キリストにおける神の愛から私たちを引き離すものはない ロマ8:34-39   主の2008.5.18礼拝



昭和59年、西暦1984年3月22日読売新聞に死亡広告が出ていました。「当教会 御守護神様におかれましては3月19日午前5時10分御逝去なされました ここに謹んでご通知申しあげます 宗教法人霊波の光教会」という内容でした。神様の死亡広告という珍しい広告でしたので切り抜いて取ってあります。私たちが神様として縋っていたものが死んでしまったということは、その神と称するものが人間だったということです。人間が人間を救うことはできないことです。例えば罪を赦す力は人間にはありません。しかし、先行き不安な時代にあって、多くの人々が、自称神と名乗るものに安心がある、拝めばご利益があると言われ、それを得るために多くの寄付金を取られ、或いは仲間を増やすようにという口車に乗せられて、自称神と名乗るものを拝んでいます。ところが平安とご利益を与えると言っていた神と称するものが死んでしまったというのでは、安心ではなく、不安が増大するばかりです。

本日はロマ8:34-39です。「キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」(34節)・・・キリストは、私たち人間の罪を背負って、十字架の上に命を捧げ、その三日後に死より復活され、今も、そして永遠に生きておられるまことの神様です。キリストは私たちが呼べば答えて下さる真の救主です。聖歌で(総合731番)、「みんなを招くイエス様の所に 教えを聞きに集まりましょう・・・頼れば誰も聖霊に満たされて 心に明かり灯されます」と歌われています。キリストは私たちに救いを与え、心に聖霊を満たし、きのうも、きょうも、いつまでも変ることのない救主として、私たちを守り続け、永遠の天国に導いて下さる救主です。神と自称していた偽の神は、人間であるので死んでいなくなってしまいました。「キリストは、いつも生きていて彼らのために執り成しておられるので、キリストによって神に来る人々を、いつも救うことができる」まことの神様です(ヘブル8:25)。キリストだけが永遠に生きておられる唯一の救主です。

聖書の御言葉を通して主のメッセージに耳を傾け、キリストへの信仰を強めていただき、聖霊に導かれて祈りましょう。あなたの当面する諸問題、人間関係、経済問題、病気などに最善の答を与えられて、今週も日々に祈って信仰の道を前進して参りましょう。



内容区分

1、私たちは、キリストの十字架の愛によって愛されている。8:34-37

2、私たちは、キリストにおける神の愛から引き離されることはないという確信を与えられている。8:38-39



資料問題

34節「神の右に座し」、宇宙の支配者の地位に立つこと。35節「患難」、外部の事情より受ける困難、「苦悩」、心中の苦闘、その他各種の困難はパウロが受けたもの(Ⅱコリ11:23-31)。36節は詩篇44:22よりの引用(70人訳)。37節「勝ち得て余りがある」、キリストの愛に生きる者の受ける力は無限である。38節「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛」は、35節「キリストの愛」と同一で、キリストの愛として顕れた神の愛を意味する。



1、私たちは、キリストの十字架の愛によって愛されている。8:34-37

キリスト・イエスは死んで(十字架)・・・だれが、キリストの愛から私たちを離れさせるのか・・・わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(34節、35節、37節)

愛という言葉には不思議な力があります。「愛されている」と言われることによって心が温かくなります。それは、「あなたのことを大事に思います、あなたは私にとって掛け替えのない存在です、あなたがいてくれてうれしい」ということが伝わってくるからです。日本語では直接に「愛している」という表現よりも、「好きである」、「大事に思っている」、「あなたのためだったら死んでもよい」などのように言うことが普通かも知れません。1880年(明治13年)新約聖書日本語訳が発行され(元約聖書)、その中で「神は愛なり」と訳され、それから愛という言葉が普及し始めました。多くの人々が愛とは何であるのかという事が最初はよくわかりませんでした。人々が聖書を読むようになって、愛とは言葉や口先だけのことではなく、イエス・キリストの十字架によって表されたものであるという理解が広まって来ました。

・・・人間は神様に背き、罪を犯して罪人になり、死んで永遠の滅びの中に入って行くという悲惨な人生を歩んでいる。神様は愛であるので人間を捨て置くようなことはせず、救主として独り子であるイエス・キリストをこの世界に遣わして下さった。キリストは人間のもつあらゆる苦しみを体験され、最後には罪がない清い神の独り子であるのに、人間の罪の身代りになって十字架の上で死んで下さった。人が自分の罪を認め、悔改めてキリストを自分の救主として信じるならば、罪を赦され、永遠の命を受けることが出来る・・・それが愛の内容です。



*34節の「キリスト・イエスは死んで」とは、キリストの十字架の死を指しています。

*35節の「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」というのは、だれがキリストの十字架の愛からわたしたちを離れさせるのか、ということです。

*37節の「わたしたちを愛して下さった」とは、キリストがわたしたちを十字架の愛で愛して下さったということです。



十字架によって示されたのが、キリストの愛であるということを多くの人々が知って、愛という言葉

が一般的になって来ました。罪の身代りになって命を棄てて私たちを愛し、罪を赦し、神の子にして下さったのはキリストだけです。人生には35節のような辛いことがあります。キリストを信じる時に、キリストによって愛されている者にはキリストの命が宿り、「すべての事において勝ち得て余りがある」という人生を送る力が与えられます(新改訳―圧倒的な勝利者。新共同訳―輝かしい勝利よりも口語訳がよい)。キリストはどんなふうに私たちを愛して下さっているでしょうか。次の詩は子育ての本にあるものですが、聖書の方針に従ったものです。(ドロシー・ロー・ノルト「子供が育つ魔法の言葉」・PHP出版より抜粋)



批判ばかりされた子どもは、非難することをおぼえる。

笑いものにされた子どもは、ものを言わずにいることをおぼえる。

皮肉にさらされた子どもは、鈍い良心の持ち主となる。

しかし激励を受けた子どもは、自信をおぼえる。

寛容に出会った子どもは、忍耐することをおぼえる。

賞賛を受けた子どもは、評価することをおぼえる。

安心を経験した子どもは信頼をおぼえる。

可愛がられ抱きしめられた子どもは、世界中の愛情を感じとることをおぼえる



キリストは、私たちを批判せず、笑いものにせず、皮肉を言わず、あるがままを受け入れてくれます。キリストは「子よ、しっかりするのだ」と励ましてくれる。どんなときでも私たちをじっと待っていて下さる。私たちがした小さなことでも「善かつ忠なる僕よ」と評価してくれる。キリストの所に行けば平安があり、キリストは私たちを抱きしめて下さる愛のお方です。

キリストは言われます、「わたしはあなたがたを棄てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18)。

きょう、生きておられるキリストの愛に縋って下さい。きょう、生きておられるキリストの救いを求め、癒やしを求めて、聖霊の助けによってお祈りして下さい。あなたの人生は必ず愛と喜びと希望に満たされます。

2、私たちは、キリストにおける神の愛から引き離されることはないという確信を与えられている。8:38-39

わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(38-39節)

この手紙を記した使徒パウロは「わたしは確信する」と言っています。本日の8:34-39の個所に「キリストはわたしたちのために執り成して下さる」、「だれがキリストの愛からわたしたち離れさせるのか」、「わたしたちを愛して下さったかた」、「わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」、「主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」ということが言われています。これらの言葉から、キリストの選びによって救われたことを感謝し、どこまでも私たちはキリストに縋って行くのであるという気持が滲み出ています。

そして一段と声を高くして、パウロは自分個人の信仰として「わたしは確信する」という宣言をしています。35節に、パウロの個人的体験として、信仰の故に患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣、そして命の危険が迫っている体験をしたことが記されています(詳しくはⅡコリント11:23-31)。これからも信仰のために困難が襲って来るかもしれない。だが「わたしは確信する」と言い切って、自分は何があってもキリストに縋って行く、キリストの愛からわたしたちを離れさせるものはない、わたしはキリストを心から信じる、キリストの恵みを確信するという信仰告白をしています。

サタンは私たちに巧妙に働きかけてきます。「そんなに熱心になることはない。毎週の礼拝を一休みしてごらん」と言います。「多勢の中で礼拝をすることもいいが、ひとりで静かになることもいいことだ」と言います。これは間違いなくサタンの誘いです。なぜなら、「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互いに励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」(へブル10:24)という聖書の教えに背いているからです。

サタンは私たちの心に働いてきます。ところでご存知でしょうか。何を考えるかは人生を決める大切なことであるということです。



思想をまけば、行為を刈り取る。 Sow a thought, reap an act;

行為をまけば、習慣を刈り取る。 Sow an act, reap a habit; 

習慣をまけば、性格を刈り取る。 Sow a habit, reap a character;

性格をまけば、運命を刈り取る。 Sow a character, reap a destiny.



サタンは上記のことを知っているので、人間の心の中に不信仰という種をまきます。また否定的なことを考えるように仕向けます。南洋の島に派遣された二人の靴セールスマンの話をご存知でしょう。一人のセールスマンは島について愕然とし、ここでは靴は売れないと思い込んでしまい、本社に連絡した。「この島は南国で暖かくて、だれも靴を履いていない。靴の売れる見込みはゼロである。直ちに帰ることにする」。もう一人のセールスマンは島についた時に小躍りして喜んだ、「しめた。この島では靴が売れるぞ」。彼は本社に連絡した、「靴をジャンジャン送れ。この島に住んでいる人はだれも靴を履いていないから、大いに靴を売り込めることが確実である」と。

否定的な考え、不信仰な考えが心に入ってこないようにする秘訣は、日々に聖書を読むことです。人間の考えではなく、キリストは私に何を教え、私に何をせよとおっしゃっているのか教えて下さいという気持をもって、聖書を読んで下さい。例えば「主は善にして善を行われます」(詩篇119:68)という御言葉があります。この御言葉一つを握るだけで、心が明るくなります。善にして善を行われる主に従って行けば、物事すべては必ず恵みに変えられて行くという希望をもつことができます。あなたの抱えている重荷のすべてを主に打ち明け、祈って、善にして善を行われる主の導きと解決を得て行くように求めて下さい。

信仰は決断の連続です。キリストに従う思い、キリストについて行く決心が大事です。毎週火曜日―土曜日まで朝6時から早天祈祷会をしています。毎回聖書日課に従って聖書を読み、メッセージがあり、沢山の祈りの課題があり、出席者が心を合わせて祈ります。私は前の晩、「明日は早天祈祷会です」と祈って寝て、翌朝起きて祈ることができます。少しばかり教会のことを言いましょう。教会は人が増え、それだけいろいろなことがあります。月曜日から絶え間なく電話があり、来訪者があり、教区会で出かけ、神学校に行き、メールが昼夜をわかたず寄せられます。家内は家内で様々な方々に毎日のように接し、聖書の学びを担当し、多くの方々に電話をするなどしています。教会は24時間営業の霊的コンビニのような日々です。伝道師は若い方々へのケアなどを一所懸命にしています。霊的な事柄で教会が忙しいということは、それは教会が生きている印であると思って感謝しています。一つお願いしたいことは私たちの健康が守られるように祈って下さいとうことです。

パウロのように「わたしは確信する。わたしはイエス様を第一にする。日曜礼拝を優先し、祈り会に出席しよう」という思いをもって祈ることです。イエス様を第一にすれば、心が恵まれ、日々を喜びをもって生きるように神様からの助けが与えられます。38節にあるような様々なものが私たちを襲って来ます。39節「私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛」というのはキリストによって表された神の愛ということですので、短く言えばキリストの愛です。39節にはどんなものが襲ってきても、キリストの愛から私たちを引き離すものは何もないというパウロの確信が述べられています。私たちの恩師弓山先生がロマ書の時間で、「諸君、何ものも諸君をキリストの愛から引き離すものはないのだ。ここはNo Separation と記憶せよ」と顔を真赤にして力を込めて講義されたことを思い出します。

皆さんに勧めます。「信仰がなくては神に喜ばれることはできない」(ヘブル11:6)のです。中途半端な信仰ではなく、徹底して「わたしは確信する」という信仰をもってキリストに信頼し、キリストに縋る信仰を持って行くように、決意を新たにして祈って下さい。

重荷をもち、信仰の戦いの中にある方々は「主よ、善にして善をなされる主によって万事は益になる事を信じます。私を導いて下さい」と祈って下さい。

病気の方は、「信仰による祈りは病んでいる人を救い、主はその人を立ち上がらせて下さる」という主の約束を信じて、心を注いで祈って下さい。



まとめ

1、34節「・キリスト・イエスは死んで・・・」、35節「だれがキリストの愛から離れさせるのか・・・」、

37節「私たちを愛して下さったかたによって・・・」、私たちはキリストの十字架に酔って愛されていることを感謝します。

2、38-39節、キリストの愛から私たちを引き離すものは何もありません。キリストに縋って行く信仰を「わたしは確信する」と告白して下さい。キリストを信じ抜いて行く信仰を持って進んで行くように祈って下さい。

*お祈りの前に『君は愛されるために生まれた』を讃美します。



祈 り 天地の主である神様、キリストの救いを受け、キリストによって愛され、信仰の日々を歩ませていただき感謝します。主が、愛をもってひとり一人の求めや願いに答えて下さることを信じ感謝を捧げます。特に信仰の戦いの中にある方々に勝利を与え、病気の方々に回復を与えて下さい。善にして善を行われる神の愛を信じ、救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ロマ注解―黒崎、フランシスコ会、尾山、岩隈、竹森、福田、バーネット、LAB、バークレー。 「引照新約全書・1880年・北英國聖書會社」、「キリスト教神学概論・ワイレー・カルバートソン・日本ウエスレー出版協会」