エジプト(この世)の宝にまさる祝福―キリストの救いと平安 ヘブル11:23-29   主の2008.2.10礼拝



世界の七不思議の一つにエジプトのピラッミドがあります。三角形をした巨大な石造りの建造物が砂漠の中に幾つも聳え立ち、大きいものでは高さが約150メートルもあります。ピラミッドは、今から3600年位前に栄えたエジプト王朝の王家の墓で、王のミイラが埋葬されています。古代エジプトでは、死者は来世において現世と変らぬ生活を送るので、人間はこの世の肉体と物品を死後も必要とするという考えがありました。そこで権威と富のある王は遺体をミイラにして永久保存をはかり、墓には食料品、武器、家具などの大量の副葬品が収められ、死後も生前どおりの日常生活をすることが出来るようにしたのです(しかしピラミッドの多くは盗掘されています)。ピラミッドについては謎が多く、例えば、どのようにして巨大な石を砂漠の中に運び込んだのか、どのようにして石を同じ大きさに切り整え、何トンもある石をクレーンなしで、しかも崩れないように150メートルの高さに積み上げることが出来たのかなど詳しいことは分っていないようです。実際にピラミッドを見に行かれた方もいると思いますが、良く知っている青年が青年海外協力隊員としてモロッコに2年派遣された際に、訓練の中でエジプト・ピラミッドを見学する機会があり、仲間の隊員と共にピラミッドによじ登り、積み上げてある石の大きさに驚いたとの事でした(登ることは禁止されています)。

本日はヘブル人への手紙11:23―29です。この個所の中心人物はモーセです。モーセが生きていた約3500年前、イスラエルの人々はエジプトでピラミッドなどの建造物を造る奴隷でした。モーセは神様の特別な命令を受けて、イスラエル約200万人の人々をエジプトから出国させ(出エジプト)、先祖アブラハムが住んでいたイスラエルの地に連れ帰る偉大な働きをした人物です。旧約聖書の初めの5巻、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記(モーセ五書Pentateuch)はモーセによって記されたと言われ、その中には天地創造の由来、モーセの十戒など多くの重要な教えがあります。今朝はモーセの信仰による生き方を学び、自分の身に当てはめ、私たち一人一人がキリストに従い、祝福の人生を歩んで行く決意を新たにしたいと願っています。



内容区分

1、クリスチャンは、神の民である。11:23-26

2、クリスチャンは、神の愛によって生きる。11:27-29

資料問題

へブル書はユダヤ人クリスチャンへの書簡で記者不明。23節「モーセの生まれたとき、両親は三ヶ月のあいだ彼を隠した」、モーセの両親の信仰が表されている。出エジプト2:2-3では母について語られ、使徒7:20では「父の家で育てられた」とある。父はアムラム、母はヨケベテ(出6:20)。26節「キリストのゆえに受けるそしりをエジプトの宝にまさる富と考えた」、ユダヤ人クリスチャンが迫害のためにキリストを捨て元のユダヤ教に戻ろうとしているので、ユダヤ人の尊敬するモーセもキリストに従ったと訴えている。その根拠は「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセはわたしについて書いたのである」(ヨハネ5:46)というキリストの言葉にあり、モーセを信じ、モーセの信じたキリストを信じるように勧めている。26節「キリストのゆえに受けるそしり」、原文では「キリストの非難、恥辱」のこと。私たちがキリストのゆえに受けるそしり、苦難に価値があるのではなく、キリストの苦難と死によって与えられる永遠の生命、救いに価値がある。27節「見えないかた(アオラトス)」は神をさす。「見えない」は神の属性を表す語(コロサイ1:15、Ⅰテモ1:17、ヨハネ1:18、4:24)。28節「過越を行い、血を塗った」、出12:12-13,22-23。29節「エジプト人はおぼれ死んだ」、出14:15-31。



1、クリスチャンは、神の民である。11:23-26

信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。(24-26節)

モーセの時代(約3500年前)、出エジプト記によれば、イスラエル人は故郷を離れてエジプトの地で奴隷として暮すという悲惨な状況下に置かれていました。エジプト王パロはイスラエル人が増え広がることを恐れ、イスラエル人撲滅政策をとり、「男子が生まれたらナイル河に投げ込め」という無慈悲な命令を出します。その時にモーセは誕生し、両親は赤ん坊が麗しいのを見て、パロ王の命令に背いて3ヶ月間隠しておき、子どもの無事を願って水が漏らないようにした籠(バスケット)に赤ん坊を入れ、ナイル河に流します。そこへエジプトの王女が水浴びに来て、赤ん坊を発見し、イスラエル人と知りながら、そのまま引き取って育てることにします。それを見ていた姉のミリアムが王女に願い出て、乳を飲ませる乳母として母を連れてきて、母はモーセが成長するまで乳を飲ませ、祈りの中にモーセを育てることが出来たのです。やがて彼は王宮に入り、身分はエジプトの王子、民族としてはイスラエル人として成長して行き、40歳の時にエジプト王宮に別れを告げ、イスラエル民族として生きるように決断します。そのことが11;23-24に要約されている事柄です。ここから教えられることを三つ取り上げてみます。

第一に、モーセは神様に従う決断をしています。

エジプトでは太陽を崇め、パロ王を神のように崇拝し、王はいつまでも生きているに違いないということで、死体をミイラにしてピラッミドに保存し、沢山の宝物と共に葬りました。しかし墓は暴かれ、宝物は奪われてしまっています。これによってエジプト人の神々は命のない死んだ偶像であることが分ります。モーセは、エジプトの偶像礼拝の中心にいたのですが、神様に従う決断をし、シナイ山で十戒をいただいて、神様を信じる基準を明らかにしています(出エジプト20章を見よ)。

十戒には徹底して神様を礼拝し、偶像を拝んではならないことが教えられています。偶像礼拝に関連して、占いについての注意をします。テレビでは占い系のスピリチュアルと称する番組が盛んです。占い師に「あなたの後ろにお父さんがいますよ。お父さんがね、『お前の苦労をいつも見守っている』とおっしゃっていますよ」などと言われると、相談者は涙を流します。占いは本当にあたるのでしょうか・・・。占いに関して遠藤周作が言っています、「インドに行って世界一の占い師と称する人が『あなたの前世はハトであるが、尻を矢で討たれて死んだ。その痛みが出ないか』というから、『昔、痔の手術をした』と答えると、『その痔が矢で討たれた証拠だ』という。『じゃあ来世は何か』と聞いたら『鹿だ』というので馬鹿の鹿を思い浮かべた。日本では京都の占い師に『あなたは平安時代の学者です』と言われた。以前に美輪明宏から『佐藤愛子さんの前世はアイヌの酋長の娘で、その佐藤さんの乗っていたウマの生まれ変わりがあなただ』と言われた」と語っています。でも「占いがあたる」という人がいます。占いがあたるのは紹介者がいて、言葉巧みに相談者の家系、悩み事などを事前に聞きだして、それを占い師に伝え、それによって占いをするから当たるのです。相談者はビックリして占い師の言うがままになってしまい、お金をとられてしまうのです。

第二に、モーセはキリストのゆえに受けるそしりをエジプトの宝にまさる富と考えています。

この当時、ユダヤ人でユダヤ教からクリスチャンになったのに、迫害を恐れて元のユダヤ教に帰って行く人々がいたのです。そこでユダヤ人が尊敬しているモーセを引き合いに出して、「モーセはキリストに従っている、あなたがたもキリストに従いなさい」と訴えています。モーセがキリストに従ったという意味は、ユダヤ人として生まれたキリストが、「聖書はわたしについて証(あかし)をしている」(ヨハネ5:39)と言われ、さらに「もしあなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセはわたしについて書いたのである」(ヨハネ5:46)という根拠に基づいています。

キリストについて聖書が述べている最も重要なことはキリストの十字架です。ここで大事なことがあります。それは「キリストのゆえに受けるそしり」というのは「キリストの非難・恥辱」ということで、モーセが受けるそしりではないということです。モーセはキリストの十字架の死を信仰によって知っていました。キリストが受けられるそしり、すなわち十字架の死によって、モーセをはじめ私たちに永遠の生命が与えられる。これこそが信じる者に与えられる永遠の宝であり、それは消えて行くエジプトの宝にまさるものである。私たちが受けるそしり、苦難に価値があるのではなく、キリストの十字架の苦難によって与えられた罪の赦しと永遠の生命(いのち)、この救いの恵みに価値がある。だから私たちは、キリストのゆえに受けるそしり、苦難に耐えて行くことが出来るのです。

第三に、神様を信じ、キリストに従って行くことを決断して祈りましょう。

私たちは神の民になっています。具体的には偶像を捨てて、神様を第一にして生きて行くこと。キリストが十字架によって、あらゆるそしり、恥、悩み、苦しみ、痛み、侮辱を受けて、最後には命を捧げて下さったこと。十字架によって私たちに罪の赦しによる心の平安と救いが与えられ、永遠の命の希望によって生きる者になったこと。だから何があってもキリストを第一にして生きて行く決意をして、失せて消えてしまうエジプトの宝、すなわちこの世のものに執着せず、ひたすらキリストに縋り、キリストに従って生きて行こうということ。このことを新しい思いをもって決断しますか・・・。



2、クリスチャンは、神の愛によって生きる。11:27-29

彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。(27節)

モーセは40歳にして神様に従う決断をしますが、その直後に神様によって荒野に導かれ40年の時を過ごします。彼が出エジプトの大業に召されたのは80歳の時です。彼は弟アロンと共にエジプトに乗り込み、パロ王と10回にわたる忍耐強い交渉をして、出エジプトの約束を取り付け、イスラエル200万の人々を率いて先祖たちが住んでいたカナンの地に出発します。意気揚々と出発したのですが、様々なことがあって40年間という歳月を荒野で過ごし、120歳の時にモーセは約束の地を目前にして天に召されて行きます。彼がどのようにして出エジプトをした人々を導いたのかと言えば、それは「彼(モーセ)は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした」という言葉に要約されています。忍びとおしたというのは、苦難、困難を堪え忍んだという事以上に、見えないが生きている神様がおられるという信仰に固く立ったということです。神様が共にいて下さる、だから何事が起ろうとも、神様の最善を信じて苦難、困難を乗り越えて行くという信仰に立ったということです。11:27-29を通して教えられる三つ取り上げます。

第一に、モーセは神に用いられた柔和な人でした(民数記12:3)。

指導者として尊敬されるべき存在であるのに、身勝手な人々は、モーセが出エジプトさせてくれた恩を忘れて、「もっと肉が食べたい」「喉が渇いた」と生活上の文句を並べ立てています。モーセが山の上で神様から十戒を受けている時に、麓では人々が金の子牛を作って拝むという偶像礼拝をし、飲めや歌えのデタラメをするという大きな罪を犯します。モーセが指導者として用いられているのを見て、身内であるアロン、ミリアムが妬んでいます。多くの無理解な人々の中にあって、「モーセはそのその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」と言われています(民12:3)。それは見えない、しかし生きている神様を信じ続けて与えられた祝福です。

民が食料のことで文句を言った時に、神様はモーセの祈りに答えて、天からマナを降らせ、鶉をイスラエルの人々の所に飛ばせて、その肉を食べるようにしてくれました。

人々が金の子牛を拝んだ時には十戒の板を砕き、金の子牛を火に焼いて粉々にして、これを水の上にまいてイスラエルの人々に飲ませて怒りを表しています。しかし翌日には神様の前に行き、「彼らの罪を赦して下さい。そのためにわたしの名前を『いのちのふみ』から消し去ってもよいのです」という執り成しの祈りを捧げています。

アロンとミリアムがモーセを妬みのために非難した時、彼は沈黙を守っています。ミリアムが主によって打たれ、らい病(重い皮膚病)になった時に、モーセは「ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください」と心から祈っています(出エジプト、民数記参照)。

第二に、モーセよりも柔和な人、愛の心をもっておられたのは主イエス・キリストです。

子ども達が御許に来た時に弟子達は「うるさい」と言って追い払おうとしていますが、キリストは弟子達に対し憤られ、すぐに子ども達を抱き上げ、祝福を祈っています(マルコ10:13-17)。

男だけで五千人の人々が集まってきた時、アンデレが5つのパンと2匹の魚を少年から受け取りますが、「こんなに少しではなんの役にも立たない」と悲観していますが、キリストはそれらを用いて全ての人を養う奇蹟を表しています(ヨハネ6:1-15)。

ペテロが「死んでも従います」と威勢のいいことを言った時に、わたしはあなたの信仰が無くならないように祈っている」と言われています(ルカ22:31-34)。

キリストが復活したというニュースを聞きながら、故郷へ落ち延びて行く二人の弟子に近づかれ、聖書全体から復活の恵みを教え、彼らを仲間たちの所へ引き戻しています(ルカ24:13-35)。

キリストに敵対し、教会を荒らし回っているパウロに個人的に現れ、声をかけ彼を救いに導き、伝道の務めに任じています(使徒9:1-22)。

先週、中野先生を迎えて幸いな集会がありました。先生を通して、主は「人生に失敗はつきものだ。しかし、それで終りではなく、次の機会がある」と言われました。中野先生はペテロの例を通して、また様々な実例を通して、キリストは私たちに失敗者であるというレッテルを貼らず、次の機会を与えて下さる愛の主であることを示して下さいました。しかも次の機会は、たった一回の機会ではなく、複数の機会であることが強調されていました。モーセは40歳の時に同胞を助けるために、血気にはやってエジプト人を殺してしまいます。しかし神様によって立ち直る機会を与えられ、次には出エジプトのリーダーとして大きく用いられています。

第三に、私たちも愛をもって人のために祈り、人の過ちを覆って行くように決断しましょう。

キリストご自身は失敗のないお方です。自分が完璧であると、つい他の人の足りないところが目につき、裁きやすいのですが、キリストは弟子達をさばかず、愛をもって失敗を覆い、次の機会を与えて信仰自立を見守り、導いています。

私事になりますが、私も多くの失敗を主によって赦され、また皆さんの愛によって支えられています。開拓伝道を始めた時に、軽井沢で開かれた聖会に行きました。一人の牧師が「私はちりとり牧師です」と言われました。ちりとりはゴミを拾い集める道具です。「自分はちりとりになって、人の不満、悩み、痛みを受け止め、それを全部イエス様の所に持って行こう。こんなにゴミを出してしょうがないなと言って人をさばかない。ただひたすらゴミを拾い集め、イエス様の愛を祈るのです」と言われていたことが心に残っています。モーセはイスラエルの人々にいろいろなことを言われましたが、彼は人々のためにひたすら祈っています。キリストは「七たびを七十倍するまで赦せ」と言われました(マタイ18:22)。人の足りないところを見るのは簡単です。足りないところではなく、その人のうちにある良いところを見つけ、そのよい所が伸ばされて行くように、イエス様の恵みを祈ることが、真の執り成しの祈りです。「息子は女性に子どもを産ませ、不信仰な生活をしている。私の子育ては失敗でしょうか」と涙をもって訴える母親に、アンブロシウス司教は「涙の子は滅びることがない」と励まします。「息子には信仰がない、でもお母さん、あなたに信仰がある。あなたの涙の祈りを主がご覧になっています」と言ったのです。「とんでもない息子だ、彼の罪を罰し、やり直しをするように説教します」とは言わなかった。そして救われたのがアウグスティヌスです。モーセは民をさばかずに、人々のために祈りました。イエス・キリストは十字架の上で「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)と祈り、十字架にかかって、赦しの道、立ち直りの機会を与える道を開かれたのです。



まとめ

1、24-26節、私たちはキリストを信じ、キリストを一番にして生きる神の民です。世と世の欲は過ぎ去り、キリストを信じる信仰だけが永遠に残ります。

2、27-29節、私たちは愛のお方、柔和なお方であるイエス・キリストに倣って生きます。人の救いのために、信仰の成長のために執り成しの祈りを捧げて行きましょう。



祈 り

天地の主である神様、イエス・キリストが受けて下さった十字架の苦しみにより、私たちが救われたことを感謝し、キリストのゆえに受けるそしりを、この世の宝にまさる富と考え、どこまでもキリスト一番の信仰によって前進します。午後のファミリー、こどもファミリー、ゴスペルク、夕べの礼拝を祝福して下さい。私たちに救いの宝を下さったイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

                                                     

参考文献:へブル注解―名尾、黒崎、フランシスコ会、LAB。「深い河をさぐる・遠藤周作・文藝春秋」「キリスト新聞2月2日」