キリストが、わたしのうちに生きておられるのである ガラテヤ2:15-21     主の2008.3.30礼拝



先週イースターの聖日に142名の方々が集まり、復活のイエス・キリストをお祝いできたことを感謝します。昨日土曜日、桜の咲きほころぶ上野公園・国立博物館前の広場に300名のホームレスの人々が集い、集会が開かれました。午後2時から一時間の礼拝の中で讃美を歌い、メッセージを通してキリストの救いを伝え、祝福の祈りを捧げました。礼拝後、ホームレスの人々のお腹を満たすために、皆さんからのおにぎりと、ホームレス伝道を主催しているトポスキリスト教会が用意した温かいスープを配る給食活動をしました。5歳の慧も「はい、どうぞ」と言ってホームレスの一人一人におにぎりを差し上げる手伝いをし、受け取るホームレスの人々もニコニコして受け取っていました。社会から見捨てられ、寄る辺のない人々に「キリストに救いあり!キリストによって社会復帰あり!」ということを伝えるために、熊谷の教会が用いられていることを感謝します。

ホームレス伝道の時、また様々な方々へ伝道する時、いつも思うことは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」というキリストの御言葉です(マタイ4:4)。教会の働きの中心、教会の集まりの目的は神の言葉である聖書を通して、キリストの救いを伝え、キリストの救いに感謝することです。ホームレス伝道や教会の伝道の働きを通して、キリストを心に信じ受け入れ、喜びの生涯に入る者が次々に起こされて行くことを心から願っています。

本日はガラテヤ2:15-21です。20節「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」・・・これは私たちの信仰の中心点です。ロンドンの馬場晶子さんが関西・芦屋にいる85歳のお母さんのお見舞いに来られ、その合間を縫って先週木曜日、熊谷に一日だけ来られました。一人暮らしをしているお母さんに認知症があるそうですが、「お母さん、イエス様はどこにおられるの」と晶子さんが問いかけると、「私の心のうちにおられる」と明確に答えるとのことです。キリストは、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束され(マタイ28:20)、私たちを見放さず、見捨てず、永遠に共にいて下さる、愛の主です(へブル13:5後半)。

「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」・・・キリストは私たちの救主であり、私たちの命の主です。キリストの御言葉に耳を傾け、祈って、新しい一週間の日々を歩んで参りましょう。



内容区分

1、クリスチャンは、キリストを信じる信仰によって義と認められた者である。2:15-18

2、クリスチャンは、キリストが自分のうちに生きておられることを信じる者である。2:19-21

資料問題

15節「異邦人なる罪人」、神のない人という程の意味で異邦人の別名のごとくに用いられていた。16節「義とされる」、神の前に正しい者とされること。20節「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」、キリストの十字架を信じるとは、自分も十字架につけられ罪に死んだ者であるが、キリストが復活され今はキリストが自分の内に生きておられるのである。21節「義が律法によって得られるとすれば」、義が律法によって得られるとすればキリストの死はムダになる。そんな馬鹿らしいことは絶対に有り得ない。



1、クリスチャンは、キリストを信じる信仰によって義と認められた者である。2:15-18

人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリストを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら律法の行いによっては、誰ひとり義とされることがないからである。(16節)

ガラテヤの手紙を記したのは使徒パウロです。彼はユダヤ人で、熱心に律法を守る人でした。救われる前のパウロは、ユダヤ人であることを誇り、15節で「私は神に選ばれた民であるユダヤ人であって、神を知らない異邦人のような者ではなかったが・・」と言っています。しかし、彼は神を知っていると言いながら、心は罪に縛られたままで、救われていませんでした。彼は日夜努力して律法を守ろうとしたのですが、実際には良い事をしたいという気持はあるが出来ない。その反対に悪いことをやめようと強く思うが、現実には何故か悪いことをしてしまう。どんなに頑張っても自分は律法を守れない。自分は罪の力に支配され、このまま罪人として滅んで行ってしまうという恐れと不安とを持っていた時に、パウロはイエス・キリストに出会ったのです。いやキリストの方から彼に現れて、彼の罪を赦し、永遠の命を与え、伝道者になるように使命を授けてくれました(使徒9:1-30)。パウロは、自分は何も良い事が出来なかったが、悔改めてキリストを信じた時に、無条件で罪が赦され、自分を縛っていた罪の力から解放されて、心に喜びと感謝が溢れてきたことを身をもって知りました。パウロは、救いはキリストの選びによることであり、人間の努力によって得られるものではなく、神の賜物であること(エペソ2:8-10)、キリストを信じることが神に義と認められる唯一の道であることを体験したのです。それで16節で2回も「人が義とされること、すなわち神に正しい者と認められるのは、ただ一つキリストを信じる信仰によってである」ということを述べています。

キリストを信じて、新しく生まれ変わることができます。キリストを信じて罪を赦され、神様に義とされ、正しい者と認められ、永遠の命を受けることができます。それ以外に救いの方法はありません(使徒4:12)。人間の心の中に罪があり、神様に反抗し、まことの神様を信じないで、自分勝手に偶像をこしらえて拝んでいます。罪を持ったままの人間は、例えば理由もなく、電車を待ってホームに立っている人を突き落として命を奪う、或いは駅で刃物を振り回して大勢の人々を突き刺すような事をしでかします。それは特殊な例ではなく、全ての人間の心の中に盗み、人殺し、貪欲、エロチックな考え、妬み、悪口、高慢などの罪があります。罪をもったままでいれば、人はやがて死んで、神様の審(さば)きの座で滅びの宣告を受け、永遠のゲヘナ(地獄)の中に投げ込まれます。しかし「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:8)。神様の独り子であるイエス・キリストがこの世に来られ、私たち人間の罪を背負って十字架に架り、罪の身代りになって死んで下さったのです。私たちが自分の罪を認め、悔改めてキリストの十字架を信じれば、罪を赦され、永遠の命を受けて神の子になり、神様の「いのちの書」(ルカ10:21、黙示録13:8)に名前を登録され、天国に行く祝福を与えられます。

ピリピの町の牢屋番が、パウロとシラスに「先生がた、私は救われるために、何をすべきでしょうか」と質問しました。二人は間髪を入れず、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」と答えています。ピリピの牢屋番は、すぐにキリストの十字架と復活の話を聞き、それを家族にも聞かせ、全家族がキリストを信じて洗礼を受け、家庭に大いなる喜びが溢れたことが証しされています(使徒16:25-34)。

あるご婦人が、教会に通ってはいたが救いの導きを受けずにいたので、キリストを信じて救われるという信仰の中心点が分らずにいた。教会に行っても心に平安がなく、遂に不眠症になり、時々幻聴が聞こえたりするようになって来た。ある晩、祈り方を教えてもらった。それまでは下を見て、うつむいて祈っていたが、その日は天を見上げて、ひたすら主の名を呼んで祈った。一時間ほど祈って、ふと気づくと、なにか説明はできないが、しかし喜びが心の底から湧き出てきた。そして救われたという思いで、踊りたくなった。それ以来、その喜びは消えることなく続き、不眠症も幻聴も全てが消えてしまったのです。その証(あかし)を通して、「主の御名を呼び求める者は、全て救われる」(ロマ10:13)という聖書の約束は真実であることを思い、感謝しました。

救いはキリストにあります。キリストを信じることによってのみ、罪が赦され、新しく生まれ変わり、永遠の命を受けることができます。



2、クリスチャンは、キリストが自分のうちに生きておられることを信じる者である。2:19-21

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって生きているのである。     (20節)

キリストを心に信じ受け入れて、私たちは新しく生まれ変わり、クリスチャンになります(新生)。

クリスチャンとはキリストに結びつき、キリストの命を受けて生きている者です。クリスチャンの特徴は教会生活に励むことです。キリストを信じて、キリストに従う者は、キリストを自分の心の真中にお迎えして生きて行きます。



きょう、今、キリストはあなたの心の真中におられるでしょうか・・・。



ここにいる全ての方々が「はい、イエス・キリストは私の心の内にいます。キリストは私の救主であり、私の主です」と答えて下さることを感謝します。

しかし、時々「私はキリストを信じているのかどうか分らなくなってしまう」という人がいます。その原因は自分の感情に左右されるからです。洗礼を受ける前に洗礼講座で「信仰は人間の感覚(五感)に左右されない」ということを学びます。私たちが高価な宝石を手に入れた場合、その宝石を所有しているという事実は、私たちの五感に左右されません。どんなに悲しいことや嫌なことがあったとしても、そして、それらの問題のために自分が宝石を所有していることを一時忘れたとしても、その宝石を持っていることには変わりがありません。その宝石は、楽しい時には自分のものになり、つらい時には無くなってしまうというようなことはありません。私たちはキリストを信じる信仰によって救われたのです。喜びや感激を経験したから救われたのではなく、キリストを信じて救われたから喜びを経験するのです。信仰が最初であり、感情は後に続いてくるものです。救われている感じがあろうとなかろうと、キリストを信じて救われたことを感謝し、讃美して行くこと、それが真の信仰です。

「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」・・・この御言葉を信じ、キリストが私の心の内にいて下さるということを信じ続ける時に、純粋にキリストを愛し、人を愛することができるようになります。そして、その気持を讃美を通して表すことができます。「白い巨塔」というドラマの主題歌を歌ったニュージーランド出身のソプラノ歌手ヘイリー・ウェンステラさんはクリスチャンです。20歳の若さで、イギリス・エリザベス女王、アメリカ・ブッシュ大統領の前で歌い、またユニセフ親善大使として世界のチヤリティー活動に貢献しています。彼女は純粋にイエス・キリストを愛し、純真さ、謙遜さをもっていると評価されています。彼女の透き通った声はアルーコールを飲まないからと言われています。キリストを愛し、その瞳は輝き、キリストが自分の命であることを歌い、多くの人々にキリストを表しています。

私たちは、きょうも聖歌により、プレイズによりキリストを讃美しました。私たちの心の中にいて下さるキリストを、声の限りにほめ讃えましょう。昨日上野公園ホームレス伝道に我孫子教会のメンバーが讃美をささげ、その中で「君は愛されるために生まれた」を歌い、中学生ぐらいの女の子が曲に合わせてダンスをして主への感謝を表していました。「キリストがわたしのうちに生きておられるのである」ということを、讃美を通して表して行く日々でありますように、キリストを讃美し続けて行きましょう。

「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」・・・キリストを心に宿すと、私たちの心は熱く燃える、喜びが湧いてくるようになります。恩師豊留先生は「私の生涯の目的は、クリスチャンがキリストきちがいになり、ノンクリスチャンを巻き込んで行くことである」と教えてくれました。そのために、「福音書を読んで読んでキリストの命に触れ、キリストの愛を心に満たしていただきなさい」と言われました。ペンテコステの日に聖霊が降り、聖霊の時代が始まりましたが、聖霊は常にキリストを指し示す働きをします。聖霊によってキリストを救主として信じることができました。聖霊によってキリストを伝道する力が与えられています。聖霊によって心の奥にある訴えや願い事を聖霊自ら言い難きうめきをもって、あるいは聖霊の言葉である異言を通して、キリストの御名によって天の神様に祈ることができます。聖霊に導かれ、私もキリストきちがいになって行きたいと願って、論文などに「キリストきちがいになろう」ということを書くと、編集者から「きちがいは差別用語である。キリストきちがいは過激すぎる」とクレームがきますが、そのクレームは間違っています。今クリスチャンという名前を使っていますが、クリスチャンというのは、最初はキリストを信じている者を馬鹿にする言葉だったのです。「キリストを信じている者たちは、すぐにイエス・キリストと言う。彼らはキリストに夢中になっている。彼らはキリスト野郎だ」というような意味合いを込めて、クリスチャンという呼び方が始まりました。今ではクリスチャンとはキリストを信じ、信仰生活に励んでいる者であるという良い意味の呼び名になっています。キリストきちがいという呼び名も、キリストを心から信じている者であるという肯定的な言葉として使われて行くようになることを信じています。日本にクリスチャンが増える事を願うならば、私たちがキリストきちがいになって、キリストの十字架と復活を伝えること以外には方法がありません。

「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」・・・あるクリスチャン女性が飛行機に乗った時の体験です。飛行機の右側の窓からは夕焼けが美しく見え、空は美しく輝いていた。反対側の左側の窓の外は真っ暗であった。すると心の中に優しい声が響いてきた。「窓の外を見たでしょう。あなたの人生も、楽しくて幸せな時があり、同時に暗い影の中にいる時もあります。今、平安と喜びに生きるための大切なことを示します。それは、あなたがどちらの窓を見ていようと、この飛行機が目的地に着くことには変わりがなく、人生も同じだということです。人生の暗い部分を見続けるか、明るいほうに集中し、闇はわたしに委ねてしまうかは、あなたの選択次第です。いずれにしても、暗闇に対処できるのは、わたしだけであり、旅の間に見ること聞くことは、目的地に対して何ら影響を与えるものではありません」と。

キリストは私たちの心の中に生きておられるまことの救主です。日常生活で起きてくる出来事に目を奪われることなく、キリストから目を離さないようにすることが肝心です。いつもキリストを見つめ、キリストを心に宿し、キリストに縋って行くならば、何があろうともキリストは私たちを見放さず、私たちを見捨てず、信仰の目的地である天国へ必ず導いて下さいます。



まとめ

1、16節、私たちクリスチャンは、キリストを信じて神様に義とされ、正しい者と認められて救われています。キリストを信じれば罪が赦され、永遠の命が与えられます。キリスト以外に救いの道はありません。キリストを信じ、救われ、クリスチャンになっていることを感謝しましょう。

2、20節、私たちクリスチャンは、キリストが自分の心の中に生きておられることを信じています。生きておられるキリストを讃美し続けましょう。生きておられるキリストを信じ、キリストきちがいになって、キリストの救いを伝えて行きましょう。生きておられるキリストは何があろうとも、信じる私たちを安全に守り、天の御国へ導いて下さいます。



*聖歌総合版256番「神よりおくられし(主は生く)」を讃美しましょう。讃美の後に祈りを捧げます。どんなことでも「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれを叶えてあげよう」(ヨハネ14:14)と約束して下さったイエス・キリストの御言葉を信じて祈りましょう。



祈 り 創造主である神様、独り子イエス・キリストを信じて、罪を赦され、義と認められて救われていることを感謝します。「キリストが、わたしのうちに生きておられる」ことを感謝します。生きている間に様々なことが起きて参りますが、どんな時でもキリストに縋って、祈って、祝福の道を進んで行けるように導いて下さい。問題の解決を求める人に祈りの中に勝利の道を示して下さい。病気の人に全き癒しを与えて下さい。生きておられるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ガラテヤ注解―黒崎、フランシスコ会、LAB、文語略解、山谷、田中剛二。 「クリスチャン生活のしおり・吉山宏・福音出版社」、「御翼・佐藤順・アンカークロス社」、「信仰雑誌・証しより」