受難週―キリストによる罪の赦しと義認―使徒13:38-41    主の2008.3.16礼拝(受難週)



今週はキリストが地上で最後の一週間を過ごされた受難週です。きょうの日曜日、キリストは子ロバに乗ってエルサレムへ入り、大勢の群集が「ホサナ(万歳)!」と叫びながらキリストを迎えます(マタイ21:1-11)。その僅か5日後、金曜日の明け方、キリストは朝9時に私たちの罪の身代りになって十字架にかかり、午後3時に息を引き取り、遺体は亜麻布で巻かれ、岩を掘りぬいた小さな洞窟の墓に葬られます(マタイ27:57-60)。足掛け三日後の日曜日の朝、キリストは死を打ち破って復活され(マタイ28:1-7)、それ以来キリストの復活はイースターとして、全世界で祝われています。

かつて、無神論を土台とする共産主義国家ソ連が栄えていた時代がありました。無神論の国ですから、教会堂は潰され、倉庫にされ、立ち入り禁止になってしまい、キリストを信じる者達は森の中、農家の納屋などで集会をするという迫害時代が続きました。ところがソ連は70年で崩壊し、それと共に各地にある教会堂が修復されているニュースが報じられていました。地上の国は興り、滅びて行き、栄えていた民族も没落して行きます。世界の歴史は国家、民族の興亡の歴史ですが、時代や人に左右されず、キリストの十字架は全世界に伝えられ、輝き続けています。先週、「世は移り人は変わるとも、十字架はその光輝を放ちてやまず。・・・十字架は歴史の中枢なり。人生のよって立つ磐石なり」というクリスチャンの文を読み、キリストの十字架の救いを改めて感謝しました。

本日は使徒行伝13:38-41です。38節「イエスによる罪の赦しの福音」、39節「イエスによって義とされる(新改訳は脚注を見よ)」とあります。イエス・キリストは十字架にかかって死んで下さった唯一の救主です。自分の罪を認め、キリストが十字架で罪の身代りになって死んで下さったことを信じ、キリストを心にお迎えすれば、罪のない者と認められ、神の子になります。今週の金曜日はキリストの十字架の受難日です。使徒ヨハネの「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(Ⅰヨハネ3:16)という御言葉によってキリストの十字架を忍びつつ、イースターに向かって、祈って備えて参りましょう。問題を抱えている方、癒しを必要とする方は、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで死に渡された方が、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか」(ロマ8:31-32)、また「何事でもわたし(イエス・キリスト)の名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)という約束を信じ、祈って行きましょう。主が最善最良の答を与えて下さいます。



内容区分

1、イエス・キリストは罪の赦しを与えて下さる救主である。13:38前半

2、イエス・キリストを信じる者は義と認められ、神の子となる。13:38後半―41

資料問題

13:16-37で使徒パウロはイエスがメシヤ(キリスト)であることを説き明かし、本日の個所38-41節でキリストを信じる決断を促している。38節「イエスによる罪のゆるしの福音」、福音の中心点はキリストの十字架と復活である。人はキリストの十字架を信じることによってのみ罪の赦しを得る。39節「イエスによって義とされる」、人はモーセの律法によってではなく、キリストに対する信仰のみによって義とされる(義認)。これは使徒パウロが伝える福音の真髄であり、ガラテヤ2:16、3;5-12、ロマ3:21-31に詳述されている。41節はハバクク1:5参照。ユダヤ人が救いのメッセージを否定しないように勧告している。



1、イエス・キリストは罪の赦しを与えて下さる救主である。

兄弟たちよ。この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。(38節前半)

世界には60億の人々が住んでいて、それぞれの民族によって固有の文化、生活習慣があり、言葉が違います。ごく狭く考えてみて、この会堂に凡そ百人あまりの人々がいますが、それぞれに異なった生活・体験・仕事があります。しかし、世界60億の人々、あるいはここに集まっている人々にとって、どうしても逃れることのできない一つの共通点があります。それは「罪」という問題です。聖書は「義人はいない、ひとりもいない・・・すべての人は罪を犯しため、神の栄光を受けられなくなっている」と告げています(ロマ3:10,23)。

罪とは何でしょうか。日本人は罪意識よりも、自分に災いをもたらす不幸のほうに敏感です。多くの宗教が、家内安全、商売繁盛、無病息災、交通安全、国家繁栄を祈願します。それらを考えてみると、自分を中心にして、良い悪い、損得などを考え、自分に良い事があればご利益があるといいます。自分に不幸があれば、祟りであると恐れます。それは本当の罪意識ではありません。

罪とは何かといえば、神様に対する反抗心であり、神様の戒めに従わないことです。今週は受難週です。日曜日の日に、キリストは大勢の人々に歓呼の声をもって迎えられました。ところがその僅か5日後に同じ人々がキリストを十字架につけるように叫んでいます(ルカ23-20-23)。神様の戒めは、「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(マタイ4:10、申命記6:13)ということです。エルサレムの人々は神様を表すキリストが人を癒し、奇蹟をもってパンを与えてくれている間は、自分たちにご利益をもたらすお方としてキリストに従っていました。ところが目の前にいるキリストが神の子であり、自分達が礼拝を捧げなければならないお方であると知った時に、彼らはキリストに反抗します。多くの人々が、キリストがいなければ自分達の好きなことができる。規則正しく毎週キリストを礼拝することなど出来ないという傲慢な人間中心の考えをもっています。それが罪です。神様を表すキリストを離れて、キリストに背いて自分勝手な生活をすることが罪です。罪とは、もともとは的外れという意味の言葉です。キリストという的を外して生きれば、何が正しいことで何が悪いことであるかが分らない的をはずした人生になってしまいます。自分が何を目標にして生きていくのかという的をもたない人生です。キリストを信じて罪の赦しを受け、心の生まれ変わりを与えられ、天国という的に向かって歩むことが、真の人生の生き方です。キリストという生きる基準、キリストという的をもたないと、知らないうちに悪いことに加担するような人生を歩んでしまいます。キリストを神の子として信じて、罪の赦しを受け、キリストに従って生きるという正しい的を持つ人生を歩むことが、人生に真の祝福をもたらします。

キリストは、的はずれの人生を送って地獄に向かっている私たちの罪を背負って、十字架の上に身を捧げて死んで下さった救主です。キリストを信じれば、罪が赦され、人生が新しくなります。

三木さんという方は、戦争中アメリカ軍に体当たりをする特攻機の設計に携わります。その結果、100名を超える若者が自分の設計した特攻機に乗り戦死した。敗戦になり、命令とはいえ、自分の設計した特攻機で若者が死んだということで、自己嫌悪に陥り、後悔しても仕切れぬ日々を送っていた。ミッションスクールの東京女子大学で学んだ姉がクリスチャンになり、母もクリスチャンになり、また姉の後輩であった自分の妻もクリスチャンになり、渡辺善太牧師に会います。三木さんの悲痛な訴えに渡辺善太師は「凡て労する者・重荷を負う者、われに来たれ。われ汝らを休ません」(マタイ11:28文語訳)というキリストの御言葉を示します。彼はキリストに重荷をおろし、救いを受け、敗戦の年の12月に洗礼を受けます。神に導かれ、運輸省鉄道技術研究所に入り、優れた設計技術を生かして新幹線設計に携わり、今日の新幹線を造り上げます。キリストを知らない時は、命令とはいえ、人を殺す特攻機の設計をするという的はずれな人生で、前途有為な若者を死に追いやったという罪責感に悩まされた。キリストを信じて罪の赦しを受け、心の自由を与えられ、人々の役に立つ仕事に導かれ、新幹線という多くの人に役立つ有益な働きをする事ができたのです。

昨年の日本を表す言葉は『偽』でした。罪をもったままの人間の心はドンドン悪くなる一方で、見つからなければいいという偽りの風潮が蔓延しています。クリスチャンはキリストによる罪の赦しを与えられていることを感謝し、次の言葉を心に留めて下さい。

「事の帰する所はすべて言われた。すなわち、神はすべてのわざ、ならびにすべて隠れた事を善悪とともにさばかれるからである」(伝道の書12:14)。

2、イエス・キリストを信じる者は義と認められ、神の子となる。13:38後半―41

モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はもれなくイエスによって義とされるのである。(38節後半-39節)

キリストの十字架を信じて、私たちは罪を赦されます。39節で罪を赦された者は「イエスによって義とされる」と言われています。義とされるとは神様の前に正しい者として認められることで、義認と言います。神様が正しい者と認めてくれなければ、私たちは天国に行くことができません。キリスト以前は、モーセを通して十戒に代表される律法が与えられ、人々は必死になって律法を守ろうと努力しました。パウロは律法を学び、その律法を全部守って天国に行くように修養し、努力しました。しかし彼は悲痛な体験をしています。「善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち自分の欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行なっている」という嘆きです。罪の中にもがき苦しんでいたパウロはキリストによって、勝利の道を見出し、感謝をもって、「わたしはなんという惨めな人間なのだろうか。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」と言っています(ロマ7:18-19、24-25)。パウロはモーセの律法を守り、善い人間になろうとしたができないままで、罪でがんじがらめに縛られていた者であった。だが、「私たちの主イエス・キリストによって」という短い言葉で、キリストの十字架を通して罪の力から解放され、自由を得ることができたという救いの感謝を述べています。

キリストの十字架に救いがあり、十字架に人を新しく生まれ変わらせる力があります。26年前に私と家内で、喉頭ガンで東京医科大学病院に入院している71歳の父を見舞い、キリストの福音を語る機会が与えられました。その時に、父はキリストの十字架の救いを信じて罪を悔い改め、大粒の涙を流してキリストを心に迎え入れました。その後、小康状態を得て11月熊谷の献堂式に母と共に出席し、献金を捧げ、その夜は泊まり、私と愛雄で近所の銭湯に行ったことを思い出します。それから再入院し、72歳の7月に召されて行きました。葬式は東京の自宅で行ないましたが、町内はじまって以来のキリスト教式の葬儀で、キリストの福音を伝える機会になったことは感謝でした。父には、ある時はキリストの福音を拒否されたことがありますが、キリストの十字架を語る時を神様が備えて下さって、救いを得ることができたのです。まことに「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」(Ⅰコリント1:18)という言葉は真実です。

キリストの十字架を信じて、罪が赦され、私たちは義と認められるのです。ところで、罪が赦されるということに加えて、なぜ義と認められるということを言うのでしょうか。「義と認める(義認)」とは「罪を認める」という言葉と正反対の言葉です。義と認めるとは法律用語で、法律に照らし罪のない者として合格したと判定することです。私たちはキリストの十字架を信じて「あなたの罪は赦された」という赦しの宣言をいただき、救われます。救われますが、また罪を犯してしまうかも知れないという不安があります。そこで、あなた方は罪人であり、神様の前に落第生のような者であったが、キリストの十字架によって罪を赦され、落第ではなく合格した者になった。あなた方はキリストによって義なる者と認められ、神の子になったのである。あなた方は神の子になって天国学校に入って、地上の生涯が終る時に天国に行けるという合格の恵みをもらったのである。あなた方の名前は天国の「いのちの書」に記録されている。あなた方は義とされ、神の子になり、既に天国の家族の中に加えられています、ということです。

その上に、キリストは私たちが守るべきだった神の戒めを全部守って下さったお方です。私たちは失敗の多い者ですが、キリストが成し遂げて下さった恵みによって、義なる者と認められ、神の子の一員になっているので、間違いなく天国に入ることができるのです。だから安心してキリストに信頼し、キリストに縋りなさいということです。



キリストの十字架により罪の赦しを受け、義と認められ神の子になるという祝福を与えられていることを感謝します。この祝福をいただく条件はたった一つ、それは「イエス・キリストを罪からの救主、また自分の人生の主として信じ、受け入れること」です。

皆さんはイエス・キリストを信じています。キリストを信じるために、私たちは自分の罪を認めました。罪をもったままでは滅びて、地獄の火の中に投げ込まれるという悲惨な運命を知らされました。しかし神は愛です。キリストの十字架を信じれば罪が赦されるという福音を聴きました。罪が赦されることを願って、自分の心の中にイエス・キリストを迎え入れました。キリストを自分の救主として、また主として心の真中に迎え入れた時に、罪の赦しという心の喜びを与えられました。そして義と認められ、神の子になって永遠の命を与えられ、天国に行くという約束を与えられています。

私たちは神に背く罪人であるという、逃れることのできない運命を背負っていました。私たちを罪から救い出し、神の子という新しい者にするために、キリストが私たちの罪を背負って十字架の上に死んで下さったのです。豊留先生が「溺れている人がいる、その人を救うために浮き輪を投げる、溺れた人がその浮き輪に掴まれば救われる。罪という大海の中で溺れている人に、キリストという浮き輪を投げればよい。誰でもキリストに縋れば、罪という大海の中から安全な岸に引き上げられ、救われる」と教えてくれたことを思い出します。中には「何もキリストに縋らなくてもよい、自分は何とかして自力で岸に向かって泳いで行く」という人がいるかも知れません。あるいは「キリストに縋らないで、もっと哲学的な救いがあるかも知れない」というように考える人がいるかも知れません。しかしキリスト以外には救いはないのです。ペテロは聖霊に満たされて、「このイエス・キリストによる以外に救いはない。私たちを救い得る名は、このイエス・キリストを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである」(使徒4:12)と宣言しています。キリストは天の栄光の位を捨てて地上に下って人間の姿をとり、罪のない清い命を、人間の罪の身代りとして十字架に捧げて、罪の赦しの道を開かれたのです。



*使徒13:38-41を読みます。キリストによって罪が赦され、キリストによって義とされ、神の子にされていることを感謝しましょう。

①受難週に際し、先ずキリストの十字架によって救われていることを感謝しましょう。

②キリストを知らないで滅びに向かっている周りの方々にキリストの救いを伝えましょう。

③キリストは命を十字架に、私たちのために命を犠牲にして救いを下さいました。救いを与えて下さると同時に、私たちの様々な祈りの課題にも答えて下さいます。家族の救い、病気の癒し、人間関係のもつれ、経済問題、仕事のことなど主に縋って祈りましょう。

④来週のイースターの日に洗礼を受けるM.Tさん、A.Tくんのために祈りましょう。

婚約をするK.Tさん、K.Kさんのために祈りましょう。

⑤イースターに出席する新しい方々にキリストの救いが与えられて行くように祈りましょう。



*聖歌399番「カルバリ山の十字架」を讃美し、祈ります。



祈 り

天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストの十字架によって、罪を赦されている事を感謝します。キリストの十字架によって義と認められ、神の子にされ、天国へ行く恵みを与えられている事を感謝します。今週は主の受難週であることを覚え、キリストの十字架に感謝し、キリストの十字架を深く思いつつ、来週のイースターに向かうことができるように、恵み深い御霊によって導いて下さい。十字架の力によって病気の方々を癒して下さい。困難や試練の中にある方々を助け、支え、勝利を与えて下さい。私たちの主イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。



参考文献:使徒行伝注解書―佐藤、黒崎、フランシスコ会、バークレー、榊原、竹森、モルガン、LAB。 「この深い河を越えて・マナブックス」、「個人伝道ノート・豊留真澄講義より」、「内村鑑三全集・教文館」