主に従い、主の証人として生きよう! ヨハネ21:20-25    主の2008.1.13礼拝



年の初めに信仰の先輩牧師の方々を思いました。私たちの教団の総理、神学校校長であった弓山先生は86年の信仰を貫かれ、天に凱旋して行かれました。先生は、戦争中、キリスト教は敵国アメリカかの宗教であるという理由で迫害を受け、貴重な本をバラバラにして燃やして冬の寒さをしのぐという苦労をしました。豊留先生はアメリカに移民し、大学を卒業した頃に日本・アメリカの戦争となり、移民した日本人は敵国人であるという理由で土地、建物、財産を没収され、砂漠の中に建てられた掘っ立て小屋の中に強制収容され、囚人のような生活を強いられました。その中で先生が献身して神学校へ行きたいと申し出たところ、その時はさすがにアメリカだと思ったそうですが、即座に許可されてニューヨークのユニオン神学校、コロンビヤ大学院で学び、戦争後三鷹に開校した国際キリスト教大学初代チヤプレン、教授として派遣され、その後ネームレスによる個人伝道創始者として用いられて行きます。私たちの教会は20年の長きにわたり、先生の指導を受け、「キリストを喜び、キリストを伝える教会」として歩み続けています。力丸先生は6人の子どもを抱えながら、教会が迫害された戦争中、そして戦後の混乱期を乗り越えて、九州・門司に教会を築きあげ、家内はその教会で信仰を与えられ献身に導かれました。他にも多くの先輩牧師がいますが、共通していることは「キリストへの信仰を貫き、天に召されて行った」という事実です。

本日はヨハネ福音書21:20-25です。22節に、「あなたは、わたしに従って来なさい」というキリストの招きの御言葉があります。人生には様々な出来事が突発的に起こります。例えば信仰に対する迫害、人の噂話、いじめ、挫折もある、しかし何があろうとも、キリストは「あなたは、わたしに従って来なさい」と強く招いています。弓山師、豊留師、力丸師の先輩牧師は、「死に至るまで忠実であれ!」(黙示録1:10)というキリストの御言葉に従い、キリストの証人としての生涯を貫きました。「あなたは、わたしに従って来なさい」というキリストの命令に従い、聖霊に導かれて、キリストの証人として死に至るまで従い続ける決意を新たにし、祈って新しい一週間の旅路を前進して参りましょう。



内容区分

1、キリストは、「わたしはあなたを個人的に招く、わたしに従って来なさい」と言われる。21:20―23

2、キリストは、「わたしについて証(あかし)を続け、わたしの証人として生きなさい」と言われる。21:24-25

資料問題

20節「イエスの愛しておられた弟子」、ヨハネ福音書を記した使徒ヨハネのこと。23節「この弟子は死ぬ事がないという噂が、兄弟たちの間に広まった」、22節と23節によれば、キリストは「死なない」と言ったのではなく、「生き残っていることをわたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われたのである。人の噂には尾ひれがつき、真相が曲げられて伝えられて行くことが多い。そこで神は、信仰の真理は聖書として記録されるように導き、聖書に信仰の正しい源泉がある。カトリック教会は、聖書と、伝えられている使徒伝承(記録された文字ではない)の二つを信仰の源泉とするが、伝承はゆがめられて行くことが多いので、真の信仰の源泉にはなり得ない。24節「あかしをする」、現在形で「今あかしをしつつある」ということ」である。24節「わたしたち」とは弟子たちのこと。25節「文書を収めきれないであろうと思う」、これは「・・・であろうとわたしは思う」と、わたしを入れるのがよい(新共同訳、新改訳、文語訳、NIV訳参照)。わたしとはヨハネを指しているという説が有力である。



1、キリストは、「わたしはあなたを個人的に招く、わたしに従って来なさい」と言われる。21:20-23

イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたには何の係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。(22節)

ペテロは、19節で「わたしに従って来なさい」というキリストの招きを受け、従う決心をしたのですが、ヨハネがいることに気づきます。彼はキリストに「主よ、このヨハネはどうなのですか。彼の行く先はどうなりますか」(21節)と尋ねています。それに対するキリストの答が23節にあります。この事から教えられることが幾つかあります。

第一に、キリストは他の誰でもなく、ペテロ個人に語りかけておられます。

キリストはペテロに語り、彼はキリストに応答し、従う決意をしたはずです。ところがペテロはヨハネのことが気になったのです。そこでキリストは、「わたしの来る時まで(再臨のこと)、彼が生き残っていることをわたしが望んだとしても、あなたには何の係わりがあるか」と言われ、「わたしは他の誰でもない、あなたペテロに従うように言ったのである。ヨハネにはわたしが告げる。だから、あなたは、ただわたしに従って来なさい」と告げています。「キリストにならいて」という書物の中で、トマス・ア・ケンピスが次のように述べています。「真に平安な人は誰の悪をも思わない。しかし不平で心の落ちつかぬ者はさまざまの疑いに苦しめられる。彼は自分も安らかでなく、人をも安らかにしておかない。しばしば言うべきでもないことを言い、なすべきことを怠る。彼は他人のなすべき務めを考えて、自分の務めをおろそかにする。それ故、まず自分自身に対して熱心になりなさい。そうすれば隣人に対しても熱心であって差し支えないであろう」(同書p80)。キリストは「あなた自身がわたしに従うこと、それが大事なことである」と言われます。パウロはテモテに対し「自分のことと教えのこととについて気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教えを聞く者たちを、救うことになる」(Ⅰテモテ4:16)と教えています。自分自身をキリストに捧げ、熱心になって従って行くことが信仰生活の秘訣です。今朝キリストは、他の誰でもないこの私に語りかけて下さっている。他の誰でもない私たちひとり一人に個人的に語りかけて下さっています。

第二に、キリストは個人的に語りかけ、救いを受けた者を教会に導いて下さいます。

キリストを信じたクリスチャンは、キリストの教会に加わります。(やがて誕生する教会の牧者としてペテロが任命されていることは、先週の21:15-19に記されていました)。ここで明らかにしておきたいことは、クリスチャンが招き入れられるところは教会であり、教会は人間の集団ではないということです。教会は一つの体です。生きているキリストを頭(かしら)とし、私たちは体の各器官です。体の各器官が頭からくる指令によって、それぞれの機能を発揮するように、クリスチャンはキリストに結びついて、キリストから霊的命をいただいて生きるのです。死ぬべき者であった者が永遠に滅びないキリストと結びつき、罪人であった者が罪のないきよい贖い主キリストと結びつくところが教会です。体の器官全部が必要であり、どの器官も無くてはならない存在であるように、私たち一人一人がキリストの教会の無くてはならない存在として、それぞれの役割を担って生かされています。今週はファミリーの週です。私は子どもファミリーを担当しています。先週成人式をしたみどりちゃん、大地くんは子どもファミリー出身です。大事な教会のメンバーである子どもと、しばらくの間スペースの関係で礼拝ができないことが悩みでしたが、現在は礼拝を共にできる恵みに感謝します。子どもに接して教えられることがたくさんあります。子どもファミリーで、「イエス様はなんと五つのパンと二匹の魚で5000人の人を食べさせたんだって。不思議なことをするもんだね」と言うと、子どもが一斉に「そりゃそうだよ、イエス様なんだからね」と真剣な表情で答えてくれたことがあります。その言葉によって子どもが、理論、理屈ではなく、生きているキリストを素直に、直接に信じていることを知らされ、私も子どもに負けずにもっともっとキリストを信じて行こうと励まされたことを感謝しています。

第三に、信仰の中心はキリストを信じ、キリストに従うことであることを教えられます。

キリストは「ヨハネは死ぬ事がない」とは言わなかったはずなのに、いつの間にかヨハネは死なないということが噂になっているが、23節で、それは間違いであることが正されています。人の話は尾ひれ葉ひれをつけて広がって行きます。伝言ゲームというのがあり、10人位の人数で、最初の人が伝えるべき言葉を隣の人の耳元で言います。そうやって次々に伝えて行くのですが、最後の人に最初とはまったく違う伝言が伝えられて大笑いをします。人の伝言、噂は正確さを欠きます。そこで信仰の大事な真理は聖書66巻の中に全て記されています。聖書66巻の中心はイエス・キリストです。その中でも十字架と復活が最も大事なことです(ヨハネ5:39、Ⅰコリント15:1-11)。カトリック教会では聖書と、教会に伝えられている使徒伝承(Apostolic Tradition)が信仰の源泉であると言います。この個所で人から人への伝言がいかに間違っているかが示されていますので、使徒伝承はあてにならないことが分ります。信仰の源泉は聖書66巻であり、その中心はイエス・キリストです。パウロはテモテに対し、「また幼い時から聖書に親しみ、それ(聖書)が、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵をあなたに与え得る書物であることを知っている。聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、義に導くのに有益である」(Ⅱテモテ3:15-16)と教えていますが、聖書66巻こそが信仰の源泉であり、聖書の中心はイエス・キリストです。



2、キリストは、「わたしについて証(あかし)をし、わたしの証人として生きなさい」と言われる。21:24-25

これらのことについてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書き付けるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと(わたしは)思う。(24-25節)

24節で、ヨハネ福音書を記したのは、この弟子であると言われていますが、この弟子とは使徒ヨハネのことです(21:20,13:23参照)。ヨハネのあかしは真実であるということを、多くの人達が知っているとあります。ヨハネは3年半の間キリストの弟子として寝食を共にしています。最後の晩餐の時にはキリストの胸近くのすぐ隣に座っていました(13:23)。十字架の時にペテロを始めとして男の弟子は逃げてしまったのですが、男の弟子でたった一人ヨハネが踏み止まり、キリストから母マリヤを託され自分の家に引き取っています(19:26-27)。ヨハネはキリストについて、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」(Ⅰヨハネ1:1)という表現で、自分がキリストのそば近くにいたことを述べています。彼はキリストの復活を目撃し、キリストが天に帰られてから60年間もキリストの言葉を考え、キリストのなされたことを瞑想し、そして書き残したのがヨハネ福音書です。ですからヨハネが述べているキリストの証しは真実であると評価されています。何よりもヨハネ福音書によって、「イエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(20:31)とあるように、キリストを信じてクリスチャンになる者が起こされている、だからヨハネの証しは真実であると声を大にして言うことができるのです。

「あかしをする」(24節)という言葉があります(あかししたー新改訳。あかしをしー新共同訳)。あかしをする人を証人と言います。証人という言葉はギリシャ語のマルテュスに由来し、殉教者という意味です。そこから英語のマーター(martyr)・証人という言葉になっています。証人は何をあかしするのかと言えば、キリストの十字架と復活の恵みをあかしすることが最大の務めです。私たちのために命を捧げて下さったのはキリストだけです。このキリストを命を賭けてあかしすることが、まことのあかしです。この事からマルテュス殉教者、マーター証人ということになります。

「あかしをする」というのは現在形で、「今あかしをしつつある」という事です。「これらの事を書いた」というのは、すでに書いたという過去です。「あかしする」は現在もあかしをしているということです。あかしをするとは、キリストを信じていることが、現在も継続されていることを表しています。これを私たちに当てはめてみれば、私たちはある時にクリスチャンになった、そして現在もクリスチャンであることが継続されているということです。そして終生変ることなく、主イエス・キリストを信じ、従い続けるということがまことの証(あかし)です。時々、通称卒業信者に会います。「若い時に信仰に入りましたが、今は教会に行っていません。聖書にはこんな事が書いてありますね」と評論家のように言います。私はそういう人に会うと気の毒に思います。その一方で八百万の神々という偶像に囲まれ、日本伝来の異教の宗教儀式がはびこる中にあって、ひたすらにキリストに頼り、キリストに縋って信仰生活を継続し、キリストの証(あかし)をたてている皆さんの上に祝福あれと祈るものです。

Aさんのおばあちゃんが亡くなり、昔からの風習による仏式葬儀が秩父で行なわれました。葬式の時に、家族、親族は額に三角巾をつけて出席する習慣があり、Aさんはそれをつけましたが、聖書をしっかり抱えて、祈りながらクリスチャンとしての証(あかし)を立てることが出来たということで(焼香をせず祈った)、主に感謝を捧げました。天皇陛下が神であると言われていた時代、日本人は天皇陛下の写真に拝礼することになっていました。内村鑑三はクリスチャンとして拝礼することを拒んだことによって、教師をやめさせられ、苦難の時代を過ごします。彼が人を恐れずに信仰の筋を貫いたことは今日までクリスチャンに語り継がれ、信仰の証(あかし)のよい模範になっています。また、このことはノンクリスチャンによってもキリスト信仰の証人として評価されています。

クリスチャンとして最初から、最後までキリストに従い続けることが信仰の証(あかし)になります。ついでながら、家族がまだクリスチャンでない方々は、葬式はキリスト教式で、教会の牧師に司式をしてもらうということを明らかにしておくことが大事です。お墓もありますから心配しないで下さい。葬式はクリスチャンとして最後のあかしの機会になります。

最後の25節で、キリストの恵みは尽きないということが言われています。25節最後に「収めきれないであろうと思う」とありますが、「収めきれないであろうと(私は)思う」というように、私をいれた翻訳がよいと思います(新改訳、新共同訳参照)。ヨハネ福音書の初めで、ヨハネは、「キリストは人の命、すべての人の光、すべての知恵の源であるお方である」ことを説き明かしています。ヨハネはキリストに出会ってから60年以上を経てから、キリストの伝記であるヨハネ福音書を書き上げましたが、キリストの恵みは無限であることを、21:25の最後で述べています。教会聖書日課は新約聖書のほうはマルコ福音書です。私にとってはもう何十回も読んでいるところであり、以前にマルコ全体を連続で説教したことがあります。相当に分っているつもりで、早天祈祷会でマルコを読みます。早天では3名が交代でメッセージをし、土曜日には出席者全員で恵みを分かち合うのですが、不思議なことですが毎回新しいキリストの恵みを知らされて祈ります。パウロが「キリストのうちには、知恵と知識との宝がいっさい隠されている」(コロサイ2:3)と記していることは本当です。私は、キリストの恵みは汲めども汲めども尽きない泉のようであると思い、キリストを讃へ、感謝を捧げます。

今週はファミリーの週です。キリストの恵みを語り合って下さい。恵まれる秘訣はキリストの恵みを数え、その恵みを互いに分かち合うことです。マルコ福音書11章をファミリーで読んで、キリストの恵みをたくさん分かち合って、心に喜び、感謝、恵みを与えられて、祈り合って下さい。キリストを知る最大の目的は「キリストきちがい」になることです。キリストの恵みで心を充たされ、キリストの証人となって行くように祈りましょう。



まとめ

1、22節、キリストは、「わたしはあなたを個人的に招く。わたしに従って来なさい」と言われます。キリストに従って行く決断の祈りを捧げましょう。

2、24-25節、キリストは、「わたしについてあかしを続け、生涯を賭けてわたしを信じ、わたしに従い、わたしの証人として生きなさい」と言われます。主に従って行くように祈りましょう。



祈 り

天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストによって救われていることを感謝します。周りの人を見ることなく、また比べることをせずに、イエス様だけを見つめて、従って行きますので導いて下さい。キリストの恵みは尽きない泉のように無限であることを感謝します。もっともっとイエス様のことを個人的に知り、信仰が成長するように助けて下さい。ファミリーの集まり、ゴスペルの上に、夜の礼拝の上に天よりの恵みを注いで下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献:ヨハネ注解―ライル、榊原、フランシスコ会、文語略解、LABN。 「キリストにならいて・トマス・ア・ケンピス・新教出版社」、「目覚めている精神の輝き・ルイスの言葉・新教出版社」、「内村鑑三全集・教文館」