イエス・キリストは命のパンである ヨハネ福音書6:35-40         主の2008.2.17礼拝



毎月第四土曜日、上野公園ホームレス伝道に行って思うことは、食べるということの意味です。ホームレス(路上生活者)の人々は常時お腹を空かしていると思いますが、何かは食べているようです。たぶん拾って食べたりするものが多いでしょうから、その食べ物に愛情を感じることはできません。上野公園では毎回300名のホームレスの人々が地面に座り、午後2時から1時間の礼拝を捧げ、3時から給食になります。給食では、先ず熊谷の皆さんからのおにぎりを配ります。次にホームレス伝道主催教会トポス教会で用意した温かい味噌汁を前列から順々に配って行くのですが、自分の番が来て温かいどんぶりを受け取ると、ホームレスの人々はそれを抱え込むようにして食べています。その姿を見ると、食べ物を作り、提供する側の祈りと愛が伝わっていること、人間が生きて行くためには愛のこもった食べ物が必要であることを実感します。

本日はヨハネ6:35-40です。イエス・キリストは35節で、「わたしが命のパンである」と言われています。日本流に言えば「わたしは命のご飯である」ということですが、ご飯をしっかり食べることによって体力が養われ、働く力が湧き上がってきます。キリストは「命のパンである」と、わざわざ「命」という言葉を付け加えています。これは「パンやご飯が肉体の命を支えるように、キリストは一人一人の心に生きる喜びと力を与え、永遠の命を与える救主である」ということを言い表しています。パンを食べなければお腹が空きます。お腹が空くことは苦痛であり、体の力が衰えて行きます。私たちがキリストを信じなければ、心に平安がなくなり、イライラして生きて行く力が衰えます。生きて行く力が失われて死を感じるようになります。けれどもキリストを信じない者には永遠の命がないので、死を怖れて先行き不安な気持ちになります。キリストは「『わたしが命のパンである』、パンを食べて肉体の命が保たれるように、命のパンであるわたしを信じれば、心に平安が与えられ、永遠の命の希望をもって生きることができる」と愛をもって語っています。「命のパンである」キリストの愛によって心を満たされ、生きる喜びの力を得て、新しい一週間を、祈りをもって出発して参りましょう。



内容区分

1、キリストは、「命のパン」すなわち生きておられる救主である。6:35

2、キリストは、「わたしに来る者を拒まない」と言われる愛の救主である。6:36-37

3、キリストは、「信じる者を守り、永遠の命を与えて下さる」まことの救主である。6:38-40



資料問題

35節「わたしが命のパンである」、「わたしが・・・である」は「エゴー・エイミ(ギリシャ語)」である。これは出エジプト3:14「わたしは、有って有る者」に由来し、エゴー・エイミとはキリストが神であることを表している。ヨハネ福音書には7つのエゴー・エイミがある。①「わたしが命のパンで6:35,48,51」。②「わたしは世の光である」(8:12)。③「わたしは羊の門である」(10:7)。④「わたしはよい羊飼いである」(10:11)。⑤「わたしは、よみがえりであり、命である」(11:25)⑥「わたしは、道であり、真理であり、命である」(14:6)。⑦「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)。37節「わたしに来る者」、単数男性名詞でキリストの個人個人に対する愛の関係を示す。37節「拒まない」、「投げ出さない、外へ投げない」という言葉。「外へ投げ出される」とは滅びに突き落とされるという意味(マタイ8:12、ルカ13:28)。



1、キリストは、「命のパン」すなわち生きておられる救主である。6:35

イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(35節)

キリストは、人々に「わたしが命のパンである」と告げています。ヨハネ福音書の中にはキリストが自らを表す7つの「わたしは・・・である」という言葉があります。教会の聖書日課が、新約聖書はヨハネ福音書ですが、今朝の個所「わたしが命のパンである」という御言葉がその一番目ですので、毎日ヨハネ福音書を読みながら、残る6つの「わたしは・・・である」を発見して下さい。

「命のパン」というのは、命を与えるパン、命を養うパンという意味です。「わたしが命のパンである」というのは、イエス・キリストご自身が命である、キリストご自身が命をもっている、命の根源であるという意味です。命を与えることのできるものは、それ自身が命をもって生きていなければなりません。例えば赤ちゃんを産むためには、母親が生きていなければ、命をもった赤ちゃんを産み出すことはできません。イエス・キリストが人に命を与える命のパンであるということは、キリストご自身が命そのもの、生きている者であるということを示しています。

命のパン、命の源であるキリストは「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と言われています。わたしの所に来るというのは、わたしを信じなさいというキリストの招きの御言葉です。パンは実際に食べることによって肉体の栄養になり、エネルギーになります。イエス・キリストを自分の救主として、「イエス様、私の心の中に入って罪を赦し、私の人生を導いて下さい」と祈ることによって、実際に罪が赦され、永遠の命を受けることができます。ここで注意しなければならないことは、キリストは「わたしが命のパンである」と言われたことです。パンは日本流に言えばご飯であり、主食です。日本の運動選手はカロリーを計算して肉、野菜などを食べますが、最後にご飯を食べると安心するそうです。日本人であれば、ご飯さえあれば、おかずは梅干一個でもいい、ご飯を食べれば食べたという気になります。日に三度主食となるものを食べることによって体が保たれて行きます。私たちの命の源は命のパンであるキリストです。心が恵まれ、喜びをもって生きるために、毎日毎日イエス・キリストの恵みを知り、信じて行くことが大切です。

ある30代の女性ですが、失恋し、相手を恨み悶々とした日を送っていましたが、卒業した学校がキリスト教主義の学校であったことを思い出し、教会に行ってみようという気持になりました。教会の礼拝に出席して学生時代にうたった賛美歌を思い出し、温かい雰囲気に心和む思いをした。彼女は学生時代「キリスト教の時間」で聞いて断片的に覚えていたことを牧師に聞いた。例えば「旧約聖書と新約聖書はどう違うのですか」「神様って本当にいるのですか」「三位一体を教えて下さい」「二千年前のキリストの十字架がなぜ大切なのか」などの質問をした。牧師は直接答える代わりに、聖書、特に新約聖書を読むように勧めた。読んで行くうちに、彼女は自分に罪があることが分ってきた。そして自分の罪を赦すために、キリストが罪の身代りになって十字架で死んで下さったことを信じた。キリストを眺めているだけで、質問を繰り返していた時には何の喜びもなかった。しかし、「わたしが命のパンである」というキリストを食べること、すなわちキリストを信じた時に、キリストが心の中に入ってきて下さって、彼女の罪を赦し、恨みの心を取り去り、「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、全てのものが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)という祝福を持って彼女を包んで下さったのです。やがて彼女は洗礼を受け、クリスチャンとして生きるようになって行きました。

皆さんが命のパンであるキリストを食べるすなわちキリストを信じていると思いますが、それだけでは足りないのです。毎日毎日もっともっとキリストを食べることすなわちキリストの素晴しさを喜び、感謝し、心がキリストに満ち溢れてキリストきちがいになろうということを決断して祈って下さい。



2、キリストは、「わたしに来る者を拒まない」と言われる愛の救主である。6:36-37

「しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない」。(36-37節)

パンを食べる方法すなわちキリストを信じるということは、自動的に信じられるのではなく、自分のうちにキリストを取り入れるということが求められます。36節に、キリストの素晴しい御言葉を聞き、奇蹟を見た人がいるのに信じようとしない人々がいると言われています。37節では、信じない人がいるが、しかし信じる者もいる。それは神様が与えて下さった人々である。それらの人々は「わたし(わたしのところに、わたしのもとに)に来る者」と言われていますが、これはキリストと個人個人との愛の関係を示す言葉です。神様がキリストの所に人を導いて下さるが、キリストはご自分のところに来る者を一人一人個人的に受け入れて下さるということです。

キリストが個人的に受け入れて下さるということは、私たちが個人的にキリストを信じるということを意味しています。個人的に信じるということは、「この御言葉はキリストが私に語られていることであり、私のための勧めであり、教えである」と自分の身に当てはめて信じることです。どんなに素晴しい御言葉を聴いたとしても、それを自分の事として、信仰によって自分の身に当てはめ、結びつけて行かないと何の益にもなりません。へブルの手紙4:2で「というのは、彼らと同じく私たちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」とあるように、聞いた御言葉を信仰によって我が身に取り入れて、そしてキリストに個人的に結びついて行くことが信仰です。

キリストは「命のパン」と言われていますが、食べるということは、食べたいという気持が大切です。食べたら「美味しい、ご馳走さま」と言います。そして食べたことによってエネルギーを得て、働く力が与えられ、学ぶ力が与えられて行きます。黙って食べて、何にも言わず、そして何もしないで座ったままでいるとするならば、本当に食べているのだろうかと疑われます。あるいは食べたが何もできないのは、もしかしたら病気ではないだろうかと思われてしまいます。

命のパンであるキリストを食べて、すなわちキリストを信じて、私たちは霊的に充分な栄養を受け、霊的エネルギーを得て、私たちは良い者へと変わって行きます。先日、中野先生が来られて、感謝することの尊さを教えられ、多くの方々が「感謝!感謝!全てに感謝!」ということを口に出しながら生活していることは素晴しい恵みです。何を受けても感謝できなかったのに、キリストを信じて私たちは感謝できる者に変えられていることを感謝します。

「イエスに出会った僧侶」という本を書いた松岡牧師がいます。この方はお寺に生まれ、僧侶になってから仏教を学ぶために韓国に留学しました。そこで誘われて教会に行き、なんと僧侶の身で「命のパン」であるキリストを信じて洗礼を受けてしまいます。キリストを信じることによって、人生が一変してしまったのです。例えば僧侶時代は歌謡曲ばかり聞いていたのが、クリスチャンになってからは讃美歌を聞き、歌うようになった。仏教では般若湯という名で酒を飲みますが、酒がまずくなり飲まなくなってしまった。仏教の僧侶の時にキリストのもとに行ったのですが、キリストは「わたしに来る者を決して拒みはしない」と言われ、松岡さんを救い、牧師になるように導かれたのです。

「わたしに来る者を拒まない」とありますが「拒まない」とは「外へ投げ出さない」という意味があり、天国の門の外に投げ出さないと言うことです。キリストを信じれば、誰であっても天国の外へ投げ出さない、締め出さない、天国に迎え入れてあげます、という約束の御言葉です。私たちも「わたしに来る者を決して拒みはしない」というキリストの愛の救いに与っていることを感謝します。



3、キリストは、信じる者を守り、永遠の命を与えて下さるまことの救主である。6:38-40

「わたしを遣わされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終わりの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである」。(39-40節前半)

キリストは言われます、「わたしに与えられた人を一人も失わないようにする。わたしを信じた者が、ことごとく永遠の命を得るようにする」と。キリストを信じた私たち一人一人を最後まで守るという約束の御言葉です。

40節で「永遠の命を得る」と言われていますが、この言葉は現在形です。「私たちは永遠の命をすでに、今もっている」ということを表しています。永遠の命というと、死んでからもらえる命のように誤解する人がいますが、キリストを食べた瞬間に、すなわちキリストを信じた時に、私たちには永遠の命が与えられています。その永遠の命を失わないようにして守り、世の終わりの時に約束どおり、信じる者をすべて永遠の天国に招き入れるという約束です。

私たちに永遠の命が与えられている印は何でしょうか。

一つは、祈りです。

生まれ変わった私たちに聖霊が与えられ、聖霊に導かれて「天の神様」と祈ることができます。礼拝に出席するために祈って家を出る。車を運転する前に祈ってからエンジンをかけてスタートする。きょうも様々な奉仕があって礼拝が捧げられていることを感謝して祈るなどあらゆる場面で祈りを捧げます。祈ることができるのは、私たちに永遠の命が与えられ、キリスト中心に生きるようになっている印なのです。

二つは、讃美です。

クリスチャンは歌う民です。キリストをほめ讃える歌をたくさん歌ってください。パウロとシラスは無実の罪で牢屋に入れられた時に、呟くことなく神に祈り、讃美を歌い続けた時に、大地震が起り、牢屋が壊れます。この出来事を通して牢屋番一家が救われます(使徒16章)。祈りと讃美は祝福を招きます。

三つは、キリストによって天国に入る希望を与えられていることです。

イスラム教では、生涯の良い行いと悪い行いの数が秤(はかり)にかけられ、良い行いが多ければ天国に入ることができるという教えです。プロボクサーであったモハメッド・アリはイスラム教徒ですが、常にマッチ箱をもち、罪に誘惑された時はマッチの火に手をかざし、地獄の永遠の火を思い起して誘惑に勝つようにしているとのことです。私たちはキリストの十字架の身代りの死によって、罪を赦され、永遠の命を与えられています。しかし生きている限りは誘惑があります。その時には「イエス様」と祈って誘惑に勝利する力を得て行くことが大切です。



まとめ

1、35節、キリストは、「命のパン」すなわち生きておられる救主です。キリストを信じて救われていることを感謝し、もっともっと命のパンであるキリストを食べて、すなわちもっともっと信じて、キリストきちがいになって行くように祈りましょう。

2、36-37節、キリストは、「わたしに来る者を拒まない」と言われる愛の救主です。信じる者を外に投げ出さずに、天国に招き入れて下さるキリストの救いに感謝します。

3、39-40節前半、キリストは、信じる者を守り、永遠の命を与えて下さるまことの救主です。永遠の命を得ていることを感謝し、主に祈り、主を讃美し、そして主イエス・キリストの十字架の故に天国に入れることを信じて、キリストに縋って天国への道を前進して行きましょう。



*聖歌694番(旧645番)「父の神がわれら」を讃美し、お祈りを捧げます。



祈 り

天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストによって救われていることを感謝します。キリストは私たちの心を養う命のパンです。キリストを食べて、すなわちもっともっと信じて心を恵まれ、喜びに満ち、キリストきちがいになって行けるように、信仰を強めて下さい。病気の方々、戦いの中にある方々に癒やしと勝利を与えて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ヨハネ注解―黒崎、バークレー、榊原、LAB、ライル、フランシスコ会。 「イエスに出会った僧侶・松岡広和・ことば社」、「御翼・佐藤順・アンカークロス社」