イエス・キリストは主である  ピリピ人への手紙2:6-11         主の2008.5.25礼拝

イギリスから馬場恵さんを礼拝に迎え、さんびを捧げていただき、感謝します。イギリス帰国後、ケニヤに医療伝道のため、2週間ボランティヤで出かけますのでお祈り下さい。

先月末、主の恵みに溢れた結婚式がありました。結婚式で最も大事なことは「結婚の誓約」です。結婚する二人に対し、「健やか時も、病む時も、相手を愛し、敬い、慰め、助け、いのちの限り、固く節操を守ることを約束しますか」という問いかけがあります。二人は「はい、約束します」という決意を神と会衆の前で誓約します。司式者は、二人が言葉をもって誓約したことを日々の生活の中で誠実に果たして行くように祈り、二人は夫婦としての出発をいたします。もし、誓約の問いかけに対し、「考えさせてください」、「あまり自信がありません」、「一年間なら大丈夫です」という返事であれば、そこで結婚式は成立しなくなります。神様の助けによって、結婚生活をして行こうという決断をして、「はい」という返事をすることによって、その結婚は祝福されて行きます。

本日はピリピ2:6-11です。11節「イエス・キリストは主である」・・・これは「私はイエス・キリストを信じ受け入れました。生涯を賭けて、何があってもキリストに従い、仕えて行きます」という信仰告白です。宗教改革者マルティン・ルッターの妻カタリナは6人の子どもの母親であり、数多くの病気をもっている夫ルッターを助け、親戚の子ども、お客、学生、使用人など常時30人位の世話をするという多忙ぶりでした。その忙しさの中で聖書を読み続け、「私は栗の毬(いが)が外套について離れないように、キリストにすがりついていたい」という信仰告白をしています。結婚式の誓約の言葉に従って、相手を愛し、誠実に仕えて行くならば、その結婚生活は主の祝福を受け、恵まれます。「イエス・キリストは主である」という信仰告白に基づいて、聖霊によって祈り、キリスト中心、教会中心の信仰生活をして行くならば、私たちの人生は主によって祝福されて行きます。心の耳を開いて、ご一緒に主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路へ出発して参りましょう。



内容区分

1、イエス・キリストは、私たちを十字架によって救って下さった愛の救主である。2:6-9

2、「イエス・キリストは主である」と告白し、私たちは祝福の人生を歩むように導かれる。2:10―11

資料問題

6節「かたち」、形、姿。本性を外に現す姿(マルコ16:12)、または旧約聖書に見られる神の大いなるわざとしての栄光。神の栄光は復活されたキリストの顔に輝いている。「固守すべきこと」、キリストは世が創られる前から父の御許で栄光をもっていたが(ヨハネ17:3)、その栄光にこだわらずに、7節のように僕のかたちをとって(受肉)、我々と同じ人間になられた。8節「十字架の死に至るまで従順であられた」、父なる神の御心として死を受け入れたキリストの従順は(マタイ26:42、マルコ14:36、ルカ22:42)、ロマ5:19でも強調されている。9節「すべての名にまさる名を彼に賜った」、キリストが受けた名は「主・キュリオス」。キュリオス(ギリシャ語)は、旧約聖書では神にのみ使われるヘブライ語ヤーウェ(出エジプト3:14-15)の通常の代用語アドナイの70人訳(ギリシャ語における訳語)。ひざをかがめ、あらゆる舌が告白する(イザヤ45:25)という語から、キリストは主であり、神であるということが表明されている。11節「イエス・キリストは主である」、初代教会の基本的な信仰宣言である(使徒2:26、ロマ10:9、Ⅰコリ12:3、ヨハネ20:28)。



1、イエス・キリストは、私たちを十字架によって救って下さった愛の救主である。2:6-9

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。(6-9節)

十字架はクリスチャン信仰の土台です。この教会のてっぺんにキリストの救いを表す十字架が立てられています。6-8節に、キリストが人となってこの世界にやって来られ、十字架にかかって人の救いを成し遂げて下さったことが記されています。十字架に私たちの救いの拠り所があります。私たちの周りには宗教と言われるものがありますが、多くの宗教は十字架に敵対心をもっています。モルモン教は末日聖徒イエス・キリスト教会という看板を掲げて、自分達はキリスト教であるかのように装っていますが、モルモン教の建物には十字架がなく、一本の避雷針のようなものを立てて十字架を否定しています。エホバの証人の聖書は十字架という言葉を杭という言葉に置き換えています。統一協会では十字架でキリストは死んで終わりだと言います。仏教では釈迦は悟りを開いていて穏やかであるが、十字架にキリストが身代りになって血を流したのは残酷だと言います。なぜ他宗教の人々が十字架を避け、無視し、攻撃するのかと言えば、それはキリストの十字架に直面すると人は自分の心を探られ、罪を意識するようになって苦しくなるからです。また十字架には人を救う力があるので、他宗教の人々は十字架を人々に知らせないようにしているからです。

私たちはキリストの十字架を誇りにしています。何故ならキリストの十字架には愛が顕(あらわ)され、その愛によって私たちは救われているからです。キリストは人が罪に苦しみ、やがて死んで滅んで行く姿を見て、いてもたってもいられなくなって、神の子としての栄光を棄てて、人の姿をとって、この世界に飛び込んで来られた救主です。キリストは33年半の人生を通して、人間の苦しみのすべてを体験されています。例えば、罪の結果、人間は病気で苦しんでいる、愛が失われて人間関係が崩れている、孤独でいる、経済的に苦しんでいる、悪霊によって様々なトラブルに巻き込まれている、最後には死んで行く者になっています。キリストは病気の人に手を触れて癒やし(マタイ8:3)、病気をご自分の身に引き受けています(マタイ:17)。人々から疎外されているサマリアの女性を訪ねて救いを与え、彼女を社会に復帰させています(ヨハネ4:1-42)。一人ぼっちで友のいないザアカイの家に泊まり、彼を救いに導いています(ルカ19:1-10)。まず神の国を求めるならば、空の鳥を養い、野の花を装って下さる天の神様によって生活は支えられることを約束され(マタイ6:33)、地上生涯の最後の三年半は伝道に専念し、神様は婦人たちを用いてキリストと弟子達の生活を支えて下さいました(ルカ8:1-3)。悪霊に憑かれ、暴れまわるので墓場に棄てられていた人を訪ね、彼の内に巣くっていた悪霊を追い出し、正気に立ち返らせています(マルコ5:1-20)。罪のために人は死んで行く、その罪をキリストが背負って十字架上で身代りになって死んで下さったので、キリストを信じれば罪が赦されます(Ⅰペテロ2:24)。そして9節にあるようにキリストは十字架の後に復活され、私たちに永遠の命を与えて下さる生命(いのち)の主です(ヨハネ3:16)。

ひとりの方の証しです。Aさんはいわゆる信心深い人でした。家には神棚と仏壇がありました。神棚には全国の神社のお札を飾っていました。朝、出かける前に、仏壇の前に座って、チ~ンと鐘を鳴らし、一言二言うろ覚えのお経を唱え、帰ると同じように仏壇の前に座り、朝と同じようにするという生活を長年していました。仏壇に手を合わせていればなんとなく安心だ、罰が当たらない、ご先祖様が守って下さるに違いない。神棚には自分が全国の神社から集めて来たお札があり、それらに記されている八百万の神々がついている、お墓も用意してある、これで大丈夫だと思っていました。ある時、知人からキリストの話を聞いて、キリスト様も無視できないと思って、仏様、ご先祖様、日本の神々様、それにキリスト様も入れよう、また他に神様と言われるものがあれば、それも加えよう、そうすれば大丈夫と思っていました。しかし自分がどこから来て、どこに向かって進み、死後はどうなるのかということは分らないままで、本当の安心はありませんでした。ところが、神様は愛の神様です。不思議な導きによって、聖書の中で最も大事なキリストの十字架と復活の話を聴く機会が与えられ(Ⅰコリント15:1-4)、なんと偶像礼拝の罪を悔改めてキリストを信じ、生まれ変わることができました。Aさんは、自分がキリストによって命を与えられたこと、キリストによって自分の行く先は天国であるということを知って、心は平安で満たされました。

私たちも、キリストの十字架の愛によって救われていることをもっともっと感謝しましょう。キリストが愛の救主であることを感謝し、キリストをさらにさらにほめ讃えましょう。

(ジャクソンとチャチャに十字架の恵みを讃美してもらいます)。

2、「イエス・キリストは主である」と告白して、私たちは祝福の人生を歩むように導かれる。2:10-11

それは、イエスの名によって、天上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白し、栄光を父なる神に帰するためである。(10-11節)

イエス・キリストの十字架の愛によって愛され、救われた者は「イエス・キリストは主である」という告白をし、その告白にふさわしい生き方をするように、キリストに献身して行きます。礼拝の時に「あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」(ロマ12:1)という御言葉が朗読されます。全身全霊をささげて、霊と誠を尽くして礼拝をささげなさい、いつも「イエス様が一番」、「イエス様いのち」という信仰を表して行こうという積極的な呼びかけです。

「イエス・キリストは主である」ということを心から、熱心に、燃える思いをもって告白して行くのがクリスチャンです。

キリストが十字架に命を棄ててまで私を愛して下さった、そう思うと、熱いものが心に込み上げてくるというような、熱いクリスチャンになって行きましょう。宗教哲学者・思想家マルティン・ブーバーという方が燃える炎(Burning fire)ということを言っているそうです。これをクリスチャンに当てはめるならば、キリストを信じた者は心の内に燃え上がる炎のような熱い感謝、喜びをもつことが大切である、と言うことができます。「私も燃えるような信仰がほしい、だがなかなか燃えないでモヤモヤしている」という方がいるかも知れません。心が燃える秘訣は聖書を読んで、キリストを知ることです。キリストが復活されたのに、二人の弟子がエルサレムを離れてエマオの村に落ち延びて行きました。そこへ復活されたキリストが現れ、二人に聖書全体を通してご自分のことを説き明かしてくれました。二人はその時のことを振り返って、「キリストが聖書を説き明かして下さったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」と語り合い、心に燃える喜びを得た二人はエマオ行きを中止し、エルサレムの弟子団に復帰しています(ルカ24:13-35)。聖書を読むという事がおろそかになれば、心は冷えて行き、不信仰になって行きます。「信仰がダウンしています、燃えません、不信仰です」などと言う前に聖書を読んで下さい。

「イエス・キリストは主である」という信仰に立って行く時に、サタンは退散して行きます。

昨日八名の者が上野公園ホームレス伝道に行き、私はメッセージを伝える恵みを与えられ、参加奉仕者はさんび奉仕、給食活動奉仕をし、恵みを得ました。上野にははホームレス伝道のために行くのですが、と同時に偶像との戦いがあります。上野の森には徳川幕府ゆかりの寺など多くの寺があり、不忍池には弁財天が祭られ、集会をしている広場の前にある国立博物館では薬師寺の日光・月光二体の仏像が特別公開され、上野の周りにはたくさんの墓地があります。私は行く前に祈ります、「上野の森に祭られている偶像は死んで何の力もありません。イエス・キリストだけが生きている主です。私たちを愛して下さるキリストの恵みを単純に、確信をもって語り伝えることによって、キリストを信じる者を起して下さい。聖霊の力によって勝利を与えて下さい」と。私事になりますが、私は一昨年メマイで入院しましたが、病床で次のキリストの御言葉を与えられました。「この世の君(サタン)が来るからである。だが、彼(サタン)はわたしに対して何の力もない」(ヨハネ14:30)。サタンはキリストに対して何の力もない。キリストは私の心の内に生きておられる。だからサタンは私をどうすることも出来ないのだという信仰が与えられ、中から内から勝利の力が湧きあがってくるのを感じて感謝でした。

「イエス・キリストは主である」ということを、自分の身をもって表して行くように祈りましょう。

チキン・サンドの元祖「チック・フィレィ」はクリスチャンのトロイト・キャセイ氏によって1964年に創業され、現在アメリカ全土に1040店舗の店があります(業界三位)。この店の特徴は、外食産業で稼ぎ時の日曜日には営業しないことです。キャセイさんは教会学校と教会で育っていますので、レストラン経営のために、日曜礼拝を欠席しますということは有りえないことなのです。キャセイさんの日曜礼拝を最優先して神を敬う姿勢は、ビジネスよりも大切なことがあるということを世の中に示すことになっています。礼拝を最優先することによって、神様に助けられ、経営が導かれています。キャセイさんは収入の十分の一を献金しています。クリスチャン経済学者ジョン・テンプレトンは、十分の一献金を10年間続けた人で、報われなかった人は一人もいないと言っています。キャセイさんはこれまで従業員16500人に1000ドルの奨学金を与え、大学に進学させています。里子を育てる家を建て、里子125人からおじいちゃんと呼ばれています。教会学校で50年、毎週13歳の男子クラスを教えています。日曜日には営業しないことで、キリストの恵みを証(あかし)し、事業に必要なものが与えられ、里親になり、教会学校の教師をすることで神様の愛を分け与えています(佐藤順・御翼360号より抜粋)。

キャセイさんの、自分はキリストを信じている者であることを積極的に証している姿に強いチャレンジを受けます。キャセイさんが教会学校の教師をしていることに関連して言いますが、当教会教会学校も子どもの救いを願い、次世代に信仰を継承するために毎週日曜日朝9時から聖書の学び、信仰生活の実践面を教えています。少子化時代で、子どもの数は減っていますが、教師達は毎週朝早くから教会に来て、それぞれのクラスを担当しています。聖書の学びに加えて、幼稚科、小学科クラスでは生きた英語を教える時間もあります。教会学校の働きのために、教師として奉仕をしている方々のために、31日(土)教会学校教師一日研修会のためにお祈り下さい。



*「イエス・キリストは主である」・・・心の底から信じて行きましょう。皆さん、声に出して一斉に告白しましょう。

皆さんの中に信仰の戦い、或いは問題を抱えている方々がいるでしょう。病気の中にいる方々もいるでしょう。まさかと思うようなトラブルに巻き込まれている方々もいるでしょう。イエス・キリストは十字架の愛で私たちを救って下さった、生きている救主です

キリストは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしの許に来なさい」(マタイ11:28)と招いて下さる主です。私たちの心にキリストが宿っています。キリストを心に信じている者は万事が益になることを信じ、希望を失うことがありません。主は善にして善をなされる愛の神です。主の最善が私たちの内に成就します。祈りましょう。主イエス・キリストの御名によって祈りましょう。



まとめ

1、6-9節、私たちはキリストの十字架の愛によって愛されています。

2、10-11節、「イエス・キリストは主である」と告白し、キリストを第一にする生活をして行きましょう。主イエス・キリストの御名によって問題解決、病気の癒しのために祈りましょう。善にして善をなされる主が導き、助け、癒やして下さることを信じ、祈りましょう。



さんび「聖歌総合版336・いかに恐るべきことありとも」を歌い、祈ります。



祈 り

天地の主である神様、

独り子であるイエス・キリストの十字架によって罪から救い出され、祝福の道を歩むように導かれていることを感謝します。問題の中にいる方に平安を与え、解決を与えて下さい。病気の方に、今この瞬間に臨んで下さり、病の原因となっているものを十字架の力によって撲滅し、健康を与えて下さい。聖霊によって「イエス・キリストは主である」ことを日毎に告白し、今週の日々が恵みの日々であるように導き助けて下さい。午後の集い、夕べの礼拝を祝福して下さい。十字架で罪を赦し、復活により永遠の命を与えて下さったイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ピリピ注解―フランシスコ会、黒崎、文語略解、口語略解、LAB、佐藤順。