キリストの愛をもって互いに仕えなさい ガラテヤ5:13-15 主の2008.4.20礼拝
ノーベル平和受賞者マザーテレサは、インドで貧しい人のために一生を捧げた人として知られています。現在インドは経済的に猛烈に発展していますが、多くの人口を抱え、貧富の差は歴然としています。インド伝道に行った方の話を聞くと、路上で生まれ、路上で暮らし、路上で亡くなるという、一生をホームレスで暮らす人々が何十万人もいるとのことです。マザーテレサの働きの一つとして、駅などに早朝行き、誰にも顧みられず、汗と埃と泥にまみれ、行き倒れで死にかかっている人を施設に運んで、体を洗い、清潔なベッドに寝かせ、きちんとした食事を食べてもらいます。誰からも顧みられず動物のように残飯を食べ、路上生活をしていた人が、生まれて初めて身体を綺麗にしてもらい、ベッドに身を横たえ、温かい言葉をかけてもらうことによって、自分は見捨てられていなかった、愛されているということを感謝しつつ、息を引き取って行きます。行き倒れの人は病気であり、埃と泥にまみれ、重い皮膚病などによって異臭を放っていますので、それを抱き上げて施設まで連れてくる、そして身体を洗い、清潔な衣服に着替えさせるだけでも大仕事です。それを年若い女性たちが黙々として来る日も来る日も続け、キリストの愛を表しています。
本日はガラテヤ5:13-15です。「愛をもって互いに仕えなさい」(13節後半)、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(14節)という勧めがあります。愛をもって仕え、隣り人を愛するということですが、例えば、自分が行き倒れになった時に、誰かが自分を助け起し、介抱し、食べさせてくれ、温かい蒲団の中に入れてくれたら、こんなうれしいことはないと思いま。キリストは「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7:12、黄金律)と教えてくれましたが、私たちも他人のことを思い遣って、愛をもって、相手の立場に立って仕えて行くことを実践するように求められています。マザーテレサとその働きに賛同した人々は祈りをもって、愛の実践をし、マザーテレサが召された後も愛の働きは継承されています。私たちも、愛をもって互いに仕えなさい、という聖書の勧めに従うことを祈って決断し、新しい一週間の旅路へと出発して参りましょう。
内容区分
1、私たちは、キリストによって召された(救われた)者である。5:13
2、私たちは、自由を得るために召された(救われた)者である。5:13
3、私たちは、キリストの愛をもって互いに仕え合って行く者になる。5:13-15
資料問題
13節「自由を得るためである」、罪からの自由を得るために、人は律法遵守に努めたが、律法を遵守することができずに人は罪の奴隷のままであった。キリストは人の罪のために十字架につかれた。人が罪を認め、悔改めてキリストの十字架を信じれば、罪を赦されて心が生まれ変わり、罪から解放され、霊の自由を与えられる。「肉」、生まれながらの人間の根本的悪をさし、肉の働きは神と隣人とを愛さず、自己中心で自己の益のみを図る。
14節「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」、レビ記19:18からの引用。15節「か(咬)み合い、食い合う」、野獣の行動を指す。愛によって仕えることをせず、肉に従うならば、審き合いによって分裂分派をもたらし、互いに滅ぼされてしまうことになることを強く警戒せよとの勧めである。
1、私たちは、キリストによって召された(救われた)者である5:13
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(13節)
この手紙を記した使徒パウロは、親しみを込めて「兄弟たちよ」とガラテヤ教会の人々に呼びかけています。キリストを信じることによって心が生まれ変わり、教会に所属する者になった者がクリスチャンです。教会に所属する者はキリストを中心とする神の家族であり、私たちもキリストを信じて教会に所属し、お互いのことを「兄弟姉妹」と呼び合う親しい交わりをもっています。
13節の聖句によると、「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは・・・」と言われています。この呼びかけには「あなたがたはキリストを信じてクリスチャンになった者であるので、私にとってはキリストにある兄弟姉妹である」という意味が込められています。キリストを信じてクリスチャンになることを、救われると言います。救われたクリスチャンになった者は、いま述べたように教会に所属するようになり、こうして毎週礼拝に集って信仰の恵みを新たにして行きます。
「召された」と言われているので、キリストのほうから私たちを救いに入れて下さったという意味が含まれています。世の中に何千という宗教がありますが、すべての宗教は人間の側から求めて、努力して、難行苦行して神と呼ばれるものに到達し、救いを得るという教えです。人間の側から努力して求めるという考えなので、例えば多くの宗教の聖地は高い所にあり、そこへ苦労して上って行く、或いは金銀で飾り立て普通の人が入れないような神々しいおような雰囲気をこしらえている、或いは何千という経文の類を学ばなければならない、或いは多額のお金を捧げなければならない、或いは滝に打たれたりして無我の境に入って救いを獲得するという教えになっています。
それに比べ、キリストの教えは単純です。自分の罪を認め、罪からの救主としてイエス・キリストを信じれば誰でも救いを与えられます。聖書は「キリストを心に信じ、受け入れるならば、誰でも救われてクリスチャンになる恵みが与えられる」ことを告げています(ヨハネ:12参照)。
ある人が聖書を読み、貧しい人を助ける働きをしていたが、多くの人に裏切られ、貧乏のどん底に陥り、神とキリストを呪い死ぬことにしたが、もう一度聖書を読んでみることにした。ルカ福音書を読んでいると、キリストの十字架の右と左に犯罪人が十字架につけられた個所にきた(ルカ23:29-43)。一人の犯罪人はキリストを呪い、もう一人の犯罪人はキリストに自分の罪の赦しを求め、受け入れてもらったと記されていた。その時に、聖霊によって彼の心に一条の光が射し込んできた。彼は「主よ、私を赦して下さい。私をあなたの子どもとして愛し生かして下さい」と祈った。すると彼の心は喜びと希望に満たされた。やがて後に彼はホームレスの人々の友となって奉仕した。彼は自分の罪を認め、悔改めて、ただキリストの十字架を信じたことによって、罪を赦され、生まれ変わることが出来たのです。
クリスチャンの皆さんは、キリストの十字架によって救いを与えられていることを感謝しましょう。クリスチャンでない方は、「私はキリストを知らず、キリストを信じていない罪ある人間ですが、私もキリストを信じたい、私の心の扉を開けますので、私の心の中に入って下さい」と祈れば、今この瞬間にキリストが心の中に入って下さり、罪が赦され、救われ、新しい人生に入ることができます。
2、私たちは、自由を得るために召されて(救われて)いる者である。5:13
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(13節)
「あなたがたが召されたのは(救われたのは)自由を得るためである」と言われています。間もなく北京オリンピックですが、チベットで仏教徒が迫害され、人々の人権が弾圧されているということで「チベットに自由を!」と叫ぶ人々によって、世界各地で聖火リレーに混乱が生じていることが報道されています。自由は全ての人々が願い求めていることですが、ここで言われている自由は心の自由です。人間の心は罪によって縛られています。これはやめようと思う悪いことはどんどんしてしまう。これは良いことだから積極的に行なおうと思うのに良いことは一つもできないでいる、これが人間の真の姿です。良いことができずに逆に悪いことに引きずられて行くのは、人間の心の中に巣くっている罪の故です。世界には天地万物を創造された真の神がおられる。真の神は「神は愛なり!」(Ⅰヨハネ4:8,16)と言われているように全ての善の源です。この真の神から離れているので、人は良いことをする力がなく、悪に引きずられて行く、それが罪です。そこで人間は神を求めますが、神は霊であるので目には見えない。目に見えないから信じられないと言います。そこで神の独り子であるイエス・キリストが人の姿を取ってこの世に来て下さったのです。キリストは、「わたしを見た者は父(真の神)を見たのである」と言われました(ヨハネ14:9)。人を悪に引きずり込む罪をもったままでいれば、罪の力は死ですから、罪の結果として人は必ず死にます。罪の結果として死んだ者になり、死んで地獄の滅びの中に入って行きます。折角生まれて80年ほどの人生を過ごしたのに、その行き着く先が滅びであるとするならば、こんな虚しいことはありません。しかし、聖書66巻には「神は愛なり!」という救いのメッセージが鳴り響いています。その内容は、罪の定めである滅びから私たちを救い出すために、キリストが私たちの受けるべき罪の身代りになって十字架で死んで下さったというメッセージです。私たちが自分の罪を認め、キリストの十字架を信じれば、罪が赦されて生まれ変わり、永遠の命を受けて天国に導かれます。罪から救われて心に自由が与えられます。その自由は罪に打ち勝つ真の自由です。例えば飲酒運転は悪い、してはいけないのに依然として罪の力に負けて酒酔い運転が後を絶ちません。キリストを信じて罪が赦され、自由を得ると、酒を飲む自由と飲まない自由が与えられ、飲んで運転をしないという自由を選ぶ力が与えられます。「肉の働く機会としないで」とありますが、肉とは罪に支配された生まれつきのままの人間の性質を示しています。キリストを信じると、罪に負けない勝利の人生を歩む力が与えられます。
肉に支配されたままでいるなら必ずサタンに乗じられます。ロマの雄弁家アントニーはハンサムで頭も良く、軍人としても勇敢でした。しかし彼の内面は道徳的弱さに支配されていました。彼はロマ帝国のエジプト遠征に従事した時に、エジプトの美しい女性クレオパトラに心を惹かれ、その魅惑的な眼に抵抗することが出来ずに、肉の誘惑に負け、不倫関係を結んでしまいます。その結果、彼は妻を失い、指導者としての地位と、遂には命までも奪われてしまったのです。
キリストを信じて、心の生まれ変わりを与えられ、肉の働きに打ち勝って行くことが祝福の人生です。20世紀はじめ、韓国で一人の男性が救われました。救われる前は、酒を楽しみ、妾(めかけ、愛人)をかこっていました。キリストを信じた後は、妾との関係を絶ち、酒や悪い遊びもやめました。彼は聖書を学び、やがて聖書販売人として働きます。そうしたことをきっかけにして、聖書の教えが社会に浸透し、一夫一婦制が社会に根を下ろし、韓国社会が変わったという歴史があります。
私たちは自由を得るために召され(救われ)ました。肉の働きに負けることなく、キリストに従う信仰のきよい道を進んで行くことを再決断し、祈って下さい。
3、私たちは、キリストの愛をもって互いに仕え合って行く者になる。5:13後半-15節
あなたがたは・・・愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句につきるからである。気をつけるがよい。もし互いにかみあい、食い合っているなら、あなたがたは互いに滅ぼされてしまうだろう。(13節後半―15節)
「愛をもって互いに仕えなさい」と言われています。「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」というのは旧約聖書レビ記19:18からの引用です。日本でも愛という言葉が使われるようになっていますが、愛は聖書に由来する言葉です。聖書の示す神は愛の神様です。神の愛の極致は、神の独り子であるイエス・キリストの十字架によって表された愛です。熊谷教会を開拓し、また私たち夫婦の霊的親でもあるクラー宣教師夫妻をアメリカに訪ねたことがあります。先生夫妻のお供をして、家庭訪問、病院訪問などに行きましたが、先生の第一声は「イエス様があなたを愛していますよ。Jesus loves you!」という言葉で始まる挨拶でした。ところで私たちは愛と言いますが、同じ愛を表すにも幾つかの言葉があります。
エロースという言葉で表現される愛があります。
これは自己中心の愛です。いつも自分の方へ来ることを求める愛です。奪う愛、肉の愛です。相手の立場より、自分自身の欲望の満足のための愛です。
フィリアという言葉で表現される愛があります。
これは相手と自分との間の往復運動の愛です。相互に行ったり来たりする愛です。自分から与えるが、相手から返礼を求める愛です。往復がうまく行っている間は良いが、相手が答えてくれないと、互いの関係が崩れる愛です。
アガペーという言葉で表現される愛があります。
自分から出て行く一方交通の愛です。人からのお返しを求めない愛、自己犠牲の愛です。アガペーの愛は神の愛です。神は独り子であるイエス・キリストを十字架につけて、あなたがたが信じても、信じなくても、わたしはただひたすらにあなたがたを愛しているということを表して下さいました。それがロマ5:8に記されている愛です。
*三つの愛については巻末に図示してあります。
この三番目のアガペーの愛を求めて行きなさい。アガペーの愛をもって互いに仕え合いなさいという勧めがなされています。この愛がないと、野獣のように互いに咬み合い、食い合って滅びてしまうという警告が15節にあります。三番目のアガペーの愛が欠けている印は次のことですぐ分ります。愛が欠けている印は、相手を批判し、審き、悪口を言うようになり、その悪口をゴッシプとして人に広めるようになるということです。悪口、批判、ゴッシプを言いたいという気持になったら、それは間違いなく愛が欠乏し、肉に支配され、サタンの思う壺にはまることになります。ヤコブが、「わたしたちは、この舌で、父なる神をさんびし、また、その同じ舌で神にかたどって造られた人間を呪っている。同じ口から讃美と呪いが出てくる。わたしの兄弟たちよ。このようなことはあるべきではない。泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴から噴出すことがあろうか」と言っていることを覚えて下さい(ヤコブ3:9-11)。
今週土曜日はホームレス伝道の日です。ホームレス伝道は持ち出しの伝道、与える一方の伝道です。路上生活の彼らは無一文です。全てをこちらで用意しますが、特におにぎりをたくさんお願いします。伝道の書で賢者ソロモンは、「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」と記しています(伝道12:1)。お返しが期待できないところに献げて行くことはアガペーの愛の実践です。私事で、孫バカで申し上げますが、慧が上野のおじちゃんに「ハイどうぞをする」と言って上野の奉仕に加わります。土曜日の朝、おにぎりを握っている光景を見ていますが、それが上野で配られるのを知っています。配る時には、チャチャに教えられて、ホームレスのおじちゃんの目を見ながら、おにぎりを「ハイどうぞ」と声をかけて配ります。信仰は毛穴からと言いますが、パンを水の上に投げるような奉仕に小さい時から加わって、人に仕えることの実践をし、それが身体全体に沁みこんでキリストを信じる信仰につながって行くことを信じ、主に感謝します。
まとめ
1、5:13、「あなたがたの召されたのは・・・」、私たちはキリストによって召された(救われた)者であることを感謝します。ただキリストを信じるだけで救われていることを感謝しましょう。
2、5:13「・・・自由を得るためである。その自由を肉の働く機会としないで・・・」、罪の赦しを与えられ、自由を与えられていることを感謝し、与えられた自由をキリストに従うために用いて行くように祈って行きましょう。
3、5:13-14、「愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句につきるからである」。報いを求めないアガペーの愛、キリストの十字架を通して示されたアガペーの愛をもって、互いに仕え合って行くように、聖霊の助けを祈って下さい。
祈 り 天地の主である神様、独り子イエス・キリストの十字架の身代りの死によって、罪から救われていることを感謝します。救いを感謝し、肉に負けることがないように、与えられている自由を良い事を行なうように聖霊によって導いて下さい。報いを求めない純粋なアガペーの愛を私たちの心に満たして下さい。問題を抱え、戦いの中にある人に勝利を与えて下さい。病気の人を速やかに癒やして下さい。婚約式を祝福して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:ガラテヤ注解―黒崎、フランシスコ会、田中、山谷、米田、LABN、文語新約略解、バークレー。 「日毎の糧としての逸話365・高野勝夫編著・神戸キリスト教書店」、「リビングライフ・2007年6月号・ツラノ書院」