祈れ!執り成しの祈りをせよ!主に頼れ!  第一ヨハネ5:13-21  主の2008.7.20礼拝



私たちは1968年4月に結婚し、クラー宣教師より正式に熊谷開拓伝道を引継ぎました。その年の8月、軽井沢聖会に出席しました。当時(約40年前)は、熊谷から軽井沢まで国鉄・上越線一本で行けた時代でした。今の恵みシャレーが建つ前の敷地に、軽井沢聖書学院があり、そこに寝泊りして三日間の聖会でした。まだ戦後の名残のある貧しい時代でしたので、誰でも聖会に参加できるように、費用が全部出せない人は出せるだけでよい、農家の人であれば野菜を持ってくればよいということでした。開拓伝道を始めたばかりの貧乏伝道者である私たちは、熊谷―軽井沢往復切符代と宿泊費を工面し、参加しました。軽井沢聖会は5,6年続き、そこで受けた数々の恵みの中で、特に三つのことを思い出します。一つは、二年目の聖会は、睦子が出産直前で、私だけが参加したのですが、「出産が危ない」という連絡が入り、聖会の途中で参加者一同が祈って下さり、首に臍の緒を巻きつけながら敦子が無事に誕生したことです。二つには、熊谷の会堂建築をして下さった牧師であり、教会堂専門の大工さんである高田亀雄牧師に出会ったことです(高田師は2007年7月召天)。三つには、聖会講師で来られていた豊留先生に出会い、熊谷の教会形成の土台になっている「キリストを喜び、キリストを伝える個人伝道」を教えていただき、20年以上のお交わりを通してたくさんの恵みを与えられたことです。私個人にとっては、狭い暑い教会兼住いである家を離れ、緑深い静かな環境の中で聖書を読み、メッセージをじっくりと聴き、祈り、伝道者としての確信を深めることができた恵みの時でした。特に、出産の危機の時に、聖会参加者一同の祈りを通し、敦子が無事に誕生し、その子が献身し、現在諏訪で開拓伝道をしていますが、祈りが聴かれる事、祈りを通して神様の御業が進むという事を確信し、改めて主に感謝します。

本日は聖書日課第一ヨハネ5:13-21です。14節に「わたしたちが神に対していだいている確信は、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである」という御言葉があります。神様はキリストの救いを受け、永遠の命を宿す者の祈りに答えて下さいます。また、「神から生まれた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている」と言われていますが、これは「キリストを信じて神の子になった者は、罪を継続的に、習慣的に犯さない」という意味です。

本日の第一ヨハネ5:13-21を通して、第一に、祈りの根拠と原則について確認し、第二に、執り成しの祈りについて教えていただき、第三に、主が私たちクリスチャンを支えて下さることを知り、祈りを通して信仰の道を歩む決断をして、新しい一週間の旅路へ出発して参りましょう。



内容区分

1、私たちの祈りは聴かれる。5:13-15

2、執り成しの祈りを捧げよう。5:16-17

3、主に頼り、縋って行こう。5:18-20

資料問題

13節でヨハネ第一の手紙執筆の目的が述べられている。14節「確信」、3:21。4:17「恐れがない」と同語で大胆さを意味する。16節「死に至る罪」、キリストが神の子であることを聖霊によって示されながら、キリストに反対し、クリスチャンを敵視する者(2:18-19、22-23)は死に至る罪に陥っている。マタイ12:31以下の聖霊に逆らう者、へブル6:4-6を見よ。18節「悪しき者」、サタンのこと。



1、私たちの祈りは聴かれる。5:13-15

わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるならば、神はそれを聞きいれて下さるということである。(14節)

13節に「あなたがたは神の子イエス・キリストを信じているので、永遠の命を持っている」という恵みが告げられています。ここでクリスチャン生活の一生を図示します(添付の図参照)

14-15節には祈りの根拠と原則が述べられています。

第一に、なぜ私たちは祈るのでしょうか。

理由は至って簡単で、難しい理屈はありません。私たちが祈る根拠は神様が私たちの祈りを聴いて下さるからです。神様が祈りを聴いて下さるから、確信をもって大胆に祈ることができるのです。聖書朗読詩篇6篇8節後半-9節で、ダビデは「主はわたしの泣く声を聞かれた。主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈りを受けられる」とうたっています。主が私たちの祈りを聴いて下さるので、私たちは祈ることができるのです。

第二に、祈りの時に大事なことはなんでしょうか。三つあげます。

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば与えられるであろう」(ヨハネ15:7)。キリストにつながっている者、すなわちキリストを信じ、教会生活をしている者は聖書を読みます。聖書を読む者は祈ります。祈る者は聖書を読みます。これを絶えず繰り返しているのがクリスチャンです。

「何事でもわたしの名によって願うならばあたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)。キリストの御名によって祈ることが祈りです。キリストは天の父の右の座にいて、日夜私たちのために執り成しの祈りを捧げています。どんなことでも、一つ一つキリストの御名によって祈る時に祝福されます。

「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)。キリストは十字架にかかる前、ゲッセマネで徹夜の祈りをささげました。汗が血の雫のようになって地面に滴り落ちるほど祈ること三回、「みこころのままになさって下さい。わたしの思いを捨て、神様の御心に100%従い、十字架にむかって進んで行きます」という決意をもって、キリストは罪のない潔い身を十字架に捧げ、私たちの罪の身代わりになって下さいました。真実の祈りは、キリストのように神様に従うことを決意し、その決意を行動に移すことです。祈りは、欲しがっている物をおねだりすることではなく、神様の願っていることを知り、それに従うことです。それが正しい祈りです。

第三に、祈りは、祈ることによってのみ身について行きます。

祈りのコツはすぐに祈ることです。「きょうは祈る気分になれない」と言って祈りを怠れば、サタンは大喜びです。サタンの誘惑の手口は「祈りの気分が盛り上がったら祈ろう」、「後から祈ろう。明日から気合いを込めて祈ろう」という事です。では「気分が盛り上がったら祈ろう。後から、明日から祈ろう」と言った人が、実際に祈っているでしょうか・・・残念ながら祈っていません。そして「祈れなかった、よし明日からは絶対に祈ろう」ということになり、それを一年中繰り返してしまうことになります。すぐに祈りましょう。祈りを後回しにすると、祝福も後回しになります。

祈りのコツは自分の祈りの時を定めることです。その時間には何があっても祈る。祈りたくないと思っても、気分が乗っても乗らなくても主の前に跪いて祈ることです。そうする事によって祈りの習慣が身について行きます。祈りが身につけば、気分が高められていても、反対にどん底の気分であったとしても、聖霊に助けられて祈ることができます。どんな大変な状況であったとしても、ふだん祈っていれば、祈りを通して神様に縋って行くことができます。キリストは、朝に祈っていました。弟子達と祈っていました。常に祈っていました。その普段の祈りがあったので、キリストは十字架の前の晩にいつものようにオリブ山に行き、いつもの場所で祈ることが出来たのです(ルカ22:39-40)。

ところで、祈りを怠り、祈らないでいると、一体どうなるのでしょうか。答えは恐ろしいことに、祈れなくなるということです(祈りの不能)。祈らないことは聖霊に逆らうことですから、恵みが失われて行き、心が空虚になります。空虚な心を満たすために、この世のもので心が一杯になり、サタンを喜ばせることになります。ですから祈らないことは最悪の罪なのです。



2、執り成しの祈りを捧げよう。5:16-17

もし誰かが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜るであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。(16節)

この16-17節は難解なところです。「死に至らない罪」とか「死に至る罪」といわれても、よく意味が分らないし、罪の種類を判断することはできないことです。しかし、よく読んで見ますと、友のために祈れと言われています。いろいろな人がいます。例えば、教会を離れている人、不信仰になっている人、教会へ行きたいが適当な教会がなくて彷徨(さまよ)っている人、信仰をご利益と考え、自分の願いを叶えてくれれば教会に行こうと考えている人など様々な事柄が含まれています。私はこう考えます・・・病気の人がいれば、病人のために祈ります。病人のために祈るように、様々なことで信仰の本筋から離れている人、悩みを抱えている人のために祈ろうというように受け止め、聖霊によって神の愛を心に注いでいただいて(ロマ5:5)、執り成しの祈りを捧げて行きたいと願っています。

箴言10:12に「愛は多くの咎(とが)をおおう」とあり、それを受けて使徒ペテロは「何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」(Ⅰペテロ4:8)との勧めを述べています。人の落ち度や欠点、信仰の足りないところはよく見えるような気がします。あるいは周りの人の人間関係の欠けているところなどが目につく時があります。つい忠告したくなり、時にはあれこれ指示したくなります。しかし、私たちがすることは何か・・・それは祈ることです。人に言われて自分の悪い所、足りない点を直す人は恐らくいないでしょう。黙って、陰で祈っていることが最善の方法です。キリストは天において黙々と私たちのために祈って下さっています(ロマ8:34)。キリストは私たちに聖霊をおくり、友のために祈れと導いておられます。昨日は上野公園ホームレス伝道の日で、暑い野外で300名の方々が集まり、礼拝・給食活動をしました。路上生活をするには様々の理由があると思いますが、そうした理由を詮索しても救いにはなりません。愛は多くの罪をおおうことを信じて、キリストの福音を伝え、おにぎりを届ける奉仕ができたことを主に感謝し、皆さんのお祈りと捧げ物に感謝します。またこの働きのために献身している比留間師夫妻のためにお祈り下さい。

死に至る罪ということが言われています。キリストが人々の目の前で、悪霊につかれた盲人で口のきけない人から悪霊を追い出し、目が見えるようにし、口がきけるようになるという奇蹟をなさいました。そばにいたパリサイ人が「キリストは悪霊の力で病人を癒した」と言い出しました。それに対しキリストは、「あなた方はわたしが神の霊である聖霊によって悪霊を追い出し、この人を癒したことを見ている。それでるのに、明らかな神の御業を否定する者は聖霊に逆らう者であり、赦されない」という厳しい言葉をパリサイ人に伝えています(マタイ12:22-37)。あるご婦人と話をしていた時に、その方が明白に罪を犯していることが分りました。聖書を開き、罪を認め、悔改めて罪から離れるように伝えました。そうしたら、顔が真赤に膨れ上がって怒り、罪を認めずに帰って行ってしまい、その人はどこかに越して行ってしまいました。罪を認めず、キリストの救いを拒めば、天国の命に至ることはできません。私たちはキリストを信じる信仰を与えられて、神の子になり、天国を約束されていることを感謝しましょう。



3、主に頼り、主に縋って行こう。5:18-21

すべて神から生まれた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生まれたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。(18節) 子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。(21節)

今週の土曜日(8月2日)は教会学校サマースクールが開かれます。少子高齢化という時代の流れの中で、教会学校の子どもの数は少なくなっていますが、明日の教会を背負って行く子ども達の救いと霊的成長のために、教師として奉仕している方々のためにお祈り下さい。以前、教会学校サマースクールを行なった時に、子ども達に作文を書いてもらいました。作文の中に「天国に行けると思いますか」というテーマがあり、子ども達はこう書いていました。「私はイエス様を信じている。だけど弟にイジワルしたりして罪を犯します。お父さんやお母さんの言いつけを聞かない時があります。だから天国へ行けるかどうか自信がありません」。子ども達はイエス様を信じている。だが自分は罪深いということを自覚している。そこで天国へ行けるどうか悩んでしまうというのです。18節の御言葉を読んだ時に、子ども達の作文のことを思い出しました。私たちもキリストを信じて生まれ変わったのに、罪を犯してしまうことがあります。しかし「神から生まれた者は罪を犯さない」と言われています。この御言葉は3:6にもあります。罪を犯さないというのは、罪を犯し続けない。習慣的に罪を犯さないということです。救われていなければ、罪を自覚しないまま、罪を犯し続けます。キリストを信じて生まれ変わっているから、罪に気づき、悔改めて罪から離れることができます。子ども達はキリストを信じているのに、自分は罪を犯してしまうということに気づいて悩んでいたのです。子ども達には、「イエス様を信じ続けて行こう。罪に気づいたら、すぐイエス様に祈って赦してもらおう」と言って励ましてあげました。私たちも、もし罪を犯したら、直ちにキリストに縋り、悔改めて祈れば、赦しが与えられます。先ほどの作文に関連してですが、教会学校を通して教会につながり、洗礼を受けた子ども達の中から、伝道者の召しを受けて献身した方々がいます。また教会の中核となっている方々がいます。そのことを感謝し、現在の教会学校の子ども達が霊的に成長し、将来の教会を背負って行く人材となるようにお祈りをお願いします。

最後に21節の御言葉を見て閉じます。「気をつけて、偶像を避けなさい」と命じられています。熊谷はうちわ祭が終りました。私は子どもの頃、お祭が好きで、神輿を担ぎ、得意になっていました。神輿を担ぐとお八つがもらえる、私の父親がお八つ係で、二人分くれるというのも魅力でした。祭ということですが、教会は毎週「キリスト祭」をしています。十字架に私たちの罪の身代りになって死んで下さったイエス・キリスト、一度は死んだのですが死を滅ぼして日曜日によみがえって、今もそして永遠に生きておられるのがイエス・キリストです。私たちはキリストの十字架によって罪を赦され、キリストの復活によって天国の命を与えられていることを信じているクリスチャンです。生きているイエス・キリストを喜び祝うのが日曜ごとの礼拝です。うちわ祭の神は、祭になると、倉庫から神輿に担がれてお祭広場に行く。祭が終ると「では神様のお帰りです」と行って、神輿を倉庫にしまって終わりです。自分で歩けない神、一年362日は暗い倉庫の中に閉じ込められている神、考えてみれば滑稽な話であり、そんなものが神であるはずがないのです。私たちは生きているキリストを信じ、キリストを喜び、さんびします。昨日上野公園ホームレス伝道で礼拝をささげました。熊谷からの参加者がさんびをリードし、たくさん歌いました。奉仕者の中にムラサキスポーツの金山社長がいました。一番前に立って、踊るようにして主をさんびしていました。この世の肩書きを脱ぎ捨てて、ひとりの救われたクリスチャンとして、全身全霊で主をさんびし、礼拝している姿を見て恵まれました。私たちも偶像から解き放たれ、生ける主イエス・キリストを信じる喜びを表し、主に頼り、主に縋って行きましょう。

皆さん自身のためのお祈りに加えて、病気の方々のためにお祈り下さい。仕事を求めている方に仕事が与えられて行くようにお祈り下さい。8月2日(土)教会学校サマースクールのためにお祈り下さい。8月8日(金)-10日(日)軽井沢キャンプのために、講師中野雄一郎牧師のために、8月10日(日)熊谷で礼拝を捧げる方々のために、礼拝で奉仕をして下さる方々のためにお祈り下さい。8月13日(水)夜の祈り会山本憲治牧師メッセージのため、8月17日(日)Rさん洗礼式のためにお祈り下さい。



祈 り

天地の主である神様、私たちのために御子イエス・キリストが十字架によって救いの道を開いて下さったことを感謝します。私たちに聖霊が送られ、祈りが与えられていることを感謝します。どんなことでもお祈りして行くように導いて下さい。私たちの周りにいる多くの方々のために、愛をもって祈ることができるように祈りを導いて下さい。偶像から解放されていることを感謝します。生きておられるイエス・キリストをもっともっとほめ讃へ、力いっぱいさんびさせてください。主イエス・キリストは生きておられます。毎週毎週の礼拝を、聖霊に導かれて生きているキリストを喜び祝う恵みの集まりとして下さい。病気の方々にキリストの愛を注ぎ、平安を与え、癒しの力を今この時に豊かに表し、勝利の力をもって支えて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ヨハネ書注解―バークレー、黒崎、文語略註、フランシスコ会、LABN、口語新約略解、内村、矢内原。