週、諏訪・山本憲治・敦子師からの手紙を倫夫先生が読んでくれましたが、その中に「私たちは伝道の初心、開拓初期の気持をもって新しい年を始めて行きたい」と言われているのを聞いて、「そうだ、私も伝道の原点に立ち、キリストに倣って、キリストに遣わされて伝道しよう」という思いを与えられました。諏訪では新年から二人の方がキリストを伝える個人伝道の学びを始めるとのことです。
祈 り
天地の主である神様、独り子イエス・キリストによって救われていることを感謝します。キリストに遣わされて、キリストの大使として、人々の所へ出かけて伝道できるように導いて下さい。キリストを喜び、キリストを伝える教会として前進して行くように、神の聖霊が教会全体を導き、救われる者を日々に与えて下さい。救われる者の中に、私たちの家族を加えて下さいますように心からお願いします。伝道の主であるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。