主に信仰と忍耐とをもって従う へブル10:32-39 主の2008.7.6礼拝
囲碁、将棋とも盛んであり、プロの棋士がいて名人位を目指して、毎年勝ち抜き戦で勝敗を争っています。将棋も囲碁も一局の戦いが終った時に、棋士達はすぐには立ち上がりません。例えば、囲碁の場合は復碁と言って、いま指し終えたばかりの囲碁を再び指し直し、「この手はよかった、あの手は悪かった」などと互いに意見を出し合います。それがプロの棋士として、次の対戦でより良い戦いをするための備えになります。戦いの一つ一つをしっかり頭に入れ、失敗を繰り返さず、次の戦いで勝利をえるために、戦い全体を振り返ることは重要なことであり、それがプロ棋士として実力を蓄えて行く力の源になります。
本日はヘブル10:32-39です。32節に「あなたがたは、光に照らされたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思いだしてほしい」との勧めがあります。ヘブル書は、ユダヤ人でユダヤ教徒であったが、キリストを信じてクリスチャンになった人々に宛てて書かれた手紙です。ユダヤ人クリスチャンは、割礼や動物を犠牲にして捧げるというユダヤ教律法の儀式を棄てています。そのために、救われていないユダヤ人仲間から「なぜ律法を無視するのか」と詰問されたと思われます。また、ロマ帝国の皇帝を神として崇めよという時代の中で、クリスチャンは皇帝礼拝をしないことによって迫害を受け、仕事に就けないなどの不利益を蒙っていました。そのため、迫害を避けるために、また仕事につけないという生活上の問題を解消するために、救いの恵みを捨ててユダヤ教に戻ろうと考えたり、教会の集会にこなくなったりする人々がいました。そこで、神の霊感を受けたひとりの指導者がヘブル書を通して、「信仰の迷いを棄てよう、教会の集まりに出て互いに励まし合って行こう、キリストに縋って行こう、イエス・キリストはきのうも、きょうも、いつまでも永遠に変ることのない救主として、あなた方を守り、支えて下さる」というメッセージを伝えています。信仰を貫いて行くためには、「苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころを、思い出して」行くことが求められています。プロの棋士が戦いを振り返って次の戦いに備えて行くように、私たちもクリスチャンとして歩んできた恵みを振り返り、感謝を数え、信仰と忍耐とをもって主に仕えて行くように、祈って決断を捧げ、新しい一週間の旅路へ踏み出して参りましょう。
内容区分
1、キリストによる救いを、心から確信して行こう。10:32-35
2、キリストを信じ、忍耐をもって信仰に立ち、いのちを得よう。10:36―39
資料問題
32節「光に照らされたのち」、キリストを救主と仰いだのちに。33節「見世物にされた」、当時ロマでは公の場所でクリスチャンを苦しめた(例:円形競技場で獣と戦わせ、死に至らしめた)。34節「忍んだprosdechomai」、進んで受けること。37-38節はハバクク2:3-4の70人訳からの自由な引用。3節「きたるべきかた」、再臨のキリスト。38節「信仰を捨てる(39節参照)」、後退する、恐れてしり込みをすること。信仰は主について行くことであり前進である。その逆に後退は主から離れ、信仰を失い捨てることになってしまう。
1、キリストによる救いを、心から確信して行こう。10:32-35
あなたがたは、光に照らされたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい(32節)・・・あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである(35節)。
この手紙が記された当時、多くのクリスチャンが迫害を受けていました。「見世物にされた」(33節)というのは、子供から大人までクリスチャン達がロマの円形競技場の中に押し込められ、腹をすかしたライオンなどの獣に襲われて命を奪われるという迫害のことです。「獄に入れられた」、「財産を奪われた」(34節)というのは、キリストを信じているだけで、不当逮捕され、持ち物すべてを没収されるという理不尽な迫害のことです。クリスチャンに対する迫害は今日も続いています。中国では政府支配下の公認教会があります。しかし、自由に聖書に基づき、まことの福音が伝えられている家の教会(地下教会)に多くの人々が集まっています。家の教会は非合法な集まりということで、共産党政府によって指導者は逮捕され、信徒は仕事を奪われるなどしています。それにも関わらず、集会は農家の納屋などの隠れた場所で絶えることなく続けられていて、クリスチャンが増え続けています。救われたクリスチャンの魂を養うために聖書が必要ですが、中国では聖書の印刷が制限されているので、聖書が足りなくて困っています。そこで、日本で中国語の聖書を印刷し、多くの日本人クリスチャンが中国に旅行者として渡り、中国語聖書を運んでいます。
へブル書に戻ります。迫害下にあるクリスチャンに対し、「迫害を耐え忍んで行こう、救いの確信を捨てるな。集会をやめないで、キリストにしっかり繫がって行こう」との勧めがなされています。私たちには、今は目だった迫害がないかも知れませんが、お盆になれば墓参り、法事などの行事があります。私たちがクリスチャンとして生きて行こうとする時に様々なものとぶつかります。また、目まぐるしく変化し、人間関係が希薄になっている時代の中で、私たち自身はどうでしょうか・・・。
*自分の心の状況が恵まれず、葛藤を覚えている人はいないでしょうか。
*人間関係(夫婦関係、親子の絆、親族とのしがらみなど)に傷ついている人はいないでしょうか。
*自分は独りぼっちで、だれからも顧みられずにいる、淋しいと感じている人はいないでしょうか。
*物質的には豊かであるように思えるが、自分の心に平安がなく、先行き不安であると感じている人はいないでしょうか。
*病の中で戦っている人もいます。病の人を支えるために戦っている人もいます。
私たちは迫害、苦しみなどの中に巻き込まれると、信仰をもっていても、つい愚痴ったり、否定的なことを考えてしまいがちです。そんな私たちを励ますために二つのことが言われています。
私たちは光に照らされている者です(32節)。
光はキリストを指しています(ヨハネ1:4)。私たちは罪ある者でしたが、聖書を通して、キリストが十字架にかかり、罪の身代りになって下さった救主であることを知らされ、聖霊の導きによってキリストを救主として告白した時に(Ⅰコリント12:3)、罪が赦され、生まれ変わることができました(新生)。私たちは、「以前は闇であったが、今は主にあって光となっている」ことを感謝します(エペソ5:8)。救われてから今日まで、いろいろな戦いがありましたが、苦しい大きな戦いによく耐えてくることが出来たのは、光であるキリストが私たちを支えてくれたからです。なぜなら「光は闇の中に輝いている。そして、闇は決して光に打ち勝つことが出来ない」からです(ヨハネ1:5)。これからもキリストは私たちを支えてくれます。それは「わたしは世の光である。わたしに従って来るものは闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」というキリストの約束があるからです(ヨハネ8:12)。さらに主は言われます、「何事でも、わたしの名によって願うならば、わたしはそれを叶えてあげよう」(ヨハネ14:14)。キリストの御名によって祈りましょう。そこから救いの道、逃れの道が与えられます。
私たちは確信を持っている者です(35節)。
私たちには、キリストを信じる者は罪に定められることがないという確信と、キリストの愛から私たちを引き離すものは何もないという確信があります(ロマ8:1,39参照)。財産が奪われても、私たちには永遠の命という宝があります。キリストは「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ16:26)と弟子達に告げています。
1549年フランシスコ・ザビエルが戦国時代の日本に来て、伝道がなされ、多くの大名とその臣下が信仰をもちました。彼らはキリストを信じたのでキリシタンと呼ばれました。増大するキリシタンに恐れを感じ、また宣教師を送り込んでくる外国の力を排除するために、1587年(天文15年)豊臣秀吉により宣教師が追放され、多くのキリシタンが捕らわれ、キリシタン大名も改宗を迫られるという政策が打ち出されます。その時、高山右近は播州赤穂12万石の大名の地位を捨てて、4、5名の家臣と共に行李をかついで、金沢の大名前田利家の所で世話を受けます。1614年天下を取った徳川家康から、61歳の時に信仰を捨てるように命じられます。右近は敢然とその命令を退け、金沢から雪の北陸路を徒歩で10日歩んで坂本に行き、最後に長崎から小さなボロ舟に乗せられてマニラに追放されます。1ヶ月後にマニラに上陸、時に62歳でしたが、40日後に熱病にかかり、「わが霊魂を主の御前に導きたまえ」と祈りつつ天に召されて行きます(1615年2月)。
信仰に生きた人の証を聴くと励まされます。オーストリヤの精神医学者フランクルは、ナチの強制収容所から生還した人です。彼は、明日は殺されるかも知れないという極限状況の中で、一瞬夕映えの空を仰ぎ見た時に、ゲーテの詩を思い出し、収容所にいることを忘れ、生きる力を得たということです。そういうことを知らない人は、どんなに身体が丈夫でも早く死んで行ったそうです。苦しい状況にある時に、キリストの恵みを思い出しましょう。高山右近のような信仰に生きた人を思い出しましょう。聖霊によって心に励ましが与えられ、光であるキリストによって信仰の道を進むように導かれます。
2、キリストを信じ、忍耐をもって信仰に立ち、いのちを得よう。10:36-39
神の御旨を行なって約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは忍耐である(36節)・・・しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である(39節)
この個所で、忍耐と信仰ということが強調されています。
まず忍耐ということが出ています。
神様を信じて行くならば祝福を受けますが、それを得るためには忍耐が必要です。祈りは届いているが、その答えはインスタントにはやってこない、少し待ちなさい、忍耐して時を待ちなさいという「待つ」という勧めです。信仰生活には、皆さんご存知のように、しばしば忍耐が必要です。信仰の先祖であるアブラハムは、「あなたに息子が生まれる」という約束を受けてから、実際に子どもが生まれるまでに、なんと25年間の月日がありました。彼は辛抱強く待ち続けたことによって、イサクを世継ぎとして与えられ、イサクの子どもにヤコブが生まれ、ヤコブに12人の息子が生まれ、彼らがイスラエル民族の先祖となり、イスラエル民族の中から救主イエス・キリストが誕生しました。もしアブラハムが「いつまで待つのですか」と言って自分の役割を放棄すれば、神様は計画を造り変えることになり、キリストの誕生は大幅に遅れて、私たちはまだ罪の中にいたままであったかも知れません。大脳生理学者は「待つ」ことをする細胞は脳の前のほうにあり、動物でも高等にならないと「待つ」ことができない。ねずみや猫は全然まてない。犬になって、やっと「おあずけ」ができるが、長くは待てないでしょう。人間だけが、一時間でも二時間でも、いやそれどころか一年でも二年でも待ち続けることができる。もし、神様からの素晴しい贈り物を得たいと思うなら、「待つ」ことを知らなくてはならないということです。
次に信仰ということですが、三つの聖句から教えてもらいましょう。
「あなたがたは立ち返って落ち着いていれば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ30:15)。
信仰は神様に信頼する事です。私たちがキリストの御名によって、神様に祈っていると、聖霊によって神様に信頼する度合いが強まって行き、信仰が大きくなります。祈らないと神様に任せきることができなくて、何もかも気になります。ある母親が「子どもを一言叱る前に十の言葉で祈ってごらん。十の言葉で叱る前に百の言葉で祈ってごらん」と言われたそうです。その結果、叱らなくてすむようになったそうです。祈ることによって神様が助けて下さる。だから大丈夫という気持が与えられ、子どもを信頼するという大きな気持になったからです。ここで知ることは、信仰とは神様に信頼することであり、神様に信頼することによって私たちの信仰が大きく成長して行くということです。
「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)。
信仰は、将来に実現すること、今は手元にはない未来に属することを、「今、もうすでに得ています」と信じることです。未来に属するものであるが、もう現在もっていると信じて行くことが信仰であり、それが信仰の祈りです。教会に多勢の方々が来ています。問題を抱えている方や病気の方もいます。私は、必ず主によって問題は解決される、病気に勝利が与えられると信じて祈ります。やがて何とかなるであろう、いつかは直るではなく、今ここで解決され、癒されることを信じて祈ります。ですから一回や二回の祈りではなく、しつこく、粘り強く、忘れないで、諦めないで、忍耐をもって祈ります。たった1,2回祈ってやめるのは祈りではありません。慌てず、騒がず継続して祈りましょう。祈りを諦めさせるのはサタンです。祈っていることが、今ここに既に実現していることをイメージに描きながら、祈って行きましょう。
「しかし、わたしたちは、信仰を捨てて(恐れ退いてー新改訳、ひるんでー新共同訳)滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である」(へブル10:39)
私たちは、時として信仰の弱さを嘆きます。ところが、この聖句は「わたしたちは」と言っています。へブル書の記者も、当時へブル書を読んでいる人々も、いま熊谷の教会でメッセージを聴いている人々も、信仰から後退し、信仰を捨て去るような者ではなく、積極的にキリストに縋り、永遠の命を得る仲間であるという温かい励ましを感じます。私たちは信仰の仲間として、お互いに祈り合って行きましょう。信仰を与えて下さり、私たちの祈りを聴いて下さる神様を見上げて行きましょう。
ある牧師さんが、祈りの戦いを経験し、どうしようもなくなって、宣教師のところに行って相談しました。牧師さんは尋ねたそうです。「祈りは聞かれる」というのは英語で何というのか・・・。宣教師は、こともなげに答えました、「God hears your prayer.(神は、あなたの祈りを聞いておられる)と言うのです」。その牧師さんは、この時の驚きを今でも忘れることができませんと言っています。なぜなら、日本語では「祈り」が主語なのに、英語では日本語にない「神」が主語になっている。これは単に、日英両語の語法の相違ではなく、信仰の質の相違であると。その牧師さんは、自分の力で祈りが聞かれるのではなく、神があなたの祈りを聞いておられる、だから祈りが聞かれるのだということを深く知り、自分中心の信仰を変えさせられたと言っています。私たちも神様中心の信仰、神様に信頼して行く信仰を求めて祈りましょう。
まとめ
1、32,35節、光であるキリストによって救われていることを心から確信して行こう。
2、36、39節、キリストを信じ、忍耐をもって神様中心の信仰に立ち、神様が祈りを聞いて下さる事を信じ、永遠の命を得て行く者になろう。
祈 り
天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストの救いに与り、今日まで信仰の歩みを導かれ、守られていることを感謝します。光であるキリストを見上げ、呟きや不信仰から解放されて、救いの確信を深めて信仰の道を前進させて下さい。
私たちの信仰が人間中心ではなく、キリスト中心になるように、聖霊によって祈りを導いて下さい。祈りが聞かれることを信じますが、それは神様が祈りを聞いて下さるからであるということを信じ、祈り続けて行きます。特に病気の方々に平安と共に主の癒しが今この場で与えられて行く事を信じて祈ります。今朝も恵みの座で祈るひとり一人の上に恵みを注いで下さい。私たちの家族を速やかに主の救いに導いて下さい。私たちひとり一人の救主であるイエス・キリストの尊いお名前によって祈ります、アーメン。
参考文献:へブル書注解―名尾、黒崎、フランシスコ会、川村、塚本、ヴォス、文語略解。
「信仰偉人群像・古代・中世篇・金井為一郎・ヨルダン社」、「聖書 心に響く言葉・婦人の友社」