『ハケンの品格』ヨハネによる福音書20:21 200832

 

挨拶

 (御言葉拝読、ヨハネによる福音書2021

 この御言葉は、今日の聖書日課に当たる。奇しくも、2008年の熊谷福音キリスト教会の目標聖句でもある。すでにこの御言葉に基づいて、新年、渡辺牧師がメッセージくださった。改めてこの御言葉に耳を傾けたい。

 本日、深谷では、めでたいことに主任牧師、井桁久志先生と、森田聖美さんの婚約式が行われる。「久志先生に伴侶が与えられますように」とは、熊谷の祈りの課題のトップだった。お二人の結婚を機に、深谷福音キリスト教会の伝道牧会が、ますます実り豊かなものとなっていくことだろう。渡辺先生ご夫妻は、深谷福音キリスト教会にて、説教、司式、奏楽の奉仕に当たっている。時を同じくして行われている深谷の礼拝、婚約式のためにも祈りに覚えつつ、礼拝をささげていきたい。

 

メッセージ要旨

 今回のメッセージのタイトル「ハケンの品格」は、どこかで聞いたことのある方もいるかもしれない。「ハケン」は、「主に派遣された者」の意。よってタイトル「ハケンの品格」は、「主に派遣された者の品格」という意味。私たちクリスチャンは皆、キリストによって世につかわされている。そんな私たち主につかわされた者は、どんな品格を身につけるべきか。そのことを今日は見てみたい。

 主につかわされた者は第一に、平安である。第二に、主に派遣された者は、自分の心のままを行わない。そして第三に、主に派遣された者は、つかわした方の御心を行う。

 

I.主につかわされた者の特徴は、平安である

 使徒たちを世の中につかわすに当たって、イエス・キリストがおっしゃったことばの第一声は「安かれ」「あなた方に平安があるように」だった。このことからまず第一に、主につかわされた者は、平安である、ということが分かる。

 ところで、イエス様が「安かれ」と仰るということは、私たちの心は騒ぎがちである、ということの反証でもある。実際イエス様がこの言葉を語ったとき、弟子たちはユダヤ人を恐れて、戸を閉め、家の中に閉じこもっていた。イエス様の「安かれ」との語りかけは、恐れの中にいる弟子たちに語られたのである。他方、イエス様がそう語るからには、たとえ恐れの中にあっても、私たちは平安をもつことができる、そういう示唆でもある。平安をもつために、私たちは戦略的に、自分の心を扱いたい。そこで、私たち自身の知、情、意すなわち知性、感情、意志、それぞれを賢く扱い、用いて、平安を得よう。

 まずは知性面で、平安をもつために私たちが覚えなければならないことは、私たちの心配は、決して物事の事態を好転させない、ということである。私たちはあたかも心配することが、物事を良い方向に変えていくという「信仰」をもっているかのごとくである。心の中でひたすら反芻して、ていねいに心配する。そういう私たちに対して、イエス様は極めて理性的にこのように語る。「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)。正に賢者の言葉である。実は私たちの心配は、決して事態を好転させない。心配しても心配しても、事態は良くならないばかりか、心はふさぎ、顔は暗くなり、却って寿命を縮めてしまう。だから私たちは、思い煩いは、正に患い、思いにおいて病むことであって、この病いを癒すことは、私たちの義務である。思い煩いは、私の心の健康、体の健康に却って害する、ということを覚えなければならない。

 次に感情面において、平安をもつために、私たちはどんなことを覚えなければならないか。それは、キリストが私と共におられる、と思い出すことである。たとえ理性において、「そうか。思い煩いはちっとも利益にならないのか」と分かっても、感情面においては思い煩ってしまう。それが私たち人間である。人の子としてお生まれになったイエス・キリストご自身、心が騒いでいると仰っている。「いまわたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」(ヨハネ12:27)。キリストは、ご自分が間もなく殺されようとしていることを知っておられた。心が騒がない方がおかしい。思わず、「父よ、この時からわたしをお救い下さい」と祈っている。しかしその直後、「しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです」と、前言を撤回するかのような言葉をおっしゃっている。つまり動揺しているのである。「イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた。『よくよく、あなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている』」(ヨハネ13:21)。しかもキリストの死は、愛する弟子の裏切りによる。これで心が動揺しないでおれようか。福音書記者は生々しく、人の子、イエス・キリストの心の動揺を活写する。だがこれで終わらないのが、イエス様である。この後、イエス様は、その厳しい現実を見つめつつも、次のように語る。「見よ、あなた方は散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている(厳しい現実)。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである(感情面での平安の基)。」(ヨハネ17:32)父が共におられるので、大丈夫。理性だけでは、感情的な心の動揺を抑えられないかも知れない。しかし御父がキリストと共におられたように、キリストが私たちと共におられる。私たちの苦しむ時、悩む時、傍らにいて下さり、慰め、励まして下さるのである。だからわたしたちは、恐れる必要がない。インマヌエルのキリストが共にいてくださる、そのことを覚え、心に安きを得よう。

 さて、平安を得るために、意志の面で私たちのなすべきこと。それは私たちが決断して、悩みを主に預けてしまう、ということである。以前水曜日に話したことがある話だが、チャのお父さんが、こういう話をしたそうである。イエス様はドライヴァーで、車を運転しているとしよう。そこへ重荷を負った人がよたよたと歩いていた。イエス様は声をかけた。「乗ってくかい?」重荷を負った人は、イエス様の運転する車に乗り込んだ。だがその人から「ありがとう」の声は聞かれない。イエス様は車を発進させた。それでもまだ車に乗った人から「ありがとう」のお礼は聞かれない。イエス様はふとバックシートに乗った人を見た。するとその人は、重い荷物をわきへ置かず、未だ車の中で背負っていた!この話はばかばかしく聞こえる。せっかく車に乗せてもらったのに、未だ自分で重い荷物をしょっている、というのでは、車に乗ったかいがない。だがこの姿は私たちの姿を表していないだろうか。イエス様を信じた。イエス様が私と人生をいつも共に歩いてくださるということを知った。しかし私たちが自分の重荷を、イエス様に預けずに、相変わらず自分で背負っているとしたら、何ともったいないことか。それでは私たちの心が重苦しくなるのもうなずける。だから今朝改めて、私たちの問題を主に明け渡す決断をしよう。キリストは私たちの代わりに、私たちの重荷を負ってくださろうとしている。だから、私たちはその悩みを手放して、キリストに完全に明け渡す決断をしなければならない。悩みは主のもの、平安はわがものである。今朝、私たちの心配を手放して、キリストにお任せしよう。そうして身軽になって、平安になって、再び月曜日から始まる世の中の生活につかわされていこう。

 

II.主につかわされた者は、自分の心のままを行わない

 主につかわされた者の第二の特徴。それは、自分の心のままを行わない、ということ。キリストは、自分自身の心のままではなく、自分をつかわした方の御心を求めていた。キリストにつかわされた私たちも、私たちの心のままでなく、つかわした方であるキリストの御心を求める。

 

 

 

 

ヨハネ5:30

わたし自身の考えでするのではなく、

わたしをつかわされたかたの、み旨を求めている

ヨハネ6:38

わたしが天から下ってきたのは、自分の心のままを行うためではなく、

わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。

ヨハネ7:16

わたしの教はわたし自身の教ではなく、

わたしをつかわされた方の教である。

ヨハネ12:49

わたしは自分から語ったのではなく、

わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。

 

 私の失敗例を話す。もう何年も前のこと。ある日曜日の午後、私は渡辺先生から、ユースの子供たちを車で送るよう頼まれた。ところが送る道すがら、子供たちと、カラオケに行こうよ、みっちゃん、と話が盛り上がった。そこで生徒の気持ちを大事にする私は、一緒にカラオケに行った。その後、子供たちを家に送り届け、教会に帰ってきた。すると、怖い顔をした渡辺先生が待っていた。私が子供たちをカラオケに連れて行ったことを、子供たちのお母さんを通して、聞いて、知っていたのである。先生は一言「余計なところには寄り道しない。以上。」

 私のまずかった点は何か。渡辺先生は私に子供たちを家に送ることを任務として与えた。カラオケに行くことではない。私は任務以外のことをした。遣わされたのに、つかわした人の意志ではなく、自分の意のままに行動してしまったのが間違いである。

 私たちは同じことをしていないだろうか。世の中につかわれたのに、つかわした方、キリストの御心ではなく、ただ自分の心のままに行動していないだろうか。

 「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地におちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ12:24)ここで、イエス・キリストは、第一義的には、ご自分が十字架で死んで、多くの人を救う、と仰っていると思う。だが第二義的には、キリストがご自分の心を犠牲にして、神の御心を行うことによって、多くの人を救いに導く、という意味でもあるだろう。私たちが自分の利益、自分のプライドを後生大事にしていたら、私たちの人生は、ただ私たちのためのものである。麦は一粒のままである。だが一粒の麦が死んで地に落ちるとき、豊かな実を結ぶ。もし私たち自分自身に死ぬなら、私たちを通して、家族の救い、友人の救いといった、豊かな実りがなされるだろう。 

 今回不安、ということについて、「何かについての心配、思い煩い」という問題を扱った。だが不安には、自分自身についての不安というものもある。何となく不安なのである。活動するが、不安は消えない。人に認められよう努めるが、決して満足を見出すことができない。認められようと、自己アピールしてしまうので、なかなか自己を犠牲とすることができない。

 こうして講壇に立つ私も全く同様である。正直、人に認められたいという思いがどこかにある。彼は若いのに立派な説教をするねえ、と言われたい。だがそれを目的として立つならば、私は一粒の麦のままであり、多くの人を益することは決してできないだろう。だがもし私が自分に死ぬならば、神が私を用いて下さるだろう。私が死ぬことによって、麦が地に落ちて豊かな実を結ぶように、私を通して、神が皆様の魂を祝福して下さるだろう。

 私たちを真に認め、平安をくださるのは神である。野の花空の鳥をさえ心にかけ養う神は、ましてや私たちのことをはるかに大事なものとして、私たちの価値を認めてくださっている。だから自分自身を鬱々と見つめることを止め、顔をあげて神を見上げよう。神の愛に浴する時に、私たちは自分の存在についても平安をもつことができる。そして神のために喜んで、自分を犠牲にし、神の御心を求める者となる。

 

III.主につかわされた者は、つかわされた方の御心を求める。すなわち、囲いの外にいる羊を探し求める

 主につかわされた者の第三の特徴、それは、私たちはつかわされた方の御心を行う、ということ。キリストは私たちをおつかわしになった。それは何のためか。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない」(ヨハネ1016)「囲いにいない羊」とは、これから救われる人のことである。イエス様の御心、それは教会に外にいる人々を、救いに導く、ということ。要するに伝道をする、ということ。私たちが自分の心のままを求めず、つかわされた方の御心を求めるとき、私たちは伝道へと導かれるだろう。人々をキリストの救いに導くこと、それがキリストの御心である。ここで、私たちに伝道する気をなくさせる、3つのよくある質問を取り扱っておこう。そうして私たちは励まされて伝道をしていきたい。

質問1「一体いつになったら、私の家族は救われるのか」

 一体いつになったら私の家族は救われるのか。もうこんなに長く祈っているのに。そのような声がしばしば聞かれる。希望をもってはあきらめ、早数十年。一体いつになるのだろうか…。実は私たちが願っている以上に、私たちの家族が救われることを願っておられる方がいる。それは誰か。キリストご自身である。キリストは、私たちが愛している以上に、私たちの家族を愛しておられる。キリストはどれほどの愛をもって、私たちの家族を愛しているか。ご自分の命を捨てるほどの愛で、愛しておられる。つまりこれ以上ないほどの深い愛で愛しておられる。キリストはご自分の命を投げ出してもかまわない、というほどに、私たちの家族を愛して下さっている。私たちの家族が救われることを、キリストは誰よりも願っておられる。その証拠に、私たちは家族のもとへつかわされたのだ。だからまだ家族の救いを目の当たりにしていなくても、意気阻喪しないようにしよう。これほどまでに深い愛で、私たちの家族を愛するキリストは、必ずやその御救いを実現してくださるだろう。私たちはそれが一刻も早く来てほしいので、焦ったり、諦めかけたりする。だがもしかしたら近い将来、私たちの家族は救われるかもしれない。私たちにはただその時は見えていないだけである。だから私たちは希望をもって、忠実に、家族の救いのために、祈り続け、働きかけ続けたい。

質問2「自分は口下手で、とても伝道なんて大それたことはできない」

 ある人は、自分は口下手でとても伝道なんて大それたことはできない、と考えている。しかしながら、まずは私たちの存在自体がメッセージになっていることを知るべき。私たちは私たちの近しい人々のもとにつかわされている。その人々には、私たちしか、キリストのメッセージを届けることはできない。ほかのクリスチャンでは入り込めないところに、私たちはつかわされている。私たちがキリストを信じて変わった、笑顔になった、裁かなくなった、これらは、ある意味で言葉以上に語る、強力な福音のメッセージである。現に、直接誘われたわけではないが、自分の家族や友人があまりに変わったのを見て、思わず惹きつけられ、教会に来るようになった、という人たちがいる。そういうわけで、口下手でもいい。どう語ってよいか分からなくっても良い。福音に生きる私たちの存在それ自体が、まずは私たちの周りの人々へのメッセージである。

質問3「中々伝道が成功しない」

 ヨハネ4:3538を読んでみよう。ここでまく人、とは福音を最初に伝えた人。刈る人、とは伝道相手の救いを目の当たりにする人。どちらが偉いとか、上下ではない。まく人も刈る人も、すなわち初めに伝えて失敗したかに見えた人も、最後の刈り取りに接して伝道に「成功した」人も、「共に喜ぶ」(ヨハネ4:36)。私たちはその人の救いを目の当たりにしないかも知れない。でも他の人の伝道によって、その人が救いに至るかもしれない。いずれにしても、伝道の司令官はキリストである。このつかわした方が責任をもって、その方の救いを計画くださっている。だから私たちは、私にできることを、たとえ小さなことでも、忠実に、希望をもって、忍耐深く行っていきたいと思う。

 

 最後にヨハネ4:34を読もう。このときイエス様は喉はからから、お腹はぺこぺこだった。そこで弟子たちはコンビニにお弁当を買いに行って来たのだ。ところがイエス様は、意味深に、自分は君たちが知らない食べ物をもっているよ、と言う。そこで弟子たちは、誰かお弁当買ってきたのかな、といぶかった。するとイエス様は、私の食べ物とは、わたしをつかわされた方の御心を行い、そのみわざをなし遂げることだ、と仰った。要するにイエス様は、伝道は三度の飯より美味い、と言っているのである。私たちもこの三度の飯より美味い伝道に従事しよう。平安の内に、自分の意のままでなく神の御心を求め、共に魂の収穫の喜びにあずかろう。