キリストはサタンの誘惑を退ける勝利の主 マタイ4:1-11 主の2008.5.4礼拝
一年ほど前、九州の橋の上で酔っ払い運転の車に追突された車が、その衝撃で欄干を突き破って海の中に転落し、幼い子ども達が溺死するという悲惨な事故がありました。「飲んだら乗るな。乗るなら飲むな」という交通安全の標語があります。酒を飲んで車に乗れば、意識は朦朧として判断力が鈍り、安全運転が出来ずに事故を起こします。そのことが分っていながら、一杯の酒の誘惑に負けて酒酔い運転をし、一生を棒に振る人が絶えません。酒を飲んで運転してはいけないのですが、人間は悪いことをする時に四つの言い訳をして、自分の罪を正当化しようとします。その四つとは、第一「たった一回だから」、第二「皆やっていますよ」、第三「これは小さなことです、たいしたことはありません」、第四「まだ先があります、やり直しができます」と言います。アダムとエバは、神様が食べてはいけないと言われた木の実を「一回だけ食べよう」と食べたことによって、神様に背く罪人になり、全人類に罪が及んで行くという重大な結果をもたらしてしまいました(創世記3章)。サタンは人が罪を犯し、滅びに向かって行くように誘惑して来ます。私たちは断固としてサタンの誘惑を退け、神の子として信仰の道を歩むことを、祈って再決断してまいりましょう。
本日はマタイ4:1-11です。キリストはサタンの誘惑に遭いますが、聖書の言葉をもって、断固としてサタンを退けています。キリストは「この世は罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それを来たらせる人は、わざわいである」(マタイ18:7)と言われました。誘惑を感じた時に、即座に「イエス様、助けて下さい」と祈ることが勝利をもたらします。「主の祈り」の中で「我らを試みにあわせず、悪(サタン)より救い出だしたまえ」と祈りますが、毎日主の祈りを捧げて行くならば、キリストは誘惑をもたらすサタンを撃退し、勝利を与えて下さいます。
内容区分
1、クリスチャンは、神の言(ことば)で生きる。4:1-4
2、クリスチャンは、神を「主なる私の神である」と信じる。4:5-7
3、クリスチャンは、神様だけを心から礼拝する。4:8-11
資料問題
荒野の試みは三回あった。第一の誘惑(3-4節)、キリストが断食して飢えている弱さを狙ったもの。石をパンに変えることはキリストにとって容易なことであるが、父なる神の御旨ではないので行なわれなかった。後に父の御旨の時にパンの奇蹟を行なっている(14:13-21)。4節は申8:3よりの引用。6節はサタンによる詩篇91:11-12よりの引用。「あなたの歩むすべての道で、あなたを守らせられるからである」という言葉が省略されている。7節は申6:16よりの引用。人間は神の御旨に自分の言動を合わせるべきであった、自分の考えどおりに神の力を動かそうとするのは不信仰であり、ご利益信仰である。人間が神に試みられるべきであって、人間が神を試みることはできない。9節でサタンは遂にその正体をあらわし、栄耀栄華を与えるから、サタンを拝めと誘惑する。これは神の最も厳しく禁じるところである。10節は申6:13よりの引用。キリストは「サタンよ、退け」という強い断固たる態度でサタンを退けている。
1、クリスチャンは、神の言(ことば)で生きる。4:1-4
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」(4節) 引用は申命記8:3である。
私たちの人生には誘惑が満ちています。目の前にあるものがたまらなく欲しいという欲望に負けて万引きが頻発しています。「ちょいと一杯だけ」ということで飲酒運転が後を絶ちません。ところで、誘惑に負けるのは、以外にも物事が順調に進んでいるという時にも起こります。例えば大学教授、評論家として成功している人が女性の盗撮をして逮捕される事件がありました。この個所でキリストは荒野でサタンの試み(誘惑)を受けています。キリストは救主としての活動を始める前にヨルダン河で洗礼を受け、聖霊に満たされ、父なる神様から祝福を受け(3:16-17)、その後に聖霊によって荒野に導かれ、サタンの試みを受けたのですが、見事にサタンを退けています。キリストは祝福の中にあっても、誘惑の中にあっても、常に神様に従うという基本線を守っているお方です。
キリストが荒野で40日40夜断食をした直後に、試みる者であるサタンがやって来たと記されています。サタンは心の外から誘惑をします。もし私たちの心に罪があるなら、心の罪が誘惑に応じて悪に走ります。キリストは心に罪のないお方です。サタンがどのように誘惑しても、誘惑に応じる罪がないので、サタンの誘惑は空振りに終り、何の効果もありません。私たちもキリストを信じて心の罪が赦されているならば、罪が誘惑に応じるということがなくなり、誘惑に打ち勝つことが出来るようになります。キリストは罪のないお方ですが、なぜサタンの誘惑を受けられたのか・・・それは私たち人間の受ける誘惑を代表して受け、誘惑に勝つ正しい態度を身をもって教えるためでした。
サタンは「石を変えてパンになるように命じてご覧なさい」と誘惑しています。最初の人アダムが罪を犯した時、「あなたは一生苦しんで地から食物をとる・・あなたは額に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」(創世記3:17-19)という神様の審きを受けてエデンの園を追われ、それから人間にとって食べることは大問題になりました。目の前に転がっている石をパンに変えよというのは、「人間は食べなければ生きて行けない。イエスよ、お前は断食をして腹が減っている。石をパンに変えれば自分も満腹し、人々は大喜びでお前を救主としてあがめるであろう」というサタンの巧みな誘惑です。しかしキリストはハッキリとサタンの誘惑を退け、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」と答えています(申命記8:3より引用)。お腹が一杯になることを第一にすると(経済優先)、人間は堕落します。ガソリン問題に皆が関心を寄せています。ガソリンにかかる税金を本来の道路整備などに使わないで、役人達が多くのお金を自分達の利益のために不正使用していることが明るみになったからです。どんなに頭が良くても、自分達のお腹が満たされることを第一に考えると、心は罪をもったままですから、税金を流用するという大きな罪を犯します。世界には共産主義という考え方があります。みんなが平等になり、みんながお腹一杯になり、幸せになりましょう、というのが共産主義の宣伝文句でした。ところが、旧ソ連では権力を握った人が、自分がお腹一杯になった時に、他の人は関係ないということで、多くの人々を見捨てたことによって大きな社会格差が生じ、70年で国家が潰れています。その原因は、自分のお腹だけが一杯になることを考えた結果、心に愛がなくなり、罪だけが残ったからです。
キリストは「人は神の口から出る一つ一つの言(ことば)によって生きるものである」と言われました。人は神様によって創造され、神様の命の息を吹きいれてもらい、生きる者になりました(創世記2:7)。人は命を与えて下さった神様につながっていないと、自分がどこから来て、何のために生きて、どこへ向かって行くのかということが分りません。それを教えてくれるのが神の言(ことば)です。神の口から出る一つ一つの神の言(ことば)を書き記したのが聖書66巻です。聖書の中で、キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父の御許に行くことができない」(ヨハネ14:6)と告げています。私たちは神様によって命を与えられているのに、神様から離れるという罪を犯してしまい、死んで永遠の滅びに行く者になっていました。しかし神の子キリストが私たちの罪の身代りとして十字架にかかって下さった。私たちが、道であり、真理であり、命であるキリストを信じると罪が赦され、新しく生まれ変わって正しく生きる力が湧いてくる、天国で永遠に生きるという希望をもつことができます。それが神の言(ことば)によって生きるということです。
Aさんは幼い頃に継母を迎え、異母兄弟と暮らすという複雑な人間関係の中で苦労し、少し心がゆがんで物事を素直に見られないという性格になっていました。青年期に友人の影響で教会に行きましたが長続きしませんでした。しかし聖書には愛着があり、読まないが持ち続けていて、やがて別の教会に行くようになった。最初は聖書をひねくり回すような質問ばかりをしていた。しかし神の口から出る一つ一つの言で生きるということに自分を賭けてみようと思い、キリストを信じてみた。すると温かい思いに心が満たされ、やがて素直な性格になり、感謝の日々を送るようになった。温かい思いになったのはキリスとの愛が注がれたからです。私たちも神の言(ことば)の中心であるキリストを信じて、平安、喜び、感謝に満たされ、日々を祈りと讃美のうちに進んで参りましょう。
2、クリスチャンは、神を「主なるわたしの神である」と信じる。4:5-7
イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」(7節)
サタンは第二の誘惑を仕掛けています。サタンは巧妙にも、エルサレムにある神の神殿という最も宗教的な場所で、しかも聖書の御言葉を引用しつつキリストを試みています。サタンは光の天使に擬装すると言われていますが(Ⅱコリント11:14)、ここでは詩篇91:11-12を部分的に引用して、キリストを騙そうとしています。皆さんの家にエホバの証人の人々が訪問してくると思います。彼らは聖書の中の分りにくい個所などを開いて「この意味が理解できますか」と言い、「分らなければ私たちが教えに来ます」というふうにしてクリスチャンに巧みに近づいてきます。そういう方が来ましたら、議論をしないことです。何故なら相手はこちらの言う事をまったく聞かないで、自分達の教えを繰り返すだけだからです。エホバの証人の方には「聖書のことは熊谷福音キリスト教会に行って、渡辺牧師に尋ねて下さい」と伝えて下さい。
サタンはまことしやかな顔をして詩篇91:11-12を引用していますが、「あなたの歩むすべての道で、あなたを守らせられるからである」という大切な部分を省略しています。この詩篇は、神様は、神を呼び求める者を守るという約束を教えています。宮の頂上から飛び降りて見なさいというようなこととは関係のない聖句です。サタンは自分に都合のよい所だけを引用してキリストを試みたのです。サタンの誤った都合のよい聖句の引用に対して、キリストはすかさず「主なるあなたの神を試みてはならない」と申命記の御言葉をもって答えています(6:16)。サタンは自分の都合の悪い部分は省略して御言葉を悪用しましたが、キリストは忠実に神様の御言葉を引用しています。
キリストは神様のことを「主なるあなたの神」と呼んでいます。キリストは私たちに対し、神様は主であると教えています。また、神様をあなたの個人的な神様として信じなさい。あなたと心と心が通じている強い繫がりをもっている神様として信じなさいということを教えています。キリスト自身が祈りの時に、父なる神に向かって、心から頼り切って「アバ(お父ちゃん)」という親しみを込めた呼び方をしています(マルコ14:36)。実は神様と人間との間には、造り主と造られたものという質的相違があります。神様はきよい神様です。私たちは神様に背いていた罪人でした。罪人であった私たちがきよい神様に近づき、神様の子どもになることができたのは、神の御子イエス・キリストの恵みがあったからです。キリストが、人間の罪の身代りになって十字架の上に死んで下さり、キリストを信じれば罪を赦され、私たちの命の質がきよいものに変り、きよい神様に近づくことが出来るというのが聖書の約束です。私たちはキリストを信じて、神様のことを「主なる私の神」と呼ぶ恵みを与えられ、日々聖書の御言葉に導かれ、主なる神様に従って行くクリスチャンであることを感謝します。
ある方がキリストを信じ、神の子になりましたが、父親の激しい反対にあって家を追い出されたこともありました。その中で「神様、キリストを信じて神様を主なる私の神とします。どんなことがあっても従って参ります。神様を信じる信仰で生きさせて下さい」と祈った。母親がガンで倒れた時に「神様に祈る、祈りを教えて」と言って信仰をもって祈るようになった。激しい反対をした父親も神様を信じる信仰をもち「うれしい」と言ってくれた。私たちも「主なる私の神」を信じ、信仰の道を前進して行くように決断を新たしにして祈りましょう。
3、クリスチャンは、神様だけを心から礼拝する。4:8-11
イエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」(10節)
サタンはキリストに第三の誘惑をします。それは全世界の栄耀栄華を見せて、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」と迫っています。その誘惑に対し、キリストは少しも曖昧な態度を見せず、間髪をいれずに「サタンよ、退け」と答えています。妥協を許さない峻厳なキリストの御言葉によってサタンをピシャリと押さえつけ、「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と命じています(申命記6:13よりの引用)。
人間にとって最も大切なことは神様を礼拝することです。キリストは「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)と言われました。神の国と神の義を求める者は、日曜日を主の日として教会に集い、礼拝を捧げます。現代は生活が多様化し、日曜日の仕事の方もいます。日曜日はどこかへ出かけたいという方もいるでしょう。法事などが入ることもあります。来客の場合もあります。そうした中で毎週礼拝毎に読まれる「あなたがたはこの世と妥協してはならない」(ロマ12:2)という御言葉を思い起しながら、この礼拝の中で「また来週礼拝に出席できるように導いて下さい」と祈ることが大切です。サタンは様々な手立てを弄して私たちを礼拝から遠ざけ、信仰を弱らせようとしています。ですから互いに祈り合って礼拝優先の生活をして行くことが大切です(ヘブル10:25参照)。旅行の場合は旅先で教会を見つけて礼拝に出ることです。信仰の恵みを証してくれた馬場英之君はイギリスから来て礼拝を捧げています。愛雄は先週九州出張でしたが、日曜日は家内の母教会の礼拝に出席して家内の多くの友達から歓迎され、メッセージで恵みを受けることができました。
私たちが本当に神様を信じ切る時に礼拝なしには生活できなくなります。神様はいろいろな事を通して私たちに礼拝第一の生活をするように導かれます。
Sさんのご主人は宗教嫌いであったが、英会話のために教会に行った。日曜日に一人で山へ行き、頂上に出て遠くを眺め気分爽快になっていた。ふとポケットに手をやると財布がない。中にはお金と何ヶ月もある定期券、会社の身分証明書など大事なものが全部入っていた。広い山の中で見つけようがなく「キリストの神様、もしあの財布を返してくれたら、本当の神様だと信じよう」と心の中で叫んだ。翌々日の火曜日、職場の自分の机の上に、失った財布がおいてあり、隣の席の同僚が、昨日近所の人が山で拾って僕と同じ会社の人だとわかって家に届けてくれたんだと言いました。この事を通して真面目に求道して救いに至りました。Sさんは神学校に行き聖書を学び出した。それは楽しく、有益で、心は燃えて、恵みをまわりにも伝えずにはいられませんでした。一年後にご主人が52歳で大手の鉄鋼会社をやめて神学校に入り、卒業後は牧師として教会で神と人に仕え、Sさんも牧師の妻として共に歩む恵みを受けました。
神様の助けによって夫婦が「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」という信仰生活をし、牧師夫妻になり、多くの人々を導く働きをしています。礼拝に徹する生活をすることによって、周りの人々に神様の恵みを伝える機会が与えられるようになります。礼拝を捧げる恵みを与えられていることを感謝し、主なるあなたの神を拝せよ、という礼拝生活優先を祈って継続して下さい。
まとめ
1、4:4、私たちは聖書の示す神の言(ことば)である救主イエス・キリストを信じます。
2、4:7、私たちはキリストの十字架を通して神様を個人的に主なる私の神様として信じます。聖書全体を読んで神様に従って行きます。
3、4:10、私たちは神様を心から礼拝して行きます。礼拝生活優先の生活をして行きます。
祈 り 天地の主である神様、私たちは独り子であるイエス・キリストを信じ、神様の子どもになっていることを感謝します。神様を個人的に主なる私の神様として信じ従って行きます。神様を礼拝する生活を最優先して行くように導いて下さい。病気の方がイエス・キリストの十字架の力によって速やかに癒やされることを信じます。救主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:マタイ注解―フランシスコ会、黒崎、山本、LABN、文語略解。「平民の福音・山室軍平・救世軍」、「高等科説教53週・小林宏・日キ教団」、「よろこびの泉・2008.6月」、「信仰雑誌・証し