キリストの十字架こそ我が誇り ガラテヤ6:11-18    主の2008.1.20礼拝



人は何かしら誇りとするもの、自慢するものを持っています。私の中学時代、Kという音楽の先生がいましたが、「自分は音楽学校を出たちゃんとした音楽家である」という誇りを持っていました。K先生の尊敬するベートーベンのような髪型で授業をし、クラッシクの素晴しさを強調し、世の中で歌われている流行歌はダメだと言っていました。あれから50年の時代が過ぎて、クラッシック以外に多くの種類の音楽がうたわれ、演奏され、放送されている現代の状況にK先生はびっくりするかも知れません。ある方は古今東西の珍しい石を集めて、訪れる人に石の取れた場所、種類などを細かく説明します。ある人は自分の血筋を誇ります。「私の家は○○大名の家老様に仕え、その家の用人として代々にわたって仕えてきた由緒ある家柄です」などと吹聴します。

本日の聖書はガラテヤ6:11-18です。この手紙を記した使徒パウロは、14節で「わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは断じてあってはならない」という強い決意を述べています。キリストを信じる前、パウロは「私は、イスラエル民族であり、その中のベニミヤン族の出身で、生まれて八日目に割礼を受けた者である。律法を守るパリサイ派の者であり、ユダヤ人の中のユダヤ人である」という誇りを持っていました。しかし、イエス・キリストを信じてからは「イエス様があまりにも素晴しいので、人間的に誇りとしていた一切のものは無用になり、それらは糞土(ふんど)のようなものでしかない。私はひたすらキリストを追い求めて、天国に向かって進んで行く」という決意を述べています(ピリピ3:4-16)。皆さんにも尊敬する人物、大事な宝物、誇りとするものがあると思いますが、クリスチャンの第一の誇りは、私たちを愛して十字架にかかり、復活され、永遠の命を与えて下さるイエス・キリストです。どんな優れた人物であったとしても、私たちの罪の身代りになってくれる人はいません。ただ一人イエス・キリストだけが十字架にかかって下さった愛の救主です。今朝もキリストのメッセージを聴き、祈って新しい一週間を出発いたしましょう。



内容区分

1、クリスチャンは、主イエス・キリストの十字架を誇りとする者である。6:11-15

2、クリスチャンは、イエスの焼き印を身に帯びている者である。6:17-18

資料問題

ガラテヤ書は使徒パウロが紀元55年に記した書簡で、律法主義を排撃し、救いはキリストの十字架のみによることを説き明かしている。11節「わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字であなたがたに書いている」、パウロは口述筆記で手紙を書いているが(ロマ16:22)、ここからは自分の手で書く。それは、この手紙がパウロの真正の手紙であることを表すためである。14節「十字架以外に誇りとするものは、断じてあってはならない」、十字架の救いについてのパウロの強い確信の言葉。十字架に例えば割礼を加えての救いはあり得ない。人を救うのはキリストの十字架のみである。15節「新しく造られる」、キリストの十字架の救いによって、人が新しく生まれ変わる再創造のこと(エペソ2:15、4:24、コロサイ3:10、Ⅱコリント5:17)。16節「神のイスラエル」、異邦人、ユダヤ人でもすべてキリストを信じる者を、また究極的にはキリストに帰依する肉によるイスラエル(ロマ11:25-26)をも含んでいる。17節「イエスの焼き印」、パウロが伝道中に受けたむち打ちなどによる肉体の傷跡(Ⅱコリント6:4-6、11:23-25)であり、それはキリストの傷跡と同じようなものである。また、この表現はキリストの奴隷であることを示す、何故なら「焼き印」は、ギリシャ語で奴隷につけられた所有者のしるしを意味しているからである。



1、クリスチャンは、主イエス・キリストの十字架を誇りとする者である。6:11-15

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは断じてあってはならない。(14節)

本年はオリンピック開催の年にあたり、世界各国から選ばれた選手が中国北京に集い、それぞれの競技で母国の栄誉をかけて競い合います。一位になった選手は表彰台に上り、栄誉を讃える金メダルを授与され、国歌が演奏され、自分の国を世界中に知らせる機会になります。母国の栄誉のためにオリンピック選手は力いっぱい競技をします。私たちはキリストを信じ救われ、「我らの国籍は天にあり」(ピリピ3:20)という神の国、天国の民の一員になっています。オリンピックの選手は競技を通して自国の栄誉を表しますが、私たちクリスチャンは神の国の恵みを、日々の生活を通して表します。競技という限られたものではなく、一日24時間全生活を通してキリストを信じて生きることの喜びを表します。

ガラテヤの手紙を書いたのは使徒パウロです。彼は祈りながら、聖書の教えに基づいて各地の教会に必要な事柄を伝えるために、自分の考えたことを言葉にし、それを書記の人が書き記していました(口述筆記)。11節で「わたし(パウロ)自身いま筆をとって書く」とありますが、大事な結論部分をパウロ自らが書くことによって、1章から6章に至る手紙の内容が間違いなくパウロのものであることを示しています。パウロが自ら記した結論部分から三つのことを教えられます。

第一に、キリストの十字架を信じて、人は罪から救われます(14節)。

パウロはユダヤ教の中で生まれ、育ち、特別にエルサレムで律法教育を受けた人です。彼は、人の救いは律法を完全に守り、儀式を行なうことによって得られると信じて、厳格に律法を守る生活に励んでいました。ところが教会では、「イエス・キリストを信じれば、罪が赦され、神の家族の一員になり、永遠の命をいただける」という教えを広めている。多くの人々が続々とキリストを信じ、教会に加わっている。パウロは「それは間違いだ、人は良い行いをして救われるのだ」と主張し、クリスチャンを迫害し、教会を荒らし回って、キリスト教撲滅に躍起となっていたのです。その彼にキリストが現れ、彼を救いに導きます(使徒9:1-19)。彼はアラビヤの砂漠に退いてキリストのことを考え、救いはただキリストの十字架を信じることである、ということを確信します(1:17)。ここにおられるひとり一人の方々は、個人的に罪を悔改め、十字架を信じてキリストを自分の心にお迎えした時に、罪の赦しと共に永遠の命を受け、教会に加えられて、信仰生活をおくっています。救いを受けるのに、旧約聖書の儀式である割礼や律法を守るという自分の頑張りはいりませんでした。ただ罪を悔改めてキリストを信じた時に、新しく生まれ変わるという祝福を与えられました。スリランカの青年チヤーミンダは、自分は仏教徒であり、キリストのことは知らないと言っていました。家内が彼にキリストの話を聞いて下さい、と申し出て、彼の友人でクリスチャンとして良い影響を与えていたジャガさんが通訳をし、キリストの十字架と復活について個人的に伝えました。すると仏教徒であった彼は、「私はキリストを信じます」という決心をして生まれ変わったのです。キリストの十字架に人を救う恵みがあります。「十字架の言葉は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには神の力である」(Ⅰコリント1:18)という事は真実であり、「十字架にキリストは一度は死んだが、復活され、昨日も、きょうも、永遠までも変ることがない救主なのです」(へブル13:8)。ユダヤ教徒であったパウロも、仏教徒であったチヤー-ミンダも、ただキリストの十字架を信じることによって救われ、天国の民になりました。私たちもキリストの十字架によって、救いを与えられていることを感謝しましょう。

第二に、キリストを信じて、新しく造られる(生まれ変る)ことが重要です(15節)。

人生には様々な重要なことがあります。最も大事で重要ななことは、15節に言われているように、キリストを信じて新しく造られる(生まれ変わる)ことです(新生)。私たちがこの世に生まれる時には選択の余地はなく、気がついたら、父親、母親がいるという今の家庭にいたのです。ところが、キリストを信じて新しく生まれるというのは、個人的に自分で選択するものです。聖書的に言うならば、神様の選びがあって、恵みによって救われるのですが、しかし、私たちひとり一人がキリストを信じるということを選び、キリストを信じるという決断をすることが必要です。ここにおられる皆さんの中に「私はクリスチャンになるつもりはなかったが、今は何となくクリスチャンです」という人はいないはずです。キリストが救主であるということを知らされ、自分で決断してクリスチャンになったはずです。キリストを信じ、生まれ変わるためにはキリストの救いのメッセージを知ることが不可欠です。

《天地万物を創造されたまことの神様がおられます。ところが私たちは神様を信じない、神様に背く罪人です。罪のために、例えばウソ、ケンカ、イジワルをし、盗んだり殺したりします。罪の結果は永遠の滅びで地獄に行きます。しかし、神様は愛です。独り子である罪のないイエス・キリストがこの世に遣わされ、私たちの罪の身代りになって、十字架で死んで、罪の赦しの道を開かれました。イエス・キリストは死んで終りではなく復活されて、私たちに永遠の命を与えて下さる救主です。自分の罪を認め、悔改めてイエス・キリストを信じれば、罪が赦され神の子になり、永遠の命を受け、天国へ行くことができます。あなたも罪を悔改めてイエス・キリストを自分の救主また主として信じ、ご自分の心にお迎えしませんか・・・》

いま私が述べたのは1分間の救いのメッセージです。いつでもキリストの救いのメッセージを語ることが出来るように備えておいて下さい。何故ならキリストを信じることによって人は救われ、キリストを信じて新しく造られる、すなわち生まれ変わることが最も重要なことだからです。

第三に、キリストを信じる者は、神の新しいイスラエルと呼ばれる群れに加わります。

キリストを信じれば、ユダヤ人も異邦人も救われ、神のイスラエルと呼ばれます。それはキリストを信じる者の群れである教会を指していると理解できます。この教会を考えてみれば、日本、韓国、中国、フィリピン、アメリカ、台湾、トリニダードトバゴ、ミャンマー、タイなどの人々がいます。それぞれがキリストを信じて、神のイスラエルという教会の群れの一員とされていることを感謝します。

キリストを信じる者の特徴は教会生活をするということです。教会生活の特徴は卒業がないことです。キリストを信じる者は一生の間ずっと教会生活をします。私事ですが、教会に出席し始めてから、52年目を迎えています。しかし、もう長いこと教会生活をしているという慣れはありません。毎日曜日ごとに新しい緊張感をもって礼拝に出席し、イエス様の恵みをいただいて、新しい一週間のスタートを切ります。天国の門を潜って、天国の中に入るまで地上における教会生活は続きます。



2、クリスチャンは、イエスの焼き印を身に帯びている者である。6:17-18

だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたがの霊と共にあるように、アーメン。(17-18節)

パウロは手紙を閉じるにあたり、「今後は私に心配をかけるようなことをしないでほしい」と言っています。パウロは言います・・・キリストを信じれば、誰でも救われるという十字架の恵みを否定する律法主義者が教会に入り込んできて、あなた方の救いをだめにしようとした。だから、私は時には厳しい言い方であなた方に注意をし、間違った教えの過ちを徹底的に指摘し、また偽預言者どもに警告を発した。あなた方はキリストを信じ、聖霊によって祈り、教会にしっかり結びついて信仰生活を継続しなさい。もう二度と私に心配をかけないでほしい・・・と。

パウロは、「わたしは、イエスの焼き印を身に帯びている」と言っていますが、焼き印とはなんでしょうか。またどんな意味があるのでしょうか。

第一に、焼き印は所有者を表す印です。

広い草原などで放牧されている牛にはお腹のあたりに焼き印が押してあって、持ち主が誰であるかが分るようにしてあります。最近は焼き印で熱くて牛が可哀想なので、白髪染めで牛にしるしをつけているとのことです。人間は自分のことを主張するために、例えば入れ墨をすることがあります。民族によっては顔に入れ墨をします。自分の所属を明らかにするために特別のユニフォ―ムを着たり、旗をつくったりします。パウロは迫害を受け、「四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ロマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海の上を漂ったことがある」という経験をしています(Ⅱコリント11:24-25)。キリストは十字架に架る前に、激しいむち打ちによって背中の皮が向け、血だらけの身で十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かって進んで行かれました。頭に荊の冠をかぶせられ、裸にされ両手両足に釘を打ち込まれて十字架につけられ、最後には脇腹に槍を突き刺されています。キリストは復活された時に、弟子達に釘跡と槍の跡を見せています(ヨハネ20:20)。アウグスティヌスは「信仰の迫害によって受けた傷は、信仰の証しとして永遠に残るのであろう」と言っていますが、そうかもしれません。パウロの身には信仰の迫害によって受けた多くの傷があり、それをイエスの焼き印と呼び、自分がキリストの僕であることを言い表しているのです。

第二に、焼き印を押された奴隷は主人に所属することを表しています。

焼き印は、この者は間違いなく主人のものであるということを表し、奴隷はそれを自覚します。パウロは自分のことを「主の僕(奴隷)」(ロマ1:1)と言っています。彼は焼き印を押された奴隷のように、自分はキリストの焼き印を身に帯びている主の僕(奴隷)であることを公にしているのです。

第三に、イエスの焼き印を身に帯びているとは、「私は逃げも隠れもしないで、キリストのことを誰に対しても言い表し、キリストの弟子として生きる者である」ということを示しています。

先週、S家の葬式のことを伝えましたが、Sさんは頭に三角布はつけましたが、聖書を手に持って焼香をせずに、神に祈りを捧げ、自分がクリスチャンであることを証(あかし)しました。Mさんのお父さんが元旦に急逝されましたが、仏式の中で親子三人祈りつつ、焼香をせずに祈りをもって献花し、神様に全てをお委ねし、クリスチャンであることを証(あかし)しました。

イエスの焼き印を身に帯びる者として、どんな時でも信仰によって生きている者であることを言い表して行くことが大切なことです。1月11日(金)読売新聞に「厳しい局面 信仰心が支え」という四段抜きの大きな見出しがつけられて、敬虔なクリスチャンとして知られているという紹介で速水優・元日銀総裁(現聖学院大学教授・82歳)のことが掲載されていました。「聖学院は百年の歴史を持つ伝統校。支柱とするキリスト教教育は重要だと思う。学生たちには強い信仰をもって育ち、卒業してほしいと願っています。最近は修身や道徳より、頭が良く性格が明るければ世の中で通用するという考えが広がっている。その点からも信仰心は大切です。人生には様々な局面がある。日銀時代も厳しい選択を迫られたことがあったが、そんな時、心の中で繰り返していた好きな言葉があります。『神よ、変えることができるものを変えるだけの勇気を与えたまえ。変ることができないものを受け入れる冷静さを与えたまえ。そして、変えることができるものと、変えられないものを見分ける知恵を与えたまえ』-。アメリカの神学者ラインホルト・ニーバーの祈りの言葉です。今も手帳に記し、繰り返して読み、そのたびに勇気を与えられている。私は今なお、日曜日には教会の礼拝に出席し、神様と向き合い、過ぎた一週間を振り返る。そして次の一週間をどう乗り越えるかを考えるのです」。速水氏は、イエスの焼き印を帯びている者として、忠実に礼拝に出席し、大事な政策決定をする時も祈りに祈って決断をし、日本経済の舵取りをしたのです。



まとめ

1、14節、クリスチャンが誇るものはキリストの十字架です。十字架によって罪から救われ、新しく生まれ変わり、神のイスラエルである教会に加えられて、天国に向かって進んで行くのです。

2、17節、クリスチャンは、イエスの焼き印を身に帯びています。私たちはキリストのものです。どんな時でも信仰を言い表して生きて行きますということを決断して祈りましょう。



*聖歌399番「カルバリ山の十字架」を讃美し、祈りを捧げます。



祈 り

天地の主である神様、独り子イエス・キリストの十字架によって救われていることを感謝します。「私たちの主イエス・キリスト以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない」、キリストの十字架を誇りにして、信仰生活を続けて行きます。イエスの焼き印を身に帯びている者として、どんな時でもキリストを信じることを言い表して行けるように、聖霊によって私たちの信仰を正しく導いて下さい。十字架によって救いを与えて下さったイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ガラテヤ注解―黒崎、フランシスコ会、口語略解、文語略解、LAB、バークレー、米田。