主にすがりつく信仰(カナンの女の信仰) マタイ15:21-28        主の2008.6.8聖日礼拝



私事ですが、孫がいます。私が本を読んでいると「遊ぼう」と言います。「うん、もう少しこの本を読んでから。もうちょっと待ってちょうだい」と答えます。ところが、小さい子どもは常に現在に生きていますから、「もうちょっと」といっても通じません。私の答えが終わるや否や、「うん、それじゃ遊びに行こう」と手をとります。「もうちょっとだよ。ここの個所を読み終えるから」と言っても、「行こう、遊ぼう」の一点張りです。私が腰を上げるまで、まとわりついて離れません。そこで本を閉じて、「ようし、遊ぼう」と言って立ち上がると、一緒に遊ぼうと言う目的を達して大満足して喜びます。自分が求めれば、必ずその求めにグランパは応じてくれるという幼子の熱い信頼に、私としては自分のことを中断しても、それに答えたいと思い、幼子の喜ぶ顔を見て自分もうれしくなります。

本日はマタイ15:21-28です。病気の娘を抱えるカナンの女性が、必死になってキリストに娘を助けて下さるようにお願いをし、遂にその願いが聴かれて、娘が癒やされるという祝福を受けています。彼女は娘のために「主よ、あわれんでください」と叫び続けています。最後には、イエス・キリストの前に自分の身を投げ出し(25節「イエスを拝して(口語訳)」、「イエスの前にひれ伏して(新改訳)」)、自分を子犬と同じ立場においてお願いし、その信仰が聴き届けられています。私の孫は自分の願いが通るまで、私の傍から離れないで「遊ぼう」と言い続けて、最後に自分の願いを達成します。カナンの女性は、ただただ主のあわれみを求め、主の御許から離れずに、祈りが聴かれるまで主にすがりついて、娘の癒しという大いなる祝福を勝ち取っています。

今朝、皆さんにも祈ること、求めることがあると思います。病気の癒し、家族の救い、経済の問題、仕事を求める祈りなど様々の事柄があると思いますが、主にすがって祈り、主に求めましょう。祈りは聴かれ、祈りを通して私たちの心は聖霊で満たされ、恵まれます。祈る時に、心に平安と希望が与えられます。今週も聖霊によって祈り、「主にすがって行こう、どんなことでも祈って行こう、そして主に従って行こう」という決断を捧げ、一週間の旅路へ共に出発して参りましょう。



内容区分

1、キリストに求め続け、祈り続けて行く信仰をもとう。15:21-23

2、キリストは、心へりくだる者の信仰を祝福される。15:24-28



資料問題

21節「カナンの女」、カナンという語は福音書でここにだけ出てくる。(新約では他で2回使われている使徒7:11、13:19)。22節「ダビデの子」、カナンの女が「ダビデの子」(マタイ9:27,20:30,21:9)というメシヤの称号を用いたことは、イエス・キリストがご自分の民であるユダヤ人から排斥され、異邦人によって受け入れられるというマタイ福音書の主題を示している。26節「子供たち」、ユダヤ人を指す。「子犬」、異邦人を指す。ふつうユダヤ人は異邦人を犬と呼んだ。キリストは軽蔑の意味を避けて、やさしく「子犬」と呼んだのである。



1、キリストに求め続け、祈り続けて行く信仰をもとう。15:21-23

すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って、叫びつづけた。(22節)

ツロとシドンはパレスチナ地方の海岸線にあるユダヤ人以外の外国人が住んでいる所です。キリストは少しの間ユダヤ人の住む地域から離れて静まる時をもち、弟子達に神の国について十分に教えたいと思っていたようです。しかし外国の地にあっても、キリストは助けを求める人々の切なる願いから逃れる事はできませんでした。悪霊につかれ、重病の娘をもつ母親がキリストの御許に助けを求めにやってきました。それはカナン地方出身の女性で、「主よ、ダビデの子よ」と叫びながらキリストの前に出て来ています。この女性の姿を通して信仰のあり方を教えられます。


第一に、キリストはすべての人の救主であるという信仰です。

この女性はカナン地方にいるユダヤ人ではない人です。当時ユダヤ人は外国人と付き合いすることを避けていましたし、外国人のほうでもユダヤ人を避けていました。しかし、彼女はキリストが自分達の地方に来たという情報を得ると、真っ先にキリストの所に飛んで来て、悪霊に取りつかれて苦しんでいる娘の癒しのためにお願いをしています。キリストはユダヤ人として生まれましたが、ユダヤ人を含め世界の人々の救主です。このマタイ福音書はもともとはユダヤ人のために記されたもので、旧約聖書からの引用がたくさんあります。キリストは先ずユダヤ人を救い、救われたユダヤ人を通して全世界の人々にキリストの救いが伝えられて行くはずでした。ところがユダヤ人がキリストを信じようとしないので、キリストの救いが一足飛びに外国人に伝えられて行く様子が、本日の個所に記されています(現在もユダヤ人はキリストを信じないでユダヤ教の中にいる)。ところで、いまだに日本には日本の宗教がある。キリスト教は外来宗教であるという考えをもっている人がいます。よく考えて見て下さい。世界を照らす太陽は一つです。人間の心を照らし、罪を赦し、永遠の天国へ導いてくれるのはイエス・キリストだけです。キリストは人間の罪のために十字架にかかって死にましたが、三日後に復活されて今も生きている救主です。世界の宗教といわれるものの中で、教祖の墓、霊廟、みたまやがないのはイエス・キリストだけです。何故ならキリストは復活されて、私たちの心の中に住んでいて下さる、生きている救主だからです。

第二に、キリストにひたすら縋って行くという信仰です。

信仰とは、キリストは最善をして下さるということを信じて、どんな場合でも、どんなことでも「イエス様」と呼びながら、イエス・キリストに縋って行くことです(ロマ8:28参照)。この女性は、イエス様だけが娘と自分を救って下さるお方であると信じ、恥も外聞もなく「主よ、ダビデの子よ」と叫び続けています。キリストに縋る時に、否定的考えではなく、積極的考え、積極的信仰に立つことができます。



キリストに縋って積極的考え、積極的信仰に立つための方法があります。

①マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を一日一章づつ読んで、信仰の個所に赤い線を引いて下さい。例えば本日の個所では、22節、カナンの女性が叫び続けている個所、25節、女性がキリストを礼拝している個所、27節、女性の答え、28節、キリストの祝福の言葉などです。

②自分にとって励ましになる御言葉を暗誦して下さい。

③信仰についての論争、理屈っぽい話を避ける。



*そしてたくさん祈ることです。祈りの中で恵みを思いだして下さい。これから主がよいことをして下さると信じて先に感謝して下さい。感謝を忘れないで下さい。(ピリピ4:6-7参照)



このことを実践すれば、キリストが生きていることを自分の身に確実に体験することができます。聖書を読む目的はキリストを知ることです。私たちは聖書を神の御言葉として信じています。恩師弓山先生が授業の合間に、「聖書は神の言葉である。だから私は聖書を無造作に畳の上に置いたりはしない。聖霊に導かれて、聖書を読んで読んでキリストのことを知りなさい。あなた方は他の誰でもないイエス・キリストに献身したのである。召して下さったお方の素晴しさを、生涯を賭けて追い求めて行きなさい。ああ、イエス様が慕わしい」と言われたことを忘れることができません。



第三に、キリストの御名による祈りをやめないことです。

弟子達は女性の祈りをやめさせようとしています。サタンは祈りをやめさせようとします。「もう少し考えてから祈りなさい」、「祈りよりも対策を講じることです。人の助けを求めましょう」、「明日から祈りましょう」。それはサタンの嘘です。聖書は「絶えず祈れ、祈りをやめるな」と命じています(Ⅰテサロニケ5:17)。私は様々な方々のために、諸問題のために、病気のためになど祈ることが山積です。そんな中で、大きな試練を受けている方から手紙をいただき、励ましを受けました。

「・・・本当に問題が次々におそってくる感じです。しかし弱い時にこそ神の力を受けると信じています。ヨブのように最後には絶対に主の勝利があると信じています。どうぞ主の御前に、私たちが信仰によって清く、正しく歩むことができますようにお祈りをお願い致します。主は私たちに乗り越えられないような試練は与えられず、主のなさることは、すべて時にかなって素晴しいことを確信します!主の御言葉通りになりますように。ハレルヤ!アーメン!」

私たちも祈りましょう。「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)という主イエス・キリストの約束を信じ、祈りをやめないで祈り続けましょう。



2、キリストは、心へりくだる者の信仰を祝福される。15:24-28

しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」(25節) イエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。(28節)

カナンの女性はキリストから答をもらえないでいるのですが、必死になって求め続けています。遂に24節でキリストの答がありましたが、それは「わたしは先ずユダヤ人に伝道するために来たのである」という返事でした。しかし、女の人は諦めません。キリストの前に身を投げ出して、キリストを礼拝する態度をもって「主よ、わたしをお助けください」と叫んでいます(24-25節)。そして25-26節のやりとりの後に、女性は最終的にキリストからの祝福をいただいて帰って行きます(28節)。この後半の個所から学ぶべきことがあります。

第一に、カナンの女性はキリストを礼拝する態度を表しています。

女性はキリストに自分の願いを求め続けていましたが、突然に願いをやめて、キリストを礼拝し、「主よ、わたしをお助けください」と叫んでいます。自分の願いばかりを押し付け、ご利益を求めるような態度で、娘の癒やしを願っていましたが、自分に問題があることに気づいたのです。キリストを自分のご利益のために利用することをやめて、キリストを礼拝していなかった自分の不信仰を悔改めて、キリストの前に身を投げ出して礼拝の心を表しています。

本日ファミリーの週ですが、それぞれ家長の連絡の下に集まりを開いて下さい。聖書を読んで、そこから自分に教えられたことを分かち合って下さい、特にキリストの素晴しさを分かち合って下さい。ファミリーで祈る時には、「○○を叶えて下さい」という祈りはやめましょう。例えば「自分の夫を救って下さい」という祈りはしないで「夫の救いのために何もしないでいる私を憐れんで下さい。夫への愛と祈りを与えて下さい。私を夫の救いのために用いて下さい」というふうに祈って下さい。

カナンの女性は「娘が、娘が」と祈っていましたが、娘を救うためには自分の信仰が大事であるということに気づいて「主よ、わたしをお助けください」と祈っています。何かをお願いする前に、自分は本当にキリストを信じて、キリストを通して父なる神を礼拝しているだろうかということを省み、キリストへの信仰をしっかりと持って行くように祈って下さい。

第二に、カナンの女性はへりくだって最後までキリストに縋る態度を崩していません。

カナンの女性が身を投げ出して礼拝しているのを見ながら、キリストは「子供たちのパンを取って子犬に投げてやるのは、よろしくない」(26節)という無愛想な返事をしています。子供たちというのはユダヤ人を指しています。犬とはユダヤ人以外の人々で異邦人と言われています。キリストは異邦人に対し子犬という優しい呼び方をしています。キリストはカナンの女性に対し、「救いは先ずユダヤ人に伝えられなければならない。ユダヤ人を差し置いて外国人であるあなたに恵みを表すことはできない」という答をしています。冷たい答えのようですが、これが聖書の順序だったのです。キリストはなにか冷たいような答をしていますが、それは彼女の信仰の真剣度を見るためでした。女性は「ああ、そうですか。私は帰ります」ということも出来たのでしょうが、彼女の答えは違っていました。27節の彼女の答えは実に信仰的なへりくだりに満ちた答えです。「主よ、お言葉どおりです」とキリストの答を受け入れています。そして「ユダヤ人から見れば、取るに足りない子犬のような私ですが、子犬は食卓からい落ちるパンくずをいただきます。私は異邦人ですが、でもイエス・キリストを信じますので、私にも恵みを施して下さい」という求めをしています。「私を救い、娘を救って下さるのはキリスト以外にはいない、どんな小さな恵みでもいいからよろしくお願いします」という気持の祈りです。

ひとりの男性が喘息を患い、専門医から「手は尽くしました。もう後は死を待つだけ、時間の問題です」という宣告を受けた。もうどうしようもないという時に多くの方々の祈りと医師の処置によって一命を取り留めることができたのです。もう人間の頑張りでは、手の施しようがない。最後に残るのは「私は主により頼む」という信仰だけであった。とにかく、ひたすら主にしがみつき、縋りついて助けを与えられるという恵みを受けることが出来たということです。

キリストに縋って行く思いを深めましょう。この礼拝にも赤ちゃんがいます。赤ん坊は、何があろうとも母親に縋りついています。理屈ぬきで自分を守ってくれる者の存在を知り、自分にとって安全な場があることを知って母親の懐に抱かれて安心しています。幼子が母親に縋るように、私たちもキリストの救いの懐に抱かれていることを感謝して行きましょう。

第三に、キリストは女性の信仰を喜んで祝福しています。

一途にキリストにすがり、信頼している女性に対し、キリストはその信仰をほめています。

私たちも生きておられるキリストに縋って行きましょう。

榎本牧師の証です。「長女が幼い時にひきつけを起した。医師に往診を頼んだが、医師が不在であった。夫婦で医師の来るのを待つしかなかった。歯をくいしばり、目を吊り上げている幼子を見て不安でたまらなかった。祈っているが、一向にその祈りが聞かれる様子もない。一言もお答えにならない神に腹立たしさを感じた。周章狼狽の果てに、私の心にふとこんなことが浮かんだ。この子が生まれてきたのも神様のみこころがあったからではないか。この子がどのように育つかもすべて神様のみこころのうちにあるのではないか。そしてその神様が私たちにその独り子さえ惜しまず与えて下さった愛の神様ではないか、と。そのような思いが私の心の中に生まれた時、あれほど心配していた子どもの生き死にを全て神様におゆだねすることができた『神様、あなたはわたしたちに最善をなさる方です。ですから、この子どもの一切を御手におゆだねします』。涙が頬をつたわった。ぽとぽとと涙が膝に落ちるたびに私の心は平安に満たされ、明るくなっていった」。

私たちは、「神様、あれもこれもして下さい」という祈りが多すぎるのかも知れません。「神様、感謝します、感謝します」という祈りを思い切って捧げて行きましょう。足りない所に目を向けるのではなく、与えられている恵みに目を向ける時に、私たちの心は恵まれます。その時にキリストの祝福が豊かに注がれます。では祈りましょう。



*聖歌総合版642番(聖歌604番)「望みも消えゆくまでに、世の嵐に悩む時」をさんびしましょう。主の恵みをたくさん数えながらさんびし、祈りを捧げます。



祈 り  天地の主である神様、独り子イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、神の子にされて、教会に属する者にさせていただき感謝します。私たちの救主であり主であるキリストを求め続け、祈り続けて助けを得て行くように導いて下さい。心へりくだってキリストの祝福を豊かに受け継いで行く者とならせて下さい。諦めないで、投げ出さないで、キリストに縋り続けて行く信仰を与えて下さい。病気の方々を速やかに癒して下さい。問題の渦中にある方々に逃れ道を備えて下さい。それぞれのファミリーを祝福して下さい。尊いイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:マタイ注解―黒崎、フランシスコ会、バークレー、米田、LABN、文語略解、シンプソン、織田。  「祈りと瞑想への道・榎本保郎・聖燈社」、「積極的考え方の力・N・ピール・ダイヤモンド社」、「中学科説教53週・村上伸・教師の友文庫」、「信仰の証しより」