キリストは人生の唯一の土台である マタイ7:24-29         主の2008.4.13礼拝



先週(6日)、私たちは諏訪で礼拝を捧げ、午後は個人伝道研修会を行い、祝福の日曜日を過ごしました。熊谷も主の導きの中に教会学校、礼拝、教会学校教師会、夜の礼拝まで荻野伝道師のもとに恵みの一日を過ごしたことを感謝します。諏訪は桜がまだ小さな蕾で、道の両脇には雪が残っていて、寒いという感じでした。間もなく小さな蕾が開花して、美しいピンクの桜が咲き誇って行くように、諏訪の群れも次から次に救われる者が起こされ、素晴しい群れに成長して行くことを信じますが、これからも引き続いて諏訪のためにお祈り下さい(礼拝後に諏訪・山本憲治・敦子師からの感謝の手紙を読みます)。

今、私たちが礼拝を捧げている建物は約25年を経過していますが、建物全体は堅牢に保たれています。ふだんの保守点検をよくしていることもありますが、この建物の特徴は土台が堅固であるということです。クリスチャン大工の高田さんが「見えない土台が大事だ。イエス様は土台が大切だと教えてくれた」ということで、深く地面を掘り下げ、拳ほどの石を大量に敷き詰め、コンクリートを流し込み、鉄筋を張り巡らし、その上に建物が建てられています。その建物で今日まで礼拝が捧げられていることを感謝します。

本日はマタイ7:24-29です。キリストは、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(24節)と「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」(26節)の話を通して、私たちが堅固な岩の上に人生を築き上げて、祝福の人生を歩むように決断を迫っています。今朝、心の耳を開き、キリストの御言葉に耳を傾け、何があっても崩れることのない人生を歩み、永遠の天国を目指して行く信仰の日々を貫いて行くように、聖霊によって祈り、新しい一週間の旅路へと出発して参りましょう。



内容区分

1、人生には、キリストに従う道とキリストに従わない道がある。キリストに従う道を進もう。7:13-14を見よ。

2、キリストに従う者は、キリスト中心、教会中心の信仰に生きる者である。7:24、26、

3、キリストは御言葉を実践されたお方である。私たちも御言葉を実践して行こう。7:28-29

資料問題

マタイ5―7章はキリストの山上の説教である。5:3-12我らの心のあり方、5:13-48対人関係の新しい律法、6:1-18宗教生活、6:19-34経済生活、7章は雑多の問題と結論部分である。山上の説教は神の国のマグナ・カルタ(大憲章)で、救われたクリスチャンの地上における道徳的生活の理想である。救われる前、この説教を通して、キリストの示す高い基準に達することのできない罪深い自分を知ることができる。そして罪深い者を救って下さるキリストによって新生命を受け、聖霊の賜物を受けることによって、私たちはキリストの御言葉に従い得る者になるのである。クリスチャンが山上の説教に従って生きれば、人々は天の神を崇めるに至るであろう。だがサタンは激しくクリスチャンを迫害し、キリストの御心が行なわれないように陰険に働いている。クリスチャンは迫害と苦難の中に在ってキリストと共に苦しみつつ、キリストと共にこの教えを実現することができる。



1、人生には、キリストに従う道とキリストに従わない道がある。キリストに従う道を進もう7:13-14

「狭い門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」。(7:13-14)

キリストは山に登り、マタイ5-7章までに記されている説教を大勢の人々に語り、クリスチャンがどのように生きるのかを教えておられます。山の上で語られたので、「キリストの山上の説教」と言われていますが、本日の個所は山上の説教の結論部分です。キリストは、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(24節)と「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」(25節)という二種類の人を示し、「人は二つを同時に選ぶことはできない。二つのうちの一つを選ばなければならない、あなたはどちらの人になりますか」ということを、私たちに問いかけています。もちろんキリストの真意は、全ての人が賢い人になることであり、全ての人が賢い人になることを選び取ることを願っています。

二種類の人についての教えは7:13-14に分り易く示されています。「狭い門」、「大きい門」という二つの門が示され、狭い門は命に至る狭い道の入口であり、大きい門は滅びに至る広い道の入口です。人生には大切な分岐点があります。先週、諏訪へ行く時に高速道路を使いましたが、高速道路ゲートを通ると、二つのルートがあり、目的地へ至るほうを選ばないと、目的地とは反対の方向に進み、いつまでたっても目的地に到達できず迷子になってしまいます。

人生において、私たちはキリストにつき従って命の道を選びとるようにという選択を迫られる時があります。例えばモーセはその死を目前にしてイスラエルの人々に、「見よ、わたしは、きょう、命と幸い、および死と災をあなたの前に置いた。・・・あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう」と伝えています(申命記30:15-19)。ヨシュアはイスラエルの人々に同じ選択を迫っています。「あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」(ヨシュア24:15)。預言者エレミヤは神の声を聞いています、「あなたはまたこの民に言いなさい、『主はこう仰せられる。見よ、わたしは命の道と死の道をあなたがたの前に置く』」(エレミヤ21:8)。聖書は私たちに対し、「道は二つある、祝福と滅びの道である。あなたがたはどちらかを選ばなければならい。中間の道はない。あなたがたは命の道、祝福の道、救いの道をきょう選び取るように」と告げています。

Sさんという男性は不倫によって妻を裏切り、仕事のプレッシャーで自棄(やけ)になり、死にたいと思いながらホテルで酒を飲み続けていた。ホテルの部屋にモルモン教の経典と聖書が置いてあった。始めにモルモン経典を読んだが、少し読んだだけで、これは人間の作った本だと思い、それを捨てて、聖書を手に取ってみた。1ページの最初に「初めに神が天と地とを創造された」(創世記1:1)と記されていた。これは真実だと思い、読み続けた。新約聖書に入ると、イエス・キリストが出てきた。福音書からパウロの手紙を、黙示録まで読んだ。Sさんは教会に行ったことがないし、キリストの福音を聴いたこともなかった。しかし数週間かけて聖書を全部読んだ結果、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストは主であると告白して受け入れる道しかないことが分った。先はどうなるか分らないが、「イエス様、信じます」という祈りを涙ながらに祈った。実はSさんが聖書を読み、キリストを信じるように導かれたのは、奥さんによる陰の祈りがあったからです。夫の不倫で苦しんだが、彼女自身が多くのクリスチャンの友の祈りを通してキリストを信じて救われ、そして夫のために祈っていたのです。Sさんはクリスチャンになり、仕事が増えるという祝福を与えられ、裏切った妻に心から謝罪した。Sさんは「結婚、家庭、仕事すべてにおいて、イエス・キリストに従うことが本当の生きる道である」と証ししています。(信仰の証しより)

キリストを信じるという狭い門を通って、信仰という細い道を辿りますが、その道は祝福の道です。キリストを信じて、罪の赦しがあり、和解があり、仕事が祝福され、天国への道を歩み続けて行く喜びの道です。今朝、キリストに従う命の道を進む者であることを感謝しましょう、そして、私たちの家族が、友が、キリストに従う命の道を選び取って行くように、執り成しの祈りを捧げましょう。



2、キリストに従う者は、キリスト中心、教会中心の信仰に生きる者である。7:24,26

「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者・・・(24節)、わたしのこれらの言葉を聞いて行なわない者・・・(26節)」

キリストは、山上の説教を通して、クリスチャンの心のあり方、対人関係、経済生活に至るまでの教えを懇切丁寧に述べています。山上の説教は天国の憲法であり、クリスチャンが実践すべき大切な教えが網羅されています。この結論部分において、キリストは「わたしの言葉」と言っています。信仰とはキリストの御言葉である聖書、キリストのことを指し示している聖書を自分への語りかけとして自分の心に信じ受け入れ、祈って、その御言葉に従うことです。

皆さんは聖書を読んでいます。聖書を読むクリスチャンは、間違いなく信仰がキリスト中心になって行きます。使徒パウロは若い牧師テモテに対し、「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵をあなたに与え得る書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」と教えています(Ⅱテモテ3:15-16)。キリストは、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と人々に語っています。聖書を読み、キリスト中心の信仰を持つ者は、当然教会中心の信仰生活に励みます。聖書を読む者はキリストを中心として、教会生活に励み、信仰が恵まれ、永続的な信仰が養われます。

先週諏訪の礼拝に三組の牧師夫婦が揃いました。私たち夫婦と憲治・敦子夫婦です。もう一組は憲治師の母教会・八王子教会の上原牧師夫妻です(憲治・敦子の結婚式を司式)。上原先生は実家が諏訪教会の近くにあり、今回は諏訪に出席し、共に礼拝を捧げました。上原師の奥さん時江師は私と一緒の都立高校で、私が高校に入った時には既に洗礼を受けていて、成績はトップクラスの生徒でした。私は成績はずっと下でしたが、キリストを信じる信仰という共通点で教会の若者グループの仲間同士でした。当時よく若者の集まりをしましたが、彼女はいつも教会に集まり、聖書を読むことを重んじていました。私も教会に集まることは大好きで、どの集会にも必ず出席していましたが、時江師ほどには霊的でないので、時々レクリエーションをしたり、食事の手配をしたりなど、集会に一息いれる係りをしていました。やがて彼女は献身して神学校に行き、伝道者となり今日に至っています。私は時江師が卒業してから神学校に入り卒業し、それぞれが違う場所で献身の道を歩んできましたが、50年を経て、6日の日曜日に主イエス・キリストを共に礼拝できる恵みを与えられたことを感謝しました。振り返って見ると、多くの若者が集っていましたが、私たちが信仰を保ってこられたのは主の憐れみによる事と信じています。と同時にその頃の事を思い出すと、いつでも教会中心に集まり、聖書を学び、讃美し、交わりを持つようにキリストが導いて下さったからであると感謝しています。今この教会に小さい赤ちゃんから若者がたくさんいます。ひとり一人がクリスチャンとして成長して行き、教会の中核メンバーとなり、教会を担って行くという希望が与えられていることを感謝します。諏訪にも小さい子どもから中高生などの若者が大勢いて、教会の将来に希望があることを確信しました。全教会員がキリスト中心、教会中心の信仰で進んで行きますが、とりわけ若い方々がキリスト中心、教会中心の信仰をもって行くように祈って下さい。

ところで、キリスト中心、教会中心の信仰から外れるとどうなるのか・・・21-23節に出ています。何かを一生懸命にやっている、「主よ」という信仰もあるようである。「あなたの名によって」ということを言っていますが、「主の栄光のために、教会の祝福のために」ということが欠落しています。主の名によって、と言っていますが、それは自分の栄光のためであって、キリストの御名が崇められずにいる結末となっていて、キリスト中心でない働きは消えて行くということを表しています。

今、私は神学校関東夜間校で教えています。4月―9月は「個人伝道」を担当しています。昨年途中から来ている男性がいます。奥さんが中国人でクリスチャンになったので、教会について行き自分もクリスチャンになって、昨年7月に洗礼を受け、もっともっとキリストのことを知りたい、聖書を知りたいという願いをもって関東夜間校で学んでいますが、食い入るようにして講義を聴いています。救われて日が浅い、だがキリストの御言葉に従いたいという思いが満ち溢れています。皆さんもキリストが「わたしの言葉」と言われる聖書の御言葉に忠実に従って行けるように、祈って下さい。



3、キリストは御言葉を実践されたお方である。私たちも御言葉を実践して行こう。7:28-29

それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。(29節)

キリストが話し終った時に、群集はその教えにひどく驚いています。律法学者たちも旧約聖書を教えてくれるが、彼らはいろいろな人の意見を参考にしながら聖書の説明をするのですが、その御言葉を実践していないので、語る言葉に力がなく心に響かないのです。例えばある律法学者は「神を愛すること」、「隣り人を愛する」ことが最も大切な戒めであることを知っていましたが、隣り人が誰であるか分っていませんでした。そこでキリストは強盗に襲われ、傷ついている人がいる。祭司もレビ人も彼を助けなかった。ところが日ごろ仲の良くないサマリヤ人が通りかかり、傷ついている人を見て気の毒に思い、彼を助け、宿屋に連れて行き、お金を払って面倒をみるようにお願いした。律法学者よ、目の前で苦しんでいる人こそがあなたの隣り人である。あなたも隣り人に親切にしてあげなさい、と教えています(ルカ10:25-37)。

キリストは御言葉を実践されたお方です。

*キリストは「祈れ」と言われましたが、いつも朝早く起きて祈っていました(マルコ35)。

*キリストは「わたしはあなた方を捨てて孤児とはしない」と言われましたが、悪霊につかれ、裸で墓場に捨てられていた人を一晩かけて湖を渡り、助けに行っています(マルコ4:35-5―20)。

*キリストは悲しみを理解してくれるお方です。マルタとマリヤの兄弟ラザロが亡くなり、マリヤが泣いているのを見て、涙を流され、神であるお方が人の悲しみに共感しています(ヨハネ11:35)。

*キリストは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えてくれましたが、ご自分が十字架にかかった苦しみの中で「父よ、彼らを赦したまえ」という祈りを捧げ、赦しを実践しています(ルカ23:34)。

このキリストが私たちの救主です。私たちに約束されたことは、必ずその通りにして下さる素晴しいお方です。

あるご婦人ですが、夫は一介のサラリーマンで、子ども4人と姑がいるという傍からみれば大変な生活をしていましたが、至極明るい。彼女は「イエス様は空の鳥、野の百合を見よと言われた。養うお方は神様だ。そして『わたしたちが求め、思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるお方』がついておられる」ということを口癖にしながら、姑を天に送り、4人の子どもを育て上げた。それは「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」(ロマ10:11)ということを信じ、救って下さったキリストにしっかり縋りながら生きたからです。

聖書の御言葉を心に蓄えてキリストに縋り、祈って下さい。キリストがあなたの人生を支える唯一の土台です。キリストだけに縋って下さい。

あなたの求めはなんでしょうか・・・求める前に、「キリストを信じます。キリスト中心、教会中心の信仰生活を続けて行きます。聖書の御言葉を信じる信仰の力を強めて下さい。私の心から御言葉に従わない不従順の罪を取り除いて下さい。聖霊によりキリストの御名によって祈り、キリスト第一の生活をして行く賢い者となるように導いて下さい」と祈って下さい。それから自分の求め、願いを祈って下さい。キリストに従う決断をすることによって、あなたの祈りは神様に届いて行きます。



まとめ

1、7:13-14、人生には、キリストに従う道とキリストに従わない道がある。私たちは聖霊によってキリストに従う信仰の道に導かれていることを感謝しよう。

2、7:24,26、キリストに従う者は、キリスト中心の信仰、教会中心の信仰をもって霊的に成長して行きます。聖書は「わたしの言葉」と言われるキリストの御言葉です。聖書を読んでキリストにつき従って行きましょう。

3、7:29、キリストは御言葉を実践されたお方です。私たちも御言葉の一つ一つを実践し、キリストを人生の唯一の土台にして、先ずキリストに従う道を進んで行く決断の祈りを捧げ、次に求めや願いや癒やしを祈って下さい。それが賢い人であり、賢い人の祈りは聴かれて行きます。



祈 り  天地の主である神様、独り子であるキリストによって救われていることを感謝します。キリストこそが人生の唯一の土台です。この堅固な土台の上に、信仰生活を築き上げて行く賢い者となるように私たちを導いて下さい。ひとり一人の信仰の決断を受け入れ、それぞれの願い、求めに答えて下さい。私たちの人生を支えて下さるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:マタイ注解―黒崎、フランシスコ会、LAB、シンプソン、文語略解、内村、米田。