常に主を前に置き、喜びに満たされよう

詩篇16:811,使徒2:25b28

熊谷福音キリスト教会 200846
荻野倫夫伝道師

 

あいさつと導入 

 渡辺先生ご夫妻は、昨日朝7時頃熊谷を出発し、10時頃諏訪に到着。諏訪シオンキリスト教会にて、朝の礼拝メッセージ、賛美の奉仕、午後から夕方にかけて、個人伝道研修会を行う。併せてお祈りいただきたい。

 お祈り感謝。無事、フィリピンに行って、学位を授与することができた。

 今日礼拝中に読んだ使徒2:25b-28は、先ほど読んだ詩篇16:8-11からの引用。ただし、細かい説明は端折るが、使徒2:25b-28の方は70人訳という訳の引用となっており、詩篇とは言葉使いが少なからず違う(パワーポイント見せる)

 使徒2:25b-28の方は、文字通りの訳というよりは、解釈を含んだ意訳となっている。この両者を見比べることにより、意味が立体的に浮かび上がってくる。本日は、この2か所の聖書個所から「常に主を前に置き、喜びに満たされよう」と題して、メッセージを取り次ぎたい。

 

I. 信仰の三段階

A. 信仰の第一段階 ―悩みの日に主を呼ぶ―

 多くの人にとって、信仰に入ったきっかけ。失望せずに求め続ける。諦めずに、求めるものを主が下さるまで、祈り続ける。これは大事な信仰の要素である。

 だが、この信仰だけでは物足りないのも事実。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ともある。悩みの日には主を呼ぶが、悩みのない日は、主のことを忘れてしまう、では困る。言い換えると、このような人たちは、問題が起こると、教会に来るが、問題が解決すると、教会から足が遠のいてしまう。この場合対症療法なので、安定感がない。体の故障が起こる前に、定期的に運動をしなければならないのと同様に、問題が起こってからでなく、普段から定期的な信仰の鍛錬をしていなければならない。

 

B. 信仰の第二段階 ―定期的鍛錬―

 次に扱うのは定期的鍛錬型。これらの方々は悩みの日も、悩みのない日も、定期的に、できるだけ教会の礼拝、集会を守るようにしている。関連する御言葉は以下。「信心のために自分を訓練しなさい。からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は今の命と後の世の命とが約束されているので、万事に益となる」(1テモテ4:7,8。これらの人々は、普段から信心のための訓練がなされているという意味で、信仰に安定感がある。

 さて、ではこれらの人は、全くなんの問題もないといえるだろうか。確かに安定感はある。だが、喜びはどうだろうか。定期的に礼拝を守っていながらも、マンネリに陥ってしまうことがないか。救われた当初、信仰の喜びがあった。だがいつの間にか、礼拝へ来ることは習慣か義務のようになってしまっている。可もなく不可もなく。安定はしているが、やや倦怠がある。仕事だったら、忠実であれば、喜びはなくてもよい。だが信仰は仕事ではない。実際、私のような、伝道者の立場の人間が、このような状態になりやすい。日曜日は伝道者なのだから、当然教会に来る。だが、心が伴わない、職業牧師となってしまう。そういう危険性がある。だから今日のメッセージは実は、私自身にとって、最もチャレンジングなメッセージといえる。

 

C. 信仰の第三段階 ―常に主を前に置く―

 さて、今日扱う中で、最も理想的な信仰の段階、それは、常に主を前に置く、という信仰。このような信仰をもつ人は、教会の外であろうと中であろうと、生活のすべての領域において、いつも神の御顔を仰いでいる。すべての道で主を認める人のこと。

 私たちは日曜日、神を礼拝していると信じている。だが果たして日常生活はどうだろうか。なるほど、日々聖書を読んで、祈っているというかもしれない。毎日主を見上げている、と。では、聖書を閉じて後、仕事の間は、どうだろうか。学校では、家事の最中は、どうだろうか。信仰の第三段階、それは、日常生活のどこを切っても、毎瞬間主を見ている、そういう深まった信仰の段階を示している。

 これらの人々の特徴は何か。実際に常に主を置いた、ダビデ自身の言葉を見てみよう。

「このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ」(詩編16:9a)

「あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」(詩編16:11b)

 心が楽しみ、魂が喜ぶ、満ちあふれる喜びがある、とこしえにもろもろの楽しみがある…詩人ダビデが詩人としての才能を尽くして、その喜びを歌いあげている。常に主を前に置く者の特徴、それは喜び、しかもあふれんばかりの喜びである。そういうわけで今日は、「常に主を前に置き、喜びに満たされよう」このことを聖書から学びたい。

 

II. 常に主を前に置き、喜びに満たされよう ―理論編―

 私たちが主を前に置くときに、なぜ喜びに満たされるのか。その理由を、今日の聖書個所から3つほど取り上げたい。

A. 復活の約束のゆえに

 私たちが主を前に置くときに、喜びに満たされる第一の理由、それは、復活の約束を思い起こすからである。

 私たちの生活には問題がある。そこで私たちは問題を私たちの前に置きがちである。その問題を見つめれば見つめるほど、心は暗くなり、気持はふさぐ。ところがダビデは、問題の代わりに、主を前に置き、常に主を見ることを私たちに提案する。

 そこで私たちも目を転じよう。問題ではなく、主を見よう。主はどんなお方か。使徒の方で読む。「あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう」(使徒227)主は、わたしの魂を、死の世界に放っておくことをしない。朽ち果ててしまうことをお許しにならない。つまり、私たちには復活の希望があるのである。私たちの人生が、この地上だけで終わりであったら、どんなに虚しいことか。だがもしこの地上の生活で終わりではなく、永遠の喜ばしい天国が待っているとしたら、どんなにすばらしいことか。私たちが死んで後、もはや死も、別れも、悲しみも、涙もない、呪われるべきものの一切ない、輝かしい天国にいるとしたら、どれほど喜ばしいことだろうか。

 先日のイースターのとき、子供たちに天国の喜びを話した。今まで一番うれしかったことって何?誕生日プレゼント?天国はね、そのいっちばんうれしかった時よりも、もっとずっとうれしいところなんだって。そしてそれがずーっと続くんだって、と。というわけで、私たちが主を前に置くときに、喜びに満たされる第一の理由、それは、主の復活の約束を思い起こすことができるからである。

 

B.主が私を愛してやまないゆえに

 私たちが主を前に置くときに、なぜ喜びに満たされるのか。その第二の理由は、主が私たちを愛してやまないゆえである。

 私たちの生活には、病の問題がある。私たちはこの病気の問題を、私たちの前に置きがちである。しかし病を見つめれば見つめるほど、落ち込む。気持ちが晴れない。ところがダビデは、病気を前に置かないことを私たちに勧める。何を前に置くか。主ご自身である。

 主を前に置き、主を見つめると、どういうことが起こるか。すると、主が私を愛してやまないことが実感される。先ほど読んだ詩篇16:10の「聖者」とは、聖人君子という意味ではなく、「神が愛して愛してやまない者」という意味である。ダビデが常に神を前に置いたとき、彼は自分自身が、神に愛し尽されている存在である、ということを実感せざるを得なかった。これほどまでに私を愛している主が、私のこの苦しみを放っておくはずがない。必ず解決してくださる、そう確信することができた。

 有名なクリスチャン作家で、三浦綾子さんという人がいた。この方は、自分でも病気のデパートと呼ぶほど、これでもかこれでもか、というほど次々に難病に悩まされたそうである。そんな彼女がこう言っていた。「私は神様にエコひいきされている」それほど多くの病気に悩まされながら、彼女の実感としては、神様にエコひいきされている、というほど、神は自分によくしすぎている、恵みを与えすぎている、と感じていた。病気を前に置くのでなく、神を前に置くとき、「私は神様にエコひいきされている」というのが実感となる。

 だから私たちは病気を前に置くことをやめよう。代わりに主を前に置こう。そして常に主を見よう。そうすることによって、私を愛して愛してやまない、神の深い愛を実感しよう。

 私たちが主を前に置くときに、なぜ喜びに満たされるのか。その第二の理由は、神が私たちを愛してやまないゆえである。

 

C.私たちの生涯は「希望の上にテントを張っている」ようなものであるゆえに

 私たちが主を前に置くときに、なぜ喜びに満たされるのか。その第三の理由は、私たちの生涯は「希望の上にテントを張っている」ようなものであるゆえに。

 私たちの生活には苦しみがある。苦しみの苦しみたるゆえんは、それがいつまで続くか分からない、というところにある。一体いつになったらこの苦しみは終わるのか。もう耐えられない、と。

 そこで私たちはダビデと共に、苦しみの代わりに、神を前に置こうと思う。苦しみよりも神を見つめることを学ぼう。そうするとどういうことが起こるか。私たちは、この世の生活は一時的であり、後の世の喜びは永遠であることを思い起こす。

 使徒2:26後半は、「わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう」と訳されている。これは意訳。文字通りに訳すと、「私の肉は、希望の上にテントを張っている」となる。私の肉、つまり地上の命は、一定の期間のテント生活のようなものである。今苦しんでいるときには、永遠に続くように思われるが、実はそうではない。それは苦しみを前に置くからそう感じるのであって、事実ではない。ではどうするか。主を前に置く。そうすることによって、たとえ苦しみの中にあっても、この世の生活はテント生活のように一時期である、と実感する。いずれテントがたたまれ、イエスさまが用意してくださった、永遠の住まいに移り住む時が来る、その希望と喜びの方が、苦しみそのものよりもリアルなものとなる。

 私たちが主を前に置くときに、なぜ喜びに満たされるのか。その第三の理由は、私たちの生涯は「希望の上にテントを張っている」ようなものであるゆえに。

 

III.  常に主を前に置き、喜びに満たされよう ―実践編―

 理論の次は実践。ダビデの詩に彼の喜びの実際を見てみよう。

A.心において喜ぼう

 ダビデは「わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ」(詩編16:9)と記す。皆さんは心において、喜び、楽しんでおられるだろうか。恵みを数えよう。物事の明るい面を見よう。人の良いところを発見しよう。

 私たちは物事の明るい面を見よう。ある二人の靴のセールスマンが、未開拓の国に送り込まれた時のことである。一人のセールスマンは会社に帰ってこういった。部長、あそこでは誰一人靴を履いていませんよ。とても靴なんか売れるわけがありません。もう一人のセールスマンも帰ってきて、報告した。部長、千載一遇のチャンスです。あそこでは誰一人靴を履いていませんよ。ライバル社はまだどこも入っていません。今参入すれば、うちの一人勝ちですよ。…皆さん、どちらのセールスマンの心が楽しみ、魂は喜んでいたと思うだろうか。いわずもがな。後者のセールスマンである。だから私たちも、喜びの実践として、物事の明るい面を見よう。

 人のよいところを発見しよう。クリスチャンは、人のよいところを発見できる名人にならなければならない。もし人の悪いところを発見するならば、私の周りには、暗い人や、何もしない人、おしゃべりな人しかいない等というだろう。しかし人の良いところを発見する人ならば、私の周りには、落ち着きのある人、思慮深い人、明るい人ばっかりいる、となる。さて、どちらの人の方が、心に喜びがあるだろうか。いわずもがな。後者の人のよいところを発見する人である。だから私たちも、喜びの実践として、人の良いところを発見しよう。

 私たちは心において喜ぶ者となろう。

 

B.口でその喜びを告白しよう

 使徒の訳では、興味深いことに、大胆に書き変えて「わたしの舌はよろこび歌った」と記す。たとえダビデ自身がそう記したのでなくても、彼の言葉としてこれほど相応しい言葉はないだろう。彼はいつも、そのあふれるばかりの喜びや賛美を舌で言い表す人物だったから。

 ただ心に良い思いを秘めているだけでは十分ではない。心にある喜びを、口で告白しよう。神を賛美しよう。神に感謝を言い表そう。人をほめよう。どんなことについても「きっと良くなる」と言うようにしよう。人に対して、良いことを口にするようにしよう。私も、心に秘めている良い思いを、口に出すことによって、喜ぶ者となった経験がある。私と妻が付き合いだした頃、私は「I  love you」が言えない人間だった。日本人としては、言うと嘘になってしまう、という思いがあり、大事な言葉であればある程、安売りしないで、出し惜しみすべきだ、という暗黙の前提があった。だが妻は、愛をハッキリしかも度々口に出す家庭で育った。だから決して嘘でなく、心から何度も「I love you」と私に言った。そんな彼女にとって、愛を口にしない私は、まるでまったく彼女のことを愛していないかのように感じたようだった。そこで、私も、当初苦手だったが少しずつ「I love you」と言うことを学んでいった。元々彼女を愛している。だから訓練をすれば、心をこめて言えるようになってくる。さて、日本に帰って、アッセンブリーの理事による面接があった。開口一番。「荻野さん、変わったねえ。いやいや良い方向にね。笑顔が明るくなったよぉ。」恐らく、心に秘めないで「I love you」と言い続けたことが、私に影響を及ぼし、明るい笑顔になってしまったのだろう。

 私たちの心にある良き思い、これを口に出そう。心にある喜びを口で告白しよう。

 

C.ますます喜びに満ちあふれよう

 心と口()は相互関係にある。影響を与え合う。心にあることが口に出るし、口にしたことによって、心も影響を受ける。どうせ影響を与えあうならば、良い影響を与え合って、喜びの上昇気流を登っていこう。

 

 

  

あかし―結論に代えて―

 最後に結論に代えて、証しをもって、このメッセージを閉じたい。先週の月曜日、母と妻はインドネシアに、私はフィリピンに旅立った。出発前、母と妻と私と3人で空港のスターバックスで話していた時のこと。なぜそのような話になったのか覚えていないが、教会のある人たちの話になった。その人たちは、人目を気にしていない。ただ神様を愛している。その愛のゆえに、人に気付かれようと気づかれまいと、忠実に教会で奉仕をしている。凄いね、とそんな話していた。最後、妻がまとめて、私たちは人のことを話しているようだけど、実は神様を見ている。私はこの方々の姿を通して、神様と顔と顔とを会わせてお会いした。日曜日の礼拝中、神様が「わたしはあなたたちの父だよ」と語っているのを感じた、と。私自身大きな感動に包まれた。スターバックスが礼拝の場になった。

 常に神を前に置こう。そうするならば私たちは、この世が与えるのとは異なる、大きな喜びに満たされるだろう。