深い淵から主は救い上げて下さる 詩篇130:1-8      主の2008.5.11礼拝



神学校一年生の冬に同級生と共にひどい風邪になり、咳が止まらず熱も下がらず寝込んだことがあります。当時の神学校の経済は厳しく、45名の神学生は毎日朝食、夕食は麦ご飯、キャベツの芯の漬物、味噌汁、昼はうどん一杯でした。一週間に一度夕食に揚げ物があり、日曜教会派遣に行く朝食に卵がつきましたが、総合的には栄養不足による体力低下で治癒力が衰えていたこと、保険がなかったので医者に行けず薬もなく、ひたすら祈って寝て回復を待っていました。「治る」と思いつつも、ふっと「長引いたらどうしよう。肺炎かな」と悪い考えが頭を過(よ)ぎります。その時に、聖霊が「キリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたを癒し、強め、力づけ、不動のものとして下さる」(Ⅰペテロ4:10)という御言葉を思い起させて下さり、力を受け、癒やしの恵みを受けました。

本日は詩篇130篇です。詩人は「主よ、深い淵からあなたに呼ばわる」(1節)と叫んでいます。淵とは流れの水がよどんで深くなった所です。詩人は訴えています、「水がよどむように、問題に巻き込まれ、罪に負け、深い深い、二度と浮かんでこられないような淵の中に沈んでいます、主よ、淵より浮かび上がり、新鮮な空気を吸い、明るい陽の光を浴びさせて下さい」。私たちも時として、浮かび上がれないような問題の渦中に巻き込まれ、或いは身体が不調になり、人の力ではどうしようもない困難の中に沈む時があります。私も神学校時代一週間のひどい風邪を通して、このまま行くと肺炎になる、神学校生活はどうなるのかという深い淵の中に沈みそうになりましたが、主に呼ばわった時に、聖霊がペテロの手紙を読むように導いて下さり、「苦しみはしばらくである」という主の御言葉をいただき癒やされました。今日、あなたに問題があるならば、主に呼ばわりましょう。今日、病気の方は主に呼ばわりましょう。きょうは聖霊が降り、教会が誕生したペンテコステの日です(使徒2章)。なかなか祈れない私たちのために、聖霊みずから、私たちのために言葉にあらわせない切なる呻きをもって執り成しの祈りを捧げ、神からの助けが得られるように導いて下さいます(ロマ8:26、27)。主のメッセージを聴き、聖霊によって祈り、今週も信仰の日々を前進して参りましょう。



内容区分

1、クリスチャンは、主に呼ばわる者である。130:1-4、

2、クリスチャンは、主によって望みを抱く者である。130:5-8、

資料問題

詩篇130篇は七つの悔改めの詩篇の一つである(6,32,38,51,102、130、143篇)。1節「深い淵」、精神的に悩み、罪ゆえに神との交わりを永遠に絶たれようとしている状態を言い表している。または霊的罪の問題。死者の住む陰府と解してもよい。3節は罪の普遍性と人間の能力の否定であり、これは全ての人の問題である(列上8:46、ナホム1:6、マラキ3:2、エズラ9:15)。このような罪の現実に直面して、はじめて神の恵みがやってくる。4節「ゆるし」、前節のように、罪のゆえに神の前に立てなくても、神には赦しがある。「恐れかしこむ」、尊敬するの意。5節「主を待ち望む」、赦しは神からくる。赦しはわざとしての祈りなどによらず、神の側からやってくるので、人はただ神の恵みのことばを待ち望む(エレミヤ31:34)。6節「夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望む」、朝が来て夜回りは一晩中の労苦と暗闇から解放される。夜が終って朝がくるように、信仰者は神の赦しがあることを信じて救いを待つのである。7節「主には・・・あがないがある」、旧約イザヤ53章の苦難の僕を経て、イエス・キリストの十字架いよって贖いは実現する。



1、クリスチャンは、主に呼ばわる者である。130:1-4

主よ、わたしは深い淵から呼ばわる。主よ、どうかわたしの声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください(1、2節)。

淵というのは流れている川の流れが淀んで流れなくなり、そこが深みになっている所です。順調に進んでいた人生が、何かの障害で進まなくなってしまう時があります。起きた問題に巻き込まれ、ズルズルと気持が沈み、希望を失くしてしまう状態になる時がありますが、それが深い淵です。そこから浮かび上がりたいと思いますが、なかなか淵の上に出ることが出来ないという状態になります。詩人は神様を信じていますが、何らかの事情で、困った状態に陥り、自分が深い淵の中にいるので助けて下さいと祈っています。130:1-4を通して教えられることが三つあります。

第一に、私たちクリスチャンは、人生のあらゆる苦しみを体験された主に祈ることができます。

「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳を我が願いの声に傾けてください」(1、2節)・・・自分が困難な中にある時に、病気の時に、自分の現状を率直に認め、主にすがる思いを言い表している言葉です。私たちは自分だけが人生の深い淵に沈みそうである、なぜ私だけがこんな目に会うのかと思ってしまいます。しかし、人生の最も深い苦しみの淵を体験されたお方がいます。イエス・キリストは天の栄光の位を捨てて、人として33年半の人生を歩まれました。30歳までナザレの村の大工として、母マリアと多勢の弟妹たちを養い育てるという生活の苦労を体験されています。30歳で公生涯(救主としての公の活動)に入ってから約3年半の間、毎日流浪の旅を続け、安心して枕をおいて寝る場所もなく、ただひたすら病める人、淋しい人、見捨てられている人を尋ね歩き、病気を癒し、人々に愛を与え、生きる力を授けて伝道して歩かれました。最後には罪がないのに、私たち人間の罪を背負って十字架の上で死ぬという言語に絶する苦しみを体験されています。十字架の前にゲッセマネの園で血の汗を流して祈り、十字架の上で朝の9時から昼の3時まで、私たちの罪の罰の身代りになって苦しんで下さいました。イエス・キリストだけが、人生の深い苦しみの淵を全て体験された唯一の救主です。私たちはどんな苦しみの中にあっても「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる」という信仰をもってキリストに祈り、助けを求めることができます。

第二に、私たちクリスチャンは、主によって愛され、赦され、生かされている者です。

「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかし、あなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」(3、4節)・・・私たちが主に呼び求める時に、主は愛をもって答えて下さいます。自分自身のことを考えてみる、自分には少しも良いところがない、自分は不信仰な罪深いものであることに気づきます。こんな罪深い者では神様の前に立つことができないという現実に直面します。しかし、自分の罪を知る時に、はじめて神様の恵みがやってきます。キリストが話された話です・・・『二人の人が神殿に祈りに行った。パリサイ人は「私は不正などの罪を犯していません。週に二度断食をし、十分の一献金もしています。隣にいる取税人のような輩とは違います」と祈った。ところが、取税人は、胸を打ち「神様、罪人の私をお赦し下さい」と祈った。神様は取税人の祈りを受け入れて下さった』(ルカ18:9-14)・・・。神様は心の砕かれた者の祈りを聞き、その罪を赦して下さいます。罪の赦しを受ける時に、人は主を恐れかしこむとありますが、これは主を尊ぶ、尊敬するという意味です。

Aさん(男性)は、教会の中で自分の気にいらないことがあり、教会を離れてしまいました。教会を離れても、自分の心の中で信じていれば良いのだ、自分で信仰を保って行けるという傲慢な気持であった。だが教会へ行かなくなると聖書を読まなくなり、祈らなくなってしまった。ノンクリスチャンと同じ日を送っていたある日、自分の体に何か変調があることに気づいた。これは単なる運動不足であると思い、運動した。間もなく身体全体が動かなくなってきた。その時に自分が人生の深い淵の中に投げ込まれ、命が危ういことを知り、愕然とした。その時に、聖霊が働き、「主よ、私は深い淵の底にいます。私を助けて下さい。主よ、わたしの声を聞いて下さい。わが願いに耳を傾けて下さい」という祈りが出てきた。すると心に言い知れない平安がやってきた。やがて以前とは違う教会に導かれ、忠実に集会に出席し、奉仕と献金に励み、恵まれた信仰生活に復帰することができたのです。主がAさんの不信仰にだけ目をとめていれば、とっくに審かれていたことでしょう。恵み深い主はAさんを赦し、愛をもって受け入れて下さったので、再び信仰を持つという恵みを与えられました。罪を犯して、深い淵から呼ばわる者の祈りの声であっても、主に届いて行きます。

第三に、私たちクリスチャンは、どんなことでも主に祈って行くということを決断しましょう。

私たちは主に呼ばわって行く者であるということに徹して、どんなことでも祈って行きましょう。・・・先週は祈りに満ちた一週間でした。早天祈祷会に多くの方々が集い、水曜祈り会も祝福されました。個人的な祈りに訪れてきた方々もいました。病気の方々の癒しと回復のために、経済の祝福のために、メールで寄せられる祈りのリクエストのために、サイクロン被害のミャンマーのためになど祈ることが多くあった一週間で、自分のことは祈るヒマがないような日々でした。野外親睦会のために準備、食材買出しで家内は忙しく、土曜日は富田さん倫夫師による肉の買出しなどがありました。金曜日関東分校から帰ってくる時は珍しく疲労を感じたのですが、昨日土曜日、明日はペンテコステ、聖霊がやって来た日であると思った時に、聖霊が私の疲れを取り去り、シャッキとなり、本日の礼拝を迎えることができました。今日、「どんなことでも主に祈ります」と決断して祈って下さい。



2、クリスチャンは、主によって望みを抱く者である。130:5-8

わたしは主を待ち望みます、わが魂は持ち望みます(5節)。

人生において、良き師、良き友人に恵まれることは祝福です。私も多くの方々に支えられて来ましたが、いつまでも私の師でいて下さいという頼りになる先輩の方々も、人生の時が来て神様の許に召されて行きました。ただひとり、変らずに私を支え、導いて下さるのはイエス・キリストです。詩人は「わたしは主を待ち望む」と主に期待して行くことを告白しています。主によって望みを抱いて行くことを三つの点から教えられて行きましょう。

第一に、私たちクリスチャンは、聖霊によって主の恵みを待ち望んで行きます。

「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」(5節)・・・詩人はただ一途に主を待ち望んでいます。「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって上ることができる」(イザヤ40:31)という約束の御言葉があります。主を待ち望むことによって神の霊による力が与えられます。主を待ち望む者に、神の霊である聖霊が著しく注がれて、教会時代が始まったのが今から約二千年前のペンテコステの日です。キリストは復活されてから40日間地上にいて弟子達に神の国について教えた後に、エルサレム・オリーブ山から雲に包まれ、天の御国に帰って行かれました。昇天を見送った弟子たちは、ペテロを中心にして120名ほどの人々がエルサレムの二階座敷で祈っていました。「キリストの代わりに助け主がやってくる」というキリストの御言葉によって望みを抱いて、10日間心を合わせて祈っていた時に、ユダヤの収穫祭であるペンテコステの日に天から激しい風のような音と共に、舌のようなものが、炎のようにように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまり、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままにいろいろ他国の言葉で語り出したのです。そしてペテロが立ち上がり、集まった人々にキリストの十字架と復活とを宣べ伝え、三千名の人々が救われ、洗礼を受け、教会が始まりました(使徒1-2章)。聖霊はキリストを告白させ(Ⅰコリ12:3)、聖霊によって神の愛が心に注がれ(ロマ5:5)、心に御霊の実を結ばせ(ガラテヤ5:22-23)、聖霊の賜物によって教会を建て上げ(Ⅰコリ12:4-11)、伝道の力を与えて下さいます(使徒1:8)。主を待ち望むとは、聖霊に満たされることです。この朝、聖霊に満たされるように祈って下さい。

第二に、私たちクリスチャンは主を心から待ち望んで行きます。

「わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます」(6節)・・・夜回りとは、寝ないでエルサレムを守る兵士のことです。夜回りは朝が来て、その務めから解放されます。今晩は疲れているから、早く朝になってほしいと思っても人の力ではどうすることもできません。ただじっと朝が来るのを待つのみです。しかし朝は必ずやってきます。信仰には待つということがあります。アブラハムは75歳の時に「子孫を与える」と言われた神様の約束を25年間待ち続けて、100歳の時にイサクを授かっています。ユダヤの人々はバビロンに捕囚となり、70年間の忍耐の日々を過ごして故国に帰ることができました。イエス・キリストは旧約4000年の歴史を経て誕生されました。キリストは30年間の隠れた生活の後に救主としての活動を始めました。すべてのことに時があるとソロモンは言っています(伝道3章)。

夜回りは朝を待ち望んで務めを果たしています。朝がやって来て、夜の帳(とばり)があがって務めから解放されます。朝が巡ってくるように、祈った祈りは必ず聴かれて行きます。特に信仰の戦いの中にある方々のために、病気の方、入院している方のために、主の最善がなるという平安と希望とが与えられ、強められて行くようにお祈りして下さい。私は三日間入院しましたが、平安と共に不安が過(よ)ぎる時がありましたが、主によって、皆さんの祈りによって支えられました。皆さんの祈りが病んでいる方を支えます。特に病気の方々の上に、聖霊によって神様の愛が豊かに注がれるように毎日お祈りして下さい。

第三に、私たちクリスチャンはキリストのあがないを信じます。

「イスラエルよ、主によって望みをいだけ、主にはいつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。主はイスラエルをそのもろもろの不義から救われます」(7,8節)・・・あがないとは、身代金を払って奴隷を自由にすることです。罪の奴隷であった私たちのために、キリストは十字架の上で、ご自分の命という身代金を払って、私たちを罪の力から解放し、救いを与えて下さいました。この救いは7節で「イスラエルよ」との呼びかけがあるので、個人の枠を越えて、私たち全ての者のための救いであることが分かります。



まとめ

1、1-4節、私たちは、深い淵の中にいるような時でも主に呼ばわり、祈ります。主の御名によって祈りましょう。ペンテコステの日に降った聖霊は私たちに祈りを与え、御霊みずから私立ちのために執り成しの祈りを捧げさせて下さいます。祈りましょう。

2、5-8節、私たちは主に望みをおいています。待ち望む私たちに聖霊が与えられ、信仰が強められて行くことを信じます。聖霊による愛を注がれて、病気の方々の癒やしのために、問題のある方々の勝利のために祈りましょう。



祈 り

天地の主である神様、キリストの救いに感謝します。深い淵の中にいるような事態になったとしても、私たちには『イエス様』と呼ぶ祈りが与えられていることを感謝します。ペンテコステの日に与えられた聖霊の恵みに感謝し、聖霊のみわざをほめ讃えます。聖霊によってキリストを告白し、聖霊によってキリストを伝道し、聖霊の賜物によって教会が建て上げられ、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれ、愛をもって互いに仕え合って行く教会として成長させて下さい。特に病気の方々に平安と共に癒しの恵みが身体全体に浸透して行くように信じてお祈りいたします。午後からの野外親睦会を祝福して下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します、アーメン。



参考文献:詩篇注解―フランシスコ会、岸井、浅野、口語旧約略解、文語旧約略註、LAB、米田、ギブソン