新しいいのちへの招き(天国の礼服) マタイ22:1-4 主の2008.6.1礼拝
結婚式の招待状をいただいた時には、まず出席か欠席の返事を出します。出席の返事をして結婚式に出る場合、新郎新婦は自分の親しい友人である、だから普段着のままの服装でよいという訳には行きません。礼服といわれるものがあり、男性はあまり選択の余地はありませんが、新郎新婦を祝うのにふさわしい礼装で出かけます。女性の場合には、男性よりも選択の幅が広く、花嫁とのバランスを考えながら、新郎新婦を祝う礼装で結婚式に臨みます。参列者が普段とはちがう、結婚式のための服装をすることによって、この式は二人の結婚式であるという雰囲気が高まります。参列者は新生活に踏み出す二人を励まし、結婚の最初の日から、生涯を通して二人が祝福に満ちた日々を歩み続けるようにと祈りをします。
本日はマタイ22:1-14です。14節に「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」という御言葉があります。多勢の人々が王子の婚礼に招かれ、出席しました。客を迎えに出た王は、招かれた客の中に礼服をつけていない人を見つけ、「その人を追い出しなさい」と命じています。その人が追い出された理由は、当時の習慣として結婚式には王の備えた礼服を着ることになっていたのに、それを無視したからです。この天国の譬を話されたのはキリストです。話の内容は天国の教えですので、礼服を着なかったために結婚式場から追い出されたということは、天国から閉め出されたということを表しています。招かれたのに、結婚を祝う恵みの場から追い出されたことは悲劇です。
「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」というキリストの御言葉を正しく受け止め、キリストに従う信仰の決断を新たにし、皆で天国へ進んで行きましょう。祈って、共に新しい一週間の旅路へと出発して参りましょう。
内容区分
1、天国への招きを退けてしまう頑固な人になってはならない。22:1-7
2、天国への招きに応じ、素直に礼服をきて王の前に立とう。22:8-14
資料問題
キリストは反対者、敵対者に対し、マタイ21:28より25:46に至るまで多くの譬をもって語っている。
2節「婚宴」、結婚式は天国の民と神・キリストとの関係に譬えられている(イザヤ61:10、62:5、ホセヤ2:19、マタイ8:11、9:15、ヨハネ3:29、Ⅱコリ11:2、エペソ5:22以下、黙示録19:7-9)。2-3節、王は神、子はキリスト、招かれた人はユダヤ人、僕どもはヨハネ及びキリストが「悔い改めよ、天国は近づいた」と彼らを招いたことを指す(3:1,4:17)。ところが彼らは招きに応じなかった。9節で福音がユダヤ人を去って異邦人に向かうことが示されている。10節で多くの人が招かれたが、11-12節で一つの条件があることが語られている。12節「礼服」、その頃の王宮には礼服の衣裳部屋があって、婚礼に来た人のために貸してくれることになっていた。ソロモン王の衣裳部屋には3000着の礼服があったと伝えられている。霊的には、平服のままで、すなわち罪あるままではなく、キリストの衣、汚れのない麻布(黙示録19:8)を与えられて、王である神の前に立たなければならない。
14節「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」、キリストを心から信じることが大切である。選ばれるのは選民ユダヤ人でも、名目上の信者でもなく、真に信仰によってキリストを心に信じ受け入れ、義とされた者である。
1、天国への招きを退けてしまう頑固な人になってはならない。22:1-7
「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった」。(2-3節)
結婚式には明るいイメージがあります。いきなり、すこし横道にそれますが、6月11日に深谷・井桁久志師・森田聖美さんの結婚式に当教会より50名を越える方々が参列します。久志師は神学校卒業以来、10年にわたって独身で伝道牧会をし、早朝アルバイトの給料をそっくり献げて、教会経済を支え続けています。聖美さんという伴侶を与えられて、これから深谷の伝道は新しい成長期に入って行きます。聖美さんは睦子により個人伝道の学びをしっかりと学びました。現在、二人で結婚講座を学び、加えて教会の伝道牧会に関する聖書的学びも着々としています。二人のために皆さんのお祈りを宜しくお願いします。
本題に戻ります。神様はすべての人を新しいいのちに招いておられます。新しいいのちはキリストによって与えられるいのちです。新しいいのちをいただくと、心は喜びと感謝に満たされ、天国に入る希望が与えられます。
天国とは何でしょうか・・・キリストは、天国は、ひとりの王がその王子のために婚宴を催すようなものであると言っています。先ほど結婚式には明るいイメージがあると言いましたが、天国では、主を絶えず礼拝し、ひとりひとりが主にある喜びがあり、主に個人的に結びついて温かい交わりがある、そして尽きることのない主への讃美がうたわれ、感謝が溢れています(黙示録4章、21-22章)。私たちがキリストを信じてクリスチャンになると、朝ごとに主を礼拝し、日曜日ごとに共に集まって礼拝を捧げます。私たちはキリストに結びつき、教会に結びつき、共に祈り合い、赦し合い、助け合って行く信徒相互の交わりがあり、常に主を讃美し、主に感謝して日々を送っています。
この素晴しい新しいいのちの中に全ての人が招かれています。皆さん、神様は愛です。神様はすべての人を差別なく、受け入れて下さる恵み深い神様です。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださる」(マタイ5:45)のです。この広く深い神様の愛から洩れている人は、ひとりもいないのです。神様の愛がだれにでもわかるように現されたのが十字架です。罪を犯して神様から離れている私たちを見捨てないで、罪のない神の独り子であるキリストが私たちの罪の身代りになって十字架に死んで下さったのです。「彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ロマ3:24)と言われているように、キリストの十字架を信じることによって、私たちは罪より救われ、神の子になる恵みを与えられます。この救いの招きは全ての人に対する神様の愛の招きです。
ところが、キリストは、「神様の招きに応じる人は少ない」と言われます。神様の招きに対して、「彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、またほかの人々は、この僕たちを捕まえて侮辱を加えた上、殺してしまった」(5-6節)のです。考えられないようなことですが、人々は自分の都合を優先し、神様の招きを退けています。王が僕を遣わしたのに、人々は招きを無視し、二回目に遣わされた僕を殺しています。この3-7節は直接にはユダヤ人のことを指しています。旧約時代、神様はユダヤ人に預言者を遣わしましたが、ユダヤ人達は受け入れていません。新約時代になってイエス・キリストが遣わされたのですが、ユダヤ人はキリストを十字架につけて殺しています。「そこで王は立腹し、軍隊を送って、それらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」(7節)という言葉のとおり、エルサレムの町は紀元70年にロマ軍によって滅ばされ、ユダヤ人は故国を失い、二千年も世界を流浪しました(今はイスラエル国家がある)。
ふたりの青年がいました。Aさんは如才ない、人受けのいい、良く動く人でした。Bさんはどちらかと言うと、あまり愛想の良くないほうでしたが、粘り強いところがありました。二人は仲が良く、高校生の頃に同じ教会で、信仰生活に励んでいました。Aさんは高校を卒業して出版会社に勤めるようになりましたが、如才のない彼は人々の受けが良く、付き合いが面白くなってしまい、日曜日を休むようになった。そこで教会から安否を問う手紙が送られ、Bさんが訪問した。Aさんは「仕事が忙しい」、「日曜は付き合いがある」など理由をつけて、主の招きを退けるようになった。BさんはAさんの所に度々足を運んだが、Aさんは遂に教会から離れてしまった。Aさんのことを思うと心が痛んだが、Bさんは、日曜日を休まない、水曜日の祈り会に行くことを貫き通し、仕事で他の教会に移っても信仰の基本線を守り続け、やがてクリスチャンの伴侶に恵まれ、家庭を築き、今も信仰生活を感謝のうちに送っています。
私たちは主の招きに応じてクリスチャンになり、きょうも礼拝を捧げるために教会に集まっていることを感謝しましょう。
2、天国への招きに応じ、素直に礼服を着て主の前に立とう。22:8-14
王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、「友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか」。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、「この者の手足をしばって、外の暗やみに放り出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(11-14節)
王様が最初に招いた人々は、招きにふさわしくない人々でした。そこで「今度は誰でも連れて来なさい」という命令が出され、悪人であれ、善人であれ、貧しい人であれ、あらゆる人々が婚宴の場に招かれています。王子の婚宴ですから、地位の高い者、金持ちなどが出席するのですが、そうした枠は取り払われて、多勢の人々が婚宴の場に連なっています。
ここに神様の愛があり、憐れみがあります。身分資格、過去の来歴などを問われたら、私はきよい義である神様の前に出られるような資格のない者です。私が通った中学校はカトリック系の学校で、毎朝カトリックの神父や修道士から聖書の話を聞いていました。小野という修道士の方は「神様は見ている。人が見ていないと思っていても、神様はちゃんと見ている。だから悪いことはするな。この世で見つからなかったとしても、最後の審判の日にすべてが明らかになる」と教えてくれました。ところが、私は野球部で高校生と練習をする。ファールボールがヘイを越えて、隣接している畑に落ちる。そこへ中学生が球拾いに行くのですが、夏などはトマトが彩りよく実を結んでいる。仲間と球拾いに行くと、こっそりトマトをもぎとって、千川という川が流れていたのですが、そこに渡してある小さな橋に坐ってトマトを食べる。トマトは農家の人が丹精込めて育て、売り物にするのを盗んで食べるのですから、悪いことです。食べた後に小野修道士の『神様は見ている』という言葉を思い出すのですが、また次に食べてしまう。そんな私が高校生の頃に、クリスチャンの友達に聖書を借りて読み、教会に行き、洗礼を受けることができたのは、神様が身分資格、過去を問わずに、愛をもって私を招いて下さったからです。聖霊によって悔い改めを与えられ、神の子になることが出来たことを感謝しています。私たちひとり一人自分のことを考えて見ると、本当に恥ずかしい限りの罪人でした。そんな私たちを、神様は愛をもって招き、救いの中に入れて下さったのです。
「王は客を迎えようとしてはいってきた」(11節)とありますが、客がいっぱいになった時に、王様が現れることになっていました。王様が現れるということは、王様に拝謁するということで、敬意を込めて王様を迎えるという儀式です。王様は歓迎の気持を込めてひとり一人を見回した時に、そこに礼服をつけていない人がいるのに気づきました。そこで、「友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか」と問いかけています。めでたい王子の結婚式です。その祝いの席に礼服を着て出席することは当然の礼儀でした。日本では天皇陛下に会う時には、モーニングといわれる洋服を着て行くのが礼儀であるとされています。この場面では、王様主催の結婚式に礼服を着て出ることは誰もが知っている礼儀でした。
ここで言われている礼服は自分で用意するのではなく、招いた王様が用意してくれる礼服のことです。結婚式に招かれた人は、王様の衣裳部屋に通され、そこで自分に合った礼服を着ることになっていました。栄華を極めたソロモン王の衣装倉には3000着の礼服が用意してあったということですので、どんな人が招かれても必ず着られるものがありました。招かれた人は礼服を借り、それに着替えて結婚式の席に着くことが決まりになっていました。ですから身分階級に関係なく、用意された礼服を着ることによって、どんな人でも結婚式の恵みに与ることが出来たのです。
王様が用意していた礼服を着なかった人は追い出されています。王様は招いておきながら、なぜ礼服を着なかった人を追い出したのでしょうか。実はここに神様の招きの特徴があります。神様の招きはいい加減なものではなく、相手に対する真面目な配慮をもったものです。例えば山の案内人は、山登りをする人に対して、山登りにふさわしい服装と持ち物をもたせ、自分の後について来なさいと言います。それは無事に山に登らせ、帰ってくることを真剣に考えるからです。滑っても転んでもかまわないという無責任な案内人であれば、サンダルでシャツのような軽装で来ても知らん顔をしているでしょう。神様は人を真剣に招いて、わたしの指示通りにすれば天国に行けますという導きをするのです。
神様が求めることはただ一つ、「礼服を着ること」です。王様の備えている礼服は高価なものであると思います。「お前たちが買ってきなさい」と言われても、私たちには高価で手の届かないものです。しかし王様が用意してくれているので、礼服を借りて、それをまとって行けば結婚式の場に入ることができます。私たちが救いを受けて、神の子になれたのは、生まれつきの性質、能力、知恵によったのではありません。ただ私たちの罪の身代りになって十字架にかかって下さったイエス・キリストを信じる信仰によります。神様の憐れみと聖霊の助けによって、キリストを信じること、キリストを心にお迎えするということが救いの条件です。使徒パウロは「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」(ロマ13:14)と勧めています。
*皆さんはキリストを信じていますか・・・。
*キリストという義の衣を着て、罪の恥を覆われて、罪なき者と認められて、自分は神の子になっていることを信じていますか・・・。
キリストを信じる時に、恵みがいっぱいになります。Tさんは潔癖症で、身体を血が出るまで洗う。全てに時間表を定め、例えば布団をたたむ時間、歯磨きに要する時間を決める。歩く歩数を決め、そのとおりに歩けないと先へ進めなくなる。それに生来の吃音(どもり)でしゃべることができない。潔癖症が嵩(こう)じて、17歳の時に自殺を図るが、思いなおしてクリスチャンの叔父の所に行った。「神は目に見えないから信じられない」と言うと、叔父は「見えなくても神様は生きているんだ」と断言した。やがてキリストを信じることができて、生きる希望を与えられた。だが吃音(どもり)が直らないので、祈りの時に思うように祈れない。集会で、キリストが「ラザロよ、出てきなさい」(ヨハネ11:43)と言われ、ラザロを生き返らせた記事が読まれ、祈った。キリストのように「神様の恵みの言葉を語りたい」と思った時に、祈りが心の中から沸き出てきて、吃音(どもり)は癒やされたのです。
私たちはキリストに招かれ、選ばれ、救われていることを感謝します。キリストによって罪を赦され、生まれ変わっていることを感謝します。
今朝、問題の中にある方のために、病気の方のため祈ります。キリストは十字架の上で、私たちの全ての重荷を担い、十字架で私たちの病気を引き受けて下さった救主です。祈りましょう。問題に解決が与えられ、病気の方に平安と希望が与えられ、主の癒しの力が現されることを信じます。
まとめ
1、2-3節、天国への招きを退ける頑固な者ではなく、キリストを信じる信仰によって生かされていることを感謝します。
2、11-14節、天国への招きに応じることが出来たことを感謝します。天国に入るために、義の衣であるキリストを着て(信じて)神の子になっていることを感謝します。
祈 り
天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストによって救われ、教会に所属するように招かれ、選ばれて神の子になっている恵みを感謝します。頑固な心を棄て去って、常に聖書の御言葉によって主に従って行きます。心を素直にして、義の衣であるキリストを着て、祝福の人生を歩ませて下さい。問題を抱え、戦いの中にある者に解決と逃れの道を与えて下さい。病気の者に平安が与えられ、キリストの十字架の力によって癒やされて行くことを信じます。私たちを招いて下さり、選んで下さった神様に感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:マタイ注解―黒崎、フランシスコ会、織田、LABN、米田。「信仰雑誌証し」