キリストはよみがりであり、生命(いのち)である ヨハネ11:25-26
2008.3.23イースター・主の復活祭
英国の博物学者チャールズ・ダーウィン(1809-82年)は1858年「種の起源」を出版し、この書物を通して「進化論」の考え方が伝えられることになりました。「進化論」公表150年にあたり、読売新聞社などにより「ダーウィン展」が上野科学博物館で開かれています。それに合わせて「ダーゥイン特集」が読売新聞に組まれていました(2008.3.17号)。ダーゥインは南米ガラパゴス諸島に行き、そこの生き物を見て進化論を考え付いたとありました。特集記事の中に「彼は船旅の前に方位磁石、護身用の拳銃や聖書まで積み込んだ。のちに進化論で神を否定したことを考えると、皮肉だが、若き日のダーゥインは帰国後、聖職者になるつもりでいた」という一節がありました。進化論は一つの仮説ですが、この立場に立つと、創造主である神様を否定するようになります。
同じイギリスにナルニア国物語の著者C・S・ルイス(1898-1963)がいます。彼は若い時に一回信仰を否定するのですが、ある時「主は生きておられる。何か不思議な喜びによって私は満たされている」というキリストとの出会いを通して、信仰を回復します。第二次世界大戦の最中にあって、彼はラジオを通して英国国民に「不思議な喜びの源、それは今も生きているキリストの十字架の救いであり、キリストによる永遠の命の恵みである」ことを人々に語りかけ、戦火の中にある人々に祈りと希望を与えています。進化論は限りなく全てが善い方向に進化して行くといいますが、人の歴史は罪と、罪から生じる戦争に代表される悲惨な出来事の連続です。一方、人は確かに罪に支配され、争いあっている。しかし、そこにキリストが来られて、人の罪のために十字架に身代りになって、死んで下さった。罪を悔い改めてキリストを信じると心が生まれ変わり、愛の心が与えられます。人と人との交わりが回復して行くという聖書に基づく信仰による希望が与えられます。ルイスはナルニヤ国物語という寓話を通して、キリストを表すアスランというライオンによって悪が滅ばされ、キリストを信じる者達が住む、永遠に滅びることのない天国の模様を描き出しています。
本日はキリストの復活を記念し、喜び祝うイースター・主の復活祭です。日本では春の彼岸の季節で、多くの方々が墓参りに行きます。イエス・キリストは金曜日の朝9時から昼の3時まで私たちの罪の身代りになって苦しみを受けられました。キリストの遺体は亜麻布を巻かれ、小さな洞穴の中にある石のベッドに安置されました。三日目の朝に弟子達が墓参りに行くと、墓の中は裳抜(もぬけ)の殻で、そこに天使が現れ、「キリストは復活された」(ルカ24:6-7)と告げます。それ以来、私たちクリスチャンはキリストの墓参りに行くことはありません。よみがえったキリストは私たちの心の扉を叩いています。「誰でもわたしの声を聞いて、心の扉を開けるなら、わたしはその中に入って、一緒に食事をするような親しい交わりをする。あなたの心の中から、内からあなたを助ける」と呼びかけています(黙示録3:20)。キリストは墓ではなく、信じる私たちの心の中に住んで下さいます。
*皆さん、イエス・キリストは、今、どこにおられますか・・・皆さんの心の中にいて下さいます。
*2008年イースターに際し、救主イエス・キリストの御言葉であるヨハネ福音書11:25-26を心に留めて下さい。
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」。
11:25-26節のキリストの御言葉の意味はこうです。(尾山・現代訳より)
「わたしは死人を復活させ、また、死んだ人にもう一度命を与えて、生き返らせることのできる者です。わたしを信じる人はたとい死んでも、再び生きることができます。
また、わたしを信じる人は永遠の救いに入(はい)れますから、決して滅びることはありません」。
1、クリスチャンの人生は死んで終りではない
人は誰でも地上に誕生する時、「おめでとう!」という祝福の言葉に包まれます。しかし生きて来たことが確実であるように、人は例外なしに確実に死んで行きます。ふだん私たちは死のことを考えていません。きょう、今この礼拝に出席している方々も死のことを考えていないと思います。でも人生は何が起るか分りません。私事になりますが、昨日土曜日の早天祈祷会の前に、お腹が激烈な下痢症状になりました。尾籠な話ですが、起きてから3時間の間に6回もトイレに駆け込むというほど激しい症状でした。急性胃腸炎という診断で、夕方まで安静にしていました。そんなことで、生まれてはじめて、今朝のイースターの早天礼拝に行けないという経験をし、そして人生には何があるか分らないということを改めて知らされました。多くの皆さんに祈られ、回復したことを感謝します。こうしてイースター礼拝に出席できたこと、この後の洗礼式、婚約式を司式できることを感謝します。ただ残念なことは午後の祝会ポットラックでは絶食するということです。
このように、人生なにがあるか分りません。統計的には日本人は80歳ぐらいまで生きるそうですが、しかし死は突然にやってきます。一般的に死は人生の終わりと考えられています。クリスチャンはキリストの十字架によって罪を赦されている事、クリスチャンはキリストが死を滅ぼして霊と肉体をもって復活したことによって永遠の命を与えられていることを信じています。クリスチャンも一度は肉体の死を迎えますが、霊は神の御許に迎え入れられます。そして世の終わりの日になると、一度は朽ちた肉体がキリストの復活の姿のように、栄光の姿に変えられ、永遠にキリストと共に天国で生きます。クリスチャンはキリストの復活によって、死んで終わりではない、いつまでも生きる永遠の命を受けています。生きるにしても死ぬにしても、キリストに全てを委ね、日々を平安な心をもって生き抜く命の力を与えられています。
私事になりますが、私の妻の両親はクリスチャンでした。父は前立腺ガンになり、末期の状態でしたが、父はこの現実を静かに受け入れました。自分はキリストによって永遠の命を受けている、だから自分の人生は死んで終わりではない。この世を去った後は、神の御許に迎え入れてもらえるという確かな希望がありました。その希望をもって、生きている間は最善を尽くして行こうという聖霊による気力が与えられ、病気の中に呟くことなく、感謝を持って日々を過ごすことができたのです。臨終の床で母は詩篇23篇を朗読しました。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」・・・太平洋戦争前、父は長らく韓国の鉄道に勤めていたのですが、日本の敗戦と共に全てを失い、無一物で帰国しました。しかし主は生活の手段を与えて下さり、日々を守って下さいました。大きな病気をして胆嚢を切り取ったこともありましたが、「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも災いを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」という恵みを体験しました。地上を去るに当たって「わたしの生きている限りは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」という御言葉に送られて天国に旅立って行きました。母は、「天国へ先に行って待っていて下さい。私も後から行きますから。長い間本当にありがとうございました」という感謝と祈りをもって父を天に見送ったのです。その2年後、母は信仰の友の讃美と祈りに包まれて、夫の待つ天国へ旅立って行きました。
キリストの「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は、いつもでも死なない」という御言葉は、永遠の命をもたらす恵みの御言葉です。
2、クリスチャンは永遠の命を信じて、日々を真剣に生きる
死はいつ訪れてくるのか誰にも分りません。クリスチャンは、生きているこの一日が永遠の天国に結びついていることを信じています。クリスチャンは、「今は恵みの時、今は救いの日である」(Ⅱコリント6:2)ことを信じ、きょうの一日を悔いなく過ごすように努めます。
先週の木曜日はキリストのゲッセマネにおける祈りの日、金曜日はキリストの十字架の日でした。それに先立って水曜日の祈り会で「キリストの十字架上の七つの言葉」について荻野伝道師のメッセージがあり、恵みを受けました。私は木曜日、金曜日に聖書のキリストの十字架の場面を読みました。そして本日、「わたしはよみがえりであり、命である」イエス・キリストのイースターを迎えることができた事を感謝しています。
アフリカが暗黒大陸と言われていた時代、イギリスのデービッド・リビングストーンは宣教師としてアフリカ大陸の奥深くに分け入り、キリストを伝道しました。最後はアフリカ奥地の小さな小屋で、粗末な手製のベッドの脇で、祈ったままの姿で息を引き取っていたのを発見され、遺体はイギリスに運ばれ、イギリス国中の哀悼の中に手厚く葬られました。彼は生きている間は全力を尽くして自分の使命を果しました。それが永遠の天国につながっていることを信じていたからです。その証しとして、日々に祈り、祈ったままの姿で天国に召されて行きました。そして彼の召天後、多くの若者達がアフリカ伝道に立ち上がって行きました。
ここにいる大部分の方々はキリストの十字架を信じ、永遠の命を受けているクリスチャンです。毎日霊の糧である聖書を読み、霊の呼吸である祈りをささげて行きましょう。主の日の日曜礼拝、週の半ばの礼拝と言われている祈り会を大切にし、集会優先の生活に励んで行きましょう。いつも喜んで行きましょう。絶えず祈りましょう。全てのことについて感謝しましょう。
クリスチャンですが、しばらく教会を離れている方々がいるかも知れません。キリストの「わたしにつながっていなさい。そうすれば実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れてはあなた方は何一つできないからである」(ヨハネ15:5)という御言葉を思い出し、教会生活に励んで行くように祈って、再決断してきょうから祝福の日々を前進して下さい。
教会にはじめての方々、信仰をもっていない方々がいるかも知れません。この機会に是非キリストを求めて、聖書を読んで下さい。必ずあなたの人生は祝福に変ります。
もう一度ヨハネ福音書11:25-26を読みます。この御言葉を心に刻んで下さい。
祈りの後に洗礼式を行います。
洗礼式の次に婚約式を行います。
お祈りを捧げます。
天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストの救いに与っていることを感謝します。
私たちを罪から救い出すために十字架にかかり、死を滅ぼしてよみがえったキリストの恵みをほめたたえます。「わたしはよみがえりであり、命である」というキリストの御言葉を心に刻み込んで信仰の歩みをさせて下さい。ここにおられる一人一人の個人的な願いや求めに主が答えてくださって、心に平安を与え、勝利を与えて下さい。
「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」という御言葉に従い、若い日にキリストを信じて洗礼を受けるM.Tさん、A.Tさんを祝福して下さい。
キリストの不思議な導きによって、婚約をするKKさん、KTさんを祝福して下さい。
午後からのイースター祝会を主の臨在の中に導いて下さい。
よみがえって永遠に生きておられる救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン