主の愛の期待に応えよう ヨハネ21:15-19     主の2008.1.6礼拝



イギリスの文豪バーナード・ショー(1856-1950)は「人間という者は経験(Experience)によって生きるのでなく、期待(Expectation)によって生きる者である」と言っています。人は誰かに期待をかけられています。親は自分の子どもが真っ直ぐに成長して行くことを期待し、学校の先生は生徒が一生懸命に学ぶように期待しています。私は神学校関東夜間校で教えていますが、伝道者コースと教会奉仕者コースがあります。伝道者コースの生徒には、卒業して伝道者として主に仕えて行くように期待し、教会奉仕者コースの生徒には、卒業後それぞれの所属教会の牧師を助ける教会奉仕者となることを期待しながら教えています。私たちにとって、誰かに期待されているということは素晴しいことです。期待されていることによって、私たちに生きるという力が与えられます。

本日の聖書はヨハネ21:15-19です。この個所に、主イエス・キリストが私たちに対する大きな期待をかけていることが記されています。人は誰かに期待されることによって「やる気」を起こし、一生懸命になります。時には、過大な期待によって、期待されたほうは大きなプレッシャーを感じて、萎縮してしまうことがあります。キリストは私たちに大きな期待をかけていますが、それは人にプレッシャーを与える期待ではなく、愛に裏付けられた期待であり、私たちを励ます期待です。本年も「我らはキリストの大使である」(Ⅱコリンと5:20)ことを心に刻み、「キリストを喜び、キリストを伝える教会」として前進して行くために、主のメッセージを聴き、主に仕えて行く思いを新たにして祈り、今週の歩みへと出発して参りましょう。



内容区分

1、キリストは、「あなたはわたしを愛するか」と私たちの気持を確かめて下さる。21:15,16、17各前半

2、キリストは、「あなたはわたしを愛するか、それならば、わたしの羊を飼え」と命じられる。21:15、16,17各後半

3、キリストは、「わたしに従って来なさい」と言われ、従うように決断を促して下さる。21:18-19



資料問題

キリストは、三度ご自分を裏切ったペテロに(18:17,25,27)、三回の愛の告白を求める。かつてペテロの信仰告白を受けて、教会を立て、神の国のカギを与えたように(マタイ16:17-19)、ここではご自分の羊の群れである信徒を委ねている。ペテロは漁師であったが(マタイ4:19、マルコ1:17、ルカ5:10)、キリストの羊の群れの牧者となるのである。牧者(羊飼い)は羊を守り、導く者。イスラエルでは、主はわが牧者、神様こそ私の羊飼い、と告白されている(創世記49:24、詩篇23:1、イザヤ40:11、エレミヤ31:10、ホセア4:16)。19節、キリストはペテロの十字架刑による殉教の死について述べている(Ⅱペテロ1:14-15)。



1、キリストは、「あなたはわたしを愛するか」と私たちの気持を確かめて下さる。21:15,16,17前半

「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」(15節)、「ヨハネのシモンよ、わたしを愛するか」(16節)、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」(17節)

キリストはペテロに向かって「ヨハネの子、シモンよ」と呼びかけておられます。これはペテロの本名です。ペテロの弟アンデレはキリストを信じてから、直ちに兄であるペテロに「わたしたちはキリスト(救主)に出会った」(1:41)と告げています。ペテロがアンデレに連れられてキリストの許に来た時に、キリストは慈しみの目をもってペテロを見つめ、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをペテロ(岩の意)と呼ぶことにする」(1:42)と言われ、それ以来、彼はペテロという名前で呼ばれてています。キリストに出会ってからペテロはキリストの弟子になり、3年半の間、伝道チームの一員として活動していました。ところがキリストが十字架に架る直前に、キリストを三度裏切るという大失態を演じ、他の弟子達と共に逃げてしまったのです。弟子達は一度はキリストを捨てて逃げましたが、気を取り直して密かに集まっている所に、十字架の死後三日目によみがえったキリストが現れ、弟子達は喜びに充たされます(20:19-20)。その後に、きょうの聖書個所の出来事があったようです。21:1-14には、ガリラヤ湖に漁に出かけ、一匹の魚も獲れずにいる弟子達に、キリストが「舟の右のほうに網を下ろせ」と命じて153匹の魚を獲らせ、陸に上がった弟子達に朝食を用意して食べさせ、弟子達がガリラヤの湖畔でゆったりしている情景が描かれています。

お腹がいっぱいになり、主を中心に皆がリラックスしている時に、キリストは「ヨハネの子シモンよ」とペテロに呼びかけておられます。ペテロは、キリストの弟子になる時に「ヨハネの子シモン。あなたはペテロと呼ばれる」と言われたことを思い出したことでしょう。またペテロが「あなたこそ生ける神の子キリストです」という信仰告白をした時に、キリストが「バルヨナ(ヨナの子)シモン、あなたはさいわいだ」と彼の本名で呼びかけてくれた事が心に浮かんだことでしょう(マタイ16:15-17)。キリストが「ヨハネの子シモンよ」と呼びかけたことによって、救われた時の喜び、皆を代表してキリストを告白した時の感動がペテロの心に満ち溢れたことと思います。

キリストは言われます、「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と・・・。「あなたは死ぬ覚悟でわたしに従うと言った。皆が躓いても、あなたは躓かずに従いますと言った。ほかの誰よりも先にわたしのことを神の子キリストと告白した。そうした熱心さをもって、従い、仕える心をもって、あなたはわたしを愛するか」という問いかけです。キリストは「ペテロよ、あなたはわたしを裏切った」と責めていません。「あなたは口で立派なことを言っているが、結構浮き沈みの多い信仰でないか」とも言っていません。「わたしに対する気持は変らないか。わたしについてくるか。わたしを愛しているか」と彼に訴えかけています。それは他の弟子達にも問いかけている内容です。

私たちはどうでしょうか。キリストにどこまでも従って行くことを祈り願っていますか。キリストは、「従え」と言われると同時に、従う秘訣として「わたしにつながれ」(ヨハネ15:5)と言われます。何があってもイエス様が一番ですという信仰をもって従って行けば、キリストが私たちを支え、私たちを導き、私たちを助けてくれます。私事ですが、私を導く聖句の一つに「あなたはわが神です。恵み深い、御霊(神の聖霊)をもって、わたしを平らかな道に導いて下さい」(詩篇143:10)というダビデの祈りがあります。ダビデは羊飼いから身を起こし、イスラエル第二代の王になり、後世の人々から理想の王として仰がれています。ところが彼の生涯は、時には王の権力を笠に着て、信仰を踏み外して部下を死に追いやるという残酷なことをしたり、子どもたちの不道徳によって家庭が乱れたり、実の子にクーデターを起こされて、裸足で逃げて行くとなど波乱に満ちた人生をおくります。これでも神を信じていると言えるのかというような、信仰とは程遠いような危機の多い人生をおくっています。しかし、ダビデの良いところは、失敗に気づいた時、あるいは預言者から罪を指摘された時に直ちに悔い改めて神に赦しを乞い、時には罪の結果を甘んじて受け入れて悔い改めの態度を表していることです。とにかく、ダビデはひたすら主につながり、必死になって信仰の路線を歩み続けます。私も失敗の多い者です。でもダビデが「あなたはわが神です。恵み深い、御霊をもってわたしを平らかな道に導いて下さい」と祈ったように、「私はイエス様を一番にして、2008年もイエス様を愛する心をもって、仕えて参ります。恵み深い御霊をもって平らかな道に導いて下さい。イエス様に従う道を歩ませて下さい」と祈り、イエス様に縋って信仰の日々を進んで行こうと願っています。

キリストの「あなたはわたしを愛するか」という問いに「はい」と答えて、主に従って行きましょう。

2、キリストは、「あなたはわたしを愛するか、それならば、わたしの羊を飼え」と命じられる。21:15,16,17後半

「わたしの子羊を養いなさい」(15節)、「わたしの羊を飼いなさい」(16節)、「わたしの羊を養いなさい」(17節)。

キリストは「あなたはわたしを愛するか」と尋ねておられますが、これは相手を問い詰めるような言い方ではないと思います。この言葉はペテロを慈しみながら、「ペテロよ、あなたはわたしを愛しているだろうね」と言った意味にとれます。四角四面に過去の失敗を責め、そうしたことを反省して、二度と失敗のないように計画を立てて完璧に従い、わたしを愛していることを表しなさい、という訊問ではないはずです。キリストは「ペテロよ、いろいろなことがあったし、これからもあるだろう。だが、あなたがわたしを愛していることは分っている」という意味を込めて言っています。ペテロはキリストの愛を感じながら「主よ、わたしの気持はご存知のはずです」という確信をもって答えています。キリストはペテロの言葉を受けて、「わたしの子羊を養いなさい」と命じています。子羊、羊とは教会に集う人々を指しています。復活されたキリストは天に帰り、聖霊がおくられて地上に教会が誕生するようになる。教会が誕生したら、「ペテロよ、あなたはわたしを愛するのか、それならば、わたしの子羊を養いなさい」という使命を与えています。養い、飼いなさいと言うのは、教会に集う人々に神の言葉を伝えて、彼らを霊的に養い、彼らの面倒を見るようにと言われているのです。

ペテロは、もともとは漁師をしていたふつうの人です。彼に教会を管理する力がある、あるいは聖書を隅から隅まで知っているという聖書学の知識があるから、教会を牧会するように命じられているというのではありません。キリストが教会の働きをする条件としてあげているのは「キリストを愛する」という一事です。キリストは同じ質問を3回してペテロの決意を確かめ、彼に教会の働きをするように命じています。ペテロはキリストが捕らわれた時に三度も「私はイエスを知らない」と裏切った者です。それでもなおキリストはペテロに大きな期待をかけて、使命に生きるように促しておられます。キリストはペテロを愛し、ペテロは裏切るということをしたがキリストを愛しているということで、二人の間には深い愛の信頼関係があることが分ります。キリストはペテロに三度「あなたはわたしを愛するか」と呼びかけ、彼の答えを受けとめて、「ペテロよ、わたしはあなたに期待し、あなただったら教会の働きをやり遂げてくれるるであろう」という期待を込めて、彼に使命を授けています。

私が神学校に入った時は正直言って右も左も分らないで、ただ聖書を抱えて、「私はキリストに献身する。キリスト以外のものは見ないようにし、キリストだけを愛する心をもって3年間を祈りと聖書の学びに過ごそう」という気持で入学しました。自分がキリストを愛しているという思いが強かったのですが、入学初日に弓山校長から呼ばれ、「君に奨学金を出してくれる人がいる。名前は言えないがイギリス人であるので、すぐに英語で救いと献身の証を短く書いて出しなさい」と言われ、三年間学費、寮費免除になり感謝でした。それを通して、私より先にキリストのほうから私を愛して下さっていて、その愛の印として奨学金という恵みを下さったのである、ということを知らされ、キリストが生きておられること、キリストが愛の主であること、キリストがすべての必要を満たす神であること、キリストに献身しキリストを愛する思いが深められたという、忘れることのできない恵みを身をもって知ることが出来ました。そして神学校を卒業して熊谷開拓伝道という辞令をもらい、キリストだけを見ていたことによって最善の伴侶が与えられて、今に至るまで共に伝道の道を進んで来る事が出来、さらに2008年も伝道の道を共に進めることを感謝しています。

教会で様々な奉仕がなされていますが、奉仕の動機はキリストへの愛です。聖霊を通して神の愛が教会に注がれて、奉仕する方々の心が恵まれ、「キリストを喜び、キリストを伝える教会」として前進して行くこと・・・それが私たちに対するキリストの期待です。群れの先頭に立って伝道牧会の務めを果たして行くことができるように、私たち夫婦のために、荻野伝道師夫妻のためにお祈り下さい。

3、キリストは「わたしに従って来なさい」と言われ、従うように決断を促して下さる。21:18-19

こう話してから、「わたしに従って来なさい」と言われた。(19節後半)

キリストはペテロの愛の決意を確かめ、彼に伝道し、教会を牧会する使命を授けた後に、18節で「よくよく(アァメン、アァメン)あなたに言っておく」と言われ、ペテロの殉教の死について予告しています。言い伝えによれば、ペテロはロマ政府によって捕らわれ、「キリストと同じ十字架ではもったいない」と言って、頭を下にして逆さ十字架によって殉教の死を遂げています。それがペテロにとってはキリストの栄光を表すことになったのです。

私たち人間には前途に何が起きるのか分りませんが、キリストに従い、キリストに期待して行くならば、キリストが私たちの人生にとって一番すばらしいことをして下さいます。キリストが「わたしに従って来なさい」と言われ、私たちがキリストの期待に応えて従って行く時に、祝福の道が開かれて行きます。キリストは「わたしに従って来なさい」と私たちを招き、従うように促しておられます。自分の思いではなく、キリストを愛してキリストに従って行く決断をする時に、やがて思わぬ道が開かれて行きます。

ある一人の化学専攻の学生が、化学の研究に行き詰まり、進路について思い悩み、祈ろうと思ったが、気持が焦ってしまって祈れないという状態に追い込まれてしまっていた。祈れるようになってから、祈りに祈った時に「化学を白紙に戻して、神様に委ねよう」という思いに導かれた。どこへ進むにしても、キリストに期待されていることを覚え、数学を学び直し、コンピューターの仕事につくことが出来た。するとコンピューターの研究が用いられて、異なった分野である医薬品開発の仕事をするようになった。実は彼は病弱であったので、人の健康を守り、命を救うために製薬会社に入りたいと思ったが、「数学専攻で、薬学部卒業でないから」という理由で、すべて断られてしまったことがある。ところが巡り巡って、今はコンピューターにより医薬品開発に携わっています。自分の予期しない方向に進んだとしても、キリストに従って行く時に恵みの道が開かれます。

私たちの中には、これからどうしたら良いのかと思い悩んでいる方がいるかも知れません、また病気と戦っている方がいるかも知れません。キリストの解決策は「あなたはわたしを愛するか。それならばわたしに従って来なさい。わたしがあなたを導き、癒やす」というものです。まずキリストに従うことを決断し、そして主に信頼し、主に期待して前進して行くように、祈りましょう。



まとめ

1、21:15,16,17前半、キリストは「あなたは私を愛するか」と私たちの気持を確かめています。「はい」と答えて主に従って行きましょう。

2、21:15,16、17後半、キリストは「あなたはわたしを愛するか、それならば、わたしの羊を養いなさい」と命じています。キリストに仕える動機は愛です。救いに感謝し、キリストへの愛をもって「キリストを喜びキリストを伝える」という、主の期待に応える教会となるように祈りましょう。

3、21:19後半、キリストは「わたしに従って来なさい」と決断を促しています。従うという決断をする時に、主が道を開き、癒やして下さいます。



祈 り 天地の主である神様、「あなたはわたしを愛するか」というキリストの愛の招きに「はい」と応えて従って行きます。キリストを一番にして今週も祈りの中に、聖霊の力を受けて信仰の日々を前進するように導いて下さい。愛を与えて下さるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献:ヨハネ注解―フランシスコ会、榊原、黒崎、LABN。「若き魂への福音」、「信仰雑誌より」