もっと大きい業(わざ)をするであろう ヨハネ福音書14:12-21  主の2008.2.24礼拝



だいぶ以前でしたが、「大きいことはいいことだ」というテレビコマーシャルがありました。「プレゼントを多くもらうことはいいことだ、大きい家に住むことはいいことだ、お金をいっぱい持っていることはいいことだ」というように、何でも大きく、いっぱいあることがいいことだ、幸せなことだという物質による満足を意味しています。宗教においても、大きな伽藍、金ピカの聖堂を建てます。上野公園ホームレス伝道の時に通る日光街道沿いの寺の境内には金メッキの大きな観音像が祭られています。文化財としては奈良の大仏が観光ルートに入っています。何を祭っているのか、何を信じているのかというよう事よりも、建物や偶像の大きさ、広さ、豪華さによって「すごいな」という気持を起こさせ、多くの人々が何かご利益をもらえるのではないかという錯覚をもってしまいます。

本日はヨハネ14:12-31です。キリストは、「わたしを信じる者は、またわたしのしている業(わざ)をするであろう。そればかりか、もっと大きい業(わざ)をするであろう」(12節)と言われています。使徒行伝を見ると、イエス様がなさったように、弟子達は病人を癒しています(使徒5:16、9:34)。歩けない人を立たせています(同3:6,14:10)。悪霊を追い出しています(同5:16、16:18、19:12)。死んだ人をも生き返らせています(同9:40、20:10)。その意味で、「わたしを信じる者は、またわたしのしている業をするであろう」ということが実現しています。そして「そればかりか、もっと大きい業をするであろう」と告げられています。大きいというのは、キリストのなさったことよりも、大きい不思議な奇蹟を行うという意味ではありません。キリストは、神殿を建てず、信じればご利益を与えるということを教えていませんので、「大きい業(わざ)」とは物資的な、目に見えるものではないということが分ります。「もっと大きい業(わざ)」とは、その業の効果、及ぼす影響が広い範囲に及ぶという意味です。キリストが地上にいた時は広さが四国ほどのイスラエルの中だけで活動していました。しかし弟子達はイスラエルを出て、全世界に向かって伝道を展開し、キリストの救いは弟子達を通して多くの国々や諸民族の中に広められ、地上の万民が救われて行くようになるので(事実、キリストの救いは全世界に及んでいます)、キリストは弟子達が「もっと大きい業をするであろう」と言われたのです。

今朝は「もっとおおきい業(わざ)をする」ということについて、イエス様ご自身の御言葉から教えていただき、祈って、新しい一週間の旅路をスタートして参りましょう。



内容区分

1、大きいわざとは、主イエスのお名前による祈りの力である。14:12-14

2、大きいわざとは、助け主である聖霊に導かれることである。14:15-17

3、大きいわざとは、信じる者を孤児にしないキリストの復活の約束である。14:18-21

資料問題

12節「わたしのしている業(わざ)をする」、使徒行伝の弟子達の働きを見よ。12節「もっと大きい業」、弟子達の伝道によって地上の万民が救われるという大きな業。13、14節「わたしの名によって」、クリスチャンがキリストの名によって祈る祈りが聴かれて行く。何故ならば、キリストの名による祈りでは個人的復讐、野心や利己的な祈りを捧げることはできないからである。16節「助け主」、ヨハネ福音書および手紙にのみ用いられている聖霊またはキリストの別名である。助け主(パラクレートス)は裁判官の前に被告の側に立って弁護する人をいう。聖霊は我らの側に我らのために父なる神の前に立ち我らを弁護し擁護して下さる。17節「真理の霊」、クリスチャンは真理の霊である聖霊に導かれ、この世は「迷いの霊」(Ⅰヨハネ4:6)に支配されている。18節「孤児」、友のない孤独な人の意もある。18-21節はクリスチャンの心に住むキリストの恵み、キリストの復活を述べている。



1、大きいわざとは、主イエスのお名前による祈りの力である。14:12-14

「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」。(14節)

クリスチャンは祈りの民です。キリストによる罪の赦しを受け、聖霊によって「アバ(お父ちゃん)、父よ」(ロマ8:15)という祈りを捧げるようになります。私たちは何か分らないものに向かって祈るのではなく、天地の造り主、何でもできる全能の神様に「お父さん」と言って祈るという恵みを与えられています(使徒信条冒頭の告白)。ところで、祈りについて大事なことはなんでしょうか・・・。

第一に、実際に、絶えず祈ることです(Ⅰテサ5:17)。

絶えず祈るとは祈りをやめないという意味です。私の所に祈りについて30冊ほどの本があります。それらの本には、祈りの素晴しさ、祈りの方法、祈りが聴かれた実例などが記されています。しかし、どんなに祈りの本を読んでも、実際に祈らなければ、祈りは身につきません。

皆さんにお聞きします・・・今朝も祈って一日を始めましたか。きょうも家族の上に主の祝福を祈りましたか。運転をする前に祈りましたか。今朝自分の席に座って先ず礼拝全体の祝福、奉仕者のため、御言葉を語る牧師のために祈りましたか・・・。

祈りを科学的に研究するグループがあり、祈り方について、本当に祈りが聴かれるのかなどを調べていました。ひとりの調査員がクリスチャンに「祈りは聴かれますか?」と尋ねると、「あなたは祈ったことがありますか?」と逆に聞かれた。「いいえ、祈ったことはありません」。そこでクリスチャンは、「それではどんなに祈りを研究してもムダです。祈りは祈ることによってのみ分ることです。あなたもキリストを信じて祈ってごらんなさい。祈りを通してキリストの恵みに感謝し、万事を益として下さる神様の愛を体験しますよ」と教えたのです。

第二に、目を覚まして、感謝のうちにひたすら祈ることです(コロサイ4:2)。

弟子達はゲッセマネの園で、十字架にかかるキリストのために祈るべきであったのに、三回も寝てしまい、キリストに起こされています(マタイ26:40,42,44)。ある人は「目を覚まして祈れ」ということを実践するために、三日三晩寝ないでいたのですが、最後に倒れてしまったそうです。「目を覚まして」ということは、祈りのために起きていると同時に、それ以上に心の目を覚ましていなさい、そして他の人のために祈りを捧げなさいという意味です。サタンは祈りをやめさせようと思って、あの手この手で私たちを祈りから遠ざけようとしますます。私も祈っていて、眠くなる時があります。その時には祈りを中断して体を軽く動かして眠気を追い払いう、あるいは立ち上がって歩きながら祈る、また讃美をうたいます。祈りの時に忘れてならぬことは感謝を数えることです。感謝を数えると次から次に感謝が思い出されて眠気も吹き飛び、祈りは聴かれるという確信をもつことができます。

第三に、イエス・キリストのお名前によって祈ることです(13,14節)。

「わたし(イエス・キリスト)の名によって祈りなさい。祈りは聴かれます」と言われていますが、聴かれる祈りの秘訣は「イエス・キリストのお名前によって祈る」ことです。注意して下さい・・・キリストは私たちの全ての祈りが聴かれるとは言っていません。イエス・キリストのお名前によって祈った祈りが聴かれると言われています。全ての祈りは、それをイエス・キリストのお名前によって祈ることができるかどうか問うことによって試されます。例えば、個人的復讐、自分の野心、他の誰かより優れていたいという願い、またクリスチャンらしくない恥ずべき目的のために、イエス・キリストのお名前を用いて祈ることはできません。私たちは祈るとき常に、その祈りを心からイエス・キリストの尊いお名前によって祈ることができるかどうかを思い、そして最終的に神様の御心がなされますようにという祈りであるなら、その祈りは常に答えられて行きます。しかし自分に根ざした、自分の思いが成るようにという祈りは聴かれません.その祈りはイエス・キリストのお名前によって祈られるのではなく、自分の名前によって自分の欲望がかなうようにという間違った祈りであるからです。

今、次の会堂のことを考え、祈る時になっていますが、熊谷開拓の初め、家賃3万円の家を借りていた時のことを思い出します。信徒数3名という状況でしたので、安い家賃の家を探し求めて一年間毎日のように不動産屋を巡っていました。なかなか思う物件に行き当たらず、まだ熊谷に来て一年足らずの時ですから知り合いもないし、探すのは忍耐が要りましたが、その度ごとに「イエス様のお名前によって祈っている。しかも伝道の拠点になる家を探しているのだから必ず見つかる」という思いをもって探し、遂に家賃1万円の所を見つけることができたのです。

皆さんは何を祈り求めていますか。イエス・キリストのお名前によって祈れば、その祈りは聴かれ、主のなさる大きい恵みの業を見ることができます。イエス・キリストのお名前によって祈りましょう。

2、大きいわざとは、助け主である聖霊に導かれることである。14:15-17

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」。(16-17節前半)

助け主である聖霊について次のことを心に留めて下さい。

第一に、助け主とは聖霊のことです。

キリストは、十字架の救いを成し遂げ、復活によって永遠の命をもたらし、天に帰って行かれました。キリスが地上にいる間はキリストが助け主でしたが、キリストが天に帰った後はキリストの代わりに聖霊が送られて弟子達を助けるという約束がなされています。キリストは肉体をとってこられたので、イスラエルの中でだけ活動をされました。聖霊は霊なるお方ですから、地域、時代に限定されることなく、自由に活動し、私たちの心に入ってきて、私たちを助ける助け主になって下さいます。聖霊の助けによって、私たちは罪を認め、悔改め、キリストを救主として心に信じることができました。聖霊は私たちをキリストに導くので「真理の御霊」とも言われています。

第二に、助け主とは、私たちのかたわらにいて私たちを助けてくれる人を指しています。

裁判で言えば、裁判官の前に立って、被告を弁護する弁護士のことです。弁護士というより、現代ではヘルパーというほうが分り易いと思います(新米標準聖書訳)。助け主である聖霊は、私たちと共にいて下さって、私たちを支え、私たちを弁護し、助けてくれるヘルパーの働きをします。

第三に、聖霊は、ヘルパーとして語るべき知恵を与え、何を祈るべきかを助けてくれます。

使徒パウロが迫害を受け、逮捕され、審判を受けるためにユダヤ議会に引き出されました。彼は議場を見回して、議員の中にサドカイ人とパリサイ人がいることに気づきます。パウロは声を張り上げて、「皆さん、私はパリサイ人です。私は死人の復活の望みを抱いているので、裁判を受けています」と言います。サドカイ人は復活とか天使とか霊とかはいっさい存在しないという立場にあり、パリサイ人は死人の復活、天使、霊は存在するという立場ですので、サドカイ人とパリサイ人との間で論争が生じ、議会は混乱に落ち入ります。混乱に乗じてパウロは殺されそうになりますが、パウロの身を案じたロマの千卒長によって保護されます(使徒23:6-10)。危急の際にパウロは聖霊に助けられて、知恵の言葉を発し、ロマの保護によって安全を確保するように導かれたのです。

かつて共産主義国家ソ連が東ヨーロッパを支配していた時代、ルーマニヤのリチャード・ウオムブランド牧師は信仰の故に逮捕され、拷問によって体の18箇所に深い傷を受け、14年間の長期間、牢獄生活を強いられました。ノルウエーのクリスチャン達が中心になって釈放運動を行い、アメリカに行くことができ、30年ほど前来日し、私たちも東京にメッセージを聴きに行きました。彼は証しています。「自分が投獄されている時に自由にできたことがある。それは主イエス・キリストのお名前によって祈ることである。牢獄の中で聖書は無論のこと、本は一冊も差し入れを許されなかったので、世界地図を頭の中に描き、聖霊に導かれて祖国ルーマニヤをはじめ、世界の国々のために祈った。アジヤのために祈る時に日本があった。日本は四つの島からなる島国である、天皇がいるということを思い出し、日本のために祈った。その祈りが聴かれて、いま自分は日本に来てメッセージを語っている。これはキリストが生きている事の印であり、聖霊に導かれている印である。投獄されている自分の所に聖霊が送られ、聖霊は私のヘルパートして私の祈りを導き、世界のために祈らせてくれた。今は共産主義によって多くの国々が支配されている。しかし聖霊に導かれて祈りが積まれ、世界は自由と希望を取り戻すようになる」。牢獄の中の祈りを通して、その他の人々の祈りをとおして、ソ連は崩壊し、東ヨーロッパはそれぞれに独立を取り戻しています。神の大きい業が成ったのです。聖霊は私たちのためにうめき、神の御旨による祈りを捧げるように導き、やがて万事が益となるようにして下さいます(ロマ8:26-28)。あなたの問題は何でしょうか・・・聖霊の助けにより私たちも祈って行きましょう。



3、大きいわざとは、信じる者を孤児にしないキリストの復活の約束である。14:18-21

「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る」。(18節)

人間にとって孤独は辛いことです。昨日は上野公園ホームレス伝道でしたが、2時からの礼拝で私がメッセージを語った時は風がおさまっていましたが、給食の時に大嵐のように砂塵が舞い上がり大変でしたが、全てを無事に終えることができました。皆さんのお祈りに感謝します。上野へ行き、ホームレスの方々を見る時に感じることは孤独ということです。家族から切り離され、会社からリストラを受け、行政から見放され、世間からはホームレスという目で軽蔑され、僅かな手荷物を抱えて路上生活をしている姿を見ると胸が痛みます。キリストは「あなたがたを捨てて孤児とはしない」と言われます。キリストは十字架に架り、人の罪の身代りになって死にました。弟子達は師を失って、例えようもない孤独に陥ったことと思われます。しかし十字架の三日後にキリストが死を滅ぼして復活し、弟子達に現れた時に彼らの心に喜びが溢れます(20:20)。キリストが復活されたことによって「あなたがたのところに帰って来る」という約束は成就しました。キリストは生きておられる救主です。キリストは私たちを離れません。ホームレスを見捨てずに、伝道によってキリストの愛が伝えられて、人生やり直しの機会が提供されています。キリストはどんな人をも孤児とはせずに守り、支えて下さる、生きている救主です。私たちはキリストを愛し、キリストに従って行きます。

Sさんは小さい頃に母親を亡くし、父親と二人暮らしになった。ところが中学2年の時に父親が交通事故に遭い、入院。学校帰りに病院に寄り洗濯物を持ちかえり、それを洗っては届けるという生活をしていた。淋しかったこともあり、家に悪友がたむろするようになった。するとクリスチャンの知り合いのおばさんが訪ねて来て、Sさんを教会の集会へと導いてくれた。すると悪い友達が家に来なくなってしまった。高校3年の時に、父親の脳の血管が切れ、意識不明になってしまった。「回復の見込みはありません」と告げられ、気が動転してしまった。教会の人々が駆けつけてきて、「お父さんを天に送る準備をしましょう」と言われ、父の枕辺で繰り返し詩篇23篇を読んだ。母はすでにいない。父は回復の見込みがないといわれている。Sさんは気持がドンドン落ち込み、心は不安と恐れでいっぱいであった。聖書を読み続けて行き、主が共にいて下さる、「わたしはあなたを捨てて孤児にはしない」、大丈夫なんだということが分り、祈りが心の奥底から湧き出て来た。それから2週間、父のために讃美を歌い続け、聖書の御言葉を読み聞かせ、祈り続けた。すると父親の顔が穏やかになり、笑顔に変り、そして天に帰って行きました。Sさんは父親のために聖書を読んでいたのですが、実はそれは自分のためでもあり、恐れがなくなり、平安が自分の心に満ちていた。主は自分を孤児にしないで、共にいて下さるということが体験できた。今は仕事をしながら、「どんな時でも主は共にいて下さる。私たちを孤児にしない、生きている救主である」という信仰、主によって愛されているという信仰が毎日を元気に生きる命の力の源になっています。



まとめ

1、14節、主イエス・キリストのお名前によって祈りましょう。祈りをやめないで絶えず祈り、感謝を数えて、目を覚まして祈りましょう。

2、16-17節前半、聖霊は助け主として私たちを支えて、導いて下さいます。聖霊は私たちに語るべき知恵を与え、何を祈るべきかを教えて下さるヘルパーです。聖霊を求めて祈り、聖霊によってイエス・キリストに従って行きましょう。

3、18節、主イエス・キリストは復活され、私たちと共におられます。私たちを孤児にはせずに守り、支えて下さいます。

祈 り  天地の主である神様、独り子であるキリストの救いに感謝します。救われて聖霊の助けによって、イエス・キリストのお名前でお祈りできることを感謝します。私たちのために助け主であり、真理の霊である聖霊がおられることを感謝します。私たちを孤児にはしない主の愛に感謝します。ここにおられる一人一人が主イエス・キリストを信じ、今よりもさらにまさる大きい祝福を受けて行くことができますように導いて下さい。主イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。



参考文献:ヨハネ注解―黒崎、フランシスコ会、バークレー、榊原、LAN。「地下運動の声・ウオムブランド・ことば社」